平民令嬢、異世界で追放されたけど、妖精契約で元貴族を見返します

タマ マコト

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第5話:妖精社会の入口、王の影

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朝の森は昨日より静かで、静かさが逆に怖かった。
鳥の声が遠いのは同じなのに、今日は“森が息を潜めている”感じがする。

焚き火の残り火を土で消して、セリアは煤のついた指先を見つめた。
手が汚れている。爪の間に土が入っている。
でも、それが嫌じゃなかった。

昨日までは、手が汚れるのが怖かった。
今は、汚れている=今日も生きている、って証みたいに思える。

「行こ」
ルゥシェが言う。
「今日は、境界の奥。君に見せたい場所がある」

「見せたい?」
セリアは眉を上げた。
ルゥシェが“見せたい”なんて言うのは珍しい。

「うん」
ルゥシェはあっさり頷く。
「妖精の集まり。……と言っても、パーティーじゃないけど」

「妖精の集まりって、怖いやつ?」
「人間がいると、警戒はする」
ルゥシェは淡々と言った。
「君も、僕も。契約したとはいえ、まだ信用は通貨になってない」

通貨。
この妖精、なんでも通貨に例えるのかな。
セリアは苦笑しながらも、その言い方が妙に分かりやすいことに気づく。
信用は、持ってないと何も買えない。
世界が変わっても、それだけは変わらないのかもしれない。

森を歩く。
今日は霧が薄く、木漏れ日が葉の間から刺さる。
光はあったかい。
一昨日の王城の光みたいに嘘っぽくない。

途中、甘い匂いが強くなった。
蜂蜜のような、花のような、でも金属っぽい。
セリアは反射で息を止めた。

「これ、境界の匂い?」
「そう」
ルゥシェは足を止め、指で空気を掬うような仕草をする。
「甘くなるほど、線が薄い。人間の常識が薄い。……まあ、君の常識も薄いけど」

「うるさい」
セリアが睨むと、ルゥシェは楽しそうに笑った。

歩いているうちに、地面が少しずつ変わった。
湿った土の匂いが薄れ、代わりに石の匂いが混ざる。
苔の匂い。古い井戸の匂い。
森の奥に、何か“人が作ったもの”がある。

やがて木々の間から、朽ちた石門が見えた。
巨人の骨みたいに折れたアーチ。
表面に刻まれた模様は、文字なのか紋章なのか分からない。
蔦が絡まり、苔が張り付き、時間が皮膚みたいに厚くこびりついている。

「……遺跡」
セリアが呟くと、ルゥシェは頷いた。

「そう。石門の遺跡」
「誰が作ったの?」
「知らない。人間かもしれないし、妖精かもしれないし、もっと古いやつかもしれない」
ルゥシェはさらっと言う。
「でも今は、妖精たちの“集まる場所”」

石門の内側へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
音が少しだけ柔らかくなる。
風の流れが違う。
匂いが甘く、そして清い。

――いる。
セリアは直感する。
視界に見えなくても、いる。たくさん。

「……誰かいる?」
小声で言うと、ルゥシェは同じくらい小声で返す。
「いるよ。見えてないだけ」

「え」
「君、まだ目が慣れてない」
ルゥシェが指を鳴らす。
ぱちん、という音が小さく響いた。

次の瞬間、空間に“粒”が生まれた。
光の粉。
それがふわふわ浮きながら、遺跡の広場を淡く照らす。

すると――見えた。

石門の影。苔の上。崩れた柱のてっぺん。
そこに小さな影が、いくつも。

人型だったり、獣みたいだったり、虫みたいだったり。
羽があるもの、尻尾があるもの、肌が木目みたいなもの。
大きさも様々で、指先程度のものから、セリアの腰くらいまでのものもいる。

妖精たちだ。

その瞬間、ざわりと空気が揺れた。
視線が刺さる。
王城の貴族の視線とは違う。
もっと生々しくて、もっと鋭い。
“捕食する側の視線”に近い。

セリアは背中が冷えた。
一歩引きそうになって、踏みとどまる。
ここで引いたら、また追放される気がした。

妖精のひとりが、尖った声で言った。
「人間だ」
別の妖精が言う。
「臭い」
また別の妖精が笑う。
「落ちてきたの? また?」

“また”。
人間はよく落ちてくるんだ。境界に。
ルゥシェが言っていた。
その“また”が、過去に死んだ誰かを連れてくるみたいで、胸が痛い。

「……ルゥシェ」
セリアが小さく言うと、ルゥシェは一歩前に出た。
セリアと妖精たちの間に、薄い壁みたいに立つ。

「怖がらせないで」
ルゥシェの声は軽い。
でも、目は硬い。
あの嘘を許さない目だ。

妖精たちがひそひそと囁き合う。
「ルゥシェだ」
「また変なの拾った」
「契約したのか?」

契約。
その単語が出ると、空気の温度がほんの少し下がる。
妖精たちにとって、契約は軽くない。
遊びじゃない。
ルゥシェが昨日言っていた通り、“怖いのに選ぶもの”。

ルゥシェは振り返りもせずに言った。
「セリア、動かないで」
「……うん」
声が震えそうになって、セリアは唇を噛んだ。

妖精のひとり――羽の透けた、小さな女の子みたいな妖精が近づいてきた。
目は大きく、瞳の色が変わる。緑から青へ、青から金へ。
気分で変わるのかもしれない。

「ねえ、ルゥシェ」
その妖精は甘ったるい声で言う。
「その人間、何を持ってるの? 奪う? 奪われる?」

セリアの胃がひゅっと縮んだ。
奪う。奪われる。
この世界では、それが普通の会話なの?

ルゥシェは即答した。
「奪わない」
「ほんとに?」
「ほんと」
「嘘ついてない?」
「嘘ついてない」

羽の妖精はセリアを見た。
まるで値札を見るみたいに、上から下まで目で撫でる。

「人間って、嘘つくじゃん」
「……」
セリアは返せない。
嘘つく。
確かに人間は嘘をつく。
セリアも、昨日まで嘘をついていた。
平気なふり。怖くないふり。負けてないふり。

「人間は嘘をつく」
ルゥシェは淡々と言った。
「でも、この子は今は嘘をつかない。少なくとも、僕に」

羽の妖精は口を尖らせる。
「ルゥシェがそう言うなら……でもさ、信用ってどうやって払うの?」

信用を払う。
やっぱり通貨なんだ。

ルゥシェは、ほんの少しだけ息を吐いた。
そして、はっきり言った。

「この子は奪わない。嘘をつかない」
一語一語、石みたいに重い。
「それが、僕の保証」

保証。
ルゥシェが、セリアを“商品”みたいに扱っているわけじゃない。
妖精社会で通る言葉に翻訳してくれている。
そのことが分かって、セリアは胸が熱くなった。

でも同時に怖い。
ルゥシェの保証が崩れたら、私は終わる。
信用はお金と同じで、一瞬で溶ける。

妖精たちのざわめきが少し落ち着いた。
完全には消えない。
警戒は残る。
けれど、“今すぐ食われる”感じは薄れた。

「……こっち」
ルゥシェがセリアに手招きする。
遺跡の奥へ進む道があるらしい。
石の階段。崩れかけた壁。
その先に、広い窪地が見えた。

水がある。
小さな池。
水面は鏡みたいに静かで、空を映している。
周囲には石が並び、自然と円になっていた。
集会場。
儀式の場。
そんな雰囲気が漂う。

妖精たちは池の周囲に散って、セリアを遠巻きに見る。
セリアは、視線に背中を刺されながら池の縁に立った。

水面を覗くと、自分の顔が映る。
土で汚れた頬。ぼさぼさの髪。
王城の“令嬢”じゃない。
生き延びた人間の顔だ。

「ここ、落ち着くね」
セリアが呟くと、ルゥシェは鼻で笑った。
「人間の城よりはね。ここは嘘が少ない」
「嘘が少ないって、嘘はあるんだ」
「あるよ。妖精だって嘘はつく」
ルゥシェはさらっと言う。
「でも、嘘をつく理由が違う。人間は奪うために嘘をつく。妖精は守るために嘘をつくことがある」

守るための嘘。
それは、少しだけ羨ましい。

日が暮れていった。
遺跡の上に空が広がり、朱から藍へ、藍から黒へ変わっていく。
妖精たちは夜のほうが元気になるらしく、光の粒が増え、囁きが増える。
それは歌みたいに聞こえた。意味は分からないのに、胸に響く音。

セリアは池の縁に座り、膝を抱えた。
水面に映る月が、だんだんはっきりする。
月が落ちてくるみたいに、世界が静かに冷えていく。

ルゥシェは少し離れた石の上に座っていた。
小さな背中。
でも、そこにいるだけでセリアの呼吸が楽になる。

「ねえ」
セリアは言った。
「ルゥシェって、ここの妖精たちと仲良いの?」
「普通」
「普通って何」
「嫌われてない。好かれてもない」
ルゥシェは肩をすくめる。
「僕、どこでもそう」

その言葉に、セリアの胸がちくりと痛んだ。
ルゥシェの寂しさが、薄く滲む。
昨日の夜よりは小さいけれど、確かにそこにある。

「……私は、ルゥシェのこと嫌いじゃない」
セリアは思わず言った。
言ってから、恥ずかしくなる。
急に距離が近い発言をしたみたいで。

ルゥシェは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ぷいっと顔を背ける。
火照りをごまかすみたいに、早口で言った。

「僕も、嫌いじゃない」
「今、照れた?」
「照れてない」
「照れてる」
「照れてない!」

セリアは小さく笑った。
笑い声が水面に落ちて、月の輪郭が少し揺れる。

その時だった。

空気が――澄んだ。

澄む、というのは変な表現だけど、他に言い方がない。
霧が消えるとか、風が止まるとか、そういう物理的な変化じゃない。
“世界のノイズが一段消える”感じ。

鳥の声が完全に遠のく。
虫の羽音も遠のく。
水の匂いだけが鮮明になる。
自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。

