田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛

タマ マコト

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第8話「王太子セージの病と、静かな不穏」

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 王都の朝は、相変わらず眩しかった。

 城の高い塔に陽が差し込み、白い石壁を金色に染める。
 中庭では兵士たちが訓練の掛け声を上げ、侍女たちが忙しなくシーツを運び、文官たちは書類の束を抱えて廊下を行き来する。

 ――その中心にいるはずの人物の足取りが、ほんの少しだけ、乱れていることを除けば。

「――っと」

 長い廊下の角を曲がったところで、王太子セージ・アルバードはわずかにつま先を滑らせた。
 すぐに姿勢を立て直す。
 誰も気づかなかったかのように、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

「殿下?」

 すぐ後ろを歩いていたサフランが、反射的に一歩踏み出した。

「今、足元――」

「大丈夫だよ。少し目が回っただけだ」

 セージは軽く笑って、何でもないというように片手を振った。
 その仕草は自然で、これだけ見れば“少し疲れているだけ”で通ってしまう。

 ……だが、サフランの目には、別のものが見えていた。

(顔色が、悪い)

 いつもなら健康な白さを保っているはずの肌が、今日は妙に青白い。
 唇も、ほんの少しだけ色を失っている。

 何より――脈だ。

 さっき、何気なく冗談を言い合ったときに、さりげなくセージの手首に触れた。
 触診のフリをして。

 脈は、速すぎず、遅すぎず。
 一見「普通」の範囲に収まっている。

 ……ただし、そのリズムが、どこか不自然だった。

(一定じゃない。波が妙だ)

 規則正しさと、不規則な乱れが、薄い膜一枚で無理やり繋がっているような感じ。

 経験上、“強すぎる疲労”や、“体力の限界”で起きるものとは違う。
 それとも、まだ自分の知らない新しい病なのか。

「サフラン?」

 考え込んでいたサフランに、セージが首をかしげた。

「怖い顔してるよ。そんなにさっきのよろけ方、ひどかった?」

「……いえ」

 サフランは小さく息を吐いた。

「殿下。体調のこと、もう一度宮廷薬師長に相談を」

「もうしてるよ。何度もね」

 セージは肩をすくめる。

「“殿下のお仕事ぶりが激しすぎるのです。もっとお休みを”って、皆口をそろえて言う。
 強壮剤と回復ポーションを山ほど出されて、飲むたびに一時的には楽になる」

 そこで、言葉を区切り、少しだけ苦笑した。

「でも、夜になるとまた微熱が出て、朝になる頃にはだいたい引いてる。
 “働きすぎの一時的な不調”って診断だ」

「……それでご納得されているんですか」

「納得はしてないけど」

 セージはあっさりと言った。

「今のところ、仕事に致命的な支障があるわけじゃないしね。
 この程度で“大騒ぎして寝込む王太子”なんて、かっこ悪いでしょ?」

「かっこよさの問題ではありませんが」

 思わず素で返してしまい、セージが笑い声を漏らす。

「大丈夫。
 何か本当におかしかったら、サフランが真っ先に“おかしい”って言ってくれるだろう?」

 その言葉は、冗談半分、信頼半分で投げられていた。

 ――だからこそ、サフランの胸には、重く沈むものが残る。

(今、すでに“おかしい”と感じているのだが)

 はっきりした根拠がない。
 検査をしても、大きな異常値は出ない。
 脈も、血の色も、熱も、微妙なラインで「正常」に紛れ込んでしまう。

 だが、長く現場で人間の体を見てきた感覚が、警鐘を鳴らしていた。

(何かが、少しずつ削られている)

