田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛

タマ マコト

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第3話「森で拾った謎の青年サフラン」

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 その日、森はいつもより近くに感じた。

 夜のあいだに降った雨の名残りが、まだそこかしこに残っている。
 枝から枝へ、小さな水滴が跳ねる音。
 土がふやけて柔らかくなった匂い。
 少しだけひんやりした空気が、頬を撫でていく。

「……うん、こういう日は、いい薬草が採れそう」

 ミントは、肩から下げた籠を抱え直しながら、森の奥へと足を踏み入れた。

 改装途中の小屋は、今のところ“過労死寸前の廃墟”から、“ギリギリ人権ある住処”くらいには進化している。
 村の人たちの手伝いもあって、床は張り替えの目処が立ち、棚も何段か新調できた。

 けれど、いくら形が整っても、中身がなければ“薬草店”にはなれない。

 ――薬草がほしい。
 ここでしか採れない葉っぱや花を、ずらっと並べたい。
 祖母の店とは違う、私だけの配合を考えたい。

「よし、今日はしっかり働こう」

 そう自分に気合いを入れて、ミントは足元に生えている葉をひとつずつ確認していく。

 雨上がりの森は、世界ごと薄いヴェールをかけられたみたいだった。
 木々のあいだから差し込む光が靄に溶けて、すべてが柔らかく滲んで見える。

 薬草たちは、水滴を宝石みたいにまとって、いつもよりちょっとだけ誇らしげだ。

「お、これは……」

 ふと目にとまったのは、淡い紫色の小さな花。
 葉の形と茎の節の付き方からして、《ラベンダミア》だ。

 鎮静作用と、軽い痛み止めの効果を持つ。
 乾燥させてティーにしても良し、軟膏に練り込んでも良し。
 祖母のお気に入りのひとつだった。

「こんなに群生してたんだ……雨のおかげかな」

 ミントはしゃがみ込むと、「ごめんね、少し分けてね」と心の中で呟きながら、花のついた部分だけを丁寧に摘んでいく。

 濡れた土が膝に触れて、ひやりとした感触が伝わる。
 指先に残る花の匂いは、少し甘くて、少し青い。

 ――と、そのとき。

 森の奥、茂みの向こうから、かすかな音がした。

「……ん?」

 枝が軋む音とは違う。
 獣の鳴き声とも違う。

 低く、押し殺したような、うめき声。

 ぞわっと、背筋に冷たいものが走る。

(誰か、いる? 怪我人? それとも、魔物……?)

 この森は、村の人たちが入るにはそこまで危険な場所じゃない。
 けれど、それは“人の足が届く範囲”の話だ。

 ミントが今いるのは、村の人たちが滅多に来ない、少し奥まったエリア。
 薬草が豊富な代わりに、見慣れない獣や魔物が出る可能性もある。

 喉がひゅ、と細く鳴った。

「……だいじょうぶ。私、薬草採りの子ども時代ここで鍛えられてるから」

 自分で自分を励ますみたいに、小さく呟く。
 腰に下げた小さなナイフの柄に手を添えて、音のする方へ慎重に足を進めた。

 茂みの葉がしっとりと濡れていて、肩や腕に触れるたび、冷たい水滴が服に染み込む。
 泥に少しだけ足を取られながら、そっと枝をかき分ける。

「……っ」

 肺の奥がぎゅっと縮まる。

 そこにいたのは、獣でも魔物でもなく――人だった。

 若い男が、うつ伏せに倒れている。
 肩から腰にかけて、何かの戦闘装備らしい鎧の一部を身にまとっているけれど、泥と血で汚れていて、元の色がわからない。

 左腕には、深く抉れたような傷。
 さらにその周囲には、焼け焦げたような痕が広がっている。

 ただの切り傷じゃない。
 魔法か、魔物の攻撃を受けたときの、あの独特の焦げ方だ。

「……っ、はぁ……ぁ……」

 男はかすかに息をしている。
 時々、喉の奥で低いうめき声が漏れて、そのたび肩がかすかに揺れた。

 ミントの心臓が、大きく跳ねる。

(生きてる。まだ生きてる――!)

