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第8話「王太子セージの病と、静かな不穏」
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王都の朝は、相変わらず眩しかった。
城の高い塔に陽が差し込み、白い石壁を金色に染める。
中庭では兵士たちが訓練の掛け声を上げ、侍女たちが忙しなくシーツを運び、文官たちは書類の束を抱えて廊下を行き来する。
――その中心にいるはずの人物の足取りが、ほんの少しだけ、乱れていることを除けば。
「――っと」
長い廊下の角を曲がったところで、王太子セージ・アルバードはわずかにつま先を滑らせた。
すぐに姿勢を立て直す。
誰も気づかなかったかのように、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「殿下?」
すぐ後ろを歩いていたサフランが、反射的に一歩踏み出した。
「今、足元――」
「大丈夫だよ。少し目が回っただけだ」
セージは軽く笑って、何でもないというように片手を振った。
その仕草は自然で、これだけ見れば“少し疲れているだけ”で通ってしまう。
……だが、サフランの目には、別のものが見えていた。
(顔色が、悪い)
いつもなら健康な白さを保っているはずの肌が、今日は妙に青白い。
唇も、ほんの少しだけ色を失っている。
何より――脈だ。
さっき、何気なく冗談を言い合ったときに、さりげなくセージの手首に触れた。
触診のフリをして。
脈は、速すぎず、遅すぎず。
一見「普通」の範囲に収まっている。
……ただし、そのリズムが、どこか不自然だった。
(一定じゃない。波が妙だ)
規則正しさと、不規則な乱れが、薄い膜一枚で無理やり繋がっているような感じ。
経験上、“強すぎる疲労”や、“体力の限界”で起きるものとは違う。
それとも、まだ自分の知らない新しい病なのか。
「サフラン?」
考え込んでいたサフランに、セージが首をかしげた。
「怖い顔してるよ。そんなにさっきのよろけ方、ひどかった?」
「……いえ」
サフランは小さく息を吐いた。
「殿下。体調のこと、もう一度宮廷薬師長に相談を」
「もうしてるよ。何度もね」
セージは肩をすくめる。
「“殿下のお仕事ぶりが激しすぎるのです。もっとお休みを”って、皆口をそろえて言う。
強壮剤と回復ポーションを山ほど出されて、飲むたびに一時的には楽になる」
そこで、言葉を区切り、少しだけ苦笑した。
「でも、夜になるとまた微熱が出て、朝になる頃にはだいたい引いてる。
“働きすぎの一時的な不調”って診断だ」
「……それでご納得されているんですか」
「納得はしてないけど」
セージはあっさりと言った。
「今のところ、仕事に致命的な支障があるわけじゃないしね。
この程度で“大騒ぎして寝込む王太子”なんて、かっこ悪いでしょ?」
「かっこよさの問題ではありませんが」
思わず素で返してしまい、セージが笑い声を漏らす。
「大丈夫。
何か本当におかしかったら、サフランが真っ先に“おかしい”って言ってくれるだろう?」
その言葉は、冗談半分、信頼半分で投げられていた。
――だからこそ、サフランの胸には、重く沈むものが残る。
(今、すでに“おかしい”と感じているのだが)
はっきりした根拠がない。
検査をしても、大きな異常値は出ない。
脈も、血の色も、熱も、微妙なラインで「正常」に紛れ込んでしまう。
だが、長く現場で人間の体を見てきた感覚が、警鐘を鳴らしていた。
(何かが、少しずつ削られている)
毒――と呼ぶには、あまりにゆっくりだ。
病――と呼ぶには、あまりに症状が曖昧だ。
説明のつかない違和感だけが、胸の中で渦を巻く。
◇
「王太子殿下の件なら、何度も診させていただいておりますが」
宮廷薬師団の執務室。
サフランが薬師長ホップに相談を持ちかけたとき、返ってきたのは、慎重で、しかしどこか曖昧な答えだった。
「脈は少し不整ではありますが、許容範囲。
血液検査も、大きな異常は出ておりません。
疲労と睡眠不足が重なっていることは確かですが……」
「ですが?」
「これといった“決定的な病名”が見つからないのです」
その言葉は、ホップ自身にもストレスだったらしく、眉間に刻まれた皺がひときわ深くなっている。
「強壮剤と回復ポーションで“その場しのぎ”をしている状態ですね。
本当は、徹底的に仕事を減らしていただき、静養に専念してほしいのですが……」
「それは、殿下が聞き入れないでしょう」
「でしょうね」
ホップは、薬草の香りが染みついた白衣の袖を小さく振った。
「サフラン殿も、何か違和感を?」
「……はい。
理屈ではうまく説明できませんが、“このまま放置していい状態ではない”と」
「あなたがそう言うなら、きっとそうなのでしょう。
現場上がりの目と勘は、侮れませんからね」
ホップは机の上の書類を軽く叩いた。
「ただ、我々だけでどうにかできる範囲を、もう少し見極めたいところです。
“未知の毒”や、“ゆっくりと効く呪い”の線も捨てきれませんが、根拠なく騒ぎ立てれば、それこそ王家の威信に関わる」
「……ええ」
「様子を見ながら、新しい検査も進めましょう。“何か”が見つかるかもしれません」
サフランは礼をして部屋を出た。
不満ではない。
むしろ、施せる限りのことは施しているのだろう。
それでも――
耳の奥で、ミントの声がよみがえる。
『私は、“ちょっとおかしい”っていう感覚は、大事にした方がいいと思ってます』
田舎の小さな薬草店。
彼女は、例えばこんなとき、どうするだろう。
(話を、聞くだろうな)
数値や検査の結果だけでなく。
その人の生活や、飲んでいるもの、食べているもの、身の回りの変化。
王太子セージの周りで、最近変わったものは――。
「……強壮剤と回復ポーションの量が、少し増えた、か」
サフランは、廊下を歩きながら眉をひそめた。
それは対症療法としては当然の処置だ。
だが、もし原因が別のところにあるのだとしたら?