 毒――と呼ぶには、あまりにゆっくりだ。
 病――と呼ぶには、あまりに症状が曖昧だ。

 説明のつかない違和感だけが、胸の中で渦を巻く。

     ◇

「王太子殿下の件なら、何度も診させていただいておりますが」

 宮廷薬師団の執務室。
 サフランが薬師長ホップに相談を持ちかけたとき、返ってきたのは、慎重で、しかしどこか曖昧な答えだった。

「脈は少し不整ではありますが、許容範囲。
 血液検査も、大きな異常は出ておりません。
 疲労と睡眠不足が重なっていることは確かですが……」

「ですが?」

「これといった“決定的な病名”が見つからないのです」

 その言葉は、ホップ自身にもストレスだったらしく、眉間に刻まれた皺がひときわ深くなっている。

「強壮剤と回復ポーションで“その場しのぎ”をしている状態ですね。
 本当は、徹底的に仕事を減らしていただき、静養に専念してほしいのですが……」

「それは、殿下が聞き入れないでしょう」

「でしょうね」

 ホップは、薬草の香りが染みついた白衣の袖を小さく振った。

「サフラン殿も、何か違和感を?」

「……はい。
 理屈ではうまく説明できませんが、“このまま放置していい状態ではない”と」

「あなたがそう言うなら、きっとそうなのでしょう。
 現場上がりの目と勘は、侮れませんからね」

 ホップは机の上の書類を軽く叩いた。

「ただ、我々だけでどうにかできる範囲を、もう少し見極めたいところです。
 “未知の毒”や、“ゆっくりと効く呪い”の線も捨てきれませんが、根拠なく騒ぎ立てれば、それこそ王家の威信に関わる」

「……ええ」

「様子を見ながら、新しい検査も進めましょう。“何か”が見つかるかもしれません」

 サフランは礼をして部屋を出た。

 不満ではない。
 むしろ、施せる限りのことは施しているのだろう。

 それでも――
 耳の奥で、ミントの声がよみがえる。

『私は、“ちょっとおかしい”っていう感覚は、大事にした方がいいと思ってます』

 田舎の小さな薬草店。
 彼女は、例えばこんなとき、どうするだろう。

(話を、聞くだろうな)

 数値や検査の結果だけでなく。
 その人の生活や、飲んでいるもの、食べているもの、身の回りの変化。

 王太子セージの周りで、最近変わったものは――。

「……強壮剤と回復ポーションの量が、少し増えた、か」

 サフランは、廊下を歩きながら眉をひそめた。

 それは対症療法としては当然の処置だ。
 だが、もし原因が別のところにあるのだとしたら?
 もし、“効いているように見える何か”で、逆に症状をわかりにくくされているとしたら――。

(何か、おかしい)

