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第2話「祖母タイムの小屋と、忘れられた鍵」
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王都を出て三日目の朝、馬車を降りた瞬間、ミントは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
鼻の奥をくすぐる、湿った土の匂い。
森から流れてくる、青い葉の匂い。
遠くで牛が鳴く声と、畑を耕す鍬の音。
「……ああ、帰ってきちゃったんだ、私」
目の前には、小さな村の入り口。
石を積んだだけの素朴な門柱と、風に揺れるボロボロの旗。
王都の門とは違う、手作りみたいな、ちょっと頼りない景色。
でも、それが懐かしくて、泣きたくなるくらい落ち着く。
「ミントじゃないか?」
不意に、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、腰を少し曲げた男性が、畑道の方から手を振っている。
「……あれ? ダンデさん?」
「そうともよ、ダンデライオンさまだ。ははは!」
村の農夫ダンデライオン。
子どもの頃、よく祖母タイムの店に腰を下ろして、腰痛の愚痴とどうでもいい世間話をしていた常連さんだ。
「大きくなったなぁ、お前。タイムばあさんの孫娘の、ミントだろ?」
「こんにちは、ダンデさん。お久しぶりです」
会釈すると、ダンデライオンは「おお」と目を丸くし、すぐにニカッと笑った。
「王都に行ったって聞いてたが……戻ってきたのか?」
「はい。ちょっと、いろいろ……あって」
苦笑いで濁すと、ダンデライオンはそれ以上は聞かなかった。
ただ、「そっか」と一言だけ言って、肩をぽんと叩く。
「タイムばあさんの小屋、まだ残ってるぞ。かなりボロだけどな。とりあえず、雨風はしのげるはずだ。村長にも顔出してやれ」
「……はい。ありがとうございます」
その言葉だけで、胸の奥の固くなっていた部分が、少しだけほぐれる。
村の道は、子どもの頃とほとんど変わっていなかった。
右手には小川、左手には畑。
ところどころに見える花壇と、木で組んだベンチ。
「ミント? ミントなの?」
今度は女性の声。
振り返ると、買い物籠を抱えたデイジーが立っていた。
ダンデライオンの奥さんで、昔からおしゃべりで世話焼きだ。
「デイジーさん、お久しぶりです」
「まぁまぁまぁ! 王都の空気なんか吸って、きれいになっちゃって! タイムばあさんの面影、前より出てきたんじゃない?」
デイジーはずかずか距離を詰め、ミントの頬を両手で包む。
唐突なスキンシップに、ミントは目をぱちぱちさせた。
「や、やだ、そんな……変わってないですよ」
「何言ってるの。前よりずっと“女の顔”になってるわよ。ふふ、王都で恋のひとつやふたつ――」
「してません! してませんから!」
「はいはい、今は聞かないでおいてあげるわ。どうせそのうち、村中に噂が回るから」
デイジーの明るい声に、思わず笑ってしまう。
――ああ、やっぱりこの村だ。
王都みたいに冷たい視線はない。
ここでは、私のことを“田舎娘”って悪く言う人はいない。
「タイムばあさんの小屋、これから行くの?」
「はい。とりあえず、あそこに泊まらせてもらおうかなって」
「そうね……あの小屋、誰も手を入れてないから、きっと大変よ。困ったらいつでもうちに来なさい。ご飯くらいは食べさせてあげるから」
「ありがとうございます。本当に」
何度も頭を下げて、ミントは村の奥へ歩いていく。
小さな坂を上った先に、それはあった。
かつて祖母タイムが営んでいた、小さな薬草小屋。
記憶の中の小屋は、こじんまりとしているけれど、いつも窓から灯りが漏れていて、ハーブティーの香りが漂っていた。
