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第3話「森で拾った謎の青年サフラン」
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その日、森はいつもより近くに感じた。
夜のあいだに降った雨の名残りが、まだそこかしこに残っている。
枝から枝へ、小さな水滴が跳ねる音。
土がふやけて柔らかくなった匂い。
少しだけひんやりした空気が、頬を撫でていく。
「……うん、こういう日は、いい薬草が採れそう」
ミントは、肩から下げた籠を抱え直しながら、森の奥へと足を踏み入れた。
改装途中の小屋は、今のところ“過労死寸前の廃墟”から、“ギリギリ人権ある住処”くらいには進化している。
村の人たちの手伝いもあって、床は張り替えの目処が立ち、棚も何段か新調できた。
けれど、いくら形が整っても、中身がなければ“薬草店”にはなれない。
――薬草がほしい。
ここでしか採れない葉っぱや花を、ずらっと並べたい。
祖母の店とは違う、私だけの配合を考えたい。
「よし、今日はしっかり働こう」
そう自分に気合いを入れて、ミントは足元に生えている葉をひとつずつ確認していく。
雨上がりの森は、世界ごと薄いヴェールをかけられたみたいだった。
木々のあいだから差し込む光が靄に溶けて、すべてが柔らかく滲んで見える。
薬草たちは、水滴を宝石みたいにまとって、いつもよりちょっとだけ誇らしげだ。
「お、これは……」
ふと目にとまったのは、淡い紫色の小さな花。
葉の形と茎の節の付き方からして、《ラベンダミア》だ。
鎮静作用と、軽い痛み止めの効果を持つ。
乾燥させてティーにしても良し、軟膏に練り込んでも良し。
祖母のお気に入りのひとつだった。
「こんなに群生してたんだ……雨のおかげかな」
ミントはしゃがみ込むと、「ごめんね、少し分けてね」と心の中で呟きながら、花のついた部分だけを丁寧に摘んでいく。
濡れた土が膝に触れて、ひやりとした感触が伝わる。
指先に残る花の匂いは、少し甘くて、少し青い。
――と、そのとき。
森の奥、茂みの向こうから、かすかな音がした。
「……ん?」
枝が軋む音とは違う。
獣の鳴き声とも違う。
低く、押し殺したような、うめき声。
ぞわっと、背筋に冷たいものが走る。
(誰か、いる? 怪我人? それとも、魔物……?)
この森は、村の人たちが入るにはそこまで危険な場所じゃない。
けれど、それは“人の足が届く範囲”の話だ。
ミントが今いるのは、村の人たちが滅多に来ない、少し奥まったエリア。
薬草が豊富な代わりに、見慣れない獣や魔物が出る可能性もある。
喉がひゅ、と細く鳴った。
「……だいじょうぶ。私、薬草採りの子ども時代ここで鍛えられてるから」
自分で自分を励ますみたいに、小さく呟く。
腰に下げた小さなナイフの柄に手を添えて、音のする方へ慎重に足を進めた。
茂みの葉がしっとりと濡れていて、肩や腕に触れるたび、冷たい水滴が服に染み込む。
泥に少しだけ足を取られながら、そっと枝をかき分ける。
「……っ」
肺の奥がぎゅっと縮まる。
そこにいたのは、獣でも魔物でもなく――人だった。
若い男が、うつ伏せに倒れている。
肩から腰にかけて、何かの戦闘装備らしい鎧の一部を身にまとっているけれど、泥と血で汚れていて、元の色がわからない。
左腕には、深く抉れたような傷。
さらにその周囲には、焼け焦げたような痕が広がっている。
ただの切り傷じゃない。
魔法か、魔物の攻撃を受けたときの、あの独特の焦げ方だ。
「……っ、はぁ……ぁ……」
男はかすかに息をしている。
時々、喉の奥で低いうめき声が漏れて、そのたび肩がかすかに揺れた。
ミントの心臓が、大きく跳ねる。
(生きてる。まだ生きてる――!)
怖さよりも先に、身体が動いた。
「ちょっと、聞こえますか!? 大丈夫じゃないですよね、全然!」
自分でも意味不明なことを言いながら、ミントは男のそばに膝をつく。
泥と血でべったりになった服に構わず、左腕の状態を確認する。
深い切り傷。
焦げた痕。
熱を持った皮膚。
傷口から見える筋肉は、一部が黒く変色している。
これを放っておけば、感染と壊死で、腕そのものがダメになる。
それどころか、全身に毒が回って命が危ない。
「っ、まだ……間に合う。……間に合わせる」
ミントは、自分に言い聞かせるように呟く。
肩から下げた籠の中には、いつもの“お守りセット”が入っている。
祖母直伝の万能膏薬と、ミント自身が王都で試行錯誤して作った、“冷却と再生”を組み合わせた軟膏。
膏薬は、炎症を抑え、傷の深部への浸食を一時的に止めてくれる。
軟膏は、焼けた組織の熱を奪い、細胞の再生を促す。
単体でも十分効くけれど――組み合わせて使えば、きっと。
(やるしかない)
「ごめん、ちょっとのあいだ、すごく痛いと思うけど……死ぬよりマシだから、我慢して」
ミントは男の顔を覗き込む。
長い前髪に隠れていて、表情はよくわからない。
けれど、その睫毛は微かに震え、唇の端がぴくりと動いた。
「……だ、いじょ……ぶだ。……やれ」
掠れた声。
それだけで、この人が“まだ戦う意思を持っている”ことが伝わってくる。
「じゃあ、遠慮なく」
ミントは呼吸を整え、一気に処置に取りかかった。
まず、傷口周辺の泥と血を、持ってきた清浄液で洗い流す。
しみ込んだ汚れを拭い取るたびに、男の喉から低いうめき声が漏れた。
「っ、が……っ」
