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第4話:森の生存、契約の代価
しおりを挟む朝の森は、白かった。
雪じゃない。霧。
世界の輪郭だけをふわっと溶かして、音まで遠くに追いやる霧。
鳥の声がするのに、どこで鳴いてるのか分からない。
葉が揺れる気配もあるのに、風は肌に触れない。
自分だけが透明な水槽の中に閉じ込められて、外の世界がガラス越しに動いているみたいだった。
セリアは目を開けた瞬間、まず自分が生きていることに驚いた。
次に、寒さに驚いた。
地面は湿っていて、背中が冷える。服の布が重く、肌に張り付いている。
「……朝?」
声を出すと、霧に吸われた。
「朝だね」
ルゥシェの声が返ってくる。軽い。いつもの調子。
霧の中から、小さな光がひょいと浮かび上がり、形を持って現れた。
ルゥシェは昨日と同じ顔をしていた。
なのに、セリアには分かる。
“昨日より近い”。
距離じゃない。感覚の距離。
契約で繋がったせいで、ルゥシェがいるだけで胸の奥がじわっと熱を持つ。
不思議な安心と、同じくらいの居心地の悪さ。
「おはよ」
セリアは言ってみた。
言葉の形にすると、少しだけ普通の朝に見えるから。
「うん。おはよ」
ルゥシェは頷く。
それからセリアの顔をじっと見て、言った。
「死んでないね」
「……それ挨拶?」
「確認。契約者が死ぬと、面倒だから」
面倒。
またその言葉。
でも昨日みたいに刺さらない。
ルゥシェの“面倒”は、冷たさじゃない。守り方が不器用なだけだ。
セリアは身体を起こして、膝についた泥を払った。
指先がかじかんで、思ったより動かない。
胃が、空っぽの音を立てる。
「お腹すいた……」
口にした瞬間、情けなさが喉に上がってくる。
ルゥシェは肩をすくめた。
「そりゃそう。人間はすぐ燃料切れする」
「燃料って……」
「食べ物。君たちって、面倒だよね。食べないと動かないし、寝ないと壊れるし」
言い方が機械みたいで、セリアは少し笑ってしまった。
笑うと喉が痛いのに、笑ってしまう。
「妖精は食べなくても平気なの?」
「平気。食べることもあるけど、趣味」
「趣味で食べるって何……」
ルゥシェは霧の中を指差した。
「じゃ、燃料探しに行こ。君の」
セリアは立ち上がって、一歩踏み出した瞬間に足が滑った。
地面が濡れていて、靴底がぬるっと持っていかれる。
「わっ……!」
転びかけたセリアの腕を、ルゥシェが掴む――かと思いきや、掴まない。
ルゥシェはただ、横で見ている。
セリアはなんとか踏ん張って立ち直った。
頬が熱い。
「……助けないんだ」
言うと、ルゥシェはぱちっと瞬きをした。
「助けたよ。見てた」
「それ助けたって言わない」
「でも君、立てたじゃん。自分で」
その言い方が、妙に正しい。
むかつくほど正しい。
セリアは唇を尖らせた。
「……意地悪」
「意地悪じゃない。甘やかさない」
ルゥシェはさらっと言う。
「契約したけど、僕は君の手足じゃないから」
“対等”。
契約の言葉が、また胸の奥で熱を持つ。
昨日の夜、あの孤独と拒絶が重なった感覚を思い出す。
対等は、優しさだけじゃない。
自分の足で立てって突き放すことも含まれる。
セリアは息を吐いて、歩き出した。
霧の中を進むと、草の先がズボンを撫でる。
濡れた葉が肌に当たって冷たい。
「で、何食べればいいの?」
「木の実」
「どれ?」
「見れば分かる」
「分かんないよ!」
セリアが声を荒げると、霧が震えた気がした。
その瞬間。
胸の奥に、刺すような痛みが走った。
セリアは思わず胸を押さえる。
自分の痛みじゃない。
自分が怒ったはずなのに、痛みの質が違う。
硬くて、冷たくて、ずっと昔からそこにある痛み。
「……ルゥシェ?」
ルゥシェは視線を逸らした。
ほんの一瞬、顔が曇った。
「怒ると、漏れるんだね」
「漏れる?」
「感情。君の怒りが、僕に入った。で、僕のやつも、君に入った」
セリアは目を見開いた。
契約の代価。
言葉にされてない副作用が、今、身体に触れている。
「じゃあ今の痛み……」
「僕の。ごめんね、ちょっと古いのが出た」
古い。
妖精の“古い痛み”って、どれくらい古いんだろう。
昨日の孤独よりも、もっと硬い。
石みたいな痛み。
セリアは怒りが引いていくのを感じた。
怒りが消えたというより、怒ってる場合じゃなくなった。