扉を開けると、棚には瓶と乾燥ハーブが並び、タイムが笑って迎えてくれる――そんな場所だった。
けれど、今、ミントの目の前にある小屋は。
「……うわ」
思わず、声が漏れた。
屋根の一部は抜け、壁にはツタが這い回り、窓ガラスは半分以上が割れている。
扉はかろうじて原形を保っているものの、色あせて、ところどころ木が腐っている。
でも、嫌じゃなかった。
ボロボロで、みすぼらしくて、でも。
「ただいま、おばあちゃん」
ミントは、小さく呟いた。
ぎい、と音を立てて扉を開ける。
中から、乾いた木の匂いと、古いハーブの残り香がふわっと流れ出した。
埃っぽい空気を、ミントはむしろ懐かしく感じた。
中は、想像以上の散らかりようだった。
棚は傾き、床には破れた布や割れた瓶が転がっている。
かつての薬草棚も、今は空っぽのフックだけが寂しそうに並んでいた。
「……これは、なかなか」
ミントはトランクを隅に置き、肩にかかっていたマントを脱いだ。
「よし。とりあえず、住める状態にしないとね」
掃除は嫌いじゃない。
王都の屋敷でも散々やってきた。
むしろ、掃除をしていると、余計なことを考えなくていいから助かる。
窓を開けると、むわっとこもった空気が逃げていく。
雑巾代わりの古布を見つけ、床と棚を拭き始めた。
埃が舞い上がり、鼻がむずむずする。
でも、雑巾に溜まっていく汚れを見るたび、少しずつ胸が晴れていくような気がした。
「ここ、調合台だったんだよね……」
片付けをしながら、ミントは昔を思い出す。
まだ背の届かない高さの台に背伸びして、タイムの横で葉っぱをちぎっていた幼い自分。
『ミント、葉っぱはちぎるときに“ごめんね”って心の中で言うんだよ』
『なんで?』
『その方が、薬草がよく効いてくれる気がするから』
理屈としては、よくわからない。
でも、その優しい言い方が好きだった。
「……ごめんね。今から、ここ、もう一回使わせてね」
調合台を丁寧に拭きながら、ミントは心の中でそう呟く。
夢中で片付けているうちに、外はすっかり夕方の光になっていた。
赤く染まった陽の光が、割れた窓から差し込んで、埃の粒をきらきらと照らす。
「ふー……だいぶマシになったかな」
元がボロなので、劇的な変化とは言えない。
でも、とりあえず座れる椅子と、物を置ける台と、眠れそうなスペースくらいは確保できた。
ミントが腰を伸ばそうとした、そのとき。
ぎし、と、いつもと違う音がした。
「……ん?」
棚の下に踏み込んだ足の感触が、妙に軽い。
よく見ると、奥の方の板が少し浮いている。
「なにこれ……隠し床?」
しゃがみこんで板を持ち上げてみると、ぴたりと外れた。
そこには、掌に収まるくらいの古びた木箱が、ひっそりと収まっていた。
心臓が、どくん、と鳴る。
「……タイムおばあちゃん?」
思わず、呼びかけてしまう。
もちろん返事なんてない。
けれど、箱から漂ってくる空気は、不思議とあたたかかった。
木箱には、小さな鍵穴がある。
しかし鍵はついていない。
「鍵……鍵、鍵」
ミントは、慌てて棚や引き出しを探し回る。
薬草用の道具に紛れて、小さな金属の束が出てきた。
錆びた鍵が三つ、輪になっている。
「これ……かな」
一つ目は大きすぎた。
二つ目は形が違う。
三つ目――少し歪んでいるけれど、鍵穴に差した瞬間、ぴったりとはまった感覚が伝わる。
かちゃり。
なんてことのない音。
なのに、ミントの胸はなぜか、息が詰まるほど高鳴っていた。
そっと蓋を開ける。
中には、丁寧に畳まれた紙束と、小さな金属のプレートが入っていた。
「……メモ?」
紙を開くと、そこにはタイムの、見慣れた丸っこい字が並んでいた。
『ミントへ』
それだけで、視界がにじみそうになる。
ミントは慌てて瞬きを繰り返し、続きの文字に目を通した。
『この箱をあける頃、お前はきっと大人になってるんだろうね。
