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第13話 「二つの国を繋ぐ出陣」
しおりを挟む決意を口にした翌日、ザルヴェルの城は、静かだが確実に慌ただしく動き始めていた。
中庭では、黒狼騎士団の一部が編成され、武具の最終確認が行われている。
馬の鼻息、金属のぶつかる音、号令の声。
それら全部が、「これから国境を越える」という空気を作っていた。
「限定的軍事支援、ねぇ……」
リリスは執務室の机に山積みになった紙を前に、額を押さえていた。
「“協力してやるけど、舐めた真似したら噛みつくからな”って意味の、上品な言い方」
「上品……?」
書類を届けに来ていたレイアは、苦笑いする。
机の上には、リリスがまとめた条約草案が広げられていた。
――ザルヴェルによる限定的軍事支援。
――派遣される騎士団への統帥権はザルヴェル側にあること。
――アルストリア側による協定破りがあった場合、ザルヴェルに制裁権が生じること。
――そして何より、「元聖騎士レイア・グレイ」に対するあらゆる権利を、アルストリアが放棄すること。
「……やっぱり、ここ、外せないんだね」
レイアは、条文の中の一行に指を滑らせる。
「“貴国は、レイア・グレイ殿に対する身分上の権利・拘束権・処罰権を一切有さず、今後も要求しないこと”」
「ええ、ここが肝よ」
リリスは、さらりと言う。
「ここにサインさせない限り、“アルストリアのために戦う”なんて許可、レオンが出すわけないでしょ?」
「……そうか」
「逆に言えば、ここにサインさえさせれば、“アルストリアの戦場に立っても、あんたはもうアルストリアの人じゃない”って証明になる」
リリスの紅い瞳が、真剣に細められる。
「“ザルヴェルのレイアが、アルストリアの人々を助けに行く”って図式を、文面で確定させるための条文よ」
「なんか、すごいことさらっと言うよね、リリスって」
「職業病みたいなもの」
狐耳がぴく、と動く。
「それにね。
“条約破りに対する制裁権”もちゃんと入れておかないと」
「制裁権……」
「例えば、こっちの軍に勝手に命令しようとしたり、レイアを再拘束しようとしたりした場合――」
リリスは、紙にさらさらとペンを走らせた。
「“協定即時破棄の上、ザルヴェルは自衛権に基づく報復措置を取ることができる”」
「わ、言葉は上品だけど内容が物騒……」
「“やったら噛むよ”って宣言してるだけよ」
リリスは、楽しそうに口角を上げる。
「舐められるくらいなら、最初から牙を見せておいた方が平和になることもあるの」
「……なるほど」
アルストリアでは、こういうやり方は見たことがなかった。
「体裁」と「メンツ」が優先されて、肝心なところは曖昧にされる。
その結果、弱い立場の人間が損をする。
ザルヴェルは違う。
わかりやすく、牙を見せる。
それが、この国のやり方だ。
「リリス」
「なに?」
「ありがとう」
レイアがそう言うと、リリスは少し驚いた顔をしてから、ふわりと笑った。
「私は書類を書いてるだけよ。
実際に国境を越えるのは、レオンと、あんたと、黒狼騎士団」
「書類なかったら、全部口約束だもん」
「そうね」
リリスは、ペンを置いた。
「だからその代わり、あんたはちゃんと“自分の意思で戦う”こと。
いいわね?」
「……うん」
レイアは、しっかりと頷いた。
◇ ◇ ◇
出立の日。
朝靄の中、城門前に黒い旗が掲げられた。
黒狼の紋章が刻まれた旗。
その下に、黒狼騎士団の一部が整列している。
革鎧に黒いマント。
胸にはそれぞれの紋章と、ザルヴェルの印。
堂々とした獣人たちの姿は、頼もしさと同時に、どこか荒々しい美しさを帯びていた。
「おー、壮観だな」
ガレスが大あくびをしながらも、誇らしげに胸を張る。
「今回は“前線叩き潰す部隊”じゃなくて、“状況見てほどよく噛みつく部隊”だけどな」
「ほどよく、って言葉が似合わないよね、ここ」
レイアは、馬具の締まり具合を確認しながら苦笑する。
