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第6話:妖精王フィオラル初対面
しおりを挟む夜は、音が増える。
……と思っていた。
でも、この夜は逆だった。
音が消える夜。
遺跡の池の周りで妖精たちが囁き合う声も、葉の擦れる音も、遠くの獣の息遣いも、全部が一瞬で“遠ざかる”。
まるで、世界が深呼吸をして、余計なものを吐き出したみたいに。
セリアは焚き火もない石の冷たさの上で、息を止めた。
さっき“王が見てる”とルゥシェが言った時の、あの皮膚を撫でる視線。
あれは去ったはずなのに、今はもっと濃いものが近づいてくる。
近づく、というより――
“重なる”。
空気が澄む。
澄んだ空気って、冷たいはずなのに、これは妙に心地いい。
呼吸が勝手に深くなる。肩の力が抜けていく。
怖いのに、落ち着く。
矛盾が胸の奥でほどけていく感覚。
「……来る」
ルゥシェが低い声で言った。
いつもの軽さが消えている。
セリアはルゥシェを見る。
小さな妖精が、こんな顔をするんだ、と驚くほど真剣な顔。
嘘を許さない目が、今は“覚悟”の色をしている。
「王が……?」
セリアが聞くと、ルゥシェは頷く。
そして、セリアの前に立った。
盾みたいに。
でも盾ではない。隠さない。隠せない。
ただ“間に立つ”。
「セリア」
ルゥシェが小声で言う。
「絶対に嘘つかないで」
「……うん」
「泣いてもいい。でも嘘だけはダメ。嘘は、ここでは死ぬ」
死ぬ。
その言葉が、石の冷たさみたいに背中に貼りつく。
セリアは唾を飲み込んだ。
喉が渇く。
水を飲んでも治らない渇き。
緊張の渇き。
池の水面が、ふっと暗くなった。
月が雲に隠れた?
違う。
雲はない。
月はそこにあるのに、水面の月だけが“後ろへ下がる”みたいに遠ざかる。
代わりに、水面が自分の深さを見せ始めた。
鏡じゃなくなる。
底が見えない黒い井戸みたいになる。
そして、水面の黒の中に、一本の線が走った。
光の線。
細くて、静かで、でも絶対に消えない線。
線はゆっくりと広がり、円になる。
水面に“門”が開くみたいに。
妖精たちが一斉に頭を下げた。
ざわめきが完全に途切れ、遺跡が礼儀正しく黙る。
セリアだけが頭を下げるタイミングを失い、固まった。
そんなセリアの胸の奥で、契約の熱がじん、と鳴る。
ルゥシェの感情が伝わる。緊張。警戒。
そして、ほんの少しの苛立ち。
「……ほら」
ルゥシェが小さくセリアの膝をつついた。
「ちゃんとして」
「ちゃんとしてって……」
セリアは焦る。
でも、頭を下げるのは負けじゃない。
ただの礼儀だ。
セリアはゆっくりと膝を折り、頭を下げた。
石が冷たい。
でも、その冷たさが今は救いだった。
身体を地面に預けると、震えが少し止まる。
水面の門から、影が上がってくる。
足音がない。水の音もない。
存在だけが、しずしずと世界に染み込んでいく。
セリアは、顔を上げるのを少しだけ遅らせた。
怖い。
でも見たい。
“王”がどんな存在なのか、見ておかないと、これから先に進めない。
ゆっくり顔を上げた瞬間、セリアの目に入ったのは――
美しさ、ではなかった。
確かに整った顔立ちだ。
白銀に近い髪が月の光を吸い、肌は夜の霧みたいに淡い。
でも、目が違う。
瞳は色というより、深い水の底みたいな透明さ。
覗き込んだら自分が消えそうな、静かな深さ。
何より――古い。
若いのに古い。
新しい石像みたいに整っているのに、長い時間を抱えている。
世界ができる前からここにいた、と言われたら信じてしまいそうな存在感。
それが、妖精王――フィオラル。