もしかしたら、王都に行ってるかもしれないし、村でのんびり暮らしているかもしれない。
どんなミントでも、私はきっと、すごく自慢だよ』
「……やめてよ、もう」
声に出した瞬間、涙が一粒、ぽとりと紙に落ちた。
慌てて指で拭って、読み進める。
『私は、この村で小さな薬草屋をやってきたけれど、本当はね、“もっとこうしたかったなぁ”っていう夢も、こっそり持ってた。
もっと明るくて、もっと人が出入りしやすくて、もっと若い子たちも気軽に薬を相談できる店』
『でも、おばあちゃんの身体は、もうそんなに長くは動けないみたいだ。
だから、この夢は、お前に渡しておこうと思う』
そこまで読んで、ミントは思わず息を呑んだ。
「……夢、渡すって……なにそれ」
木箱の底には、簡単な線で描かれた設計図が入っていた。
今の小屋をベースに、棚の位置、調合台の向き、窓の大きさまで描いてある。
そこには、手書きでこう記されていた。
『いつか、お前の店を』
たったそれだけの言葉なのに、胸の中心を、ぎゅっと掴まれたみたいだった。
「おばあちゃん……」
ミントは、設計図とメモを胸に抱きしめる。
紙越しに伝わる温度なんて、本当はないのに、妙にあたたかくて、心臓の鼓動と一緒にじんわり広がっていく。
王都で言われ続けた言葉がよみがえる。
『田舎娘のくせに有能ぶって』
『田舎に帰って、雑草と結婚でもなさいな』
それに重なるように、祖母の字が胸の中で響く。
『どんなミントでも、私はきっと、すごく自慢だよ』
ぽろぽろと、涙が止まらなくなった。
王都を追い出された悔しさも、情けなさも、全部混ざって溢れてくる。
でも今は、それを無理に止めなくていい気がした。
しばらく泣いて、ようやく呼吸が落ち着いた頃。
ミントの中に、さっきまでとは違う種類の感情が生まれていることに気づく。
(人の顔色をうかがって、怯えながら働くのは……もう、嫌だ)
ローズ家での自分の姿が頭に浮かぶ。
怒られないように、嫌われないように、ただひたすら「はい」と従うだけの自分。
(今度は、私の手で、私の店を)
祖母の設計図を、そっと広げ直す。
小さな小屋。
窓辺にハーブの鉢。
扉の横には、小さな看板。
紙の上でしか存在しない店なのに、胸の中でそれが、ゆっくりと色づいていく。
「……やってみようかな」
ぽつりと落とした言葉は、思ったよりも軽く口から出た。
「タイム薬草店じゃなくて、今度は――ミントの店」
声に出してみると、妙にこそばゆい。
でも、悪くない。
そのとき、外から「おーい!」という声が飛び込んできた。
「ミント! いるかー?」
聞き慣れたダンデライオンの声だ。
ミントは慌てて涙を拭き、扉まで駆けていく。
「はーい! 今、開けます!」
扉を開けると、ダンデライオンとデイジー、さらに、村長まで立っていた。
村長は背の低い丸い体型で、口ひげをたくわえ、いつもどこか眠そうな目をしている。
でも、この村で一番頼りになる人だ。
「戻ってきたばかりのところ悪いね、ミントちゃん」
「村長さん……!」
「ダンデから聞いたよ。タイムの小屋に泊まるって」
村長は、小屋の中をちらりと覗き、「ふむ」とうなずいた。
「まだ修理は必要だが、ここなら十分住める。……で、だ」
「はい?」
「お前、この小屋をどうするつもりだ?」
率直な問いに、ミントは一瞬言葉を詰まらせる。
でも、胸の中にさっき生まれた火を思い出し、そのまま口に乗せた。
「……お店に、したいです」
ダンデライオンとデイジーが、目を丸くする。
村長も少しだけ眉を上げ、「ほう」と呟いた。
「薬草屋か?」
「はい。おばあちゃんみたいな……いえ、もっと、いろんな人が来やすいお店に。
村の人も、隣の村の人も、気軽に相談できるような。
王都では……上手くいかなかったけど。ここなら、私の歩幅でやっていける気がして」
自分でも、こんなに言葉が出るとは思わなかった。
