17 / 20
第17話:フィオラルの“並ぶ”宣言、第二契約
しおりを挟む大広間の空気は、まだ薄かった。
セリアが「聖女じゃない」と言って、
「民は切り捨てない」と言って、
「妖精側に立ったまま、人間を終わらせない」と言った。
その言葉は、剣みたいに派手じゃない。
でも、刃のない言葉のほうが、時々いちばん深く刺さる。
刺さって、血を流さずに、世界の形だけ変える。
王は黙っていた。
貴族は黙っていた。
民も黙っていた。
誰もが、次に来るものを恐れて息を止めている。
沈黙が、ぐっと伸びる。
その沈黙が伸びるほど、香の甘さが息苦しくなる。
蝋の匂いが喉に残る。
石畳の冷たさが足裏から背骨に上がってくる。
そして――空気が整った。
「澄む」とも違う。
「冷える」とも違う。
「柔らかくなる」とも違う。
ただ、世界が正座する。
音のノイズが、すっと消える。
呼吸が勝手に深くなる。
焦りでバラバラだった心臓のリズムが、一本の線に揃う。
セリアは分かった。
この感覚は、遺跡と同じだ。
フィオラル。
姿を見る前に、存在が来る。
広間の中央にある噴水の水面が、月のない昼間なのに淡く光った。
水が門になる。
扉が開く音はしない。
ただ、水の形が“通り道”になる。
そこから、影が立ち上がった。
妖精王フィオラル。
白銀の髪。
淡い肌。
そして、深い水の底みたいな瞳。
貴族たちが一斉に膝を折る。
民も、何が起きたか分からないまま頭を下げる。
兵は槍を握り直し、動けない。
王ですら、一瞬だけ呼吸を止めたのが見えた。
――でも。
フィオラルは、玉座へ向かわなかった。
王の前へも行かなかった。
誰の上にも立たない。
ただ、静かに歩いた。
足音はない。
それなのに、大広間の床が、彼の歩みに合わせて“静かになる”。
踏まれた石が喜ぶみたいに、世界の輪郭が整っていく。
フィオラルは、セリアの隣へ来た。
隣。
それだけで、空気が裂けそうになる。
王が人間の隣に立つ。
しかも、玉座の上ではなく、同じ床の上で。
それはこの国の序列を、もう一度静かに折る行為だった。
セリアの胸がぎゅっと鳴った。
怖い。
でも、怖さの種類が違う。
叩き潰される怖さじゃない。
“世界が変わる瞬間に立っている”怖さ。
フィオラルはセリアを見た。
恋じゃない視線。
均衡の視線。
けれど今日は、そこに“個”の静けさが混じっていた。
王としての威光ではない。
命令の匂いがない。
守るふりの支配もない。
ただ、そこにいる。
フィオラルは、広間に向けて言った。
声は低い。
風が葉を撫でるみたいに静かな声。
「この人間の選択に」
一語ずつ、石の上に置く。
「私は並ぶ」
並ぶ。
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が割れた気がした。
怒号でも、歓声でもない。
ただ、人々の心の中で何かがひび割れる音。
王は目を見開く。
貴族は顔色を失う。
民は意味を理解できないまま、ただ息を呑む。
“並ぶ”とは、保護ではない。
庇護でもない。
命令でもない。
同列。
同じ高さで、同じ責任を持つ宣言。
フィオラルは続ける。
「私は、命令しない」
「この者を飾りにしない」
「この者の言葉を、道具にしない」
セリアの喉が熱くなる。
言われたかったわけじゃない。
でも、言われると胸の奥の鎖がもう一本外れる。
フィオラルは、セリアを見ずに言った。
それでも、その言葉はセリアの胸にまっすぐ届く。
「この人間が選ぶなら」
「私も選ぶ」
「拒むなら、私も拒む」
「立つなら、私も立つ」
それは誓いだった。
世界に向けた誓い。
“王”が“王”であることを一度ほどいて、
“個”として誓う言葉。
セリアは、息を吸う。
胸の奥に風が通るような感覚がした。
風が止まっていた森で聞いた、境界が割れる音。
その逆。
今は、風が通る。
縫い目を繋ぐ風が、胸の中を通り抜ける。
怖さが消えるわけじゃない。
怖い。
相変わらず怖い。
でも、怖さが“敵”じゃなくなる。
怖さと一緒に立てる。
それが、風が通る感覚だった。
王ハルディンが声を絞り出す。
「妖精王……」
言いかけて、言葉を変える。
フィオラルの“並ぶ”宣言が、呼び方すら変えてしまった。
「フィオラル殿」
その呼称が、貴族たちの顔を歪める。
王が、妖精王に“殿”をつける。
それは上下ではなく、横の礼儀だ。
フィオラルは王を見た。
目は深い。
でも冷たくない。
ただ、逃げ道を消す目。
「国を救いたいなら」
フィオラルが言う。
「この人間を聖女にするな」
「飾りにするな」
「選択を奪うな」
王は唇を噛み、頷いた。
頷くしかない。
この場で逆らえば、均衡そのものに逆らうことになる。
フィオラルは、ほんの僅かに手を上げた。
指先が、空気に線を引く。
その線が、見えないはずなのに見えた。
光ではない。
透明な“約束”の線。
「第二契約を結ぶ」
契約。
その単語に、貴族が身体をこわばらせる。