「ごめん、ごめん……でも、ここをきれいにしないと、後で本当に大変なことになるから」
手の震えを押さえ込むように、ミントは指先に力を込める。
次に、祖母の万能膏薬をまず薄く塗りこむ。
これは、傷の奥の奥まで染み込んで、炎症を鎮める。
そして、その上から、自分の作った“冷却と再生”の軟膏を重ねる。
ひんやりした軟膏が、じわりと熱を吸い取っていくのが、手のひら越しにわかる。
「……ちゃんと効いて。頼むから」
心の中で、何度も何度も願う。
男の呼吸は、最初のうちは荒く乱れていたが、少しずつ落ち着いてきた。
握りしめられていた右手の指も、ほんの僅かに力が抜ける。
「……お前」
ぼそり、と低い声が落ちた。
「こんな森の中で、これほどの処置が……できる人間がいるとはな」
「え? あ、えっと……ありがとうございます?」
褒め言葉として受け取っていいのかわからず、ミントは苦笑いで返す。
「本当は、もっとちゃんとした場所で処置したかったんですけど。ここでできるかなりギリギリのことを、やりました」
「充分だ……助かった」
男はそう言って、目を閉じた。
失神したわけではなく、少しだけ力を抜いている感じだ。
とはいえ、このまま森の真ん中に寝かせておくわけにはいかない。
「……よし、運ぶか」
ミントは、男の体格をあらためて見下ろす。
近くで見ると、想像以上に大きい。
肩幅も広く、筋肉もたっぷりついていそうだ。
鎧の一部が残っているせいで、さらに重そうに見える。
「おっも……」
一瞬で弱音が漏れた。
「せめて、鎧は外させてもらおうかな……!」
簡単に外せそうなパーツを見つけて、ガチャガチャと外していく。
装飾が少ない実用的な鎧で、ところどころに傷や焦げ跡が残っている。
(……傭兵? それとも、どこかの騎士団?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
でも、今は身元を詮索している場合じゃない。
生きてる今のうちに、安全なところへ運ぶ方が先だ。
「よし……!」
ミントは深呼吸をひとつして、男の腕を自分の肩に回す。
腰を落として体重を支え、半分引きずるようにして立ち上がった。
全身に、どっと重みがのしかかる。
「……うわーお……なかなかの……重量感……!」
それでも、歩き出す。
一歩一歩、足元を確かめるように。
森の土はぬかるんでいて、何度かすべりそうになる。
そのたびに、ミントは歯を食いしばりながらバランスを取り直した。
「落としたら……処置、全部やり直しだからね……? 私の腕の問題じゃないからね……?」
ぶつぶつ文句を言いながらも、足は止めない。
やがて、樹々が少し開けて、村へ戻る道が見えてきた。
ちょうどそこに、薪を運んでいた村の青年が通りかかる。
「ミント! って、え、それ何!?」
「ちょうどいいところに! 怪我人、拾いました! うちの小屋まで、手、貸して!」
「ひ、人を拾うなよ森で!? ……って言ってる場合じゃないな、わかった!」
二人がかりで担ぐと、さっきよりだいぶ楽になった。
男はうっすらと意識を保ちつつも、黙って運ばれるに任せている。
――こうして、謎の青年は、ミントの小屋へと転がり込んだ。
◇
祖母タイムの小屋は、まだ「店」というにはほど遠いが、簡単な手当てをするスペースくらいは確保できている。
ミントは青年を簡易ベッドに寝かせ、改めて全身の状態を確認した。
「……腕以外にも、ところどころ打撲はあるけど、致命傷はなさそう。よかった……」
ひとまず安心して、ミントは濡れた服を脱がせ、代わりに用意していた古いシャツを着せてやることにした。
途中で、ふと、男の上半身が目に入って、ミントは固まる。
(なにこの、無駄にいい身体……)
鍛えられた筋肉が、無駄なくついている。
ただの力任せな体つきじゃなくて、“動ける”身体だ。
しっかりした胸板、引き締まった腹筋。
ところどころに、古い傷痕が走っている。
「……はい、ミント。落ち着こう? 医療行為だから。これは医療行為」
自分で自分にツッコミを入れながら、そっとシャツをかぶせる。
そのとき、男が目を開けた。
金色と琥珀色の間みたいな、不思議な色の瞳。
視線が正面からぶつかって、ミントは思わず固まる。
「……っ」
「あ、あのっ! 今のは、その、違うんです、変な意味じゃなくて、処置の一環で!」
「……何の話だ」
男は、まだかすれた声で、少しだけ口角を上げた。
「俺は、腕が焼けてること以外、何も気にしてないが」
「よかった……! えっと、とりあえず仰向けで寝ててください。熱もまだ高いし」
「助かった。恩に着る」
男は素直に目を閉じる。
その従順さに、ミントの方が戸惑ってしまう。
「えっと……名前、聞いてもいいですか?」
しばしの沈黙。
やがて、ぽつりと返事が落ちる。
「サフラン」
「サフラン、さん」
「苗字は、今は伏せさせてもらう」
きっぱりと言われて、逆に怪しさが増した。
けれど、その声には敵意も高圧さもなく、ただ“自分の事情は簡単には語れない”という硬さだけがあった。
(追われてる? 危ない仕事? ……でも、少なくとも今は“患者さん”だ)
「わかりました。じゃあ、サフランさん。ここは私の小屋なので、今日はここで寝ていってください」
「迷惑をかける」
「そう思うなら、ちゃんと水飲んで、薬も飲んで、早く治ってください。それが一番、迷惑が軽くなります」
「……了解した」
サフランは短く笑って、それから本当に眠りに落ちたようだった。
ミントはその間に、解熱と鎮痛のハーブティーを用意し、腕の包帯をもう一度確認する。