胸の内側に溜め込んでいた想いが、一気にあふれ出したみたいだ。
村長は、しばらく無言でミントを見つめていた。
その視線は厳しいものではなく、懐かしいものを確かめるような目だった。
「タイムの店はな、この村の誇りだった」
ぽつりと、村長が言う。
「王都に行くって聞いたときは、寂しかったが……“タイムの孫なら、どこでもやっていけるだろう”って、みんなで噂してたんだ」
「……そう、なんですか」
「タイムがいなくなってから、この村には“薬草をちゃんと診てくれる人”がいなくなった。
薬草そのものは採れる。簡単な回復薬も、隣町に行けば買える。
だが、“人を見て薬を出す”奴は、そうそういない」
村長は一歩近づき、ミントの肩を軽く叩いた。
「お前がその小屋で店をやるって言うなら、村として応援しようじゃないか。
許可が必要なら、書類だって手伝う。必要な材木くらい、村の連中で何とかしてやる」
「そ、そんな……そこまでしてもらうような……!」
「何言ってるのよ」
デイジーが、腰に手を当てて口を挟む。
「私の腰痛も、ダンデの肩こりも、タイムばあさんにどれだけ助けられたと思ってるの。
今度はミントが、その続きをやってくれるんでしょ? だったら、うちらが手伝うのは当たり前よ」
「ミントちゃん、俺の畑からも薬草用の種、分けてやるからよ。前みたいに、“この草は腰に効く”“これは寝つきにいい”とか教えてくれよな」
畳みかけるような言葉に、ミントは胸がじんわりと熱くなった。
こんなふうに“必要とされる”感覚を、王都で味わったことがあっただろうか。
「……ありがとうございます。私、がんばります」
頭を下げると、三人は満足そうに笑った。
「じゃあ、決まりだな。ミントの店、再開準備開始だ」
「店の名前はどうするの? タイム薬草店のまま?」
デイジーの問いに、ミントは一瞬黙り込む。
“タイム薬草店”――それは、祖母の店の名前。
その看板をそのまま掲げることもできる。
でも、木箱の中の設計図に書かれていた文字が、頭に浮かぶ。
『いつか、お前の店を』
「……私の、店」
口の中で転がしながら、ミントは小屋の外の空を見上げた。
夕暮れの空は、淡いオレンジと群青が混ざり合って、どこか寂しくて、どこか希望の色をしている。
「じゃあね――」
その夜。
片付いたとは言い難いけれど、とりあえず寝られるスペースを作り、古い布を重ねて即席のベッドにする。
外はすっかり暗くなり、窓の外で虫の声が鳴いている。
ミントは祖母の形見のマグカップを取り出し、持ってきたハーブを入れてお湯を注いだ。
湯気と一緒に立ち上る香りは、レモンとミントが混ざったような、すっきりした匂い。
それを少しずつ口に含みながら、ミントは一枚の紙を取り出す。
ランプの小さな灯りの下、真っ白な紙にペン先を乗せる。
(店の名前。
タイムじゃなくて、私の……)
少し悩んで、ひとつ言葉を思い浮かべる。
薬草の葉や花は、誰かの心や身体の“余白”に、そっとメモを書くみたいな存在だ。
飲んでもらうことで、少し楽になってほしい。
痛みが全部消えなくても、「大丈夫」って書き込んであげたい。
(だったら――)
ペンが、ゆっくりと紙の上を滑る。
《薬草店グリーンノート》
拙い字。
少し曲がっているし、線も震えている。
でも、その文字が紙の上に浮かび上がった瞬間、ミントの胸の奥が、ふっと軽くなった。
「……うん。これで、いいや」
声に出すと、少し照れくさい。
でも、同時に、たしかな“始まり”の感覚があった。
田舎娘。
追放された元使用人。
誰の後ろ盾もない、ちっぽけな薬草オタク。
――そんな肩書きの全部の上に、新しい名前をそっと重ねる。
薬草店グリーンノート、店主ミント・フェンネル。
マグカップを握る手に、少しだけ力が入る。
窓の外で、風がツタを揺らす音がした。
「明日から、忙しくなるといいな」
独り言みたいに呟いて、ミントはランプの火を落とした。
暗闇の中でも、胸の中の小さな灯りだけは、消えずにぽうっと光っている気がした。
鼻の奥をくすぐる、湿った土の匂い。
森から流れてくる、青い葉の匂い。
遠くで牛が鳴く声と、畑を耕す鍬の音。
「……ああ、帰ってきちゃったんだ、私」
目の前には、小さな村の入り口。
石を積んだだけの素朴な門柱と、風に揺れるボロボロの旗。
王都の門とは違う、手作りみたいな、ちょっと頼りない景色。
でも、それが懐かしくて、泣きたくなるくらい落ち着く。
「ミントじゃないか?」
不意に、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、腰を少し曲げた男性が、畑道の方から手を振っている。
「……あれ? ダンデさん?」
「そうともよ、ダンデライオンさまだ。ははは!」
村の農夫ダンデライオン。
子どもの頃、よく祖母タイムの店に腰を下ろして、腰痛の愚痴とどうでもいい世間話をしていた常連さんだ。
「大きくなったなぁ、お前。タイムばあさんの孫娘の、ミントだろ?」
「こんにちは、ダンデさん。お久しぶりです」
会釈すると、ダンデライオンは「おお」と目を丸くし、すぐにニカッと笑った。
「王都に行ったって聞いてたが……戻ってきたのか?」
「はい。ちょっと、いろいろ……あって」
苦笑いで濁すと、ダンデライオンはそれ以上は聞かなかった。
ただ、「そっか」と一言だけ言って、肩をぽんと叩く。
「タイムばあさんの小屋、まだ残ってるぞ。かなりボロだけどな。とりあえず、雨風はしのげるはずだ。村長にも顔出してやれ」
「……はい。ありがとうございます」
その言葉だけで、胸の奥の固くなっていた部分が、少しだけほぐれる。
村の道は、子どもの頃とほとんど変わっていなかった。
右手には小川、左手には畑。
ところどころに見える花壇と、木で組んだベンチ。
「ミント? ミントなの?」
今度は女性の声。
振り返ると、買い物籠を抱えたデイジーが立っていた。
ダンデライオンの奥さんで、昔からおしゃべりで世話焼きだ。
「デイジーさん、お久しぶりです」
「まぁまぁまぁ! 王都の空気なんか吸って、きれいになっちゃって! タイムばあさんの面影、前より出てきたんじゃない?」
デイジーはずかずか距離を詰め、ミントの頬を両手で包む。
唐突なスキンシップに、ミントは目をぱちぱちさせた。
「や、やだ、そんな……変わってないですよ」
「何言ってるの。前よりずっと“女の顔”になってるわよ。ふふ、王都で恋のひとつやふたつ――」
「してません! してませんから!」
「はいはい、今は聞かないでおいてあげるわ。どうせそのうち、村中に噂が回るから」
デイジーの明るい声に、思わず笑ってしまう。
――ああ、やっぱりこの村だ。
王都みたいに冷たい視線はない。
ここでは、私のことを“田舎娘”って悪く言う人はいない。
「タイムばあさんの小屋、これから行くの?」
「はい。とりあえず、あそこに泊まらせてもらおうかなって」
「そうね……あの小屋、誰も手を入れてないから、きっと大変よ。困ったらいつでもうちに来なさい。ご飯くらいは食べさせてあげるから」
「ありがとうございます。本当に」
何度も頭を下げて、ミントは村の奥へ歩いていく。
小さな坂を上った先に、それはあった。
かつて祖母タイムが営んでいた、小さな薬草小屋。
記憶の中の小屋は、こじんまりとしているけれど、いつも窓から灯りが漏れていて、ハーブティーの香りが漂っていた。
扉を開けると、棚には瓶と乾燥ハーブが並び、タイムが笑って迎えてくれる――そんな場所だった。
けれど、今、ミントの目の前にある小屋は。
「……うわ」
思わず、声が漏れた。
屋根の一部は抜け、壁にはツタが這い回り、窓ガラスは半分以上が割れている。