 怖さよりも先に、身体が動いた。

「ちょっと、聞こえますか!? 大丈夫じゃないですよね、全然!」

 自分でも意味不明なことを言いながら、ミントは男のそばに膝をつく。
 泥と血でべったりになった服に構わず、左腕の状態を確認する。

 深い切り傷。
 焦げた痕。
 熱を持った皮膚。

 傷口から見える筋肉は、一部が黒く変色している。
 これを放っておけば、感染と壊死で、腕そのものがダメになる。

 それどころか、全身に毒が回って命が危ない。

「っ、まだ……間に合う。……間に合わせる」

 ミントは、自分に言い聞かせるように呟く。

 肩から下げた籠の中には、いつもの“お守りセット”が入っている。
 祖母直伝の万能膏薬と、ミント自身が王都で試行錯誤して作った、“冷却と再生”を組み合わせた軟膏。

 膏薬は、炎症を抑え、傷の深部への浸食を一時的に止めてくれる。
 軟膏は、焼けた組織の熱を奪い、細胞の再生を促す。

 単体でも十分効くけれど――組み合わせて使えば、きっと。

(やるしかない)

「ごめん、ちょっとのあいだ、すごく痛いと思うけど……死ぬよりマシだから、我慢して」

 ミントは男の顔を覗き込む。
 長い前髪に隠れていて、表情はよくわからない。
 けれど、その睫毛は微かに震え、唇の端がぴくりと動いた。

「……だ、いじょ……ぶだ。……やれ」

 掠れた声。
 それだけで、この人が“まだ戦う意思を持っている”ことが伝わってくる。

「じゃあ、遠慮なく」

 ミントは呼吸を整え、一気に処置に取りかかった。

 まず、傷口周辺の泥と血を、持ってきた清浄液で洗い流す。
 しみ込んだ汚れを拭い取るたびに、男の喉から低いうめき声が漏れた。

「っ、が……っ」

「ごめん、ごめん……でも、ここをきれいにしないと、後で本当に大変なことになるから」

 手の震えを押さえ込むように、ミントは指先に力を込める。

 次に、祖母の万能膏薬をまず薄く塗りこむ。
 これは、傷の奥の奥まで染み込んで、炎症を鎮める。

 そして、その上から、自分の作った“冷却と再生”の軟膏を重ねる。
 ひんやりした軟膏が、じわりと熱を吸い取っていくのが、手のひら越しにわかる。

「……ちゃんと効いて。頼むから」

 心の中で、何度も何度も願う。

 男の呼吸は、最初のうちは荒く乱れていたが、少しずつ落ち着いてきた。
 握りしめられていた右手の指も、ほんの僅かに力が抜ける。

「……お前」

 ぼそり、と低い声が落ちた。

「こんな森の中で、これほどの処置が……できる人間がいるとはな」

「え? あ、えっと……ありがとうございます?」

 褒め言葉として受け取っていいのかわからず、ミントは苦笑いで返す。

「本当は、もっとちゃんとした場所で処置したかったんですけど。ここでできるかなりギリギリのことを、やりました」

「充分だ……助かった」

 男はそう言って、目を閉じた。
 失神したわけではなく、少しだけ力を抜いている感じだ。

 とはいえ、このまま森の真ん中に寝かせておくわけにはいかない。

「……よし、運ぶか」

 ミントは、男の体格をあらためて見下ろす。

 近くで見ると、想像以上に大きい。
 肩幅も広く、筋肉もたっぷりついていそうだ。
 鎧の一部が残っているせいで、さらに重そうに見える。

「おっも……」

 一瞬で弱音が漏れた。

「せめて、鎧は外させてもらおうかな……!」

 簡単に外せそうなパーツを見つけて、ガチャガチャと外していく。
 装飾が少ない実用的な鎧で、ところどころに傷や焦げ跡が残っている。

(……傭兵? それとも、どこかの騎士団?)