軟膏を塗った部分の熱は、さっきより明らかに下がっていた。
炎症の赤みも、少しだけ引いている。
「……効いてる。ちゃんと、効いてる」
自分の作った軟膏が役に立っているのを、この目で見るのは久しぶりだった。
王都では、薬草係の仕事は山ほどやったけれど、“私の配合”はほとんど使わせてもらえなかった。
リスクがどうとか、前例がどうとか、身分がどうとか――そういう壁ばかりだった。
(ここなら、試せるんだ。
私が“いいと思う配合”を、ちゃんと人の役に立てられる)
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「……よし。今日は看病モードだ」
ミントは夜通し、サフランの様子を見守った。
ときどき水を飲ませ、額の汗を拭き、うなされれば声をかける。
サフランは高熱にうなされながら、時々短い言葉を漏らした。
「……殿下……」
「……間に合え……」
「……俺が……」
細切れの断片だけでは、何があったのかまではわからない。
でも、そのひとつひとつに、必死さと責任感のようなものが滲んでいた。
(この人、誰かを守ろうとして、こんなになるまで戦ってたんだ)
そう思うと、「怪しい人だから関わらない方がいい」なんて発想は、どこか遠くへ飛んでいった。
気づけば、窓の外が白んでいる。
鳥のさえずりが、森の向こうから聞こえ始めた頃。
サフランの額の熱は、すっかり下がっていた。
◇
「……ん」
朝の光が、小屋の中に差し込み始めたタイミングで、サフランはゆっくりと目を開けた。
ミントは椅子の上で背中を丸め、半分机に突っ伏すような姿勢で眠ってしまっている。
床には、夜通し取り替えられた水の桶と、使い終わった布。
机の上には、メモだらけのノートと、ハーブの束。
サフランはしばらく天井を見つめてから、ふと、自分の左腕に意識を向ける。
(……軽い?)
驚いたように、ゆっくりと指を動かしてみる。
ちゃんと動く。
痛みはまったくないとは言えないが、昨日の地獄みたいな焼ける痛みからすれば、信じられないほど軽い。
上体を起こして、包帯を少しだけめくる。
そこにあったのは、すでに薄らいだ赤みと、ふやけかけていた皮膚が新しいものに置き換わりつつある痕。
昨日のあの状態から、一晩でここまで――。
「……嘘、だろ」
思わず、低く呟いていた。
自分でも驚くほどの回復力。
でも、体調のおかしな“誤魔化し感”はない。
正しく、丁寧に治癒が進んだとしか思えない。
視線を、小さく丸まって寝ているミントへと向ける。
茶色の髪が少しだけ乱れて頬にかかり、寝息に合わせてわずかに揺れている。
顔は子どもっぽいわけじゃないのに、眠っているときだけ不思議と年下に見える。
それでも、その手には、薬草の匂いと、この一晩の努力の痕跡がしっかり残っていた。
「……森の中で、こんなレベルの処置をしてくるとはな」
サフランは、小さく笑う。
王都の宮廷薬師団でさえ、焼灼された傷をここまで綺麗に処置できる者は限られている。
それを、田舎の小屋で、ろくな設備もない環境で――。
(あの噂は、本物だったか)
“田舎に、異常に腕のいい薬師がいる”――
出発前に耳にした、半分笑い話みたいな噂を思い出す。
「……ほんとに、来てみるもんだな」
そのとき、ミントがもぞ、と動いた。
「……うぅ……ラベンダミアは乾かしすぎると香りが飛ぶから……もうちょっと低温で……」
「寝言が仕事熱心だな」
「……へ? あ、え?」
はっと目を開けたミントは、一瞬状況が飲み込めない様子でぱちぱち瞬きをし――
サフランと目が合った瞬間、椅子からずるっと半分落ちかけた。
「うわっ?! きゃっ……!」
「おい」
「い、痛っ……」
見事に尻もちをついたミントに、サフランは少しだけ顔をほころばせる。
「おはようだ、薬師殿」
「おはようございます、じゃないです! いきなり起き上がるからびっくりして……」
「悪い。こっちも、まさかこんなに軽くなっているとは思わなかった」
そう言って、サフランは包帯の上から軽く腕を回してみせる。
「ほとんど違和感がない」
「……え?」
ミントは、ころん、と起き上がってサフランに近づくと、半ば食いつくように腕を掴んだ。
「痛みは? 熱は? 痺れは? 重さは?」
「質問が多い」
「――ごめんなさい。あの、正直に言うと、ここまで早く治ってるの、私も想定外で……」
包帯をそっとめくって、中の傷を確認する。
ミントの目が、みるみるうちに丸くなった。
「……うそ。え、ちょっと待って。ここまで、皮膚の再生進む?」
自分で自分の仕事に驚いているらしい。
「私の配合、ここまで再生を早めるようには、組んでないんだけど……まさか、森で採ったラベンダミアが思ったより上質だったとか……」
「落ち着け」
「今度、配合率もう少し下げてみようかな。でもこの治りの早さ自体はありがたいし、患者さん的にはプラス要素で……」
「おい、薬師殿」
サフランが声を重ねると、ミントは「はっ」と我に返る。
「あっ、ごめんなさい。つい、研究モードになってました」
「見ればわかる」
呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声音だった。
ミントは改めてサフランの顔を見た。
ちゃんと意識がはっきりしていて、顔色も悪くない。
昨夜は青白く歪んでいた表情が、今は落ち着いている。
「本当に、よかった……」
思わず本音が漏れた。
あの傷を見たとき、一瞬“このまま腕を失うかもしれない”と覚悟したのだ。
「助けてくれて、ありがとう」
サフランは、はっきりとした声で言った。
「命の恩人だ。礼は、必ずする」
「礼とかいいですよ。というか、礼なんて期待してませんし」
「そういうわけにもいかない」
サフランは、すっと目を細めた。
「俺には俺の……立場ってものがある」
その言葉に、ミントは少しだけ首をかしげる。
「やっぱり、ただの通りすがりの人じゃないんですね?」
「森の奥で瀕死になるような“ただの人”で済むなら、どれだけ楽だったか、とは思う」
冗談めかした言い方だけれど、その奥には、少しだけ苦いものが混じっていた。
ミントはそれ以上深掘りしないことにする。
聞いたところで、今この人が“話せる状態”には見えない。
何より、今はまだ患者だ。
「とりあえず、今日は安静にしててください。動き回ったら、せっかくいい感じに治りかけてるのに、また傷口開きますから」
「残念だが、そうもいかない」
サフランは、未練たらしくベッドを見下ろしながらも、上体を起こし、足を床につけた。
「ここまで動けるなら、戻らないといけない場所がある」
「戻らないといけない場所……」
王都。
騎士団。
宮廷。
そんな単語が、なんとなく頭に浮かぶ。
「無茶しないでくださいね。完全に治ったわけじゃないんですから」
「無茶はしない。……つもりだ」
微妙に不安になる言い回しだ。
ミントは腕を組んで、サフランをじっと見た。
「じゃあ、せめて、今日一日はここにいてください。午前中だけでも。今無理したら、明日動けなくなります」
「……」
「医者に“安静”って言われたときにちゃんと休める人だけが、次も元気でいられるんです。これは経験則です」
ミントの真剣な視線に、サフランは少しだけ肩をすくめた。
「……そこまで言うなら、午前中だけは従おう」
「やった」
ほっとして、ミントは笑顔を見せる。
「その代わり、落ち着いたらここを出る。その点は譲れない」
「はい。引き留める気はないです。ここ、宿屋でもないですし」
そう言いながらも、胸のどこかが少しだけ寂しくなった。
森で拾った謎の青年。
腕の傷を診て、夜通し看病して、少しだけ話して。
それでさよなら、っていうのは、あまりにも“通りすがり”だ。
(でも、こういう出会いもあるよね。
人を助けるって、そういうことなのかもしれないし)
ミントは、自分にそう言い聞かせながら、サフラン用の朝食の準備を始める。
パンと、昨夜のスープの残りと、消化にいいハーブティー。
小屋の中に、湯気と一緒に香りが広がる。
「……いい匂いだな」
「でしょ。これは胃に優しいブレンドなんです。戦った後とか、緊張が続いたあとに飲むと落ち着きますよ」
「戦った後、ね」
サフランは、その言葉を反芻するように呟いてから、静かにハーブティーを口にした。
少しだけ目を丸くして、それからゆっくりと喉を鳴らす。
「……うまい」
「よかった」
短い会話。
けれど、そのたびに、少しずつ互いの距離が縮まっていく気がした。
◇
午前中いっぱい、小屋の中は不思議な静けさに満ちていた。
ミントは棚の整理をしたり、新しい軟膏の配合をメモしたり。
サフランはベッドの上で静かに休みながら、本当に最低限の質問だけいくつか投げてきた。
「この村に、どれくらいいるつもりだ?」
「たぶん、ずっと。ここで薬草店をやる予定なので」
「そうか」
「サフランさんは? いつもは王都の方?」
「そうだな。仕事場は、だいたいあっちだ」
それ以上は語らない。
でも、妙に“貴族的な育ち”の匂いはしない。
礼儀はしっかりしているが、言葉遣いは現場に浸かった人間のものだ。
(……やっぱり、騎士団か、宮廷付きの何か、かなぁ)
昼前。
サフランはベッドから静かに降りると、きちんとミントの方を向いて頭を下げた。
「世話になった、ミント」
「いえ。本当に、無茶はしないでくださいね」
「一つだけ、約束しておく」
サフランの声が、少しだけ真剣味を増す。
「近いうち、必ずまた来る。礼を持って、正式に」
「……え?」
「ここは――」
サフランは小屋の中をぐるりと見渡す。
まだ未完成な棚。
薬草の束。
祖母の残した古い看板と、新しく書いた紙切れ。
《薬草店グリーンノート》
その文字に、彼の視線が止まる。
「ここは、俺にとっても“覚えておくべき場所”だ。だから、また来る」
意味ありげな言い方に、ミントはきょとんとする。
「……お客さんとして、ですか?」
「さて、どうだろうな」
サフランは口元だけで笑った。
外に出ると、森の方から柔らかい風が吹いてきた。
サフランは一度だけ振り返り、ミントに手を上げる。
「じゃあな、田舎の天才薬師」
「だ、誰が天才ですか! 田舎は否定しませんけど!」
抗議の声は、サフランの背中に軽く届いて、風に紛れていった。
その背中が森の向こうへ消えるまで、ミントはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……変な人」
ぽつりと呟く。
でも、その言葉には、どこか柔らかい響きが混じっていた。
森の匂いと、薬草の匂いと、ハーブティーの残り香。
全部が混ざり合ったこの小屋に、今日、新しい記憶がひとつ増えた。
(近いうちに、必ずまた来る、か)
思い出して、少しだけ頬が緩む。
「だったら、そのときに“すごい店になってた”って驚かせてやろう」
ミントはそう心に決めて、改装中の棚へと向き直った。
森で拾った謎の青年サフラン。
その存在が、この小さな薬草店グリーンノートの運命を、大きく揺らしていくことになるとは――
このときのミントは、まだ知らない。
夜のあいだに降った雨の名残りが、まだそこかしこに残っている。
枝から枝へ、小さな水滴が跳ねる音。
土がふやけて柔らかくなった匂い。
少しだけひんやりした空気が、頬を撫でていく。
「……うん、こういう日は、いい薬草が採れそう」
ミントは、肩から下げた籠を抱え直しながら、森の奥へと足を踏み入れた。
改装途中の小屋は、今のところ“過労死寸前の廃墟”から、“ギリギリ人権ある住処”くらいには進化している。
村の人たちの手伝いもあって、床は張り替えの目処が立ち、棚も何段か新調できた。
けれど、いくら形が整っても、中身がなければ“薬草店”にはなれない。
――薬草がほしい。
ここでしか採れない葉っぱや花を、ずらっと並べたい。
祖母の店とは違う、私だけの配合を考えたい。
「よし、今日はしっかり働こう」
そう自分に気合いを入れて、ミントは足元に生えている葉をひとつずつ確認していく。
雨上がりの森は、世界ごと薄いヴェールをかけられたみたいだった。
木々のあいだから差し込む光が靄に溶けて、すべてが柔らかく滲んで見える。
薬草たちは、水滴を宝石みたいにまとって、いつもよりちょっとだけ誇らしげだ。
「お、これは……」
ふと目にとまったのは、淡い紫色の小さな花。
葉の形と茎の節の付き方からして、《ラベンダミア》だ。
鎮静作用と、軽い痛み止めの効果を持つ。
乾燥させてティーにしても良し、軟膏に練り込んでも良し。
祖母のお気に入りのひとつだった。
「こんなに群生してたんだ……雨のおかげかな」
ミントはしゃがみ込むと、「ごめんね、少し分けてね」と心の中で呟きながら、花のついた部分だけを丁寧に摘んでいく。
濡れた土が膝に触れて、ひやりとした感触が伝わる。
指先に残る花の匂いは、少し甘くて、少し青い。
――と、そのとき。
森の奥、茂みの向こうから、かすかな音がした。
「……ん?」
枝が軋む音とは違う。
獣の鳴き声とも違う。
低く、押し殺したような、うめき声。
ぞわっと、背筋に冷たいものが走る。
(誰か、いる? 怪我人? それとも、魔物……?)
この森は、村の人たちが入るにはそこまで危険な場所じゃない。
けれど、それは“人の足が届く範囲”の話だ。
ミントが今いるのは、村の人たちが滅多に来ない、少し奥まったエリア。
薬草が豊富な代わりに、見慣れない獣や魔物が出る可能性もある。
喉がひゅ、と細く鳴った。
「……だいじょうぶ。私、薬草採りの子ども時代ここで鍛えられてるから」
自分で自分を励ますみたいに、小さく呟く。
腰に下げた小さなナイフの柄に手を添えて、音のする方へ慎重に足を進めた。
茂みの葉がしっとりと濡れていて、肩や腕に触れるたび、冷たい水滴が服に染み込む。
泥に少しだけ足を取られながら、そっと枝をかき分ける。
「……っ」
肺の奥がぎゅっと縮まる。
そこにいたのは、獣でも魔物でもなく――人だった。
若い男が、うつ伏せに倒れている。
肩から腰にかけて、何かの戦闘装備らしい鎧の一部を身にまとっているけれど、泥と血で汚れていて、元の色がわからない。
左腕には、深く抉れたような傷。
さらにその周囲には、焼け焦げたような痕が広がっている。
ただの切り傷じゃない。
魔法か、魔物の攻撃を受けたときの、あの独特の焦げ方だ。
「……っ、はぁ……ぁ……」
男はかすかに息をしている。
時々、喉の奥で低いうめき声が漏れて、そのたび肩がかすかに揺れた。
ミントの心臓が、大きく跳ねる。
(生きてる。まだ生きてる――!)
怖さよりも先に、身体が動いた。
「ちょっと、聞こえますか!? 大丈夫じゃないですよね、全然!」
自分でも意味不明なことを言いながら、ミントは男のそばに膝をつく。
泥と血でべったりになった服に構わず、左腕の状態を確認する。
深い切り傷。
焦げた痕。
熱を持った皮膚。
傷口から見える筋肉は、一部が黒く変色している。
これを放っておけば、感染と壊死で、腕そのものがダメになる。
それどころか、全身に毒が回って命が危ない。
「っ、まだ……間に合う。……間に合わせる」
ミントは、自分に言い聞かせるように呟く。
肩から下げた籠の中には、いつもの“お守りセット”が入っている。
祖母直伝の万能膏薬と、ミント自身が王都で試行錯誤して作った、“冷却と再生”を組み合わせた軟膏。
膏薬は、炎症を抑え、傷の深部への浸食を一時的に止めてくれる。
軟膏は、焼けた組織の熱を奪い、細胞の再生を促す。
単体でも十分効くけれど――組み合わせて使えば、きっと。
(やるしかない)
「ごめん、ちょっとのあいだ、すごく痛いと思うけど……死ぬよりマシだから、我慢して」
ミントは男の顔を覗き込む。
長い前髪に隠れていて、表情はよくわからない。
けれど、その睫毛は微かに震え、唇の端がぴくりと動いた。
「……だ、いじょ……ぶだ。……やれ」
掠れた声。
それだけで、この人が“まだ戦う意思を持っている”ことが伝わってくる。
「じゃあ、遠慮なく」
ミントは呼吸を整え、一気に処置に取りかかった。
まず、傷口周辺の泥と血を、持ってきた清浄液で洗い流す。
しみ込んだ汚れを拭い取るたびに、男の喉から低いうめき声が漏れた。
「っ、が……っ」
「ごめん、ごめん……でも、ここをきれいにしないと、後で本当に大変なことになるから」
手の震えを押さえ込むように、ミントは指先に力を込める。
次に、祖母の万能膏薬をまず薄く塗りこむ。
これは、傷の奥の奥まで染み込んで、炎症を鎮める。