 言葉にできない違和感が、また形を変えて彼の胸を刺した。

     ◇

 同じ頃。
 王城の少し外れ、静かな庭に面した別棟で、もうひとりの王子がゆっくりと茶を飲んでいた。

「兄上も、お忙しいことだ」

 第二王太子クローブ・アルバード。
 セージの弟でありながら、政治の表舞台にはあまり姿を見せない男だ。

 黒に近い濃い茶色の髪を肩まで伸ばし、穏やかな笑みを絶やさない。
 侍女や下働きに対しても優しく、声を荒げるところを誰も見たことがない。

 ――少なくとも、表向きは。

「このところ、顔色が優れないと聞いたけれど」

 向かいに座る側近が、余った砂糖をスプーンでかき回しながら答える。

「ええ。宮廷薬師団は、“激務による一時的な不調”と見立てているようですが」

「“一時的”という言葉は、便利だね」

 クローブは微笑んだ。
 しかし、その瞳にはどこか冷たい光が宿っている。

「“一時的”なら、“いつか自然に収まる”と思い込める。
 “今”何かしようという危機感を、上手く鈍らせてくれる」

「殿下は、“一時的”だとは?」

「さあ。どうだろうね」

 クローブは、窓の外の青い空を見上げる。

「兄上は優秀だ。
 誰よりも国のことを考えているし、誰よりも民の声を聞こうとする。
 ……そういう人間は、早く擦り減る」

「……」

「僕のように、“影にいるだけの人間”とは違ってね」

 そう言って笑う顔は、どこまでも穏やかだ。
 しかし、その穏やかさが、逆に底知れなさを際立たせる。

「ところで」

 クローブは、ふと話題を変えた。

「噂を聞いたよ。
 田舎の方に、“奇跡の薬師”がいるそうじゃないか」

「……やはり耳に入っておられますか」

 側近は、内心の動揺を悟られまいとしながら、慎重に言葉を選ぶ。

「王立騎士団や宮廷薬師団の間で話題になっているようです。
 “王都の薬よりよく効く”“人を見て処方を変える”などと」

「名前は?」

「ミント・フェンネル。
 伝説の薬師タイムの孫娘だとか」

「ミント」

 クローブは、その名を口の中で転がした。

「そういえば――どこかで聞いた覚えがあるね」

 ローズ家での騒動の報告。
 夜会のポーションの失敗。
 そして、“田舎娘の使用人薬師”が追放されたという顛末。

 当時は、さほど興味を持たなかった。
 ただ、“妙に強気な田舎娘がひとり、王都から消えた”という程度の話として心の片隅にしまっておいた。

 ――それが今、“王都の外から評価されて戻ってきた”。

「面白い」

 クローブは穏やかに微笑んだ。

「みんなが口々に“王太子殿下は素晴らしい”と言う、王都のこの空気の中で。
 誰も知らなかった“別の天才”が、静かに育っていた」

「殿下は、その薬師を……?」

「直接会いに行くほど、僕は暇じゃないよ」

 肩をすくめながら、クローブはティーカップをソーサーに戻す。

「でも、“その存在を利用したい”と思うくらいには、興味がある」

 その言葉は、甘く、冷たく響いた。

     ◇

 ローズ家のサロンに、その招待状が届いたのは、そんな日の午後だった。

「……第二王太子殿下から?」

 ローズマリーは封蝋に刻まれた紋章を見て、目を見開いた。

 深い緑を基調とした、ささやかな紋章。
 王太子セージの輝く黄金とは違う、控えめな色。

「まあ。珍しいこともあるものですわね」

 心臓が、不穏なリズムを打つ。

 招待状の内容は、格式ばっていた。

『王立薬学会に関する意見を伺いたい』
『貴家の薬学への理解は、王都でも高く評価されている』

 ……などなど。
 綺麗な言葉で飾られているが、要するに「一度話がしたい」ということだ。

(第二王太子殿下が、私に)

 鏡に映る自分の顔が、自然と笑みを形作る。

 ローズマリーは迷わなかった。
 最上のドレスを選び、最高の宝石を身につけて、その日のうちに城へ向かう手配をした。

     ◇

「初めまして、ローズマリー・ローズ嬢」

 静かな応接室。
 クローブは立ち上がって、丁寧に礼をした。

「お招きいただき光栄ですわ、殿下」

 ローズマリーも完璧な礼を返す。
 ふたりの笑みは、どちらも“貴族としての教養”の上に成り立ったものだった。

「以前から、あなたのお名前は伺っていました。
 “貴族でありながら薬草の知識に通じた令嬢がいる”と」

「お恥ずかしい限りですわ。
 ただ、田舎の遊びに毛が生えたようなものです」

 謙遜しながらも、その瞳には誇りが宿っている。

 クローブはそれを見て、内心で小さく頷いた。

(自尊心が高い。
 それは、扱い方を間違えなければ、良い“燃料”になる)

「田舎の遊びに毛が生えた程度であれば、夜会のポーションなど任されないでしょう」

 クローブは、あえてその話題に触れた。

「――」

 一瞬、空気が張り詰めた。

 夜会の失敗。
 ミントの追放。
 ローズ家の評判の傷。

 ローズマリーにとって、忘れたくても忘れられない出来事だ。

「その件については、申し訳なく思っておりますわ」

 ローズマリーは、ぎり、と奥歯を噛み締める感覚を押し隠しながら言った。

「未熟な者を雇っていた父の不見識でもありますし、私自身、監督が足りませんでした。
 結果として、王太子殿下にご迷惑をおかけしてしまったことは――」

「僕は、夜会のポーションの話を責めているわけではないよ」

 クローブは、やんわりと首を振った。

「むしろ、僕が関心を持っているのは、その後だ」

「その後?」

「“追放された田舎娘”が、今や“田舎の奇跡薬師”と呼ばれていることについて、だ」

 ローズマリーの手が、膝の上で微かに震えた。

「……噂を、お聞きになっているのですね」

「王都は噂の街だからね」

 クローブは微笑を崩さない。

「ミント・フェンネル。
 タイムの孫娘。
 かつてローズ家に仕えていた使用人」

 その名を聞いた瞬間、ローズマリーの胸の奥で、何かが音を立てた。

(あの田舎娘)

 王都から追い出したはずの存在。
 自分の世界から消したはずの、地味な影。

 それが今、王都の外から、自分よりも高く評価されている。

「あなたは、彼女の腕をどう評価している?」

 クローブの問いは、柔らかく、しかし鋭かった。

「才能は……それなりに、ありましたわ」

 喉の奥に引っかかった言葉を、どうにか絞り出す。

「ですが、それは“使用人として適切な範囲”の話。
 身分をわきまえず、出過ぎた真似をしなければ、の話ですわ」

「出過ぎた真似?」

「自分の立場を理解せず、“自分のやり方”を押し通そうとするのです。
 貴族の家に仕えている以上、主の判断が最優先であるべきなのに」

 それは、ローズマリーなりの“正しさ”だった。

 貴族は命令する側。
 使用人は従う側。
 ――その枠組みから外れようとする者は、「間違っている」。

「なるほど」

 クローブは、静かに頷いた。

「つまり――“正しく導いてくれる主”さえいれば、その才能はもっと有効に使えたかもしれない、ということだね?」

「……ええ。そう、かもしれませんわね」

 その言い回しは、ローズマリーの自尊心をくすぐった。

(そう。私が正しく導いてあげてれば――)

