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第10話 「黒狼王の決意、彼女を手放さない」
しおりを挟む夜の庭園は、昼とはまるで別の顔をしていた。
昼間は獣人の子どもたちが走り回っていた石畳も、今は月と灯火に照らされて、静かな銀の道みたいに伸びている。
花壇の花は半分眠り、葉の上には夜露が光る。
遠くの塔からは、見張りの交代を告げる鐘の音が、低くゆっくりと響いていた。
その真ん中で、レイアはひとり、星を見上げていた。
ベンチの背に、背中を預ける。
頭上に広がる夜空には、アルストリアで見ていたのと同じ星座が、少しだけ角度を変えて瞬いていた。
「……こっちでも、見えるんだ」
ぽつりとこぼれた声は、夜に溶けていく。
王都の外れで、巡回の合間に見上げた星。
孤児院の屋根に登って、寒さに震えながら見上げた星。
その全部と、今のこの景色が、一本の糸みたいにつながっている気がした。
(でも、もう――戻らないんだよね)
アルストリア。
騎士団。
王宮の大広間。
あの場所に立っていた自分と、今ここで星を見ている自分は、同じレイアなはずなのに、間に横たわるものが大きすぎて、別人みたいだ。
胸の奥に、まだ黒い塊が残っている。
触れると痛い、冷たい氷みたいなもの。
訓練場で剣を振っているときは、少しだけ忘れられる。
ミナと話しているときは、ほとんど気にならなくなる。
でも、こうしてひとりになると――
(ぐちゃぐちゃのまま、置いてきちゃった)
追放された夜のこと。
大広間での宣告。
アリシアの泣き真似。
セルジオの冷たい声。
忘れたいのに、何度も頭の中で再生される。
ため息をつこうとした、そのときだった。
「また寝る前に変なこと考えてんだろ」
「っ!?」
背後から突然声が飛んできて、レイアは文字通り跳ねた。
反射で腰の剣に手が伸びかけ――途中で、「ここはザルヴェルだった」と思い出す。
「足音! 足音鳴らしてっていつも言ってるでしょ!」
「鳴ってた」
「獣人の足音、物理的に小さいの! 人間基準で話して!」
振り返ると、月明かりの中に、レオンが立っていた。
黒い外套は着ていない。
ゆるいシャツにラフなズボン、いつもより少しだけ力の抜けた格好だ。
しかし、金色の瞳は相変わらず夜を切り裂くみたいに鋭い。
耳がわずかに伏せ気味なのは、気配を抑えていたせいか、それとも――。
「こんな時間に、庭で何してる」
レオンが近づきながら問う。
「レオンこそ」
「見回り」
「王様の仕事、雑じゃない?」
「王様特権で好きにしてるだけだ」
「はい出た王様特権」
口ではいつもの調子で返しながらも、レイアの心臓はまだ早く打っていた。
さっきまで自分の中で渦巻いていたものを、見られた気がしたから。
レオンはベンチの隣に腰を下ろし、空を見上げる。
夜風が、二人の間を通り抜けた。
「眠れないのか」
「……そういうわけでもないけど」
「嘘だな」
「即答」
レオンは、肩をすくめる。
「お前、眠れるときは訓練で潰したみたいに落ちる」
「言い方」
「庭で星見てるってことは、頭の中がやかましいんだろ」
図星だった。
レイアは視線を逸らし、星をもう一度見上げる。
「……レオンは、星、見たりする?」
「たまに」
「何考えるの?」
「明日の天気」
「ロマンどこいったの」
「野営のとき、雲の流れで降るかどうか予測すんだよ」
「実用一点突破……」
力の抜けたやりとりに、少しだけ胸の黒い塊が小さくなる。
レオンはしばらく黙って夜空を眺めていたが、やがて唐突に口を開いた。
「――お前の過去を、探るつもりはない」
その言葉に、レイアの肩がびくりと揺れる。
レオンは続ける。
「アルストリアで何があったか。
王宮でどう扱われて、どう捨てられたか」
淡々とした声なのに、言葉の端にかすかな怒りが滲む。
「知ろうと思えば、こっちで調べることもできる。
リリスに命じれば、王都の噂くらいはいくらでも拾ってこられる」
実際、もう半分くらいは知っている。
カインの存在も、バルドゥールの思惑も。
だが、それはレイアの知らないところで集めた情報だ。
「でもな」
レオンは、ゆっくりと顔を傾けてレイアを見る。
「俺は、“そのやり方”は好きじゃない」
「……」
「話したい時に話せ。
話したくないうちは、黙ってていい」
夜の空気に、その言葉が静かに広がる。
レイアは、思わずレオンの横顔を見つめた。
「……いいの?」