扉はかろうじて原形を保っているものの、色あせて、ところどころ木が腐っている。
でも、嫌じゃなかった。
ボロボロで、みすぼらしくて、でも。
「ただいま、おばあちゃん」
ミントは、小さく呟いた。
ぎい、と音を立てて扉を開ける。
中から、乾いた木の匂いと、古いハーブの残り香がふわっと流れ出した。
埃っぽい空気を、ミントはむしろ懐かしく感じた。
中は、想像以上の散らかりようだった。
棚は傾き、床には破れた布や割れた瓶が転がっている。
かつての薬草棚も、今は空っぽのフックだけが寂しそうに並んでいた。
「……これは、なかなか」
ミントはトランクを隅に置き、肩にかかっていたマントを脱いだ。
「よし。とりあえず、住める状態にしないとね」
掃除は嫌いじゃない。
王都の屋敷でも散々やってきた。
むしろ、掃除をしていると、余計なことを考えなくていいから助かる。
窓を開けると、むわっとこもった空気が逃げていく。
雑巾代わりの古布を見つけ、床と棚を拭き始めた。
埃が舞い上がり、鼻がむずむずする。
でも、雑巾に溜まっていく汚れを見るたび、少しずつ胸が晴れていくような気がした。
「ここ、調合台だったんだよね……」
片付けをしながら、ミントは昔を思い出す。
まだ背の届かない高さの台に背伸びして、タイムの横で葉っぱをちぎっていた幼い自分。
『ミント、葉っぱはちぎるときに“ごめんね”って心の中で言うんだよ』
『なんで?』
『その方が、薬草がよく効いてくれる気がするから』
理屈としては、よくわからない。
でも、その優しい言い方が好きだった。
「……ごめんね。今から、ここ、もう一回使わせてね」
調合台を丁寧に拭きながら、ミントは心の中でそう呟く。
夢中で片付けているうちに、外はすっかり夕方の光になっていた。
赤く染まった陽の光が、割れた窓から差し込んで、埃の粒をきらきらと照らす。
「ふー……だいぶマシになったかな」
元がボロなので、劇的な変化とは言えない。
でも、とりあえず座れる椅子と、物を置ける台と、眠れそうなスペースくらいは確保できた。
ミントが腰を伸ばそうとした、そのとき。
ぎし、と、いつもと違う音がした。
「……ん?」
棚の下に踏み込んだ足の感触が、妙に軽い。
よく見ると、奥の方の板が少し浮いている。
「なにこれ……隠し床?」
しゃがみこんで板を持ち上げてみると、ぴたりと外れた。
そこには、掌に収まるくらいの古びた木箱が、ひっそりと収まっていた。
心臓が、どくん、と鳴る。
「……タイムおばあちゃん?」
思わず、呼びかけてしまう。
もちろん返事なんてない。
けれど、箱から漂ってくる空気は、不思議とあたたかかった。
木箱には、小さな鍵穴がある。
しかし鍵はついていない。
「鍵……鍵、鍵」
ミントは、慌てて棚や引き出しを探し回る。
薬草用の道具に紛れて、小さな金属の束が出てきた。
錆びた鍵が三つ、輪になっている。
「これ……かな」
一つ目は大きすぎた。
二つ目は形が違う。
三つ目――少し歪んでいるけれど、鍵穴に差した瞬間、ぴったりとはまった感覚が伝わる。
かちゃり。
なんてことのない音。
なのに、ミントの胸はなぜか、息が詰まるほど高鳴っていた。
そっと蓋を開ける。
中には、丁寧に畳まれた紙束と、小さな金属のプレートが入っていた。
「……メモ?」
紙を開くと、そこにはタイムの、見慣れた丸っこい字が並んでいた。
『ミントへ』
それだけで、視界がにじみそうになる。
ミントは慌てて瞬きを繰り返し、続きの文字に目を通した。
『この箱をあける頃、お前はきっと大人になってるんだろうね。
もしかしたら、王都に行ってるかもしれないし、村でのんびり暮らしているかもしれない。
どんなミントでも、私はきっと、すごく自慢だよ』
「……やめてよ、もう」
声に出した瞬間、涙が一粒、ぽとりと紙に落ちた。
慌てて指で拭って、読み進める。