彼らにとって契約は奪うものだった。
だが、今目の前にある契約は違う。
奪えない。
支配できない。
ただ、選び合う。
「セリア・アルノート」
フィオラルが名を呼ぶ。
呼ばれた瞬間、セリアの指先の光が小さく脈打つ。
第一契約の印。
ルゥシェとの線が、胸の奥で一度だけ熱くなる。
セリアは頷いた。
「うん」
それだけでいい。
紙も要らない。
印も要らない。
嘘のない言葉だけでいい。
フィオラルは問いを落とした。
短い問い。
重い問い。
「並ぶことを、望むか」
セリアは一瞬だけ目を閉じた。
頭に浮かぶのは、追放の門が閉まる音。
森の霧。
ルゥシェの「生きたい?」
フィオラルの「泣くなとは言わぬ」
民の飢えた匂い。
称号剥奪の静けさ。
全部が胸の中で一つの線になる。
セリアは目を開け、言った。
「望む」
声が震えない。
震えないのが怖いくらい、落ち着いている。
「私は、誰かの上に立たない」
「誰かの下にもならない」
「切り捨てない」
「奪わない」
「嘘をつかない」
言葉が、広間に落ちる。
そして、フィオラルの言葉と重なる。
二つの線が、並ぶ。
その瞬間――光が咲いた。
派手な爆発じゃない。
雷でもない。
花火でもない。
でも、微光が広がる。
セリアの周りだけではなく、広間全体に。
天井の梁、柱の影、床の石の隙間。
そこに、妖精の光が静かに宿る。
“見えない存在”が、“見える形”で世界に誓いを刻む。
第二契約は、世界に向けた誓いになった。
貴族の誰かが膝から崩れ落ちた。
ミレーヌが唇を噛んで泣きそうになる。
エドガーは、何も言えずに立ち尽くす。
“必要”という言葉の置き場所を失った顔で。
そして、その光の中で、セリアは胸の奥に風が通るのを感じた。
呼吸が深くなる。
怖さは消えない。
でも、怖さと一緒に立てる。
今なら、歩ける。
そのとき、胸の奥で小さな笑いがした。
ルゥシェだ。
「……やるじゃん」
声は軽い。
でも、どこか誇らしげで、少しだけ寂しい。
セリアは小声で返す。
「ルゥシェのおかげ」
「違う」
ルゥシェは即答した。
「僕は最初の契約者。最初の線を結んだだけ。歩いたのは君」
その言葉が、胸に刺さって、優しい。
“引っ張らない”距離が、今もそこにある。
「じゃあ、これで……」
セリアが言いかけると、ルゥシェは笑って遮った。
「うん。僕は影に戻る」
「ここから先は、君が前に立つ番」
「でも、消えるわけじゃない」
「影って、そういうもの」
影。
孤独の居場所。
でも今は、孤独が味方の影になっている。
セリアは喉の奥が熱くなって、でも飲み込んだ。
涙は弱さじゃない。
覚悟の塩味だ。
その塩味を、今は胸の奥にしまっておく。
ルゥシェの気配が、ふっと薄くなる。
完全に消えない。
線は残る。
けれど前に出るのをやめた。
最初の契約者は、影に戻った。
フィオラルは最後に、広間に向けて言った。
「この契約は、誰のものでもない」
「奪えない」
「管理できない」
「ただ、選び合う」
その言葉は、貴族制度の喉元に置かれた静かな刃だった。
血を流さずに、嘘だけを切る刃。
セリアは息を吐いた。
長い息。
森の息。
人間の城の中で、森の息をしている自分が、少しだけ可笑しかった。
でも、それが自分だ。
妖精側に立ったまま、人間を終わらせない人間。
怖い。
でも、怖さと一緒に立てる。
第二契約の光が、広間の天井に淡く残り、
この国の形が、静かに書き換わり始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~
香木陽灯
恋愛
「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」
実の父と妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。
「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」
「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」
二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。
※ふんわり設定です。
※他サイトにも掲載中です。
地味な薬草師だった俺が、実は村の生命線でした
有賀冬馬
ファンタジー
恋人に裏切られ、村を追い出された青年エド。彼の地味な仕事は誰にも評価されず、ただの「役立たず」として切り捨てられた。だが、それは間違いだった。旅の魔術師エリーゼと出会った彼は、自分の能力が秘めていた真の価値を知る。魔術と薬草を組み合わせた彼の秘薬は、やがて王国を救うほどの力となり、エドは英雄として名を馳せていく。そして、彼が去った村は、彼がいた頃には気づかなかった「地味な薬」の恩恵を失い、静かに破滅へと向かっていくのだった。
悪役令嬢、休職致します
碧井 汐桜香