「何が」
「国の元聖騎士を拾ってきておいてさ。
過去ほっとくって、普通に危なくない?」
「危なくなったら、そのとき考える」
あっさりした答えだった。
「今、お前がここにいる。
剣を振って、飯食って、時々変な顔して笑ってる」
「変な顔は余計」
「その“今”に支障が出るなら話せ。
出てないなら、無理にこじ開ける理由はない」
言いながら、レオンの尾がゆっくりと揺れた。
「――お前の心を守るのは、王としての責任じゃなくて、俺が勝手に決めた“レオンとしての仕事”だ」
「レオンとしての……」
「王様特権とは別枠な」
「そんな枠増やさないで」
でも、その言葉は、胸の奥にじん、と染み込んだ。
王として、じゃない。
国のため、でもない。
レイアという一人の人間の心を、「守る」と決めてくれている。
(そんなふうに言ってくれる人、今までいなかったな)
王都で、誰かが自分の心の状態を気にかけてくれたことなんて、あっただろうか。
ロイク団長がたまに「休め」と言ってくれたけど、それも半分は「戦力の維持」のためだ。
レオンの言葉は、もっと個人的で、我が儘で、勝手だ。
でも、その勝手さに、不思議と安心する。
「……ずるいよね、そういう言い方」
レイアは、膝の上で指を絡めて呟いた。
「逃げ道、ちゃんと残しておいてくれるくせにさ。
“話したい時に話せ”とか言われたら、話さずにいる方が難しいじゃん」
「難しいなら話せ」
「誘導がうまいんだよなあ、この王様……」
苦笑まじりに、息がこぼれる。
レイアは、夜の空気を深く吸い込んだ。
胸の奥にこびりついていた黒い氷の塊が、少しだけ軋む音がした気がする。
「……じゃあ」
自分で、自分の胸に手を差し込むみたいに、慎重に言葉を探す。
「ちょっとだけ」
「ちょっとからでいい」
レオンは急かさない。
ただ、そこにいて、待ってくれる。
だったら――。
「私、失敗したんです」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
「アルストリアの王太子殿下の護衛任務で。
婚約者のアリシア様を守り切れなかった」
あの日の景色が、ゆっくりと脳裏に浮かぶ。
森の中。
魔物。
血の匂い。
鋭い爪。
悲鳴。
「アリシア様が……命令無視して森の奥に入って。
止める暇もなくて、魔物に囲まれて」
声が、少し震えた。
「私、必死で庇いました。
致命傷は防いだ。
でも、足には傷が残った」
そこまで言うと、喉が詰まって、それ以上が出てこなくなる。
言葉にした瞬間、あの日のアリシアの泣き真似や、セルジオの冷たい瞳が鮮明に蘇るからだ。
「それで、“失態”だと?」
レオンの声が、低く冷たくなる。
「はい」
吐き出すように、レイアは続ける。
「“王太子妃の足に傷一つ残した罪は重い”って。
命令無視を指摘したら、“婚約者を責めるのか”って。
私の言い分は全部、“不敬”で切り捨てられて」
大広間で受けた視線の重さ。
王太子の言葉。
紋章を投げつけられた感覚。
「“庶民のくせに”、って。
“ここまで上り詰めただけで褒めてやるよ”って。
あとは、もう……全部、私の“失敗”になって」
それが「公式の記録」だ。
王都で語られる「真実」。
騎士たちも、貴族も、半分はそれを信じた。
残りの半分は、信じていなくても、逆らわなかった。
「だから、私――」
指先が、ぎゅっと握り込まれる。
「“失敗したんだ”って。
“守れなかったんだ”って。
何度も何度も、自分に言い聞かせてきました」
そうじゃないと、やってられなかった。
国の判断が間違ってるなんて、考えたくなかった。
王太子が、自分の保身のために切り捨てたなんて、認めたくなかった。
だから全部、自分の責任にした。
守れなかった。
至らなかった。
足りなかった。
「だから……」
声が、震える。
「今でも、ときどき思うんです。
“私があそこで完璧に守れてたら、追放されなかったのかな”って。
“もっと上手く立ち回れてたら、全部丸く収まってたのかな”って」
星空が滲む。
涙は落としたくなくて、上を向いたまま唇を噛む。
でも、滲みは止まらない。
「――それは」
レオンの声が、そこで静かに割り込んだ。
その声音には、これまで聞いたことのない種類の怒りが混ざっていた。
「お前の失敗じゃない」
即答だった。
間も、ためらいもなく。
レイアは、思わず横を向く。
「……でも」
「“でも”じゃねえ」
レオンの金色の瞳が、真っ直ぐにレイアを捉える。