 でも、それをしなかった。
 あの日、自分はミントを“切り捨てた”。

 だから今、自分は王都で“そこそこの薬草に詳しい令嬢”のままで、
 ミントは田舎で“奇跡薬師”と呼ばれているのだ。

「ローズマリー嬢」

 クローブの声が、少しだけ低くなった。

「もし“正しく導いてくれる主”が、ここにいたとしたら――君はその手を取りたいと思うかい?」

「……どういう意味で、しょうか」

「君の薬師としての才能と、僕の立場を組み合わせれば、“もっと上”に行ける」

 言葉は、甘い毒のようだった。

「“王都でそこそこ評判のいい令嬢薬師”ではなく、“王家に必要とされる薬師”になれる。
 君の調合は、“王太子を救った奇跡の薬”として語られることになるかもしれない」

「――王太子、殿下?」

 その単語に、ローズマリーの瞳が揺れた。

「兄上は、今、体調を崩し始めている」

 クローブは、さらりと言った。

「まだ誰も“大問題”として扱ってはいない。
 宮廷薬師たちは、強壮剤と回復ポーションで誤魔化している。
 ――そこに、“君だけが持つ特別な薬”を差し出したら?」

 ローズマリーの喉が、ごくりと鳴る。

(王太子殿下を救った薬。
 それが、“ローズ家の令嬢ローズマリーの処方”として広まったら――)

 今までの評価が、ひっくり返る。
 ミントの噂なんて、かき消せる。

 だが、同時に、冷たい疑問も浮かんだ。

「……そんな都合のいい“特別な薬”が、本当に存在するのですか?」

「君なら作れる」

 即答だった。

「君は、ミント・フェンネルの配合メモを写しているはずだ」

「――っ」

 背筋が凍る。

 それは、ローズ家のごく限られた人間しか知らないはずのこと。
 ミントのメモを、こっそり盗み見て、自分のノートに写し取ったこと。

 それを、どうして第二王太子が知っているのか。

「盗んだと言いたいわけではないよ。
 “参考にした”のだろう?」

 クローブは、あくまで優しい声で続ける。

「“ミントの才能”に嫉妬しながらも、“自分のものにしたかった”。
 それは、ごく自然な感情だ」

「……私を、責めるために呼んだのですか?」

 ローズマリーの声に、怒りと怯えが混ざる。

「まさか」

 クローブの瞳が、暗い光を帯びた。

「僕は、“君のその感情を、利用したい”と思っているだけだ」

 利用――。

 その言葉は本来、不快であるべきなのに、
 ローズマリーの胸には、妙な高揚感が広がった。

 誰かに“利用される”ほど、自分に価値があるということ。
 王家の人間に、そう言われること。

「君は、ミントの配合に、“君なりの味付け”を加えることができるはずだ。
 見た目を良くしたり、香りを良くしたり。
 王都の貴族に好まれるように、洗練させることができる」