ファンタジー
そのキツい目つきと高飛車な言動から悪役令嬢として中傷されるサーシャ・ツンドール公爵令嬢。王太子殿下の婚約者候補として、他の婚約者候補の妨害をするように父に言われて、実行しているのも一因だろう。
しかし、ある日突然身体が動かなくなり、母のいる領地で療養することに。
作中、主人公が精神を病む描写があります。ご注意ください。
作品内に登場する医療行為や病気、治療などは創作です。作者は医療従事者ではありません。実際の症状や治療に関する判断は、必ず医師など専門家にご相談ください。
婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです
藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。
家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。
その“褒賞”として押しつけられたのは――
魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。
けれど私は、絶望しなかった。
むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。
そして、予想外の出来事が起きる。
――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。
「君をひとりで行かせるわけがない」
そう言って微笑む勇者レオン。
村を守るため剣を抜く騎士。
魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。
物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。
彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。
気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き――
いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。
もう、誰にも振り回されない。
ここが私の新しい居場所。
そして、隣には――かつての仲間たちがいる。
捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。
これは、そんな私の第二の人生の物語。
【完結】婚約者と仕事を失いましたが、すべて隣国でバージョンアップするようです。
鋼雅 暁
ファンタジー
聖女として働いていたアリサ。ある日突然、王子から婚約破棄を告げられる。
さらに、偽聖女と決めつけられる始末。
しかし、これ幸いと王都を出たアリサは辺境の地でのんびり暮らすことに。しかしアリサは自覚のない「魔力の塊」であったらしく、それに気付かずアリサを放り出した王国は傾き、アリサの魔力に気付いた隣国は皇太子を派遣し……捨てる国あれば拾う国あり!?
他サイトにも重複掲載中です。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
家族の肖像~父親だからって、家族になれるわけではないの!
みっちぇる。
ファンタジー
クランベール男爵家の令嬢リコリスは、実家の経営手腕を欲した国の思惑により、名門ながら困窮するベルデ伯爵家の跡取りキールと政略結婚をする。しかし、キールは外面こそ良いものの、実家が男爵家の支援を受けていることを「恥」と断じ、リコリスを軽んじて愛人と遊び歩く不実な男だった 。
リコリスが命がけで双子のユフィーナとジストを出産した際も、キールは朝帰りをする始末。絶望的な夫婦関係の中で、リコリスは「天使」のように愛らしい我が子たちこそが自分の真の家族であると決意し、育児に没頭する 。
子どもたちが生後六か月を迎え、健やかな成長を祈る「祈健会」が開かれることになった。リコリスは、キールから「男爵家との結婚を恥じている」と聞かされていた義両親の来訪に胃を痛めるが、実際に会ったベルデ伯爵夫妻は―?
「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます
七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。
「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」
そう言われて、ミュゼは城を追い出された。
しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。
そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる