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第6話「王都に届いた、田舎娘の噂」
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王都は、今日もいつも通り忙しそうだった。
石畳を馬車が行き交い、露店の呼び込みの声が飛び、貴族たちの乗る馬車が衛兵に道を開けさせる。
遠くには、王城と魔導塔が、青い空を背に白くそびえている。
その喧騒の中で、ひっそりと、しかし確実に広がっていく噂があった。
「お前、聞いたか?」
「どれだよ、王都は噂だらけだろ」
「田舎の方に、“異常に治りの早い薬を使う薬師”がいるって話だ。
この前帰ってきた遠征隊が言ってた」
「またそういう与太話かよ。田舎の“奇跡の治癒師様”とか、“森の精霊様”とか」
「いや、今回はちょっと違うらしい。実際に腕をやられた奴がいてな。
普通なら一か月はかかる傷が、一晩で動かせるところまで持ち直したって」
「は? それ毒じゃねえのか? 後からドーンと死ぬタイプの」
「俺もそう思ったんだが、今もそいつ、ピンピンしてる」
そんな会話が交わされているのは、王立騎士団の詰め所だった。
武具の擦れる音、訓練場の掛け声。
その合間合間に、「田舎の村」「薬草店」「小娘」という単語が、まるで雑草みたいにひょこひょこ顔を出す。
噂は、兵士たちの口から口へ、酒場から酒場へと伝わり、やがて「王都の医師より効くらしいぞ」という尾ひれまでつき始めた。
◇
噂は、騎士団だけにとどまらない。
「最近、妙な症例が増えていると聞いたが」
王城内、宮廷薬師団の研究室。
高い天井と、ずらりと並んだ棚。
ガラス瓶に詰められた薬草、蒸留器、魔力計測用の器具。
その一角で、白衣姿の薬師たちがひそひそと話していた。
「妙な、というと?」
「“どの治療も中途半端にしか効かなかった怪我が、田舎から戻ってきた途端に綺麗に治りかかっている”という症例だ。
しかも、全部似たような軟膏を使っているらしい」
「その軟膏が、例の“田舎薬師”のものだと?」
「確証はないが、関連性は高いな。
まだ王都では登録されていない処方だ。成分も、細かく検査したいところだが……」
「持ち込んだ兵士たち、“もったいないから嫌だ”って言ってほとんど渡してくれないんだよな」
若い薬師が、げんなりした顔で机に突っ伏す。
「正直すぎるな……」
「だって、“高い金出して買ったんですよこれ!”って。
“試験で使って無くなるくらいなら、自分の怪我に使います!”って」
「……まあ、言いたいことはわからんでもない」
宮廷薬師たちは、どこか悔しそうにそんなやりとりを交わしていた。
「王都の薬師より田舎の軟膏を優先されるとはね……」
「名誉にかけて一度は中身を解析したいところだが。
しかし、“人の話をちゃんと聞いて、生活のことまで指導してくれる”って噂もあるぞ」
「何それ。
薬師というより半分くらい“人生相談所”じゃないか」
肩をすくめながらも、どこか楽しそうだ。
彼らは、まだ知らない。
その“人生相談所”みたいな薬草店の主人が、かつて王都の名門に「田舎娘」と切り捨てられた元使用人であることを。
◇
一方その頃――噂の発信源のひとりである男は、王城へ戻ってきていた。
「サフラン殿、おかえりなさいませ」
城門をくぐると、門番が一段丁寧な敬礼をする。
サフラン・ノックスは軽く頷き返し、城内へと足を進めた。
灰色の石畳。
磨き上げられた柱。
すれ違う侍女や文官たちが、一様に視線を向けてくる。
田舎で見せていた“森で拾われた怪我人”の顔は跡形もなく、今のサフランは完全に“宮廷の人間”の顔だ。
歩き慣れた廊下を抜け、いつもの扉の前で足を止める。
軽くノックすると、中から落ち着いた声がした。
「入っていいよ」
「失礼します」
扉を開けて入ると、そこは王太子の私室だった。
大きな窓から光が差し込み、壁には地図や書類が整然と並んでいる。
豪奢だが、無駄にきらびやかではない。
実務に重きを置いた部屋だ。
その窓辺の椅子に、淡い金髪の青年が座っていた。
王太子セージ・アルバード。
この国の次代を担う存在であり、サフランの“主”でもある。
「おかえり、サフラン」
セージは本から顔を上げ、柔らかな微笑みを浮かべた。
「長距離の護衛任務、お疲れさま。左腕の具合は?」
「おかげさまで、問題なく」
サフランは左腕を軽く回してみせる。
傷の痕は、もうほとんど外からはわからない。
「報告書は、あとで正式に提出しますが……優先して、お伝えしたいことがありまして」
「“田舎の村で拾われた”件だね?」
セージは、すでにいくつかの報告を受けているらしく、目を細めた。
「噂は聞いてるよ。“森で倒れていたサフランを助けた田舎の若い薬師”の話」
「噂になるの、早くないですか、この城」
「兵士たちの口は、思ってるより軽いからね」
セージは肩を竦めるが、目の奥は真剣だ。
「で? その“田舎の若い薬師”は、本当にそんなに凄かった?」
一瞬の沈黙。
サフランは、迷いなく頷いた。
「……はい。
正直に申し上げて、俺の知る宮廷薬師の大半より、“現場で人を救う力”は上だと感じました」
「そこまで?」
「左腕のあの状態から、一晩でここまで回復させる処置は――王都でも、ごく限られた人間しかできません。
しかも、森の真ん中、ろくな道具も設備もない状態でです」
サフランは、森での光景を思い出す。
冷たい雨上がりの空気。
焦げた肉の匂い。
その中で、震える手を必死に押さえ込みながらも、確かな手つきで処置をしてくれた少女。
不器用な笑顔と、薬草の匂い。
「彼女は、タイムという薬師の孫娘です。
“田舎の伝説”扱いされていた薬師をご存じでしょうか?」
「ああ。昔、父上が話していた。“王都に連れて来たかったが、断られてしまった薬師がいる”ってね」
セージは軽く顎に指を当てた。
「その人の孫娘か。
名前は?」
「ミント・フェンネル。
見た目は、本当にどこにでもいる田舎娘です。
でも――」
サフランは、一度言葉を切る。
「薬草を見る目と、“人を見る目”が、尋常じゃない」
「“人を見る目”?」
「はい。
彼女は、薬を出す前に、まず話を聞くんです。
仕事、生活、食べているもの、何が一番困っているのか。
それから、“その人が現実的に続けられる範囲”で、薬と生活の改善をセットで提案する」
「……なんだか、うちの宮廷薬師団には耳が痛い話だね」
セージは苦笑する。
「理論や最新の処方には詳しいけれど、患者の顔をまともに見ない者も少なくないから」
「ええ。
彼女は、理論書なんてほとんど持っていないはずです。
でも、“人の体を触ってきた手”の感覚が、恐ろしく正確だ」
サフランは、祖母タイムの言葉が貼られた紙を思い出す。
『薬は“人”に合わせるもの』
その一文に、全てが凝縮されているように思えた。
「……公式な報告書には載せられませんので、ここでだけ申し上げます」
サフランは姿勢を正す。
「田舎の小さな村に、タイムという伝説級薬師の孫娘がいます。
そして、祖母を超えるかもしれない、“次の世代の薬師”としての素質があります」
「“祖母を超える”かもしれない、か」
セージはゆっくりと繰り返し、窓の外へ視線を向けた。
庭園の木々が、風に揺れている。
「彼女自身は、王都に来る気があるのかな?」
「今のところは、なさそうです。
“田舎の小さな薬草店が好きです”と、本人は言っていました」
「じゃあ、無理に引っ張ってきちゃ駄目だね」
セージはあっさりと言う。
「彼女の生き方を無視して“宮廷に来い”と言っても、きっといい結果にはならない。
タイム殿がそうだったように」
父王が昔惜しんでいた薬師。
“王都には来たくない”と、静かに断った田舎の女性。
彼女の孫娘もまた、自分の場所を選んだのだ。
「でも、興味はあるな」
セージはふっと笑った。
「いつか、その薬師に会ってみたい。
王太子としてじゃなく、一人の“弱い人間”として」
「弱い人間、ですか?」
「僕だって、怪我をするかもしれないし、病気になるかもしれない。
そのとき、“王太子殿下”じゃなく、“ひとりの患者”として、彼女がどう接するのか見てみたい」
サフランは、少し目を見開いたあと、防ぎようのない納得を覚えた。
(ああ、この人だから、俺は側に仕えているんだろうな)
王太子としての義務ではなく、一人の人間としての興味。
それをちゃんと切り分けて語る主。
「そのときまで、彼女には田舎で好きなようにやってもらおう。
王都が勝手に噂して、勝手に彼女の名前を覚えていくさ」
「……噂は、すでに始まっております」
サフランは、どこかおかしそうに口角を上げた。
「“田舎の奇跡薬師”と呼ばれているようです」
「奇跡、ねぇ」
セージは、肩を揺らして笑う。
「人が積み重ねた努力の果てを、すぐ“奇跡”って呼びたがるのは、この国の悪い癖だね」
「同感です」
それでも、ほんの少し誇らしかった。
ミントが、“奇跡”なんて安っぽい言葉で片付けられないくらい、真面目にやっていることを、サフランは知っている。
その日の会話は、それで終わった。
けれど、このやりとりが、王太子セージの記憶の片隅に強く残ることになる。
――後に、命綱のような形で。
◇
一方その頃。
王都の華やかな一角、ローズ家のサロンでも、別の形で噂が届いていた。
「ねぇ、聞いた? 最近、田舎の方で“奇跡の薬師”がいるんですって」
「ああ、聞いたわ。何でも、“王都の薬より効く”とか」
「やだ、王都の薬師たちの立場、ないじゃない」
涼しい顔をした貴族令嬢たちが、紅茶を片手に笑い合う。
その輪の中心に、ローズマリー・ローズは座っていた。
完璧に整えられたピンクブロンド。
流行のドレス。
ナイフのように研ぎ澄まされた微笑み。
「ふふ。田舎の噂話なんて、どうせ盛られてるに決まってますわ」
ローズマリーは、カップを優雅に傾けながら言う。
「田舎の人たちって、“ちょっと立派なことができる人”を見るとすぐに“奇跡”とか“伝説”とか言い出すんですもの」
「そうですわね。田舎ですものね」
取り巻きの令嬢たちが、同調するように笑う。
そのとき。
「でも、その“奇跡の薬師”、タイムさんの孫娘なんですってよ?」
何気なく発せられた言葉が、空気を変えた。
ローズマリーの笑みが、一瞬で固まる。
「……タイム?」
「ほら、昔話に出てくるじゃありませんか。“王都に呼ばれたけど田舎に残った薬師”の話。
その人の孫娘だって」
「へぇ……」
ローズマリーは、カップをソーサーにそっと戻した。
動作は優雅なのに、その指先には微かな力がこもっている。
「名前は?」
「ええと、たしか……ミント。ミント・フェンネルとか」
ミント。
フェンネル。
聞き慣れすぎて、吐き出したくなるほどの名前。
「まぁ。偶然って、あるものですわね」
ローズマリーは、作り笑いを浮かべる。
「うちにも以前、“ミント”という名前の子が働いていましたの。
田舎育ちで、薬草がそこそこ扱えて……少し生意気な子でしたけど」
「まぁ! もしかして、その子が?」
「まさか」
ローズマリーは笑った。
だが、その笑顔の奥には、黒く濁った感情が渦巻いている。
「うちの屋敷から追い出されたような“田舎娘”が、“王都の薬より効く”だなんて、笑い話にもなりませんわ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、チクリとするものが走った。
(“田舎娘”が、“王都の薬より効く”……?)
取り巻きの令嬢たちは、話題を変えようとしている。
けれど、ローズマリーの耳には、さっきの名前だけが何度もこだましていた。
ミント・フェンネル。
タイムの孫娘。
田舎の村。
奇跡の薬師。
パズルのピースが、嫌な形で組み合わさっていく。
「……本当に、偶然かしら?」
サロンが散会し、自室に戻ったローズマリーは、笑みを消した。
鏡台の前に座り、自分の顔をじっと見つめる。
完璧にメイクされた顔。
誰もが羨む容姿。
王都でも名の知れたローズ家の令嬢。
――なのに、その自分より。
「“あの田舎娘”の名前の方が、今は王都の兵士たちの口にのぼっている、ってわけ?」
思わず、口から本音がこぼれた。
胸の奥が、じりじりと焼けるように熱い。
(許せない)
指先が、ドレスの膝のあたりの布をぎゅっと握りしめる。
(どうして?
どうして“田舎娘のミント”なんかが、私より注目されてるの?)
自分の名は、王都でそこそこ知られている。
ローズ家の令嬢として。
社交界の華として。
“貴族にも薬草の知識がある”という、話題性のある存在として。
でも、それはあくまで“ローズ家の看板”込みの評価だ。
(あの子は、今、“ミント・フェンネル”として名前が出ている)
ローズ家の庇護も、看板もないところで。
ただ、腕だけで、名前が広がっている。
「ふざけないで」
鏡の中の自分に向かって、ローズマリーは吐き出した。
「追放された田舎娘が、私より上に行くなんて、許せるわけがないじゃない」
あの日、夜会の失敗の責任を全部押し付けたときに、自分は完全に“勝った”つもりでいた。
ミントは追放され、王都から消えた。
田舎に帰って、二度と戻ってこない。
そう信じていた。
(それが今では、“田舎の奇跡薬師”?)
唇を噛む。
嫉妬。
悔しさ。
焦り。
様々な感情が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、黒い泥になっていく。
「潰してやる」
小さく、しかしはっきりと、その言葉が口から落ちた。
「今度こそ、“立ち上がれない”ところまで」
ローズマリーは、鏡台の引き出しから一枚の紙を取り出す。
そこには、かつてミントが書いていた薬草メモの一部が写されていた。
彼女が王都に来る前に、タイムの小屋で使っていたらしい配合の断片。
それを勝手に写し取り、「参考」と称して自分のノートに移しておいたものだ。
占有欲と支配欲。
そして、今は“奪いたい”という欲望。
「田舎の小さな店なんて、所詮は遊び。
王都で認められてこそ、本物なのよ」
ローズマリーは、黒く濁った瞳で紙を見下ろした。
その視線は、まだ遠く離れた田舎の薬草店にまで届かない。
――けれど、確かに、そこに向かって歩み始めていた。
王都に届いた、田舎娘の噂。
それは、興味と期待と嫉妬をまといながら、静かに大きな渦を作ろうとしていた。
石畳を馬車が行き交い、露店の呼び込みの声が飛び、貴族たちの乗る馬車が衛兵に道を開けさせる。
遠くには、王城と魔導塔が、青い空を背に白くそびえている。
その喧騒の中で、ひっそりと、しかし確実に広がっていく噂があった。
「お前、聞いたか?」
「どれだよ、王都は噂だらけだろ」
「田舎の方に、“異常に治りの早い薬を使う薬師”がいるって話だ。
この前帰ってきた遠征隊が言ってた」
「またそういう与太話かよ。田舎の“奇跡の治癒師様”とか、“森の精霊様”とか」
「いや、今回はちょっと違うらしい。実際に腕をやられた奴がいてな。
普通なら一か月はかかる傷が、一晩で動かせるところまで持ち直したって」
「は? それ毒じゃねえのか? 後からドーンと死ぬタイプの」
「俺もそう思ったんだが、今もそいつ、ピンピンしてる」
そんな会話が交わされているのは、王立騎士団の詰め所だった。
武具の擦れる音、訓練場の掛け声。
その合間合間に、「田舎の村」「薬草店」「小娘」という単語が、まるで雑草みたいにひょこひょこ顔を出す。
噂は、兵士たちの口から口へ、酒場から酒場へと伝わり、やがて「王都の医師より効くらしいぞ」という尾ひれまでつき始めた。
◇
噂は、騎士団だけにとどまらない。
「最近、妙な症例が増えていると聞いたが」
王城内、宮廷薬師団の研究室。
高い天井と、ずらりと並んだ棚。
ガラス瓶に詰められた薬草、蒸留器、魔力計測用の器具。
その一角で、白衣姿の薬師たちがひそひそと話していた。
「妙な、というと?」
「“どの治療も中途半端にしか効かなかった怪我が、田舎から戻ってきた途端に綺麗に治りかかっている”という症例だ。
しかも、全部似たような軟膏を使っているらしい」
「その軟膏が、例の“田舎薬師”のものだと?」
「確証はないが、関連性は高いな。
まだ王都では登録されていない処方だ。成分も、細かく検査したいところだが……」
「持ち込んだ兵士たち、“もったいないから嫌だ”って言ってほとんど渡してくれないんだよな」
若い薬師が、げんなりした顔で机に突っ伏す。