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 でも、今は身元を詮索している場合じゃない。
 生きてる今のうちに、安全なところへ運ぶ方が先だ。

「よし……!」

 ミントは深呼吸をひとつして、男の腕を自分の肩に回す。
 腰を落として体重を支え、半分引きずるようにして立ち上がった。

 全身に、どっと重みがのしかかる。

「……うわーお……なかなかの……重量感……!」

 それでも、歩き出す。

 一歩一歩、足元を確かめるように。
 森の土はぬかるんでいて、何度かすべりそうになる。

 そのたびに、ミントは歯を食いしばりながらバランスを取り直した。

「落としたら……処置、全部やり直しだからね……? 私の腕の問題じゃないからね……?」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、足は止めない。

 やがて、樹々が少し開けて、村へ戻る道が見えてきた。

 ちょうどそこに、薪を運んでいた村の青年が通りかかる。

「ミント! って、え、それ何!?」

「ちょうどいいところに! 怪我人、拾いました! うちの小屋まで、手、貸して!」

「ひ、人を拾うなよ森で!? ……って言ってる場合じゃないな、わかった!」

 二人がかりで担ぐと、さっきよりだいぶ楽になった。
 男はうっすらと意識を保ちつつも、黙って運ばれるに任せている。

 ――こうして、謎の青年は、ミントの小屋へと転がり込んだ。

      ◇

 祖母タイムの小屋は、まだ「店」というにはほど遠いが、簡単な手当てをするスペースくらいは確保できている。

 ミントは青年を簡易ベッドに寝かせ、改めて全身の状態を確認した。

「……腕以外にも、ところどころ打撲はあるけど、致命傷はなさそう。よかった……」

 ひとまず安心して、ミントは濡れた服を脱がせ、代わりに用意していた古いシャツを着せてやることにした。

 途中で、ふと、男の上半身が目に入って、ミントは固まる。

(なにこの、無駄にいい身体……)

 鍛えられた筋肉が、無駄なくついている。
 ただの力任せな体つきじゃなくて、“動ける”身体だ。

 しっかりした胸板、引き締まった腹筋。
 ところどころに、古い傷痕が走っている。

「……はい、ミント。落ち着こう? 医療行為だから。これは医療行為」

 自分で自分にツッコミを入れながら、そっとシャツをかぶせる。

 そのとき、男が目を開けた。

 金色と琥珀色の間みたいな、不思議な色の瞳。
 視線が正面からぶつかって、ミントは思わず固まる。

「……っ」

「あ、あのっ! 今のは、その、違うんです、変な意味じゃなくて、処置の一環で!」

「……何の話だ」

 男は、まだかすれた声で、少しだけ口角を上げた。

「俺は、腕が焼けてること以外、何も気にしてないが」

「よかった……! えっと、とりあえず仰向けで寝ててください。熱もまだ高いし」

「助かった。恩に着る」

 男は素直に目を閉じる。
 その従順さに、ミントの方が戸惑ってしまう。

「えっと……名前、聞いてもいいですか?」

 しばしの沈黙。
 やがて、ぽつりと返事が落ちる。

「サフラン」

「サフラン、さん」

「苗字は、今は伏せさせてもらう」

 きっぱりと言われて、逆に怪しさが増した。

 けれど、その声には敵意も高圧さもなく、ただ“自分の事情は簡単には語れない”という硬さだけがあった。

(追われてる? 危ない仕事? ……でも、少なくとも今は“患者さん”だ)