もし、“効いているように見える何か”で、逆に症状をわかりにくくされているとしたら――。
(何か、おかしい)
言葉にできない違和感が、また形を変えて彼の胸を刺した。
◇
同じ頃。
王城の少し外れ、静かな庭に面した別棟で、もうひとりの王子がゆっくりと茶を飲んでいた。
「兄上も、お忙しいことだ」
第二王太子クローブ・アルバード。
セージの弟でありながら、政治の表舞台にはあまり姿を見せない男だ。
黒に近い濃い茶色の髪を肩まで伸ばし、穏やかな笑みを絶やさない。
侍女や下働きに対しても優しく、声を荒げるところを誰も見たことがない。
――少なくとも、表向きは。
「このところ、顔色が優れないと聞いたけれど」
向かいに座る側近が、余った砂糖をスプーンでかき回しながら答える。
「ええ。宮廷薬師団は、“激務による一時的な不調”と見立てているようですが」
「“一時的”という言葉は、便利だね」
クローブは微笑んだ。
しかし、その瞳にはどこか冷たい光が宿っている。
「“一時的”なら、“いつか自然に収まる”と思い込める。
“今”何かしようという危機感を、上手く鈍らせてくれる」
「殿下は、“一時的”だとは?」
「さあ。どうだろうね」
クローブは、窓の外の青い空を見上げる。
「兄上は優秀だ。
誰よりも国のことを考えているし、誰よりも民の声を聞こうとする。
……そういう人間は、早く擦り減る」
「……」
「僕のように、“影にいるだけの人間”とは違ってね」
そう言って笑う顔は、どこまでも穏やかだ。
しかし、その穏やかさが、逆に底知れなさを際立たせる。
「ところで」
クローブは、ふと話題を変えた。
「噂を聞いたよ。
田舎の方に、“奇跡の薬師”がいるそうじゃないか」
「……やはり耳に入っておられますか」
側近は、内心の動揺を悟られまいとしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「王立騎士団や宮廷薬師団の間で話題になっているようです。
“王都の薬よりよく効く”“人を見て処方を変える”などと」
「名前は?」
「ミント・フェンネル。
伝説の薬師タイムの孫娘だとか」
「ミント」
クローブは、その名を口の中で転がした。
「そういえば――どこかで聞いた覚えがあるね」
ローズ家での騒動の報告。
夜会のポーションの失敗。
そして、“田舎娘の使用人薬師”が追放されたという顛末。
当時は、さほど興味を持たなかった。
ただ、“妙に強気な田舎娘がひとり、王都から消えた”という程度の話として心の片隅にしまっておいた。
――それが今、“王都の外から評価されて戻ってきた”。
「面白い」
クローブは穏やかに微笑んだ。
「みんなが口々に“王太子殿下は素晴らしい”と言う、王都のこの空気の中で。
誰も知らなかった“別の天才”が、静かに育っていた」
「殿下は、その薬師を……?」
「直接会いに行くほど、僕は暇じゃないよ」
肩をすくめながら、クローブはティーカップをソーサーに戻す。
「でも、“その存在を利用したい”と思うくらいには、興味がある」
その言葉は、甘く、冷たく響いた。
◇
ローズ家のサロンに、その招待状が届いたのは、そんな日の午後だった。
「……第二王太子殿下から?」
ローズマリーは封蝋に刻まれた紋章を見て、目を見開いた。
深い緑を基調とした、ささやかな紋章。
王太子セージの輝く黄金とは違う、控えめな色。
「まあ。珍しいこともあるものですわね」
心臓が、不穏なリズムを打つ。
招待状の内容は、格式ばっていた。
『王立薬学会に関する意見を伺いたい』
『貴家の薬学への理解は、王都でも高く評価されている』
……などなど。
綺麗な言葉で飾られているが、要するに「一度話がしたい」ということだ。
(第二王太子殿下が、私に)
鏡に映る自分の顔が、自然と笑みを形作る。
ローズマリーは迷わなかった。
最上のドレスを選び、最高の宝石を身につけて、その日のうちに城へ向かう手配をした。
◇
「初めまして、ローズマリー・ローズ嬢」
静かな応接室。
クローブは立ち上がって、丁寧に礼をした。
「お招きいただき光栄ですわ、殿下」
ローズマリーも完璧な礼を返す。
ふたりの笑みは、どちらも“貴族としての教養”の上に成り立ったものだった。
「以前から、あなたのお名前は伺っていました。
“貴族でありながら薬草の知識に通じた令嬢がいる”と」
「お恥ずかしい限りですわ。
ただ、田舎の遊びに毛が生えたようなものです」
謙遜しながらも、その瞳には誇りが宿っている。
クローブはそれを見て、内心で小さく頷いた。
(自尊心が高い。
それは、扱い方を間違えなければ、良い“燃料”になる)
「田舎の遊びに毛が生えた程度であれば、夜会のポーションなど任されないでしょう」
クローブは、あえてその話題に触れた。
「――」
一瞬、空気が張り詰めた。
夜会の失敗。
ミントの追放。
ローズ家の評判の傷。
ローズマリーにとって、忘れたくても忘れられない出来事だ。
「その件については、申し訳なく思っておりますわ」
ローズマリーは、ぎり、と奥歯を噛み締める感覚を押し隠しながら言った。
「未熟な者を雇っていた父の不見識でもありますし、私自身、監督が足りませんでした。
結果として、王太子殿下にご迷惑をおかけしてしまったことは――」
「僕は、夜会のポーションの話を責めているわけではないよ」
クローブは、やんわりと首を振った。
「むしろ、僕が関心を持っているのは、その後だ」
「その後?」
「“追放された田舎娘”が、今や“田舎の奇跡薬師”と呼ばれていることについて、だ」
ローズマリーの手が、膝の上で微かに震えた。
「……噂を、お聞きになっているのですね」
「王都は噂の街だからね」
クローブは微笑を崩さない。
「ミント・フェンネル。
タイムの孫娘。
かつてローズ家に仕えていた使用人」
その名を聞いた瞬間、ローズマリーの胸の奥で、何かが音を立てた。
(あの田舎娘)
王都から追い出したはずの存在。
自分の世界から消したはずの、地味な影。
それが今、王都の外から、自分よりも高く評価されている。
「あなたは、彼女の腕をどう評価している?」
クローブの問いは、柔らかく、しかし鋭かった。
「才能は……それなりに、ありましたわ」
喉の奥に引っかかった言葉を、どうにか絞り出す。
「ですが、それは“使用人として適切な範囲”の話。
身分をわきまえず、出過ぎた真似をしなければ、の話ですわ」
「出過ぎた真似?」
「自分の立場を理解せず、“自分のやり方”を押し通そうとするのです。
貴族の家に仕えている以上、主の判断が最優先であるべきなのに」
それは、ローズマリーなりの“正しさ”だった。
貴族は命令する側。
使用人は従う側。
――その枠組みから外れようとする者は、「間違っている」。
「なるほど」
クローブは、静かに頷いた。
「つまり――“正しく導いてくれる主”さえいれば、その才能はもっと有効に使えたかもしれない、ということだね?」
「……ええ。そう、かもしれませんわね」
その言い回しは、ローズマリーの自尊心をくすぐった。
(そう。私が正しく導いてあげてれば――)
でも、それをしなかった。
あの日、自分はミントを“切り捨てた”。
だから今、自分は王都で“そこそこの薬草に詳しい令嬢”のままで、
ミントは田舎で“奇跡薬師”と呼ばれているのだ。
「ローズマリー嬢」
クローブの声が、少しだけ低くなった。
「もし“正しく導いてくれる主”が、ここにいたとしたら――君はその手を取りたいと思うかい?」
「……どういう意味で、しょうか」
「君の薬師としての才能と、僕の立場を組み合わせれば、“もっと上”に行ける」
言葉は、甘い毒のようだった。
「“王都でそこそこ評判のいい令嬢薬師”ではなく、“王家に必要とされる薬師”になれる。
君の調合は、“王太子を救った奇跡の薬”として語られることになるかもしれない」
「――王太子、殿下?」
その単語に、ローズマリーの瞳が揺れた。
「兄上は、今、体調を崩し始めている」
クローブは、さらりと言った。
「まだ誰も“大問題”として扱ってはいない。
宮廷薬師たちは、強壮剤と回復ポーションで誤魔化している。
――そこに、“君だけが持つ特別な薬”を差し出したら?」
ローズマリーの喉が、ごくりと鳴る。
(王太子殿下を救った薬。
それが、“ローズ家の令嬢ローズマリーの処方”として広まったら――)
今までの評価が、ひっくり返る。
ミントの噂なんて、かき消せる。
だが、同時に、冷たい疑問も浮かんだ。
「……そんな都合のいい“特別な薬”が、本当に存在するのですか?」
「君なら作れる」
即答だった。
「君は、ミント・フェンネルの配合メモを写しているはずだ」
「――っ」
背筋が凍る。
それは、ローズ家のごく限られた人間しか知らないはずのこと。
ミントのメモを、こっそり盗み見て、自分のノートに写し取ったこと。
それを、どうして第二王太子が知っているのか。
「盗んだと言いたいわけではないよ。
“参考にした”のだろう?」
クローブは、あくまで優しい声で続ける。
「“ミントの才能”に嫉妬しながらも、“自分のものにしたかった”。
それは、ごく自然な感情だ」
「……私を、責めるために呼んだのですか?」
ローズマリーの声に、怒りと怯えが混ざる。
「まさか」
クローブの瞳が、暗い光を帯びた。
「僕は、“君のその感情を、利用したい”と思っているだけだ」
利用――。
その言葉は本来、不快であるべきなのに、
ローズマリーの胸には、妙な高揚感が広がった。
誰かに“利用される”ほど、自分に価値があるということ。
王家の人間に、そう言われること。
「君は、ミントの配合に、“君なりの味付け”を加えることができるはずだ。
見た目を良くしたり、香りを良くしたり。
王都の貴族に好まれるように、洗練させることができる」
「……それは、できると思いますわ」
自信だけはあった。
ミントにはない、“王都の感覚”という武器が、自分にはある。
「では――そこに、“ほんの少しだけ別の成分を混ぜる”としたら?」
クローブの声が、ひやりと冷たくなる。
「夜哭百合(よなきゆり)という名を、聞いたことは?」
「――夜哭百合」
その名を聞いた瞬間、ローズマリーの背中にぞくりと悪寒が走った。
薬草の教本の、最後の方。
“禁忌”のページに、ひっそりと載っていた名前。
白く細い花弁を持ち、夜にだけ花を開き、咲いている間じゅう、微かな泣き声のような音を立てると書かれていた。
ほんの微量であれば、強い興奮と高揚感を与える。
だが、長期的には、内臓を少しずつ蝕み、血を汚し、やがて全身を弱らせる。
その毒性のため、栽培も採取も禁止された、禁じられた毒草。
「……禁忌の毒草、ですわ」
「そう。
だが、“禁止されている”ということは、“完全にはこの世から消えていない”ということでもある」
クローブは、涼しい顔で続けた。
「僕の手元に、ほんの少しだけ、そのエキスがある。
それを、君の“兄上を救う薬”に、極々わずかに混ぜるとしたら?」
ローズマリーの心臓が、大きく跳ねた。
「それは……」
「一度に大量に飲ませる必要はない。
ほんの少しずつ、“元気になる薬”という名目で飲んでいただければいい」
クローブの瞳が、笑っていない。
「“兄上を救った奇跡の薬”として称えられながら、兄上の体はゆっくりと蝕まれていく。
誰も原因に気づかない。
最終的に、“激務による体調不良が、遂に限界を超えた”と結論づけられるだろう」
「そんな……」
「そして、そのとき、誰が王位を継ぐ?」
静寂。
重い問い。
答えは、言葉にしなくても明らかだ。
「僕は、“悲しみに暮れる弟”として、兄上の遺志を継ぐ。
君は、“かつて兄を救おうとした薬師”として、王家にとって手放せない存在になる」
ローズマリーは、息をするのも忘れていた。
禁じられた毒草。
夜哭百合。
王太子の死。
王家の権力。
その全てが、甘く、危うい誘惑として目の前に差し出されている。
「もちろん、これは“仮定の話”だ」
クローブは、紅茶を一口含んだ。
「君が“そんなことはできません”と言うなら、ここで終わる。
僕は別の方法を探す。
君は、これからも“そこそこの評判の令嬢薬師”のままだ」
「――」
「だが、もし君が、“もっと上”に行きたいと望むなら」
クローブの声が、ひどく優しくなる。
「僕は、その望みを叶えるために、手を貸そう」
夜哭百合――。
禁忌の毒草の名が、ローズマリーの頭の中で何度も反響する。
(ミントは、田舎の小さな店で、村人相手に“ありがとう”って言われている)
素朴な幸せ。
ぬくもりのある日々。
(でも私は、王都で、王家のそばで、“貴重な薬師”として名前を刻める)
どちらがいいか――そんな問いではなかった。
ローズマリーにとって、“自分の価値がどこで輝くか”の問題だ。
嫉妬。
悔しさ。
認められたいという渇き。
その全部が、夜哭百合の花びらに似た、白い毒として胸の中に咲き始める。
「……もし」
唇が、勝手に動いた。
「もし、その“仮定の話”を、現実にしたとして。
私は、どこまで知ることになるのですか?」
「好きなところまで知ればいい」
クローブは微笑む。
「“王太子を救おうと全力を尽くした薬師”として記録に残るか。
“王の座を支える影の協力者”として、僕と秘密を分かち合うか。
選ぶのは、君だ」
ローズマリーの瞳が、ゆっくりと細められる。
その奥に宿る光は、もう「ただの嫉妬」ではなかった。
自分の人生を、自分の手でねじ曲げようとする、危険な決意の色だ。
「夜哭百合のエキス……本当に、お持ちなのですか?」
「ええ」
クローブは、ポケットからごく小さなガラス瓶を取り出した。
中には、濃い紫がかった液体が、ほんの数滴だけ入っている。
瓶を傾けるたび、光がねっとりとした反射を返す。
「これは、僕には扱えない。
薬師である君にしか、扱えない代物だ」
瓶の中身の危険性を理解するほど、同時に、その“特別さ”がローズマリーの心をくすぐる。
(私にしか扱えない)
(私だけが、この毒を薬に変えられる)
その錯覚は、強烈な甘さを伴って胸に広がる。
「……少し、お時間をいただけますか」
ローズマリーは、震える声で言った。
「“仮定の話”について、考える時間を」
「もちろん」
クローブはあっさりと頷いた。
「急ぐ必要はない。
夜哭百合の花は、ゆっくりと咲き、ゆっくりと枯れるものだから」
その微笑みの裏に潜む闇に、ローズマリーはまだ気づかない。
――あるいは、気づいていて、見ないふりをしたのかもしれない。
こうして、王太子セージの体の中に忍び寄る“静かな不穏”と、
ローズマリーの胸に咲いた“禁忌の花”は、ゆっくりと同じ方向へと根を伸ばし始めていた。
城の高い塔に陽が差し込み、白い石壁を金色に染める。
中庭では兵士たちが訓練の掛け声を上げ、侍女たちが忙しなくシーツを運び、文官たちは書類の束を抱えて廊下を行き来する。
――その中心にいるはずの人物の足取りが、ほんの少しだけ、乱れていることを除けば。
「――っと」
長い廊下の角を曲がったところで、王太子セージ・アルバードはわずかにつま先を滑らせた。
すぐに姿勢を立て直す。
誰も気づかなかったかのように、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「殿下?」
すぐ後ろを歩いていたサフランが、反射的に一歩踏み出した。
「今、足元――」
「大丈夫だよ。少し目が回っただけだ」
セージは軽く笑って、何でもないというように片手を振った。
その仕草は自然で、これだけ見れば“少し疲れているだけ”で通ってしまう。
……だが、サフランの目には、別のものが見えていた。
(顔色が、悪い)
いつもなら健康な白さを保っているはずの肌が、今日は妙に青白い。
唇も、ほんの少しだけ色を失っている。
何より――脈だ。
さっき、何気なく冗談を言い合ったときに、さりげなくセージの手首に触れた。
触診のフリをして。
脈は、速すぎず、遅すぎず。
一見「普通」の範囲に収まっている。
……ただし、そのリズムが、どこか不自然だった。
(一定じゃない。波が妙だ)
規則正しさと、不規則な乱れが、薄い膜一枚で無理やり繋がっているような感じ。
経験上、“強すぎる疲労”や、“体力の限界”で起きるものとは違う。
それとも、まだ自分の知らない新しい病なのか。
「サフラン?」
考え込んでいたサフランに、セージが首をかしげた。
「怖い顔してるよ。そんなにさっきのよろけ方、ひどかった?」
「……いえ」
サフランは小さく息を吐いた。
「殿下。体調のこと、もう一度宮廷薬師長に相談を」
「もうしてるよ。何度もね」
セージは肩をすくめる。
「“殿下のお仕事ぶりが激しすぎるのです。もっとお休みを”って、皆口をそろえて言う。
強壮剤と回復ポーションを山ほど出されて、飲むたびに一時的には楽になる」
そこで、言葉を区切り、少しだけ苦笑した。
「でも、夜になるとまた微熱が出て、朝になる頃にはだいたい引いてる。
“働きすぎの一時的な不調”って診断だ」
「……それでご納得されているんですか」
「納得はしてないけど」
セージはあっさりと言った。
「今のところ、仕事に致命的な支障があるわけじゃないしね。
この程度で“大騒ぎして寝込む王太子”なんて、かっこ悪いでしょ?」
「かっこよさの問題ではありませんが」
思わず素で返してしまい、セージが笑い声を漏らす。
「大丈夫。
何か本当におかしかったら、サフランが真っ先に“おかしい”って言ってくれるだろう?」
その言葉は、冗談半分、信頼半分で投げられていた。
――だからこそ、サフランの胸には、重く沈むものが残る。
(今、すでに“おかしい”と感じているのだが)
はっきりした根拠がない。
検査をしても、大きな異常値は出ない。
脈も、血の色も、熱も、微妙なラインで「正常」に紛れ込んでしまう。
だが、長く現場で人間の体を見てきた感覚が、警鐘を鳴らしていた。
(何かが、少しずつ削られている)
毒――と呼ぶには、あまりにゆっくりだ。
病――と呼ぶには、あまりに症状が曖昧だ。
説明のつかない違和感だけが、胸の中で渦を巻く。
◇
「王太子殿下の件なら、何度も診させていただいておりますが」
宮廷薬師団の執務室。
サフランが薬師長ホップに相談を持ちかけたとき、返ってきたのは、慎重で、しかしどこか曖昧な答えだった。
「脈は少し不整ではありますが、許容範囲。
血液検査も、大きな異常は出ておりません。
疲労と睡眠不足が重なっていることは確かですが……」
「ですが?」
「これといった“決定的な病名”が見つからないのです」
その言葉は、ホップ自身にもストレスだったらしく、眉間に刻まれた皺がひときわ深くなっている。
「強壮剤と回復ポーションで“その場しのぎ”をしている状態ですね。
本当は、徹底的に仕事を減らしていただき、静養に専念してほしいのですが……」
「それは、殿下が聞き入れないでしょう」
「でしょうね」
ホップは、薬草の香りが染みついた白衣の袖を小さく振った。
「サフラン殿も、何か違和感を?」
「……はい。
理屈ではうまく説明できませんが、“このまま放置していい状態ではない”と」
「あなたがそう言うなら、きっとそうなのでしょう。
現場上がりの目と勘は、侮れませんからね」
ホップは机の上の書類を軽く叩いた。
「ただ、我々だけでどうにかできる範囲を、もう少し見極めたいところです。
“未知の毒”や、“ゆっくりと効く呪い”の線も捨てきれませんが、根拠なく騒ぎ立てれば、それこそ王家の威信に関わる」
「……ええ」
「様子を見ながら、新しい検査も進めましょう。“何か”が見つかるかもしれません」
サフランは礼をして部屋を出た。
不満ではない。
むしろ、施せる限りのことは施しているのだろう。
それでも――
耳の奥で、ミントの声がよみがえる。
『私は、“ちょっとおかしい”っていう感覚は、大事にした方がいいと思ってます』
田舎の小さな薬草店。
彼女は、例えばこんなとき、どうするだろう。
(話を、聞くだろうな)
数値や検査の結果だけでなく。
その人の生活や、飲んでいるもの、食べているもの、身の回りの変化。
王太子セージの周りで、最近変わったものは――。
「……強壮剤と回復ポーションの量が、少し増えた、か」
サフランは、廊下を歩きながら眉をひそめた。
それは対症療法としては当然の処置だ。
だが、もし原因が別のところにあるのだとしたら?