そして、その上から、自分の作った“冷却と再生”の軟膏を重ねる。
ひんやりした軟膏が、じわりと熱を吸い取っていくのが、手のひら越しにわかる。
「……ちゃんと効いて。頼むから」
心の中で、何度も何度も願う。
男の呼吸は、最初のうちは荒く乱れていたが、少しずつ落ち着いてきた。
握りしめられていた右手の指も、ほんの僅かに力が抜ける。
「……お前」
ぼそり、と低い声が落ちた。
「こんな森の中で、これほどの処置が……できる人間がいるとはな」
「え? あ、えっと……ありがとうございます?」
褒め言葉として受け取っていいのかわからず、ミントは苦笑いで返す。
「本当は、もっとちゃんとした場所で処置したかったんですけど。ここでできるかなりギリギリのことを、やりました」
「充分だ……助かった」
男はそう言って、目を閉じた。
失神したわけではなく、少しだけ力を抜いている感じだ。
とはいえ、このまま森の真ん中に寝かせておくわけにはいかない。
「……よし、運ぶか」
ミントは、男の体格をあらためて見下ろす。
近くで見ると、想像以上に大きい。
肩幅も広く、筋肉もたっぷりついていそうだ。
鎧の一部が残っているせいで、さらに重そうに見える。
「おっも……」
一瞬で弱音が漏れた。
「せめて、鎧は外させてもらおうかな……!」
簡単に外せそうなパーツを見つけて、ガチャガチャと外していく。
装飾が少ない実用的な鎧で、ところどころに傷や焦げ跡が残っている。
(……傭兵? それとも、どこかの騎士団?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
でも、今は身元を詮索している場合じゃない。
生きてる今のうちに、安全なところへ運ぶ方が先だ。
「よし……!」
ミントは深呼吸をひとつして、男の腕を自分の肩に回す。
腰を落として体重を支え、半分引きずるようにして立ち上がった。
全身に、どっと重みがのしかかる。
「……うわーお……なかなかの……重量感……!」
それでも、歩き出す。
一歩一歩、足元を確かめるように。
森の土はぬかるんでいて、何度かすべりそうになる。
そのたびに、ミントは歯を食いしばりながらバランスを取り直した。
「落としたら……処置、全部やり直しだからね……? 私の腕の問題じゃないからね……?」
ぶつぶつ文句を言いながらも、足は止めない。
やがて、樹々が少し開けて、村へ戻る道が見えてきた。
ちょうどそこに、薪を運んでいた村の青年が通りかかる。
「ミント! って、え、それ何!?」
「ちょうどいいところに! 怪我人、拾いました! うちの小屋まで、手、貸して!」
「ひ、人を拾うなよ森で!? ……って言ってる場合じゃないな、わかった!」
二人がかりで担ぐと、さっきよりだいぶ楽になった。
男はうっすらと意識を保ちつつも、黙って運ばれるに任せている。
――こうして、謎の青年は、ミントの小屋へと転がり込んだ。
◇
祖母タイムの小屋は、まだ「店」というにはほど遠いが、簡単な手当てをするスペースくらいは確保できている。
ミントは青年を簡易ベッドに寝かせ、改めて全身の状態を確認した。
「……腕以外にも、ところどころ打撲はあるけど、致命傷はなさそう。よかった……」
ひとまず安心して、ミントは濡れた服を脱がせ、代わりに用意していた古いシャツを着せてやることにした。
途中で、ふと、男の上半身が目に入って、ミントは固まる。
(なにこの、無駄にいい身体……)
鍛えられた筋肉が、無駄なくついている。
ただの力任せな体つきじゃなくて、“動ける”身体だ。
しっかりした胸板、引き締まった腹筋。
ところどころに、古い傷痕が走っている。
「……はい、ミント。落ち着こう? 医療行為だから。これは医療行為」
自分で自分にツッコミを入れながら、そっとシャツをかぶせる。
そのとき、男が目を開けた。
金色と琥珀色の間みたいな、不思議な色の瞳。
視線が正面からぶつかって、ミントは思わず固まる。
「……っ」
「あ、あのっ! 今のは、その、違うんです、変な意味じゃなくて、処置の一環で!」
「……何の話だ」
男は、まだかすれた声で、少しだけ口角を上げた。
「俺は、腕が焼けてること以外、何も気にしてないが」
「よかった……! えっと、とりあえず仰向けで寝ててください。熱もまだ高いし」
「助かった。恩に着る」
男は素直に目を閉じる。
その従順さに、ミントの方が戸惑ってしまう。
「えっと……名前、聞いてもいいですか?」
しばしの沈黙。
やがて、ぽつりと返事が落ちる。
「サフラン」
「サフラン、さん」
「苗字は、今は伏せさせてもらう」
きっぱりと言われて、逆に怪しさが増した。
けれど、その声には敵意も高圧さもなく、ただ“自分の事情は簡単には語れない”という硬さだけがあった。
(追われてる? 危ない仕事? ……でも、少なくとも今は“患者さん”だ)
「わかりました。じゃあ、サフランさん。ここは私の小屋なので、今日はここで寝ていってください」
「迷惑をかける」
「そう思うなら、ちゃんと水飲んで、薬も飲んで、早く治ってください。それが一番、迷惑が軽くなります」
「……了解した」
サフランは短く笑って、それから本当に眠りに落ちたようだった。
ミントはその間に、解熱と鎮痛のハーブティーを用意し、腕の包帯をもう一度確認する。
軟膏を塗った部分の熱は、さっきより明らかに下がっていた。
炎症の赤みも、少しだけ引いている。
「……効いてる。ちゃんと、効いてる」