「わかりました。じゃあ、サフランさん。ここは私の小屋なので、今日はここで寝ていってください」

「迷惑をかける」

「そう思うなら、ちゃんと水飲んで、薬も飲んで、早く治ってください。それが一番、迷惑が軽くなります」

「……了解した」

 サフランは短く笑って、それから本当に眠りに落ちたようだった。

 ミントはその間に、解熱と鎮痛のハーブティーを用意し、腕の包帯をもう一度確認する。

 軟膏を塗った部分の熱は、さっきより明らかに下がっていた。
 炎症の赤みも、少しだけ引いている。

「……効いてる。ちゃんと、効いてる」

 自分の作った軟膏が役に立っているのを、この目で見るのは久しぶりだった。

 王都では、薬草係の仕事は山ほどやったけれど、“私の配合”はほとんど使わせてもらえなかった。
 リスクがどうとか、前例がどうとか、身分がどうとか――そういう壁ばかりだった。

(ここなら、試せるんだ。
 私が“いいと思う配合”を、ちゃんと人の役に立てられる)

 胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。

「……よし。今日は看病モードだ」

 ミントは夜通し、サフランの様子を見守った。

 ときどき水を飲ませ、額の汗を拭き、うなされれば声をかける。

 サフランは高熱にうなされながら、時々短い言葉を漏らした。

「……殿下……」
「……間に合え……」
「……俺が……」

 細切れの断片だけでは、何があったのかまではわからない。
 でも、そのひとつひとつに、必死さと責任感のようなものが滲んでいた。

(この人、誰かを守ろうとして、こんなになるまで戦ってたんだ)

 そう思うと、「怪しい人だから関わらない方がいい」なんて発想は、どこか遠くへ飛んでいった。

 気づけば、窓の外が白んでいる。

 鳥のさえずりが、森の向こうから聞こえ始めた頃。
 サフランの額の熱は、すっかり下がっていた。

      ◇

「……ん」

 朝の光が、小屋の中に差し込み始めたタイミングで、サフランはゆっくりと目を開けた。

 ミントは椅子の上で背中を丸め、半分机に突っ伏すような姿勢で眠ってしまっている。

 床には、夜通し取り替えられた水の桶と、使い終わった布。
 机の上には、メモだらけのノートと、ハーブの束。

 サフランはしばらく天井を見つめてから、ふと、自分の左腕に意識を向ける。

(……軽い?)

 驚いたように、ゆっくりと指を動かしてみる。
 ちゃんと動く。
 痛みはまったくないとは言えないが、昨日の地獄みたいな焼ける痛みからすれば、信じられないほど軽い。

 上体を起こして、包帯を少しだけめくる。
 そこにあったのは、すでに薄らいだ赤みと、ふやけかけていた皮膚が新しいものに置き換わりつつある痕。

 昨日のあの状態から、一晩でここまで――。

「……嘘、だろ」

 思わず、低く呟いていた。

 自分でも驚くほどの回復力。
 でも、体調のおかしな“誤魔化し感”はない。
 正しく、丁寧に治癒が進んだとしか思えない。

 視線を、小さく丸まって寝ているミントへと向ける。

 茶色の髪が少しだけ乱れて頬にかかり、寝息に合わせてわずかに揺れている。
 顔は子どもっぽいわけじゃないのに、眠っているときだけ不思議と年下に見える。

 それでも、その手には、薬草の匂いと、この一晩の努力の痕跡がしっかり残っていた。

「……森の中で、こんなレベルの処置をしてくるとはな」

 サフランは、小さく笑う。

 王都の宮廷薬師団でさえ、焼灼された傷をここまで綺麗に処置できる者は限られている。
 それを、田舎の小屋で、ろくな設備もない環境で――。

(あの噂は、本物だったか)