「……それは、できると思いますわ」

 自信だけはあった。
 ミントにはない、“王都の感覚”という武器が、自分にはある。

「では――そこに、“ほんの少しだけ別の成分を混ぜる”としたら?」

 クローブの声が、ひやりと冷たくなる。

「夜哭百合(よなきゆり)という名を、聞いたことは?」

「――夜哭百合」

 その名を聞いた瞬間、ローズマリーの背中にぞくりと悪寒が走った。

 薬草の教本の、最後の方。
 “禁忌”のページに、ひっそりと載っていた名前。

 白く細い花弁を持ち、夜にだけ花を開き、咲いている間じゅう、微かな泣き声のような音を立てると書かれていた。

 ほんの微量であれば、強い興奮と高揚感を与える。
 だが、長期的には、内臓を少しずつ蝕み、血を汚し、やがて全身を弱らせる。

 その毒性のため、栽培も採取も禁止された、禁じられた毒草。

「……禁忌の毒草、ですわ」

「そう。
 だが、“禁止されている”ということは、“完全にはこの世から消えていない”ということでもある」

 クローブは、涼しい顔で続けた。

「僕の手元に、ほんの少しだけ、そのエキスがある。
 それを、君の“兄上を救う薬”に、極々わずかに混ぜるとしたら?」

 ローズマリーの心臓が、大きく跳ねた。

「それは……」

「一度に大量に飲ませる必要はない。
 ほんの少しずつ、“元気になる薬”という名目で飲んでいただければいい」

 クローブの瞳が、笑っていない。

「“兄上を救った奇跡の薬”として称えられながら、兄上の体はゆっくりと蝕まれていく。
 誰も原因に気づかない。
 最終的に、“激務による体調不良が、遂に限界を超えた”と結論づけられるだろう」

「そんな……」

「そして、そのとき、誰が王位を継ぐ?」

 静寂。
 重い問い。

 答えは、言葉にしなくても明らかだ。

「僕は、“悲しみに暮れる弟”として、兄上の遺志を継ぐ。
 君は、“かつて兄を救おうとした薬師”として、王家にとって手放せない存在になる」

 ローズマリーは、息をするのも忘れていた。

 禁じられた毒草。
 夜哭百合。
 王太子の死。
 王家の権力。

 その全てが、甘く、危うい誘惑として目の前に差し出されている。

「もちろん、これは“仮定の話”だ」

 クローブは、紅茶を一口含んだ。

「君が“そんなことはできません”と言うなら、ここで終わる。
 僕は別の方法を探す。
 君は、これからも“そこそこの評判の令嬢薬師”のままだ」

「――」

「だが、もし君が、“もっと上”に行きたいと望むなら」

 クローブの声が、ひどく優しくなる。

「僕は、その望みを叶えるために、手を貸そう」

 夜哭百合――。

 禁忌の毒草の名が、ローズマリーの頭の中で何度も反響する。

(ミントは、田舎の小さな店で、村人相手に“ありがとう”って言われている)

 素朴な幸せ。
 ぬくもりのある日々。

(でも私は、王都で、王家のそばで、“貴重な薬師”として名前を刻める)

 どちらがいいか――そんな問いではなかった。
 ローズマリーにとって、“自分の価値がどこで輝くか”の問題だ。

 嫉妬。
 悔しさ。
 認められたいという渇き。

 その全部が、夜哭百合の花びらに似た、白い毒として胸の中に咲き始める。

「……もし」

 唇が、勝手に動いた。

「もし、その“仮定の話”を、現実にしたとして。
 私は、どこまで知ることになるのですか?」

「好きなところまで知ればいい」

 クローブは微笑む。

「“王太子を救おうと全力を尽くした薬師”として記録に残るか。
 “王の座を支える影の協力者”として、僕と秘密を分かち合うか。
 選ぶのは、君だ」

 ローズマリーの瞳が、ゆっくりと細められる。

 その奥に宿る光は、もう「ただの嫉妬」ではなかった。
 自分の人生を、自分の手でねじ曲げようとする、危険な決意の色だ。

「夜哭百合のエキス……本当に、お持ちなのですか?」

「ええ」

 クローブは、ポケットからごく小さなガラス瓶を取り出した。
 中には、濃い紫がかった液体が、ほんの数滴だけ入っている。

 瓶を傾けるたび、光がねっとりとした反射を返す。

「これは、僕には扱えない。
 薬師である君にしか、扱えない代物だ」

 瓶の中身の危険性を理解するほど、同時に、その“特別さ”がローズマリーの心をくすぐる。

(私にしか扱えない)

(私だけが、この毒を薬に変えられる)

 その錯覚は、強烈な甘さを伴って胸に広がる。

「……少し、お時間をいただけますか」

 ローズマリーは、震える声で言った。

「“仮定の話”について、考える時間を」

「もちろん」

 クローブはあっさりと頷いた。

「急ぐ必要はない。
 夜哭百合の花は、ゆっくりと咲き、ゆっくりと枯れるものだから」

 その微笑みの裏に潜む闇に、ローズマリーはまだ気づかない。
 ――あるいは、気づいていて、見ないふりをしたのかもしれない。

 こうして、王太子セージの体の中に忍び寄る“静かな不穏”と、
 ローズマリーの胸に咲いた“禁忌の花”は、ゆっくりと同じ方向へと根を伸ばし始めていた。
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