セリアの胸が妙に落ち着いていく。
怖いのに、呼吸が整う。
目の前の存在が“正しさ”じゃなく“均衡”で動いているからだと、セリアは直感した。
好きとか嫌いとか、そういう人間の感情より先に。
この王は、天秤の中心にいる。
揺れを嫌い、揺れを観測し、揺れを戻す。
そんな存在。
フィオラルはルゥシェを見るでもなく、妖精たちを見るでもなく、セリアだけを見た。
視線がまっすぐ刺さる。
でも王城の貴族の“査定”ではない。
測っている。体温を。呼吸を。心臓のリズムを。
存在そのものを。
フィオラルは名乗らない。
挨拶もしない。
ただ、問いだけを落とした。
「人間」
声は低い。
風が石を撫でるみたいに静かで、でも拒めない音。
「なぜ泣かない」
セリアは一瞬、頭が真っ白になった。
質問が予想と違う。
もっと難しいことを問われると思っていた。
契約の理由とか、目的とか、命の価値とか。
なのに、泣かない理由。
セリアは喉が詰まる。
泣かないんじゃない。泣けないんだ。
泣いたら負ける気がするから。
泣いたら、私の人生が“余計なものだった”って結論になる気がするから。
――そんなの、惨めすぎる。
でも、ルゥシェが言った。嘘は死ぬ。
ここで「強いから泣かない」なんて言ったら嘘だ。
強くなんてない。
ただ、崩れたら戻れないと感じているだけ。
セリアは唇を噛んだ。
涙が浮かぶ。
でも落ちない。落としたくない。
「……泣いたら」
声が震える。
でも、言う。
「泣いたら、私が私じゃなくなる気がする」
沈黙が落ちた。
その瞬間、セリアは見た。
フィオラルの指先が、ほんのわずかに止まるのを。
ほんの僅か。
呼吸の途中で一瞬止まるくらい。
それでも、セリアには分かった。
この存在が“反応”した。
ルゥシェもそれに気づいたらしく、目を細めた。
小さな妖精の顔に、嫌な予感の影が落ちる。
フィオラルは、セリアをじっと見つめたまま、言った。
「己を保つために泣かぬか」
セリアは、反射で頷きそうになり、やめた。
頷いたら“理解された”ことになる。
理解されるのが怖い。
この王に理解されたら、もう逃げ道がなくなる気がする。
でも、逃げ道はもともとなかった。
追放された時点で。
今はただ、どこへ向かうかを自分で選ぶしかない。
フィオラルは、視線を少しだけ横に滑らせた。
ルゥシェを見る。
たったそれだけで、空気がさらに張り詰める。
「契約したか」
ルゥシェが答える。
「した」
短い。
けれど、声の奥に微かな挑戦が混じっている。
「なぜ」
フィオラルの問いは感情がない。
でも冷たくもない。
ただ理由を求めている。均衡のために。
ルゥシェは肩をすくめた。
「僕が選んだ」
「理由は」
「嘘がないから」
「それだけか」
「それだけで十分」
王の目が少し細くなる。
それは怒りではなく、測定の目。
「人間。貴様は、何を望む」
セリアの心臓が跳ねた。
望み。
帰りたい、と言いたい。
元の世界に戻りたい。
でも、帰り方を知らない。
それに、今この場で“帰りたい”と言ったら、フィオラルはセリアを均衡の外へ追い出すかもしれない。
均衡の外。
つまり、死。
嘘はつけない。
でも、言わないことは嘘じゃない。
――いや。
言わないことで相手を誤解させるなら、それは嘘と同じだ。
ルゥシェの言葉が胸の奥で刺さる。
セリアは息を吸った。
自分が何を望むか。
本当の望みは、“生きたい”だ。
帰りたいの前に、生きたい。
「……生きたい」
セリアは言った。
声はまだ震える。
でも、嘘じゃない。
フィオラルは頷きもしない。
ただ、静かに言った。
「生きるために、何をする」
セリアは言葉に詰まった。
何をする?