誰かの痛みを飲み込んだあとって、自分の感情が一瞬しぼむ。
「……怒ってごめん」
言うと、ルゥシェは首を振った。
「怒っていいよ。君の感情だし」
それから、ちょっと嫌そうな顔をする。
「ただ、叫ぶなら覚悟して。僕の胸も一緒に痛くなるから」
それ、脅しじゃないのが逆に怖い。
セリアは小さく息を吸った。
自分の感情が、もう自分だけのものじゃない。
その事実が、自由を奪うみたいで怖い。
でも同時に――ひとりじゃない、とも言っている。
ルゥシェは霧の中の低い木に近づき、枝を指で弾いた。
「これ、食べられる」
枝についている赤い実を指差す。
セリアは慎重に手を伸ばし、実をひとつ取った。
つやつやしている。美味しそう。
齧ろうとした瞬間、ルゥシェが言った。
「待って」
「え?」
「それ、皮むく」
「皮むくの……?」
「そのままだと渋い。渋いと君、吐く」
セリアはむっとした。
「最初から言ってよ」
「聞かなかったじゃん」
「聞いたよ!? どれ食べればいいって!」
「質問が雑」
「ムカつく……!」
また怒りが湧いて、胸が熱くなる。
同時にルゥシェの痛みの影がちらっと覗いて、セリアは言葉を飲み込んだ。
怒りは吐き出すと自分が楽になる。
でも今は、ルゥシェの古い痛みも一緒に引きずり出す。
“対等”って、こんなに面倒なんだ。
相手の事情が、勝手に自分の呼吸に混ざる。
セリアは唇を尖らせつつも、教わった通りに皮を剥く。
指先が冷えていて、うまく剥けない。
爪が引っかかり、実が潰れて汁が出る。
「……できない」
「できる」
ルゥシェは即答した。
「できないって言うの、まだ早い」
セリアは顔を上げた。
「じゃあやってよ」
言った瞬間、自分でも驚いた。
頼りたい気持ちが、勝手に口から出た。
ルゥシェはセリアを見て、少しだけ目を細めた。
「やらない」
「は?」
「教える。やるのは君」
「意地悪!」
「甘やかさない!」
ルゥシェも声を張る。
そしてすぐに、ふっと息を吐いて付け加えた。
「……でも、手は温める」
ルゥシェがセリアの指先に触れた。
触れた瞬間、冷えた指にじんわり熱が入る。
火に当てたみたいな熱ではなく、血が戻るみたいな熱。
「……あったかい」
セリアが呟くと、ルゥシェは少しだけ得意げに鼻を鳴らした。
「妖精の手は便利」
「便利って言うな」
「便利だよ。事実」
セリアは温まった指で、もう一度皮を剥いた。
さっきより上手く剥ける。
赤い実の中から、透明に近い果肉が覗く。
そっと齧ると、甘い。
舌に広がる甘さが、胃の底の空虚を少しだけ埋めてくれる。
「……おいしい」
思わず言う。
声が柔らかくなる。
ルゥシェはじっとセリアの顔を見て、ぽつりと言った。
「そういう顔、できるんだ」
「どういう顔」
「生きてる顔」
その言葉が、胸に沈んだ。
重いのに、嫌じゃない。
実をいくつか採って、セリアはゆっくり食べた。
胃が少し落ち着くと、頭の中の霧が薄くなる。
恐怖が、輪郭を失っていく。
代わりに現実が見える。
森は広い。寒い。危険。
そして、私はここで生きなきゃいけない。
「水は?」
セリアが聞くと、ルゥシェは顎で奥を指す。
「小川がある。飲める場所と飲めない場所があるけど」
「飲めない場所って何」
「飲むと腹壊す」
「こわ……」
「だから、教える。君が覚える」
助けるけど、甘やかさない。
その繰り返しだった。
ルゥシェは一線を引きながら、最低限の知識だけ渡してくる。
危険な草。食べられる実。歩いてはいけない地面の柔らかさ。
鳥の鳴き方が変わったら、獣が近いこと。
霧が甘くなったら、境界が近いこと。
セリアはそのたびに、「自分で選ぶ」ことを求められた。
進むか、止まるか。
食べるか、やめるか。
休むか、歩くか。
選ばされるのは怖い。
失敗したら死ぬかもしれない。
でも、王城とは違う。
あそこでは、選択権がなかった。
ここでは、選択権がある。
それは怖さと同時に、確かな手触りをくれる。
夕方、霧がほどけて、空が茜に染まった。
木々の隙間から差し込む光は、蜂蜜みたいに濃い。
ルゥシェは言った。
「今日はここ」
小さな岩陰を指差す。風が当たりにくい場所。
「焚き火、できる?」
セリアが聞くと、ルゥシェは肩をすくめた。
「できるけど、君がやる」
「またそれ……」
文句を言いながらも、セリアは枝を集める。