自分の乗る馬車の横には、ミナがちょこちょことついてきていた。
「レイアさん、荷物このくらいで大丈夫ですか!? 途中でお腹空きません!?」
「そんなに食いしん坊の印象ある?」
「訓練終わりにパン追加で食べてるの、私見てます!」
「見られてた……!」
くだらないやりとりが、少しだけ緊張をほぐしてくれる。
「ミナ」
レイアは、彼女の頭にそっと手を置いた。
「留守番、頼んだね」
「もちろんです!」
ミナは、猫耳をぴんと立てて胸を張る。
「城の掃除して、ごはん作る人たち手伝って、レオン様が変な無茶してないかリリス様と監視して――」
「最後の仕事、ハードじゃない?」
「大事なお仕事ですから!」
その明るさが、ありがたかった。
「レイア」
少し離れたところから、レオンの声がした。
振り向くと、黒狼王はすでに馬車に乗っていた。
金の瞳が集まった騎士たちを見渡している。
「そろそろ行くぞ」
「うん」
レイアは馬車に乗り込んだ。
胸の奥で、鼓動が早くなる。
アルストリアへ向かう。
かつて守ろうとした国。
自分を捨てた国。
でも、今は――
“ザルヴェルの人として、アルストリアの人々を助けたい”
そう決めた。
レオンが、黒狼騎士団に号令をかける。
「――出る!」
低く力強い声が、城門前に響いた。
騎士たちの声がそれに重なり、黒い軍勢が一斉に動き出す。
ザルヴェルの王城の扉が開き、黒狼たちが朝靄の中へ消えていく。
◇ ◇ ◇
道中。
前方を騎士たちが進み、後ろには荷車と護衛が続く。
レオンとレイアは、その真ん中あたりの馬車に乗っていた。
馬車の中は、思ったより静かだった。
揺れるたびに、窓の外の景色が少しずつ変わっていく。
ザルヴェルの黒い山々が少しずつ遠くなり、代わりに、アルストリア側の森が徐々に近づいてくる。
「……変な感じ」
レイアは、窓から外を眺めながら呟いた。
「何が」
「ザルヴェルからアルストリアへ向かってるってだけで、胸がざわざわする」
「逆じゃなくてよかったな」
「逆だったら、もう歩けないかもしれない」
それは冗談半分、本音半分だった。
レオンは向かいの席に座り、腕を組んで揺れに身を任せていた。
耳はいつものようにぴんと立ち、尾は静かに揺れている。
「国境までは、一日半くらいか」
「そんなもんなんだ」
「“心の距離”より、地理的な距離はずっと短い」
さらっと言って、レオンは小さく笑う。
レイアは、その言葉に少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「レオンはさ」
「なんだ」
「ザルヴェルの外に出るとき、何考える?」
「飯の心配」
「いま真面目な話してるところだよ」
「真面目だ。飯は大事だ」
「そこじゃない」
レイアは、膝の上で指を絡めながら、少しだけ視線を落とした。
「……怖くない?」
「何が」
「“獣人だから”っていう理由だけで、警戒されたり、嫌われたり、狙われたりするの」
レオンは、少しだけ目を細めた。
「……昔は、怖かった」
正直な答えだった。
「俺がまだ“王”になる前、周りの国は、獣人を“危険な獣”か“使い捨ての兵”としてしか見てなかった」
レオンの声が、少し低くなる。
「和平の話をしに行って、向こうの城で毒を盛られたこともある。
笑顔で握手してきた王子が、背中に刃を向けてきたこともある」
「……」
想像しただけで、胃が縮こまるような話だ。
「自分の国を守るための“脅威”として見られるのは、まだいい」
レオンは続けた。
「“獣だから”“人じゃないから”って理由だけで、話を聞く前から刃を向けられるのは……正直、うんざりした」
その言葉には、深い疲れが滲んでいた。
「それでも、王になってからは、それに耐え続けるしかなかった」
金色の瞳が、少し遠くを見る。
「俺が怒って牙を剥けば、“やっぱり獣だ”って言われる。
黙っていても、“何考えてるかわからないから危険だ”って警戒される」
「どうすればよかったの?」
「知らん」