「正直すぎるな……」
「だって、“高い金出して買ったんですよこれ!”って。
“試験で使って無くなるくらいなら、自分の怪我に使います!”って」
「……まあ、言いたいことはわからんでもない」
宮廷薬師たちは、どこか悔しそうにそんなやりとりを交わしていた。
「王都の薬師より田舎の軟膏を優先されるとはね……」
「名誉にかけて一度は中身を解析したいところだが。
しかし、“人の話をちゃんと聞いて、生活のことまで指導してくれる”って噂もあるぞ」
「何それ。
薬師というより半分くらい“人生相談所”じゃないか」
肩をすくめながらも、どこか楽しそうだ。
彼らは、まだ知らない。
その“人生相談所”みたいな薬草店の主人が、かつて王都の名門に「田舎娘」と切り捨てられた元使用人であることを。
◇
一方その頃――噂の発信源のひとりである男は、王城へ戻ってきていた。
「サフラン殿、おかえりなさいませ」
城門をくぐると、門番が一段丁寧な敬礼をする。
サフラン・ノックスは軽く頷き返し、城内へと足を進めた。
灰色の石畳。
磨き上げられた柱。
すれ違う侍女や文官たちが、一様に視線を向けてくる。
田舎で見せていた“森で拾われた怪我人”の顔は跡形もなく、今のサフランは完全に“宮廷の人間”の顔だ。
歩き慣れた廊下を抜け、いつもの扉の前で足を止める。
軽くノックすると、中から落ち着いた声がした。
「入っていいよ」
「失礼します」
扉を開けて入ると、そこは王太子の私室だった。
大きな窓から光が差し込み、壁には地図や書類が整然と並んでいる。
豪奢だが、無駄にきらびやかではない。
実務に重きを置いた部屋だ。
その窓辺の椅子に、淡い金髪の青年が座っていた。
王太子セージ・アルバード。
この国の次代を担う存在であり、サフランの“主”でもある。
「おかえり、サフラン」
セージは本から顔を上げ、柔らかな微笑みを浮かべた。
「長距離の護衛任務、お疲れさま。左腕の具合は?」
「おかげさまで、問題なく」
サフランは左腕を軽く回してみせる。
傷の痕は、もうほとんど外からはわからない。
「報告書は、あとで正式に提出しますが……優先して、お伝えしたいことがありまして」
「“田舎の村で拾われた”件だね?」
セージは、すでにいくつかの報告を受けているらしく、目を細めた。
「噂は聞いてるよ。“森で倒れていたサフランを助けた田舎の若い薬師”の話」
「噂になるの、早くないですか、この城」
「兵士たちの口は、思ってるより軽いからね」
セージは肩を竦めるが、目の奥は真剣だ。
「で? その“田舎の若い薬師”は、本当にそんなに凄かった?」
一瞬の沈黙。
サフランは、迷いなく頷いた。
「……はい。
正直に申し上げて、俺の知る宮廷薬師の大半より、“現場で人を救う力”は上だと感じました」
「そこまで?」
「左腕のあの状態から、一晩でここまで回復させる処置は――王都でも、ごく限られた人間しかできません。
しかも、森の真ん中、ろくな道具も設備もない状態でです」
サフランは、森での光景を思い出す。
冷たい雨上がりの空気。
焦げた肉の匂い。
その中で、震える手を必死に押さえ込みながらも、確かな手つきで処置をしてくれた少女。
不器用な笑顔と、薬草の匂い。
「彼女は、タイムという薬師の孫娘です。
“田舎の伝説”扱いされていた薬師をご存じでしょうか?」
「ああ。昔、父上が話していた。“王都に連れて来たかったが、断られてしまった薬師がいる”ってね」
セージは軽く顎に指を当てた。
「その人の孫娘か。
名前は?」
「ミント・フェンネル。
見た目は、本当にどこにでもいる田舎娘です。
でも――」
サフランは、一度言葉を切る。
「薬草を見る目と、“人を見る目”が、尋常じゃない」
「“人を見る目”?」
「はい。
彼女は、薬を出す前に、まず話を聞くんです。
仕事、生活、食べているもの、何が一番困っているのか。
それから、“その人が現実的に続けられる範囲”で、薬と生活の改善をセットで提案する」
「……なんだか、うちの宮廷薬師団には耳が痛い話だね」
セージは苦笑する。
「理論や最新の処方には詳しいけれど、患者の顔をまともに見ない者も少なくないから」
「ええ。
彼女は、理論書なんてほとんど持っていないはずです。
でも、“人の体を触ってきた手”の感覚が、恐ろしく正確だ」
サフランは、祖母タイムの言葉が貼られた紙を思い出す。
『薬は“人”に合わせるもの』
その一文に、全てが凝縮されているように思えた。
「……公式な報告書には載せられませんので、ここでだけ申し上げます」
サフランは姿勢を正す。
「田舎の小さな村に、タイムという伝説級薬師の孫娘がいます。
そして、祖母を超えるかもしれない、“次の世代の薬師”としての素質があります」
「“祖母を超える”かもしれない、か」
セージはゆっくりと繰り返し、窓の外へ視線を向けた。
庭園の木々が、風に揺れている。
「彼女自身は、王都に来る気があるのかな?」
「今のところは、なさそうです。
“田舎の小さな薬草店が好きです”と、本人は言っていました」
「じゃあ、無理に引っ張ってきちゃ駄目だね」
セージはあっさりと言う。
「彼女の生き方を無視して“宮廷に来い”と言っても、きっといい結果にはならない。
タイム殿がそうだったように」
父王が昔惜しんでいた薬師。
“王都には来たくない”と、静かに断った田舎の女性。
彼女の孫娘もまた、自分の場所を選んだのだ。
「でも、興味はあるな」
セージはふっと笑った。
「いつか、その薬師に会ってみたい。
王太子としてじゃなく、一人の“弱い人間”として」
「弱い人間、ですか?」
「僕だって、怪我をするかもしれないし、病気になるかもしれない。
そのとき、“王太子殿下”じゃなく、“ひとりの患者”として、彼女がどう接するのか見てみたい」
サフランは、少し目を見開いたあと、防ぎようのない納得を覚えた。
(ああ、この人だから、俺は側に仕えているんだろうな)
王太子としての義務ではなく、一人の人間としての興味。
それをちゃんと切り分けて語る主。
「そのときまで、彼女には田舎で好きなようにやってもらおう。
王都が勝手に噂して、勝手に彼女の名前を覚えていくさ」
「……噂は、すでに始まっております」
サフランは、どこかおかしそうに口角を上げた。
「“田舎の奇跡薬師”と呼ばれているようです」
「奇跡、ねぇ」
セージは、肩を揺らして笑う。
「人が積み重ねた努力の果てを、すぐ“奇跡”って呼びたがるのは、この国の悪い癖だね」
「同感です」
それでも、ほんの少し誇らしかった。
ミントが、“奇跡”なんて安っぽい言葉で片付けられないくらい、真面目にやっていることを、サフランは知っている。
その日の会話は、それで終わった。
けれど、このやりとりが、王太子セージの記憶の片隅に強く残ることになる。
――後に、命綱のような形で。
◇
一方その頃。
王都の華やかな一角、ローズ家のサロンでも、別の形で噂が届いていた。
「ねぇ、聞いた? 最近、田舎の方で“奇跡の薬師”がいるんですって」
「ああ、聞いたわ。何でも、“王都の薬より効く”とか」
「やだ、王都の薬師たちの立場、ないじゃない」
涼しい顔をした貴族令嬢たちが、紅茶を片手に笑い合う。
その輪の中心に、ローズマリー・ローズは座っていた。
完璧に整えられたピンクブロンド。
流行のドレス。
ナイフのように研ぎ澄まされた微笑み。
「ふふ。田舎の噂話なんて、どうせ盛られてるに決まってますわ」
ローズマリーは、カップを優雅に傾けながら言う。
「田舎の人たちって、“ちょっと立派なことができる人”を見るとすぐに“奇跡”とか“伝説”とか言い出すんですもの」
「そうですわね。田舎ですものね」
取り巻きの令嬢たちが、同調するように笑う。
そのとき。
「でも、その“奇跡の薬師”、タイムさんの孫娘なんですってよ?」
何気なく発せられた言葉が、空気を変えた。
ローズマリーの笑みが、一瞬で固まる。
「……タイム?」
「ほら、昔話に出てくるじゃありませんか。“王都に呼ばれたけど田舎に残った薬師”の話。
その人の孫娘だって」
「へぇ……」
ローズマリーは、カップをソーサーにそっと戻した。
動作は優雅なのに、その指先には微かな力がこもっている。
「名前は?」