もし、“効いているように見える何か”で、逆に症状をわかりにくくされているとしたら――。
(何か、おかしい)
言葉にできない違和感が、また形を変えて彼の胸を刺した。
◇
同じ頃。
王城の少し外れ、静かな庭に面した別棟で、もうひとりの王子がゆっくりと茶を飲んでいた。
「兄上も、お忙しいことだ」
第二王太子クローブ・アルバード。
セージの弟でありながら、政治の表舞台にはあまり姿を見せない男だ。
黒に近い濃い茶色の髪を肩まで伸ばし、穏やかな笑みを絶やさない。
侍女や下働きに対しても優しく、声を荒げるところを誰も見たことがない。
――少なくとも、表向きは。
「このところ、顔色が優れないと聞いたけれど」
向かいに座る側近が、余った砂糖をスプーンでかき回しながら答える。
「ええ。宮廷薬師団は、“激務による一時的な不調”と見立てているようですが」
「“一時的”という言葉は、便利だね」
クローブは微笑んだ。
しかし、その瞳にはどこか冷たい光が宿っている。
「“一時的”なら、“いつか自然に収まる”と思い込める。
“今”何かしようという危機感を、上手く鈍らせてくれる」
「殿下は、“一時的”だとは?」
「さあ。どうだろうね」
クローブは、窓の外の青い空を見上げる。
「兄上は優秀だ。
誰よりも国のことを考えているし、誰よりも民の声を聞こうとする。
……そういう人間は、早く擦り減る」
「……」
「僕のように、“影にいるだけの人間”とは違ってね」
そう言って笑う顔は、どこまでも穏やかだ。
しかし、その穏やかさが、逆に底知れなさを際立たせる。
「ところで」
クローブは、ふと話題を変えた。
「噂を聞いたよ。
田舎の方に、“奇跡の薬師”がいるそうじゃないか」
「……やはり耳に入っておられますか」
側近は、内心の動揺を悟られまいとしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「王立騎士団や宮廷薬師団の間で話題になっているようです。
“王都の薬よりよく効く”“人を見て処方を変える”などと」
「名前は?」
「ミント・フェンネル。
伝説の薬師タイムの孫娘だとか」
「ミント」
クローブは、その名を口の中で転がした。
「そういえば――どこかで聞いた覚えがあるね」
ローズ家での騒動の報告。
夜会のポーションの失敗。
そして、“田舎娘の使用人薬師”が追放されたという顛末。
当時は、さほど興味を持たなかった。
ただ、“妙に強気な田舎娘がひとり、王都から消えた”という程度の話として心の片隅にしまっておいた。
――それが今、“王都の外から評価されて戻ってきた”。
「面白い」
クローブは穏やかに微笑んだ。
「みんなが口々に“王太子殿下は素晴らしい”と言う、王都のこの空気の中で。
誰も知らなかった“別の天才”が、静かに育っていた」
「殿下は、その薬師を……?」
「直接会いに行くほど、僕は暇じゃないよ」
肩をすくめながら、クローブはティーカップをソーサーに戻す。
「でも、“その存在を利用したい”と思うくらいには、興味がある」
その言葉は、甘く、冷たく響いた。
◇
ローズ家のサロンに、その招待状が届いたのは、そんな日の午後だった。
「……第二王太子殿下から?」
ローズマリーは封蝋に刻まれた紋章を見て、目を見開いた。
深い緑を基調とした、ささやかな紋章。
王太子セージの輝く黄金とは違う、控えめな色。
「まあ。珍しいこともあるものですわね」
心臓が、不穏なリズムを打つ。
招待状の内容は、格式ばっていた。
『王立薬学会に関する意見を伺いたい』
『貴家の薬学への理解は、王都でも高く評価されている』
……などなど。
綺麗な言葉で飾られているが、要するに「一度話がしたい」ということだ。
(第二王太子殿下が、私に)
鏡に映る自分の顔が、自然と笑みを形作る。
ローズマリーは迷わなかった。
最上のドレスを選び、最高の宝石を身につけて、その日のうちに城へ向かう手配をした。
◇
「初めまして、ローズマリー・ローズ嬢」
静かな応接室。
クローブは立ち上がって、丁寧に礼をした。
「お招きいただき光栄ですわ、殿下」
ローズマリーも完璧な礼を返す。
ふたりの笑みは、どちらも“貴族としての教養”の上に成り立ったものだった。
「以前から、あなたのお名前は伺っていました。
“貴族でありながら薬草の知識に通じた令嬢がいる”と」
「お恥ずかしい限りですわ。
ただ、田舎の遊びに毛が生えたようなものです」
謙遜しながらも、その瞳には誇りが宿っている。
クローブはそれを見て、内心で小さく頷いた。
(自尊心が高い。
それは、扱い方を間違えなければ、良い“燃料”になる)
「田舎の遊びに毛が生えた程度であれば、夜会のポーションなど任されないでしょう」
クローブは、あえてその話題に触れた。
「――」
一瞬、空気が張り詰めた。
夜会の失敗。
ミントの追放。
ローズ家の評判の傷。
ローズマリーにとって、忘れたくても忘れられない出来事だ。