即答だった。
「今でも、完璧な答えなんてわからない」
レオンは、馬車の天井を見上げた。
「ただ、ひとつだけ決めてたことがある」
「ひとつ?」
「――“守れなかったものを、これ以上増やさない”ってことだ」
その言葉に、レイアの心が小さく震えた。
「昔、守れなかった奴が何人もいる」
レオンの声は静かなままだが、その奥に燃えるものがある。
「俺を庇って死んだ奴もいれば、俺の命令で前線に出て、戻ってこなかった奴もいる。
暗殺者の刃から守り切れなかった側近もいるし……」
そこで、ちらりとレイアを見る。
「俺が“ちゃんと言葉にできなかった”せいで、離れていった奴もいる」
「……言葉に、できなかった?」
「“こいつを大事に思ってる”ってことを、ちゃんと伝えられなかった」
レオンは、少しだけ苦い顔をした。
「強がったり、意地張ったり、“王だから”って変なプライド掲げたりしてる間に、そいつはどこかに行った」
「……」
「だから、もう失いたくない」
金の瞳が、まっすぐにレイアを捉える。
「国も、部下も、拾った奴も。
――お前も」
「……っ」
胸の奥で、何かが強く鳴った。
レイアは視線を逸らし、窓の外を見た。
揺れる景色が、よく見えない。
「レオンはさ」
かすれた声で、言葉を継ぐ。
「最初から“王様として立派だった人”ってわけじゃないんだね」
「当たり前だ」
レオンは小さく息を吐いた。
「俺は生まれつき黒狼族の血が濃いから、“強くて怖い存在”として担ぎ上げられただけだ。
王としての器なんて、最初はどこにもなかった」
「でも、今は、ちゃんと王様してる」
「してるように見えれば、それでいい」
肩をすくめる。
「本当は、今でも迷ってばかりだ」
その正直さが、レイアの胸にじん、と染みた。
「レイアは?」
「え?」
「さっき、“ここを失いたくないくらいには、自分勝手になった”って顔してた」
「顔、見られすぎでは」
「見える」
やっぱり、とため息がこぼれる。
少しの沈黙のあと、レイアは、自分の過去に触れる決意をした。
「……私も、最初から“立派な騎士になりたかったわけじゃない”んだ」
自分の指先を見つめながら、静かに話し始める。
「孤児院で育ったって話、したっけ」
「少しだけな。“パンを盗みかけた奴”と一緒だったって」
「カインのこと……」
名前を口にした瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
「狭くて、寒くて、食べ物も少なかった。
ケンカも多くて、毎日生きるのに必死で」
孤児院の薄暗い廊下。
薄い毛布。
パンの匂い。
「弱いと、真っ先に奪われるんだ」
ぽつりと、言葉が零れる。
「パンも、寝床も、居場所も。
“自分は弱い側だ”って自覚しながら生きるの、すごく苦しかった」
だから――
「聖騎士を初めて見たとき、雷に打たれたみたいだった」
孤児院の前の道を、白銀の鎧が通り過ぎた日。
「馬に乗って、眩しい鎧着てて。
子どもが怯えてるのを見て、さっと盾を構えて」
あの日の光景は、今でも鮮明だった。
「“強い人って、こんなふうに誰かを守れるんだ”って思った。
“ああなれたら、弱い自分を変えられるんじゃないか”って」
レイアは、膝の上で手をぎゅっと握る。
「誰かを守れる自分になれたら、
“弱いから奪われる側”じゃなくて、“守る側”になれるんじゃないかって」
「……だから、聖騎士に憧れたのか」
「うん」
こくりと頷く。
「自分が満たされたいって気持ちもあったと思う。
“誰かを守ってる自分”になれたら、弱かった自分を否定できるような気がした」
正直、きれいな動機じゃない。
「でも、騎士として訓練してるうちに、
“守れるようになりたい”って気持ちそのものが、だんだん本物になっていった」
戦場で見た、泣きながらありがとうと言う人たち。
倒れていく仲間。
魔物に焼かれた村。
「だから、王太子の護衛を任されたとき、本当に嬉しかったんだ。
“ああ、ここまで来られたんだ”って」