 “田舎に、異常に腕のいい薬師がいる”――
 出発前に耳にした、半分笑い話みたいな噂を思い出す。

「……ほんとに、来てみるもんだな」

 そのとき、ミントがもぞ、と動いた。

「……うぅ……ラベンダミアは乾かしすぎると香りが飛ぶから……もうちょっと低温で……」

「寝言が仕事熱心だな」

「……へ? あ、え?」

 はっと目を開けたミントは、一瞬状況が飲み込めない様子でぱちぱち瞬きをし――
 サフランと目が合った瞬間、椅子からずるっと半分落ちかけた。

「うわっ?! きゃっ……!」

「おい」

「い、痛っ……」

 見事に尻もちをついたミントに、サフランは少しだけ顔をほころばせる。

「おはようだ、薬師殿」

「おはようございます、じゃないです! いきなり起き上がるからびっくりして……」

「悪い。こっちも、まさかこんなに軽くなっているとは思わなかった」

 そう言って、サフランは包帯の上から軽く腕を回してみせる。

「ほとんど違和感がない」

「……え?」

 ミントは、ころん、と起き上がってサフランに近づくと、半ば食いつくように腕を掴んだ。

「痛みは? 熱は? 痺れは? 重さは?」

「質問が多い」

「――ごめんなさい。あの、正直に言うと、ここまで早く治ってるの、私も想定外で……」

 包帯をそっとめくって、中の傷を確認する。
 ミントの目が、みるみるうちに丸くなった。

「……うそ。え、ちょっと待って。ここまで、皮膚の再生進む?」

 自分で自分の仕事に驚いているらしい。

「私の配合、ここまで再生を早めるようには、組んでないんだけど……まさか、森で採ったラベンダミアが思ったより上質だったとか……」

「落ち着け」

「今度、配合率もう少し下げてみようかな。でもこの治りの早さ自体はありがたいし、患者さん的にはプラス要素で……」

「おい、薬師殿」

 サフランが声を重ねると、ミントは「はっ」と我に返る。

「あっ、ごめんなさい。つい、研究モードになってました」

「見ればわかる」

 呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声音だった。

 ミントは改めてサフランの顔を見た。
 ちゃんと意識がはっきりしていて、顔色も悪くない。
 昨夜は青白く歪んでいた表情が、今は落ち着いている。

「本当に、よかった……」

 思わず本音が漏れた。
 あの傷を見たとき、一瞬“このまま腕を失うかもしれない”と覚悟したのだ。

「助けてくれて、ありがとう」

 サフランは、はっきりとした声で言った。

「命の恩人だ。礼は、必ずする」

「礼とかいいですよ。というか、礼なんて期待してませんし」

「そういうわけにもいかない」

 サフランは、すっと目を細めた。

「俺には俺の……立場ってものがある」

 その言葉に、ミントは少しだけ首をかしげる。

「やっぱり、ただの通りすがりの人じゃないんですね?」

「森の奥で瀕死になるような“ただの人”で済むなら、どれだけ楽だったか、とは思う」

 冗談めかした言い方だけれど、その奥には、少しだけ苦いものが混じっていた。

 ミントはそれ以上深掘りしないことにする。
 聞いたところで、今この人が“話せる状態”には見えない。
 何より、今はまだ患者だ。

「とりあえず、今日は安静にしててください。動き回ったら、せっかくいい感じに治りかけてるのに、また傷口開きますから」

「残念だが、そうもいかない」

 サフランは、未練たらしくベッドを見下ろしながらも、上体を起こし、足を床につけた。

「ここまで動けるなら、戻らないといけない場所がある」

「戻らないといけない場所……」

 王都。
 騎士団。
 宮廷。
 そんな単語が、なんとなく頭に浮かぶ。

「無茶しないでくださいね。完全に治ったわけじゃないんですから」

「無茶はしない。……つもりだ」

 微妙に不安になる言い回しだ。

 ミントは腕を組んで、サフランをじっと見た。

「じゃあ、せめて、今日一日はここにいてください。午前中だけでも。今無理したら、明日動けなくなります」

「……」

「医者に“安静”って言われたときにちゃんと休める人だけが、次も元気でいられるんです。これは経験則です」

 ミントの真剣な視線に、サフランは少しだけ肩をすくめた。

「……そこまで言うなら、午前中だけは従おう」

「やった」

 ほっとして、ミントは笑顔を見せる。

「その代わり、落ち着いたらここを出る。その点は譲れない」

「はい。引き留める気はないです。ここ、宿屋でもないですし」

 そう言いながらも、胸のどこかが少しだけ寂しくなった。

 森で拾った謎の青年。
 腕の傷を診て、夜通し看病して、少しだけ話して。
 それでさよなら、っていうのは、あまりにも“通りすがり”だ。

(でも、こういう出会いもあるよね。
 人を助けるって、そういうことなのかもしれないし)