「その件については、申し訳なく思っておりますわ」
ローズマリーは、ぎり、と奥歯を噛み締める感覚を押し隠しながら言った。
「未熟な者を雇っていた父の不見識でもありますし、私自身、監督が足りませんでした。
結果として、王太子殿下にご迷惑をおかけしてしまったことは――」
「僕は、夜会のポーションの話を責めているわけではないよ」
クローブは、やんわりと首を振った。
「むしろ、僕が関心を持っているのは、その後だ」
「その後?」
「“追放された田舎娘”が、今や“田舎の奇跡薬師”と呼ばれていることについて、だ」
ローズマリーの手が、膝の上で微かに震えた。
「……噂を、お聞きになっているのですね」
「王都は噂の街だからね」
クローブは微笑を崩さない。
「ミント・フェンネル。
タイムの孫娘。
かつてローズ家に仕えていた使用人」
その名を聞いた瞬間、ローズマリーの胸の奥で、何かが音を立てた。
(あの田舎娘)
王都から追い出したはずの存在。
自分の世界から消したはずの、地味な影。
それが今、王都の外から、自分よりも高く評価されている。
「あなたは、彼女の腕をどう評価している?」
クローブの問いは、柔らかく、しかし鋭かった。
「才能は……それなりに、ありましたわ」
喉の奥に引っかかった言葉を、どうにか絞り出す。
「ですが、それは“使用人として適切な範囲”の話。
身分をわきまえず、出過ぎた真似をしなければ、の話ですわ」
「出過ぎた真似?」
「自分の立場を理解せず、“自分のやり方”を押し通そうとするのです。
貴族の家に仕えている以上、主の判断が最優先であるべきなのに」
それは、ローズマリーなりの“正しさ”だった。
貴族は命令する側。
使用人は従う側。
――その枠組みから外れようとする者は、「間違っている」。
「なるほど」
クローブは、静かに頷いた。
「つまり――“正しく導いてくれる主”さえいれば、その才能はもっと有効に使えたかもしれない、ということだね?」
「……ええ。そう、かもしれませんわね」
その言い回しは、ローズマリーの自尊心をくすぐった。
(そう。私が正しく導いてあげてれば――)
でも、それをしなかった。
あの日、自分はミントを“切り捨てた”。
だから今、自分は王都で“そこそこの薬草に詳しい令嬢”のままで、
ミントは田舎で“奇跡薬師”と呼ばれているのだ。
「ローズマリー嬢」
クローブの声が、少しだけ低くなった。
「もし“正しく導いてくれる主”が、ここにいたとしたら――君はその手を取りたいと思うかい?」
「……どういう意味で、しょうか」
「君の薬師としての才能と、僕の立場を組み合わせれば、“もっと上”に行ける」
言葉は、甘い毒のようだった。
「“王都でそこそこ評判のいい令嬢薬師”ではなく、“王家に必要とされる薬師”になれる。
君の調合は、“王太子を救った奇跡の薬”として語られることになるかもしれない」
「――王太子、殿下?」
その単語に、ローズマリーの瞳が揺れた。
「兄上は、今、体調を崩し始めている」
クローブは、さらりと言った。
「まだ誰も“大問題”として扱ってはいない。
宮廷薬師たちは、強壮剤と回復ポーションで誤魔化している。
――そこに、“君だけが持つ特別な薬”を差し出したら?」
ローズマリーの喉が、ごくりと鳴る。
(王太子殿下を救った薬。
それが、“ローズ家の令嬢ローズマリーの処方”として広まったら――)
今までの評価が、ひっくり返る。
ミントの噂なんて、かき消せる。
だが、同時に、冷たい疑問も浮かんだ。
「……そんな都合のいい“特別な薬”が、本当に存在するのですか?」
「君なら作れる」
即答だった。
「君は、ミント・フェンネルの配合メモを写しているはずだ」
「――っ」
背筋が凍る。
それは、ローズ家のごく限られた人間しか知らないはずのこと。
ミントのメモを、こっそり盗み見て、自分のノートに写し取ったこと。
それを、どうして第二王太子が知っているのか。
「盗んだと言いたいわけではないよ。
“参考にした”のだろう?」
クローブは、あくまで優しい声で続ける。
「“ミントの才能”に嫉妬しながらも、“自分のものにしたかった”。
それは、ごく自然な感情だ」
「……私を、責めるために呼んだのですか?」
ローズマリーの声に、怒りと怯えが混ざる。
「まさか」
クローブの瞳が、暗い光を帯びた。
「僕は、“君のその感情を、利用したい”と思っているだけだ」
利用――。
その言葉は本来、不快であるべきなのに、
ローズマリーの胸には、妙な高揚感が広がった。
誰かに“利用される”ほど、自分に価値があるということ。
王家の人間に、そう言われること。
「君は、ミントの配合に、“君なりの味付け”を加えることができるはずだ。
見た目を良くしたり、香りを良くしたり。
王都の貴族に好まれるように、洗練させることができる」
「……それは、できると思いますわ」
自信だけはあった。