『私は、この村で小さな薬草屋をやってきたけれど、本当はね、“もっとこうしたかったなぁ”っていう夢も、こっそり持ってた。
もっと明るくて、もっと人が出入りしやすくて、もっと若い子たちも気軽に薬を相談できる店』
『でも、おばあちゃんの身体は、もうそんなに長くは動けないみたいだ。
だから、この夢は、お前に渡しておこうと思う』
そこまで読んで、ミントは思わず息を呑んだ。
「……夢、渡すって……なにそれ」
木箱の底には、簡単な線で描かれた設計図が入っていた。
今の小屋をベースに、棚の位置、調合台の向き、窓の大きさまで描いてある。
そこには、手書きでこう記されていた。
『いつか、お前の店を』
たったそれだけの言葉なのに、胸の中心を、ぎゅっと掴まれたみたいだった。
「おばあちゃん……」
ミントは、設計図とメモを胸に抱きしめる。
紙越しに伝わる温度なんて、本当はないのに、妙にあたたかくて、心臓の鼓動と一緒にじんわり広がっていく。
王都で言われ続けた言葉がよみがえる。
『田舎娘のくせに有能ぶって』
『田舎に帰って、雑草と結婚でもなさいな』
それに重なるように、祖母の字が胸の中で響く。
『どんなミントでも、私はきっと、すごく自慢だよ』
ぽろぽろと、涙が止まらなくなった。
王都を追い出された悔しさも、情けなさも、全部混ざって溢れてくる。
でも今は、それを無理に止めなくていい気がした。
しばらく泣いて、ようやく呼吸が落ち着いた頃。
ミントの中に、さっきまでとは違う種類の感情が生まれていることに気づく。
(人の顔色をうかがって、怯えながら働くのは……もう、嫌だ)
ローズ家での自分の姿が頭に浮かぶ。
怒られないように、嫌われないように、ただひたすら「はい」と従うだけの自分。
(今度は、私の手で、私の店を)
祖母の設計図を、そっと広げ直す。
小さな小屋。
窓辺にハーブの鉢。
扉の横には、小さな看板。
紙の上でしか存在しない店なのに、胸の中でそれが、ゆっくりと色づいていく。
「……やってみようかな」
ぽつりと落とした言葉は、思ったよりも軽く口から出た。
「タイム薬草店じゃなくて、今度は――ミントの店」
声に出してみると、妙にこそばゆい。
でも、悪くない。
そのとき、外から「おーい!」という声が飛び込んできた。
「ミント! いるかー?」
聞き慣れたダンデライオンの声だ。
ミントは慌てて涙を拭き、扉まで駆けていく。
「はーい! 今、開けます!」
扉を開けると、ダンデライオンとデイジー、さらに、村長まで立っていた。
村長は背の低い丸い体型で、口ひげをたくわえ、いつもどこか眠そうな目をしている。
でも、この村で一番頼りになる人だ。
「戻ってきたばかりのところ悪いね、ミントちゃん」
「村長さん……!」
「ダンデから聞いたよ。タイムの小屋に泊まるって」
村長は、小屋の中をちらりと覗き、「ふむ」とうなずいた。
「まだ修理は必要だが、ここなら十分住める。……で、だ」
「はい?」
「お前、この小屋をどうするつもりだ?」
率直な問いに、ミントは一瞬言葉を詰まらせる。
でも、胸の中にさっき生まれた火を思い出し、そのまま口に乗せた。
「……お店に、したいです」
ダンデライオンとデイジーが、目を丸くする。
村長も少しだけ眉を上げ、「ほう」と呟いた。
「薬草屋か?」
「はい。おばあちゃんみたいな……いえ、もっと、いろんな人が来やすいお店に。
村の人も、隣の村の人も、気軽に相談できるような。
王都では……上手くいかなかったけど。ここなら、私の歩幅でやっていける気がして」
自分でも、こんなに言葉が出るとは思わなかった。
胸の内側に溜め込んでいた想いが、一気にあふれ出したみたいだ。
村長は、しばらく無言でミントを見つめていた。
その視線は厳しいものではなく、懐かしいものを確かめるような目だった。
「タイムの店はな、この村の誇りだった」
ぽつりと、村長が言う。