乾いている枝と湿っている枝を区別するのが難しい。
指先に土の匂いが染みついていく。
火打ち石みたいなものをルゥシェが渡す。
セリアは必死に擦るが、火花が散るだけで火がつかない。
何度も何度も擦る。
腕がだるくなる。
泣きたくなる。
「……無理」
つい漏れた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
ルゥシェの寂しさが、ふっと流れ込む。
夜の冷気より鋭く、骨の内側を刺す寂しさ。
誰にも触れないまま、長い時間を過ごした空洞。
セリアは息を止めた。
こんなの、知らなかった。
知らないのに、痛い。
「……ルゥシェ」
名前を呼ぶと、ルゥシェは少しだけ目を逸らした。
「なに」
「今の……寂しいの」
「……漏れた」
ルゥシェは短く言う。
「気にしないで」
気にするよ。
だって、こんなに痛いんだもん。
でも、セリアは言葉にできなかった。
言葉にしたら、ルゥシェの寂しさを“責める”みたいになる気がしたから。
セリアはもう一度、火打ち石を握り直した。
指が痛い。
腕が震える。
でも、擦る。擦る。擦る。
火花。
乾いた苔に火花が落ちて、ふっと小さな炎が生まれた。
セリアは息を止めて、そっと枝を重ねる。
炎は小さく揺れ、消えそうになる。
焦ると手が乱暴になる。
乱暴になると枝が崩れて消える。
「……落ち着け」
ルゥシェが小さな声で言った。
命令じゃなく、助言。
その距離感がちょうどいい。
セリアはゆっくり息を吐き、炎の呼吸に合わせる。
炎が育つ。
ぱちぱちと音を立てる。
暖かさが頬に触れる。
「……できた」
声が震えた。
嬉しさで。
泣きたいほどの嬉しさで。
ルゥシェは焚き火を見つめて、小さく頷いた。
「うん。生きたね、今日」
生きた。
今日、生きた。
それだけのことが、こんなに重いなんて知らなかった。
セリアは焚き火の前に座り込み、手をかざす。
指先がじんわり温まる。
胃が空っぽじゃない。
身体がまだ痛い。でも動く。
世界が、少しだけ手に戻ってきた気がした。
ルゥシェも向かいに座った。
火に照らされて、彼の輪郭が柔らかく見える。
目の硬さは消えないけど、冷たさが少しだけ薄い。
「ねえ」
セリアが言う。
「契約って……良いことだけじゃないんだね」
ルゥシェは鼻で笑った。
「良いことだけの契約なんて、嘘だよ」
それから、焚き火を見つめたまま言う。
「君の怒りも、僕の寂しさも、これからもっと混ざる。嫌なら、今のうちに言って」
嫌か、と聞かれたら、嫌だ。
自由が減る。
感情が漏れる。
相手の痛みが刺さる。
でも――ひとりよりは、ずっとマシだ。
セリアは焚き火の揺れを見ながら、ぽつりと言った。
「……嫌じゃない」
「即答しないんだ」
「だって、怖いもん」
「怖いなら、正しい」
ルゥシェはさらっと言った。
「怖いのに選ぶのが、契約」
セリアは笑った。小さく。
「なんか、ルゥシェって哲学者みたい」
「何それ。褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
二人の会話は、火みたいにぱちぱちと小さく続いた。
大きな誓いの言葉はない。
「大丈夫」も、「守る」も、軽々しく言わない。
でも、焚き火の前で同じ暖かさを分け合うだけで、充分だった。
夜が深くなる。
森はまた冷え、闇が濃くなる。
遠くで獣が鳴く。
それでもセリアの胸の奥の熱は消えなかった。
契約の熱。
生きたいと言った熱。
セリアは毛布代わりの外套を握りしめて、目を閉じた。
眠るのは怖い。無防備になるから。
でも、隣にルゥシェがいる気配が、怖さを少しだけ薄める。
その瞬間、胸の奥にまた別の感情が触れた。
ルゥシェの寂しさ。
さっきより柔らかくて、でも深い。
セリアは目を閉じたまま、小さく言った。
「……おやすみ、ルゥシェ」
返事はすぐには来なかった。
少し間を置いて、ルゥシェの声が落ちる。
「うん。おやすみ、セリア」
短い。
でも、その短さが嘘じゃない。
焚き火の音が、夜の中心で静かに続く。
セリアはその音を聞きながら、今日一日の痛みと暖かさを胸に沈めていった。
依存でも支配でもない“対等”を、身体が少しずつ覚えていく感覚を抱えたまま。
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