「ええと、たしか……ミント。ミント・フェンネルとか」
ミント。
フェンネル。
聞き慣れすぎて、吐き出したくなるほどの名前。
「まぁ。偶然って、あるものですわね」
ローズマリーは、作り笑いを浮かべる。
「うちにも以前、“ミント”という名前の子が働いていましたの。
田舎育ちで、薬草がそこそこ扱えて……少し生意気な子でしたけど」
「まぁ! もしかして、その子が?」
「まさか」
ローズマリーは笑った。
だが、その笑顔の奥には、黒く濁った感情が渦巻いている。
「うちの屋敷から追い出されたような“田舎娘”が、“王都の薬より効く”だなんて、笑い話にもなりませんわ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、チクリとするものが走った。
(“田舎娘”が、“王都の薬より効く”……?)
取り巻きの令嬢たちは、話題を変えようとしている。
けれど、ローズマリーの耳には、さっきの名前だけが何度もこだましていた。
ミント・フェンネル。
タイムの孫娘。
田舎の村。
奇跡の薬師。
パズルのピースが、嫌な形で組み合わさっていく。
「……本当に、偶然かしら?」
サロンが散会し、自室に戻ったローズマリーは、笑みを消した。
鏡台の前に座り、自分の顔をじっと見つめる。
完璧にメイクされた顔。
誰もが羨む容姿。
王都でも名の知れたローズ家の令嬢。
――なのに、その自分より。
「“あの田舎娘”の名前の方が、今は王都の兵士たちの口にのぼっている、ってわけ?」
思わず、口から本音がこぼれた。
胸の奥が、じりじりと焼けるように熱い。
(許せない)
指先が、ドレスの膝のあたりの布をぎゅっと握りしめる。
(どうして?
どうして“田舎娘のミント”なんかが、私より注目されてるの?)
自分の名は、王都でそこそこ知られている。
ローズ家の令嬢として。
社交界の華として。
“貴族にも薬草の知識がある”という、話題性のある存在として。
でも、それはあくまで“ローズ家の看板”込みの評価だ。
(あの子は、今、“ミント・フェンネル”として名前が出ている)
ローズ家の庇護も、看板もないところで。
ただ、腕だけで、名前が広がっている。
「ふざけないで」
鏡の中の自分に向かって、ローズマリーは吐き出した。
「追放された田舎娘が、私より上に行くなんて、許せるわけがないじゃない」
あの日、夜会の失敗の責任を全部押し付けたときに、自分は完全に“勝った”つもりでいた。
ミントは追放され、王都から消えた。
田舎に帰って、二度と戻ってこない。
そう信じていた。
(それが今では、“田舎の奇跡薬師”?)
唇を噛む。
嫉妬。
悔しさ。
焦り。
様々な感情が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、黒い泥になっていく。
「潰してやる」
小さく、しかしはっきりと、その言葉が口から落ちた。
「今度こそ、“立ち上がれない”ところまで」
ローズマリーは、鏡台の引き出しから一枚の紙を取り出す。
そこには、かつてミントが書いていた薬草メモの一部が写されていた。
彼女が王都に来る前に、タイムの小屋で使っていたらしい配合の断片。
それを勝手に写し取り、「参考」と称して自分のノートに移しておいたものだ。
占有欲と支配欲。
そして、今は“奪いたい”という欲望。
「田舎の小さな店なんて、所詮は遊び。
王都で認められてこそ、本物なのよ」
ローズマリーは、黒く濁った瞳で紙を見下ろした。
その視線は、まだ遠く離れた田舎の薬草店にまで届かない。
――けれど、確かに、そこに向かって歩み始めていた。
王都に届いた、田舎娘の噂。
それは、興味と期待と嫉妬をまといながら、静かに大きな渦を作ろうとしていた。
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「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
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