昨日は木の実を剥いて食べただけ。
焚き火をつけただけ。
それでも必死だった。
でも王が求める答えは、もっと大きい。
セリアは思い出す。
王城でゼロと言われた瞬間。
価値がないと切り捨てられた瞬間。
あの瞬間の自分は、“何もしない”まま消されるしかなかった。
嫌だ。
何もしないで消えるのは。
なら、私は何をする?
セリアは、胸の奥の熱に手を当てるようにして言った。
「……嘘をつかない」
「ほう」
フィオラルの声が少しだけ低くなる。興味の音。
セリアは続けた。
「奪わない」
「……」
「そして、私が選ぶ」
言葉を出した瞬間、怖さが増す。
でも、言った。
「誰かに決められるんじゃなくて。私が、私の足で決める」
ルゥシェが小さく息を吐くのが聞こえた。
安堵なのか、呆れなのか。
たぶん両方。
フィオラルはしばらく沈黙した。
沈黙が重い。
でもその重さが、不思議とセリアを押し潰さない。
この王の重さは、石の重さじゃなく水の重さだ。
沈むけど、均等に包む。
やがてフィオラルは、結論だけを落とした。
「君は境界を揺らす」
その言葉が、遺跡の石に吸い込まれていく。
妖精たちの気配がざわつく。
セリアの背中に視線が集まる。
フィオラルは続ける。
「壊すか、繋ぐか。まだ決まっていない」
壊す。繋ぐ。
その二択。
自分の人生に、そんなスケールの言葉が乗ってくるのが怖い。
でも、フィオラルの声には脅しがない。
ただ事実の告知だ。
セリアは思わず言った。
「私が決めるの?」
「君が決める」
フィオラルは即答した。
「そして、世界が結果を受け取る」
その言い方が、残酷で、優しい。
誰かが救ってくれるわけじゃない。
でも、誰かに奪われるわけでもない。
セリアの胸の奥で、契約の熱が少しだけ強くなる。
ルゥシェの感情が混ざる。緊張と、奇妙な誇り。
フィオラルは最後に、もう一度だけセリアを見た。
温度がないわけじゃないのに、甘さがない。
ただ、均衡の中心に立つ者が、揺れを見守る目。
「泣くなとは言わぬ」
フィオラルが言った。
「だが、泣くなら理由を持て。理由のない涙は、均衡を崩す」
理由のない涙。
セリアは喉の奥が熱くなる。
泣けない理由は、確かにある。
自分を保つため。
自分を失わないため。
その理由を、王に見抜かれた気がして、少しだけ悔しい。
でも、見抜かれたからこそ、嘘のない場所にいる実感が湧く。
フィオラルは踵を返した。
水面の門へ向かう。
歩き方は静かで、足音がないのに、世界のほうが道を開けるような感覚がある。
去り際、ルゥシェにだけ聞こえるような小さな声で言った。
「見届ける」
それだけ。
約束でもない。
祝福でもない。
ただの宣言。
フィオラルが水面に溶けるように消えると、遺跡の空気が戻ってきた。
虫の羽音。葉の擦れる音。妖精たちの囁き。
世界が呼吸を再開する。
セリアは、肩で息をしている自分に気づいた。
緊張で息を止めていたらしい。
「……やば」
セリアが呟くと、ルゥシェが横目で見る。
「やばいね」
「ねえ、あれが王?」
「そう」
「怖かった」
「当然」
「でも、なんか……変な感じ」
「変って?」
セリアは言葉を探す。
怖かったのに、嫌じゃなかった。
見られているのに、踏みつけられていない。
それが、王城と決定的に違う。
「……ちゃんと見られてた」
セリアが言うと、ルゥシェは少しだけ笑った。
「うん。君、初めて“存在”として見られた顔してる」
「何それ」
「褒めてる」
「褒め方が嫌」
「知らない」
セリアは小さく息を吐き、池の水面を見た。
月が戻っている。
さっきの門は跡形もない。
でも、王の影は肌に残っている。
壊すか、繋ぐか。
まだ決まっていない。
セリアは拳を握る。
怖い。
でも、逃げない。
泣かない理由を持ったまま、歩く。
フィオラルの視線に、背中を押されるように。
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