ミントにはない、“王都の感覚”という武器が、自分にはある。
「では――そこに、“ほんの少しだけ別の成分を混ぜる”としたら?」
クローブの声が、ひやりと冷たくなる。
「夜哭百合(よなきゆり)という名を、聞いたことは?」
「――夜哭百合」
その名を聞いた瞬間、ローズマリーの背中にぞくりと悪寒が走った。
薬草の教本の、最後の方。
“禁忌”のページに、ひっそりと載っていた名前。
白く細い花弁を持ち、夜にだけ花を開き、咲いている間じゅう、微かな泣き声のような音を立てると書かれていた。
ほんの微量であれば、強い興奮と高揚感を与える。
だが、長期的には、内臓を少しずつ蝕み、血を汚し、やがて全身を弱らせる。
その毒性のため、栽培も採取も禁止された、禁じられた毒草。
「……禁忌の毒草、ですわ」
「そう。
だが、“禁止されている”ということは、“完全にはこの世から消えていない”ということでもある」
クローブは、涼しい顔で続けた。
「僕の手元に、ほんの少しだけ、そのエキスがある。
それを、君の“兄上を救う薬”に、極々わずかに混ぜるとしたら?」
ローズマリーの心臓が、大きく跳ねた。
「それは……」
「一度に大量に飲ませる必要はない。
ほんの少しずつ、“元気になる薬”という名目で飲んでいただければいい」
クローブの瞳が、笑っていない。
「“兄上を救った奇跡の薬”として称えられながら、兄上の体はゆっくりと蝕まれていく。
誰も原因に気づかない。
最終的に、“激務による体調不良が、遂に限界を超えた”と結論づけられるだろう」
「そんな……」
「そして、そのとき、誰が王位を継ぐ?」
静寂。
重い問い。
答えは、言葉にしなくても明らかだ。
「僕は、“悲しみに暮れる弟”として、兄上の遺志を継ぐ。
君は、“かつて兄を救おうとした薬師”として、王家にとって手放せない存在になる」
ローズマリーは、息をするのも忘れていた。
禁じられた毒草。
夜哭百合。
王太子の死。
王家の権力。
その全てが、甘く、危うい誘惑として目の前に差し出されている。
「もちろん、これは“仮定の話”だ」
クローブは、紅茶を一口含んだ。
「君が“そんなことはできません”と言うなら、ここで終わる。
僕は別の方法を探す。
君は、これからも“そこそこの評判の令嬢薬師”のままだ」
「――」
「だが、もし君が、“もっと上”に行きたいと望むなら」
クローブの声が、ひどく優しくなる。
「僕は、その望みを叶えるために、手を貸そう」
夜哭百合――。
禁忌の毒草の名が、ローズマリーの頭の中で何度も反響する。
(ミントは、田舎の小さな店で、村人相手に“ありがとう”って言われている)
素朴な幸せ。
ぬくもりのある日々。
(でも私は、王都で、王家のそばで、“貴重な薬師”として名前を刻める)
どちらがいいか――そんな問いではなかった。
ローズマリーにとって、“自分の価値がどこで輝くか”の問題だ。
嫉妬。
悔しさ。
認められたいという渇き。
その全部が、夜哭百合の花びらに似た、白い毒として胸の中に咲き始める。
「……もし」
唇が、勝手に動いた。
「もし、その“仮定の話”を、現実にしたとして。
私は、どこまで知ることになるのですか?」
「好きなところまで知ればいい」
クローブは微笑む。
「“王太子を救おうと全力を尽くした薬師”として記録に残るか。
“王の座を支える影の協力者”として、僕と秘密を分かち合うか。
選ぶのは、君だ」
ローズマリーの瞳が、ゆっくりと細められる。
その奥に宿る光は、もう「ただの嫉妬」ではなかった。
自分の人生を、自分の手でねじ曲げようとする、危険な決意の色だ。
「夜哭百合のエキス……本当に、お持ちなのですか?」
「ええ」
クローブは、ポケットからごく小さなガラス瓶を取り出した。
中には、濃い紫がかった液体が、ほんの数滴だけ入っている。
瓶を傾けるたび、光がねっとりとした反射を返す。
「これは、僕には扱えない。
薬師である君にしか、扱えない代物だ」
瓶の中身の危険性を理解するほど、同時に、その“特別さ”がローズマリーの心をくすぐる。
(私にしか扱えない)
(私だけが、この毒を薬に変えられる)
その錯覚は、強烈な甘さを伴って胸に広がる。
「……少し、お時間をいただけますか」
ローズマリーは、震える声で言った。
「“仮定の話”について、考える時間を」
「もちろん」
クローブはあっさりと頷いた。
「急ぐ必要はない。
夜哭百合の花は、ゆっくりと咲き、ゆっくりと枯れるものだから」
その微笑みの裏に潜む闇に、ローズマリーはまだ気づかない。
――あるいは、気づいていて、見ないふりをしたのかもしれない。
こうして、王太子セージの体の中に忍び寄る“静かな不穏”と、
ローズマリーの胸に咲いた“禁忌の花”は、ゆっくりと同じ方向へと根を伸ばし始めていた。
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