自分の作った軟膏が役に立っているのを、この目で見るのは久しぶりだった。
王都では、薬草係の仕事は山ほどやったけれど、“私の配合”はほとんど使わせてもらえなかった。
リスクがどうとか、前例がどうとか、身分がどうとか――そういう壁ばかりだった。
(ここなら、試せるんだ。
私が“いいと思う配合”を、ちゃんと人の役に立てられる)
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「……よし。今日は看病モードだ」
ミントは夜通し、サフランの様子を見守った。
ときどき水を飲ませ、額の汗を拭き、うなされれば声をかける。
サフランは高熱にうなされながら、時々短い言葉を漏らした。
「……殿下……」
「……間に合え……」
「……俺が……」
細切れの断片だけでは、何があったのかまではわからない。
でも、そのひとつひとつに、必死さと責任感のようなものが滲んでいた。
(この人、誰かを守ろうとして、こんなになるまで戦ってたんだ)
そう思うと、「怪しい人だから関わらない方がいい」なんて発想は、どこか遠くへ飛んでいった。
気づけば、窓の外が白んでいる。
鳥のさえずりが、森の向こうから聞こえ始めた頃。
サフランの額の熱は、すっかり下がっていた。
◇
「……ん」
朝の光が、小屋の中に差し込み始めたタイミングで、サフランはゆっくりと目を開けた。
ミントは椅子の上で背中を丸め、半分机に突っ伏すような姿勢で眠ってしまっている。
床には、夜通し取り替えられた水の桶と、使い終わった布。
机の上には、メモだらけのノートと、ハーブの束。
サフランはしばらく天井を見つめてから、ふと、自分の左腕に意識を向ける。
(……軽い?)
驚いたように、ゆっくりと指を動かしてみる。
ちゃんと動く。
痛みはまったくないとは言えないが、昨日の地獄みたいな焼ける痛みからすれば、信じられないほど軽い。
上体を起こして、包帯を少しだけめくる。
そこにあったのは、すでに薄らいだ赤みと、ふやけかけていた皮膚が新しいものに置き換わりつつある痕。
昨日のあの状態から、一晩でここまで――。
「……嘘、だろ」
思わず、低く呟いていた。
自分でも驚くほどの回復力。
でも、体調のおかしな“誤魔化し感”はない。
正しく、丁寧に治癒が進んだとしか思えない。
視線を、小さく丸まって寝ているミントへと向ける。
茶色の髪が少しだけ乱れて頬にかかり、寝息に合わせてわずかに揺れている。
顔は子どもっぽいわけじゃないのに、眠っているときだけ不思議と年下に見える。
それでも、その手には、薬草の匂いと、この一晩の努力の痕跡がしっかり残っていた。
「……森の中で、こんなレベルの処置をしてくるとはな」
サフランは、小さく笑う。
王都の宮廷薬師団でさえ、焼灼された傷をここまで綺麗に処置できる者は限られている。
それを、田舎の小屋で、ろくな設備もない環境で――。
(あの噂は、本物だったか)
“田舎に、異常に腕のいい薬師がいる”――
出発前に耳にした、半分笑い話みたいな噂を思い出す。
「……ほんとに、来てみるもんだな」
そのとき、ミントがもぞ、と動いた。
「……うぅ……ラベンダミアは乾かしすぎると香りが飛ぶから……もうちょっと低温で……」
「寝言が仕事熱心だな」
「……へ? あ、え?」
はっと目を開けたミントは、一瞬状況が飲み込めない様子でぱちぱち瞬きをし――
サフランと目が合った瞬間、椅子からずるっと半分落ちかけた。
「うわっ?! きゃっ……!」
「おい」
「い、痛っ……」
見事に尻もちをついたミントに、サフランは少しだけ顔をほころばせる。
「おはようだ、薬師殿」
「おはようございます、じゃないです! いきなり起き上がるからびっくりして……」
「悪い。こっちも、まさかこんなに軽くなっているとは思わなかった」
そう言って、サフランは包帯の上から軽く腕を回してみせる。
「ほとんど違和感がない」
「……え?」
ミントは、ころん、と起き上がってサフランに近づくと、半ば食いつくように腕を掴んだ。
「痛みは? 熱は? 痺れは? 重さは?」
「質問が多い」
「――ごめんなさい。あの、正直に言うと、ここまで早く治ってるの、私も想定外で……」
包帯をそっとめくって、中の傷を確認する。
ミントの目が、みるみるうちに丸くなった。
「……うそ。え、ちょっと待って。ここまで、皮膚の再生進む?」
自分で自分の仕事に驚いているらしい。
「私の配合、ここまで再生を早めるようには、組んでないんだけど……まさか、森で採ったラベンダミアが思ったより上質だったとか……」
「落ち着け」
「今度、配合率もう少し下げてみようかな。でもこの治りの早さ自体はありがたいし、患者さん的にはプラス要素で……」
「おい、薬師殿」
サフランが声を重ねると、ミントは「はっ」と我に返る。
「あっ、ごめんなさい。つい、研究モードになってました」
「見ればわかる」
呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声音だった。
ミントは改めてサフランの顔を見た。
ちゃんと意識がはっきりしていて、顔色も悪くない。
昨夜は青白く歪んでいた表情が、今は落ち着いている。
「本当に、よかった……」
思わず本音が漏れた。
あの傷を見たとき、一瞬“このまま腕を失うかもしれない”と覚悟したのだ。
「助けてくれて、ありがとう」
サフランは、はっきりとした声で言った。
「命の恩人だ。礼は、必ずする」
「礼とかいいですよ。というか、礼なんて期待してませんし」