「王都に行くって聞いたときは、寂しかったが……“タイムの孫なら、どこでもやっていけるだろう”って、みんなで噂してたんだ」
「……そう、なんですか」
「タイムがいなくなってから、この村には“薬草をちゃんと診てくれる人”がいなくなった。
薬草そのものは採れる。簡単な回復薬も、隣町に行けば買える。
だが、“人を見て薬を出す”奴は、そうそういない」
村長は一歩近づき、ミントの肩を軽く叩いた。
「お前がその小屋で店をやるって言うなら、村として応援しようじゃないか。
許可が必要なら、書類だって手伝う。必要な材木くらい、村の連中で何とかしてやる」
「そ、そんな……そこまでしてもらうような……!」
「何言ってるのよ」
デイジーが、腰に手を当てて口を挟む。
「私の腰痛も、ダンデの肩こりも、タイムばあさんにどれだけ助けられたと思ってるの。
今度はミントが、その続きをやってくれるんでしょ? だったら、うちらが手伝うのは当たり前よ」
「ミントちゃん、俺の畑からも薬草用の種、分けてやるからよ。前みたいに、“この草は腰に効く”“これは寝つきにいい”とか教えてくれよな」
畳みかけるような言葉に、ミントは胸がじんわりと熱くなった。
こんなふうに“必要とされる”感覚を、王都で味わったことがあっただろうか。
「……ありがとうございます。私、がんばります」
頭を下げると、三人は満足そうに笑った。
「じゃあ、決まりだな。ミントの店、再開準備開始だ」
「店の名前はどうするの? タイム薬草店のまま?」
デイジーの問いに、ミントは一瞬黙り込む。
“タイム薬草店”――それは、祖母の店の名前。
その看板をそのまま掲げることもできる。
でも、木箱の中の設計図に書かれていた文字が、頭に浮かぶ。
『いつか、お前の店を』
「……私の、店」
口の中で転がしながら、ミントは小屋の外の空を見上げた。
夕暮れの空は、淡いオレンジと群青が混ざり合って、どこか寂しくて、どこか希望の色をしている。
「じゃあね――」
その夜。
片付いたとは言い難いけれど、とりあえず寝られるスペースを作り、古い布を重ねて即席のベッドにする。
外はすっかり暗くなり、窓の外で虫の声が鳴いている。
ミントは祖母の形見のマグカップを取り出し、持ってきたハーブを入れてお湯を注いだ。
湯気と一緒に立ち上る香りは、レモンとミントが混ざったような、すっきりした匂い。
それを少しずつ口に含みながら、ミントは一枚の紙を取り出す。
ランプの小さな灯りの下、真っ白な紙にペン先を乗せる。
(店の名前。
タイムじゃなくて、私の……)
少し悩んで、ひとつ言葉を思い浮かべる。
薬草の葉や花は、誰かの心や身体の“余白”に、そっとメモを書くみたいな存在だ。
飲んでもらうことで、少し楽になってほしい。
痛みが全部消えなくても、「大丈夫」って書き込んであげたい。
(だったら――)
ペンが、ゆっくりと紙の上を滑る。
《薬草店グリーンノート》
拙い字。
少し曲がっているし、線も震えている。
でも、その文字が紙の上に浮かび上がった瞬間、ミントの胸の奥が、ふっと軽くなった。
「……うん。これで、いいや」
声に出すと、少し照れくさい。
でも、同時に、たしかな“始まり”の感覚があった。
田舎娘。
追放された元使用人。
誰の後ろ盾もない、ちっぽけな薬草オタク。
――そんな肩書きの全部の上に、新しい名前をそっと重ねる。
薬草店グリーンノート、店主ミント・フェンネル。
マグカップを握る手に、少しだけ力が入る。
窓の外で、風がツタを揺らす音がした。
「明日から、忙しくなるといいな」
独り言みたいに呟いて、ミントはランプの火を落とした。
暗闇の中でも、胸の中の小さな灯りだけは、消えずにぽうっと光っている気がした。
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