「致命傷を防いだ。命を守った。
それを、“足に傷が残ったから失敗”だと切り捨てた」
言葉を一つずつ噛み砕くみたいに吐き出す。
「真実を知らないくせに、お前を切り捨てた国の方が――よほど無能だ」
淡々としているのに、一言一言に重さと熱がこもっていた。
「命より“見た目”を優先する。
命令無視を咎めるどころか、庇った騎士を処罰する。
事情を聞くこともせず、“庶民だから”って理由で全責任を押しつける」
レオンは鼻を鳴らした。
「そんな判断しかできない王太子と貴族どもが、“失敗”だ」
「っ……」
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
自分では、絶対に口に出せなかった言葉。
国を、「失敗」と呼ぶこと。
それを、レオンはあっさりと言ってくれる。
「アルストリアの事情は、ここから全部は見えねえ。
だから、完全な正解なんて言えねえ」
レオンは、そこで少しだけ言葉のトーンを落とした。
「だが――間違いなく言えることが一つある」
視線が、星空からレイアへと戻る。
「お前を知ろうともせず、“庶民だから”“女だから”って理由だけで切り捨てた判断は、
王としても、人としても、クソだ」
「レオン、王様なのに口悪い……」
「悪くなるときもある」
珍しく自覚したのか、レオンは小さく息を吐いた。
「俺は、お前の剣を見てきた。
剣筋も、視線も、踏み込みも」
庭で素振りをしていた朝。
訓練場での模擬戦。
トラウマと向き合いながら振り下ろした一撃。
「自分を削ってでも守ろうとする奴の動きだ」
レイアの喉が、かすかに鳴る。
「守ろうとして、結果として“完全には守れなかった”。
それを“失敗”と呼ぶのは簡単だ」
レオンはゆっくりと首を振る。
「だがな。
俺は、“一度でも守ろうとしなかった奴”のほうを、本物の失敗と呼ぶ」
言葉が、胸の奥に打ち込まれる。
「お前は、そっちじゃない」
静かな、断言。
「それだけは、俺の目を信じろ」
レイアは、もう両手で顔を覆っていた。
ぐしゃぐしゃに泣き顔になるのがわかっていたから。
こんなところ、王様に見せたくなかったから。
でも、止まらなかった。
目の奥にこびりついていた黒い氷が、音を立てて割れていく。
冷たさと一緒に、痛みも溶け出して――
涙になって溢れ出る。
「……ずるい」
しゃくりあげながら、どうにか言葉を絞り出す。
「そんなふうに言われたらさ。
今まで、全部自分のせいだって思ってきたのが、バカみたいじゃん……」
「バカみたいでいい」
レオンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「バカだったって気づけたら、その分だけ、次はマシになる」
「言い方ぁ……」
涙の奥で、苦笑いが混じる。
温かいものと冷たいものが、胸の中でぐしゃぐしゃに混ざって――
でも、さっきまでより、ずっと息がしやすくなっていた。
しばらくの間、レイアはただ泣いた。
子どもみたいに、ぐちゃぐちゃになって。
レオンは、その間ずっと黙って星を見上げていた。
慰めの言葉も、余計な気遣いも挟まず、ただ隣に座り続ける。
それが、何よりありがたかった。
やがて、泣き疲れて、呼吸が落ち着いてきた頃。
「……ごめん」
レイアは、鼻をすすりながら呟いた。
「泣きすぎて、庭の水分バランス崩した」
「庭の心配か」
「いや、ほら。元聖騎士がこんなとこでわんわん泣いてるとか、威厳ゼロじゃん」
「元とか威厳とか、どうでもいい」
レオンは、軽く肩をすくめる。
「ここで泣けるなら、それだけで充分“強い”」
「泣いてるのに?」
「泣けない奴のほうが、よっぽど危ない」
その言い方に、妙な説得力があった。
(この人も、昔、泣けなかった時期とかあったのかな)
そんなことを考えてしまう。
「……レオン」
「なんだ」
「もし」
言葉を選びながら、レイアはゆっくりと尋ねた。
「もし、アルストリアが――
“レイアを返せ”って言ってきたら、どうする?」
問うつもりなんてなかった。
でも、さっきから、胸の奥でずっと引っかかっていた疑問だった。
魔物の被害が増えている話は、少し聞いたことがある。
リリスの口から、王都の不穏な噂も耳に入っている。
(私を戦力として見てたなら、いつか惜しくなるかもしれない)
足りなくなったから、拾い直す。
捨てたものを、都合よく取りに来る。
そのとき、自分は――どうすればいい?