セリアは背筋を伸ばした。
胸の奥の契約の熱が、ふっと強く脈打つ。
ルゥシェの存在が、急に“緊張”を帯びたのが分かった。

妖精たちが一斉に黙った。
さっきまで囁いていたのに、今は誰も喋らない。
その沈黙が、礼儀みたいに揃っている。

何かが来る。
いや――来た。

池の水面に映る月が、ほんの少しだけ歪んだ。
水が揺れたわけじゃない。
月が、ずれた。
そこに、別の影が重なる。

影。
大きい。
輪郭がはっきりしない。
でも、圧だけがある。
世界の温度を変える圧。

セリアは息を止めた。
怖い。でも、ただの怖さじゃない。
「見られている」怖さ。

王城で見られたときの視線は、“査定”だった。
ここで感じる視線は、“観測”だ。
価値を決めるためじゃなく、存在を測るための視線。

まるで、世界そのものに見られているみたいだった。

セリアは思わず池の水面を見つめた。
月の中に、誰かの目がある気がした。
光ではなく、静けさでできた目。

隣で、ルゥシェが小さく舌打ちした。

「……ちっ」
その音が、静けさの中でやけに響く。

セリアは震える声で聞いた。
「ルゥシェ……? 今の、なに」
ルゥシェは目を細めたまま、池を見据えて言った。

「……王が見てる」

王。
その言葉が落ちた瞬間、空気がさらに一段、冷える。
妖精たちの身体が小さく震えるのが見えた。
恐怖じゃない。敬意に近い震え。

セリアの胸の奥で、契約の熱がふっと形を変える。
炎じゃなく、刃みたいに研ぎ澄まされる。

「王って……妖精の?」
セリアが問うと、ルゥシェは短く頷いた。

「フィオラル」
名前が、森に落ちる。
それだけで、世界の輪郭が少しだけ固くなる。

姿は見えない。
なのに、いる。
いないふりができないほど、いる。

セリアは喉が渇いた。
唾を飲み込んでも、渇きが消えない。
視線が皮膚の上を滑り、心臓の形をなぞっていく。

逃げたい。
でも、逃げたら終わる気がした。
この視線から逃げるのは、世界から逃げるのと同じだ。

セリアは拳を握った。
自分の痛みを、自分の中に留めるために。
泣かないために。
強がりじゃない。
観測されるなら、私は私のままで立っていたかった。

池の水面の月が、ほんの少しだけまた歪む。
歪みは“瞬き”みたいだった。

そして、静けさはふっとほどけた。
鳥の声が遠くから戻り、虫の羽音が戻る。
妖精たちの囁きが、慎重に再開する。

まるで、王が“見終わった”みたいに。

セリアは息を吐いた。
肺の奥に溜めていた空気が、やっと出ていく。
指先が冷たい。
でも胸の奥は熱いままだ。

「……今の、何を見られてたの?」
セリアが小声で聞くと、ルゥシェは一瞬だけ黙った。
それから、少し乱暴に言う。

「君だよ」
「私?」
「契約した人間なんて、珍しいから」
ルゥシェは石を蹴って、落ち着かなさを隠さない。
「王は、均衡を見てる。君が均衡を壊すか、繋ぐか。……多分、それを測りに来た」

壊す。繋ぐ。
そんな大きな言葉が、自分の肩に乗るのが怖い。
私はただ、生きたいって言っただけなのに。

セリアは喉の奥が熱くなるのを感じた。
怒りじゃない。
怖さでもない。
“重さ”だ。

「……私、そんなすごいことできない」
セリアが呟くと、ルゥシェはふっと笑った。
いつもの軽い笑いじゃない。少しだけ、寂しい笑い。

「できるかどうかじゃない」
「じゃあ、何」
「もう見つかった。見られた。つまり――逃げられない」

セリアは唇を噛んだ。
逃げられない。
またその言葉。
王城でも逃げられなかった。
でも今は違う。
逃げられないけど、隣にルゥシェがいる。

「……ルゥシェ」
セリアは言う。
「私、どうすればいい」
ルゥシェはセリアを見た。
嘘を許さない目で。
でもその目の奥には、確かに“契約者”への温度がある。

「まず、嘘をつかない」
「……うん」
「奪わない」
「うん」
「それだけで、妖精は信用する」
ルゥシェは小さく息を吐いて付け加えた。
「少なくとも、僕は」

セリアは頷いた。
夜の遺跡の中で、水面に落ちた月を見つめながら。

王の影は去った。
でも、見られた感覚は肌に残っている。
観測されたという事実は、刺青みたいに消えない。

セリアは静かに思う。
ここから先は、ただの生存じゃない。
世界の均衡に触れてしまった。

それでも――生きたい。
その言葉だけは、契約の熱と一緒に胸の奥で確かに燃えていた。
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