その分、落とされたときの衝撃も大きかった。
「“守れなかった”って言われて、
“庶民のくせに”って言われて、
“ここまで上り詰めただけで褒めてやるよ”って言われて」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥が軋む。
「“ああ、私の憧れって、この国にとってはそんな程度だったんだ”って」
「……」
「だから、レオンに拾われたとき、正直混乱してた」
窓の外の景色が、少しずつ森に変わっていく。
「“自分を捨てた国”と、“拾ってくれた国”の間で、
どっちの自分が本物なのか、わからなくなってた」
「今は?」
レオンの問いかけに、レイアはゆっくりと目を閉じた。
ミナの笑顔。
ガレスの笑い声。
リリスの冷静な視線。
レオンの、不器用な優しさ。
それら全部が、胸の中に浮かんでくる。
「今は――」
瞼を開ける。
「“ザルヴェルのレイア”が、本物だと思ってる」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。
「アルストリアのことも、完全に嫌いになんてなれない。
育った場所だし、守りたかった人もいるし、今も困ってる人もいるから」
でも、と続ける。
「そこに戻って、“国のための聖騎士”になるつもりは、もうない」
レオンの瞳がわずかに和らぐ。
「“ザルヴェルの人として、アルストリアの人を助ける”」
レイアは、自分の胸に手を当てた。
「それが、今の私の“騎士としての本能”なんだと思う」
国のためじゃない。
誰かの見栄えのためでもない。
自分が守りたいと思う人たちのために剣を振るう。
それが、弱かった自分が、必死に掴み取った答えだ。
「……いい顔だ」
レオンがぽつりと言った。
「え?」
「前より、ずっといい顔してる」
レオンは、腕を組み直した。
「アルストリアにいるときのお前を直接見たわけじゃないが――
こっちに来たばかりの頃より、ずっと“今”を見てる顔だ」
「そう、かな」
「そうだ」
金の瞳が、静かに光る。
「国境を越える前に、そういう顔してくれてて、助かる」
「こっちの台詞なんだけど」
レイアは、照れ隠しのように笑ってみせる。
馬車は揺れ続ける。
車輪の音が、一定のリズムで耳に入る。
会話が一度途切れ、静寂が流れた。
やがて、レオンがぽつりと口を開く。
「レイア」
「ん?」
「さっき、“昔、言葉にできなかったせいで、離れていった奴がいる”って話をしただろ」
「ああ」
「――今度は、ちゃんと言う」
レオンは、視線を逸らさずに言った。
「お前が、怖くても、揺れてても、
それでも前を向こうとしてること、俺は尊敬してる」
「……っ」
「だから、ザルヴェルのレイアとしてアルストリアに行くって決めたお前を、誇りに思う」
それは、騎士として、ではなく――
一人の人間としての“尊敬”の言葉だった。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「ずるいよ」
レイアは、目元を指で押さえた。
「そういうこと、今さら言わないでよ」
「今さらじゃない。今だから言う」
レオンは、少しだけ意地悪そうに笑った。
「国境を越える前に言わないと、後で後悔するからな」
「そういうところだけ妙に自覚的だよね、ほんと……」
ため息をつきながらも、笑いが混ざる。
馬車の外では、黒狼騎士団の声が聞こえる。
遠くでカラスが鳴き、風が木々を揺らしている。
ザルヴェルの領土は、もうすぐ終わる。
この先には、アルストリアの大地が広がっている。
かつて守ろうとした場所。
自分を捨てた場所。
そして今、ザルヴェルのレイアとして再び踏み込む場所。
――でも、その道の上で。
二つの国を繋ぐ馬車の中で。
黒狼王と元聖騎士の心の距離は、
国境という線よりも、ずっと確かな形で縮まっていくのだった。
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