 ミントは、自分にそう言い聞かせながら、サフラン用の朝食の準備を始める。

 パンと、昨夜のスープの残りと、消化にいいハーブティー。
 小屋の中に、湯気と一緒に香りが広がる。

「……いい匂いだな」

「でしょ。これは胃に優しいブレンドなんです。戦った後とか、緊張が続いたあとに飲むと落ち着きますよ」

「戦った後、ね」

 サフランは、その言葉を反芻するように呟いてから、静かにハーブティーを口にした。

 少しだけ目を丸くして、それからゆっくりと喉を鳴らす。

「……うまい」

「よかった」

 短い会話。
 けれど、そのたびに、少しずつ互いの距離が縮まっていく気がした。

      ◇

 午前中いっぱい、小屋の中は不思議な静けさに満ちていた。

 ミントは棚の整理をしたり、新しい軟膏の配合をメモしたり。
 サフランはベッドの上で静かに休みながら、本当に最低限の質問だけいくつか投げてきた。

「この村に、どれくらいいるつもりだ?」

「たぶん、ずっと。ここで薬草店をやる予定なので」

「そうか」

「サフランさんは? いつもは王都の方?」

「そうだな。仕事場は、だいたいあっちだ」

 それ以上は語らない。
 でも、妙に“貴族的な育ち”の匂いはしない。
 礼儀はしっかりしているが、言葉遣いは現場に浸かった人間のものだ。

(……やっぱり、騎士団か、宮廷付きの何か、かなぁ)

 昼前。
 サフランはベッドから静かに降りると、きちんとミントの方を向いて頭を下げた。

「世話になった、ミント」

「いえ。本当に、無茶はしないでくださいね」

「一つだけ、約束しておく」

 サフランの声が、少しだけ真剣味を増す。

「近いうち、必ずまた来る。礼を持って、正式に」

「……え?」

「ここは――」

 サフランは小屋の中をぐるりと見渡す。

 まだ未完成な棚。
 薬草の束。
 祖母の残した古い看板と、新しく書いた紙切れ。

《薬草店グリーンノート》

 その文字に、彼の視線が止まる。

「ここは、俺にとっても“覚えておくべき場所”だ。だから、また来る」

 意味ありげな言い方に、ミントはきょとんとする。

「……お客さんとして、ですか?」

「さて、どうだろうな」

 サフランは口元だけで笑った。

 外に出ると、森の方から柔らかい風が吹いてきた。
 サフランは一度だけ振り返り、ミントに手を上げる。

「じゃあな、田舎の天才薬師」

「だ、誰が天才ですか! 田舎は否定しませんけど!」

 抗議の声は、サフランの背中に軽く届いて、風に紛れていった。

 その背中が森の向こうへ消えるまで、ミントはしばらくその場に立ち尽くしていた。

「……変な人」

 ぽつりと呟く。
 でも、その言葉には、どこか柔らかい響きが混じっていた。

 森の匂いと、薬草の匂いと、ハーブティーの残り香。
 全部が混ざり合ったこの小屋に、今日、新しい記憶がひとつ増えた。

(近いうちに、必ずまた来る、か)

 思い出して、少しだけ頬が緩む。

「だったら、そのときに“すごい店になってた”って驚かせてやろう」

 ミントはそう心に決めて、改装中の棚へと向き直った。

 森で拾った謎の青年サフラン。
 その存在が、この小さな薬草店グリーンノートの運命を、大きく揺らしていくことになるとは――
 このときのミントは、まだ知らない。
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