答えが出ないまま、レイアは問いを口にしてしまった。
レオンは、一瞬だけ目を細めた。
星明かりの下で、その瞳の奥に炎が灯るのが見える。
「向こうが泣きついてきても」
低く、しかしはっきりと。
「お前を返す気はない」
言葉だけなら、冗談みたいに軽い。
でも、その声音には、本気の熱が含まれていた。
レイアは、思わず息を飲む。
「……そんなこと言って大丈夫なの?」
「大丈夫じゃなかったら、もっと燃えるだけだ」
「物騒なことをさらっと」
「ザルヴェルは、“拾ったもの”を簡単には手放さない」
レオンは、空を見上げたまま続ける。
「お前がここで剣を振って、飯を食って、笑って、泣いて――
そうやって積み重ねた“今”は、もうザルヴェルの一部だ」
レイアの胸が、大きく鼓動する。
「戦力として、だけじゃない。
“家族”って言葉は軽すぎるが――“俺の側にいる奴”として」
「言い方ぁ……」
「うまく言えねえんだよ。そういうの」
レオンは、少しだけ耳を伏せた。
「とにかく」
わざとらしく咳払いをひとつして、言い直す。
「アルストリアが何を言おうが、
“黒狼王レオンがザルヴェルのレイアを返す”って選択肢は、俺の中にはない」
まっすぐな宣言だった。
レイアは、自分の胸に手を当てる。
さっきまで氷が張り付いていた場所に、今はじんわりとした熱が広がっていた。
それは、焚き火の近くに手をかざしたときのような、安心する暖かさ。
「……そんなこと言われたらさ」
レイアは、目元を指でこすりながら笑う。
「ちょっとくらい、“ここにいてもいいのかな”って思っちゃうじゃん」
「思っとけ」
レオンは短く返す。
「お前の居場所は、もう向こうにはない。
あるとしたら、ここだ」
星空を背景にした横顔は、どこまでも不器用で、どこまでも真っ直ぐだった。
レイアは、ゆっくりと目を閉じる。
(“捨てられた場所”じゃなくて――)
(“拾われた場所”を、ちゃんと見たいな)
そんな気持ちが、自然と湧いてきた。
黒い氷は、完全には消えていない。
まだ胸の奥に残っている。
でも、その周りを囲むように、ザルヴェルの人たちの顔と、ここでの時間が、少しずつ積もっていく。
ミナの笑顔。
ガレスの不器用な励まし。
リリスの鋭い目と茶目っ気。
そして、隣で星を見上げている黒狼王の横顔。
「……レオン」
「なんだ」
「ありがと」
素直に、その言葉が出てきた。
「私のこと、こんなふうに言ってくれる人、初めてだから」
「そうか」
レオンは、わずかに口元を緩めた。
「じゃあ、その“初めて”は、しばらく俺だけのもんでいいな」
「ちょっと何その独占欲の出し方」
「王様特権だ」
「そこに戻るのか……」
やれやれ、と頭を振りながらも、レイアは笑った。
心から、ちゃんと笑えた気がした。
夜空の星は、相変わらずきらきらと瞬いている。
アルストリアからも、ここザルヴェルからも見える星。
でも、今レイアが見上げているのは――
もう、「追放された国の空」じゃない。
黒狼王の決意と、「彼女を手放さない」という不器用な誓いの下で、
新しい居場所の空だった。
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