「そういうわけにもいかない」
サフランは、すっと目を細めた。
「俺には俺の……立場ってものがある」
その言葉に、ミントは少しだけ首をかしげる。
「やっぱり、ただの通りすがりの人じゃないんですね?」
「森の奥で瀕死になるような“ただの人”で済むなら、どれだけ楽だったか、とは思う」
冗談めかした言い方だけれど、その奥には、少しだけ苦いものが混じっていた。
ミントはそれ以上深掘りしないことにする。
聞いたところで、今この人が“話せる状態”には見えない。
何より、今はまだ患者だ。
「とりあえず、今日は安静にしててください。動き回ったら、せっかくいい感じに治りかけてるのに、また傷口開きますから」
「残念だが、そうもいかない」
サフランは、未練たらしくベッドを見下ろしながらも、上体を起こし、足を床につけた。
「ここまで動けるなら、戻らないといけない場所がある」
「戻らないといけない場所……」
王都。
騎士団。
宮廷。
そんな単語が、なんとなく頭に浮かぶ。
「無茶しないでくださいね。完全に治ったわけじゃないんですから」
「無茶はしない。……つもりだ」
微妙に不安になる言い回しだ。
ミントは腕を組んで、サフランをじっと見た。
「じゃあ、せめて、今日一日はここにいてください。午前中だけでも。今無理したら、明日動けなくなります」
「……」
「医者に“安静”って言われたときにちゃんと休める人だけが、次も元気でいられるんです。これは経験則です」
ミントの真剣な視線に、サフランは少しだけ肩をすくめた。
「……そこまで言うなら、午前中だけは従おう」
「やった」
ほっとして、ミントは笑顔を見せる。
「その代わり、落ち着いたらここを出る。その点は譲れない」
「はい。引き留める気はないです。ここ、宿屋でもないですし」
そう言いながらも、胸のどこかが少しだけ寂しくなった。
森で拾った謎の青年。
腕の傷を診て、夜通し看病して、少しだけ話して。
それでさよなら、っていうのは、あまりにも“通りすがり”だ。
(でも、こういう出会いもあるよね。
人を助けるって、そういうことなのかもしれないし)
ミントは、自分にそう言い聞かせながら、サフラン用の朝食の準備を始める。
パンと、昨夜のスープの残りと、消化にいいハーブティー。
小屋の中に、湯気と一緒に香りが広がる。
「……いい匂いだな」
「でしょ。これは胃に優しいブレンドなんです。戦った後とか、緊張が続いたあとに飲むと落ち着きますよ」
「戦った後、ね」
サフランは、その言葉を反芻するように呟いてから、静かにハーブティーを口にした。
少しだけ目を丸くして、それからゆっくりと喉を鳴らす。
「……うまい」
「よかった」
短い会話。
けれど、そのたびに、少しずつ互いの距離が縮まっていく気がした。
◇
午前中いっぱい、小屋の中は不思議な静けさに満ちていた。
ミントは棚の整理をしたり、新しい軟膏の配合をメモしたり。
サフランはベッドの上で静かに休みながら、本当に最低限の質問だけいくつか投げてきた。
「この村に、どれくらいいるつもりだ?」
「たぶん、ずっと。ここで薬草店をやる予定なので」
「そうか」
「サフランさんは? いつもは王都の方?」
「そうだな。仕事場は、だいたいあっちだ」
それ以上は語らない。
でも、妙に“貴族的な育ち”の匂いはしない。
礼儀はしっかりしているが、言葉遣いは現場に浸かった人間のものだ。
(……やっぱり、騎士団か、宮廷付きの何か、かなぁ)
昼前。
サフランはベッドから静かに降りると、きちんとミントの方を向いて頭を下げた。
「世話になった、ミント」
「いえ。本当に、無茶はしないでくださいね」
「一つだけ、約束しておく」
サフランの声が、少しだけ真剣味を増す。
「近いうち、必ずまた来る。礼を持って、正式に」
「……え?」
「ここは――」
サフランは小屋の中をぐるりと見渡す。
まだ未完成な棚。
薬草の束。
祖母の残した古い看板と、新しく書いた紙切れ。
《薬草店グリーンノート》
その文字に、彼の視線が止まる。
「ここは、俺にとっても“覚えておくべき場所”だ。だから、また来る」
意味ありげな言い方に、ミントはきょとんとする。
「……お客さんとして、ですか?」
「さて、どうだろうな」
サフランは口元だけで笑った。
外に出ると、森の方から柔らかい風が吹いてきた。
サフランは一度だけ振り返り、ミントに手を上げる。
「じゃあな、田舎の天才薬師」
「だ、誰が天才ですか! 田舎は否定しませんけど!」
抗議の声は、サフランの背中に軽く届いて、風に紛れていった。
その背中が森の向こうへ消えるまで、ミントはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……変な人」
ぽつりと呟く。
でも、その言葉には、どこか柔らかい響きが混じっていた。
森の匂いと、薬草の匂いと、ハーブティーの残り香。
全部が混ざり合ったこの小屋に、今日、新しい記憶がひとつ増えた。
(近いうちに、必ずまた来る、か)
思い出して、少しだけ頬が緩む。
「だったら、そのときに“すごい店になってた”って驚かせてやろう」
ミントはそう心に決めて、改装中の棚へと向き直った。
森で拾った謎の青年サフラン。
その存在が、この小さな薬草店グリーンノートの運命を、大きく揺らしていくことになるとは――
このときのミントは、まだ知らない。
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