田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛

タマ マコト

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第10話「“奇跡の薬師”が、王都に届く日」

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 それは、本当に、唐突だった。

 いつものように、会議室には重たい空気が満ちていた。
 王都の財政、近隣国との微妙な駆け引き、今年の収穫予想。
 長机の上には書類が山のように積まれ、重厚な椅子に、王と大臣たちが並んで座っている。

 その中央。
 王太子セージ・アルバードは、いつものように穏やかな笑みを保っていた。

「……ですから、今年の徴税はこれ以上強めるべきではありません。
 今、農民たちの生活を削れば、来年の畑に影響が出る。
 それは、数年後の国全体の損失として返ってきます」

 丁寧な言葉。
 柔らかな声。
 けれど、その芯は揺るがない。

 王はじっと息子を見つめ、重々しく頷いた。

「セージの言う通りだ。
 即席の金は、先細りの民からは取れぬ」

「ハッ」

 大臣たちが一斉に頭を下げる。

 ――その瞬間まで、何もおかしくなかった。

「……殿下?」

 サフランは、セージの手元を見た。
 いつもなら滑らかに動くはずの指が、一瞬もつれた。

 ペン先が紙の上を外れ、カリ、と小さな音を立てる。

「殿下、お疲れが――」

「……ああ、ごめん。少し、目が……」

 セージは笑ってみせようとして――間に合わなかった。

 視界の光が、ふっと遠のく。
 足元から、力が抜けていく。

「あ――」

 椅子が軋む音。
 横に倒れかけた身体を、サフランが反射的に支えた。

「殿下!」

 会議室の空気が、一瞬で凍りついた。

 王が立ち上がろうとするより早く、サフランはセージの上体を抱き起こし、首筋に指を当てる。

 脈は――ある。
 呼吸もある。
 だが、どこか、おかしい。

(速い……いや、違う。速いだけじゃない)

 規則的な拍動と、不自然な乱れ。
 それが、奇妙なリズムで交互に押し寄せている。

 額に触れると、熱がじわりと指先に伝わる。
 軽い微熱――のはずなのに、内側で何かが煮立っているような感覚。

「すぐに寝所へ運べ! 宮廷薬師を呼べ!」

 王の怒号が飛ぶ。
 兵士たちが慌ただしく動き、セージはそのまま運び出されていった。

     ◇

「殿下の容態は?」

「意識は戻られました。
 ただ、熱がなかなか引きません。脈も不安定で……」

 王太子の寝所には、重たい空気が流れていた。

 薄く開かれたカーテン。
 額に当てられた冷たい布。
 一人、また一人と出入りする薬師たち。

 サフランは、ベッド脇から一瞬も離れようとしなかった。

 セージは目を閉じているが、眠ってはいない。
 うっすら開いた唇から、浅い呼吸が規則性を失いかけたリズムで漏れている。

「……ごめん。心配かけるね」

 時々、そんな冗談めいた言葉までこぼす。
 それが余計に、恐ろしかった。

(こんな状態でも、気丈に振る舞おうとするのか)

 強すぎる意志が、弱っていく身体を無理やり引っ張り続けている。
 そんな歪なバランスに見えた。

「ホップ薬師長」

 サフランは、すぐ近くで準備をしていた薬師長に声をかける。

「殿下の血液の検査は?」

「今、再度行っています。
 さきほども申し上げましたが……通常の毒物反応は出ていません」

 ホップは疲れた顔で眉を寄せた。

「強壮剤に含まれる成分も、問題のあるものは見当たりません。
 ローズ家の強壮薬も同様に、事前に成分をチェックしています。
 “単体”では、危険なものはどこにもない」

「単体では、ですか」

 サフランは、無意識に声を低くしていた。

「……複合で、何か起きている可能性は?」

「可能性なら、いくらでも挙げられます。
 ですが、“何が原因で”“どう組み合わされて”こうなっているのかが、まだ見えないのです」

 ホップは、肩を落としながらも、すぐに姿勢を正す。

「血液の一部をお借りできますか?」

 サフランは、セージの腕に視線を落とした。
 青い血管が薄く浮き上がっている。

「構いません。……俺にも、ひとつ、確かめたいことがある」

「何か、心当たりが?」

「……まだ、勘の域を出ません」

 王太子の腕に針が刺さる。
 わずかな血液が小さな瓶に集められた。

 赤い液体が、ランプの光を受けてじんわりと光る。

 サフランの胸の内で、何かが嫌な音を立てた。

(“普通じゃない”)

 それは、色の問題ではない。
 鼻をくすぐる、かすかな金属臭。
 血液の粘度。
 ――そして、ごくごく薄い、甘い匂い。

(どこかで……)

 頭の中で記憶が渦を巻く。
 薬草の匂い。
 毒の匂い。
 昔、資料をめくりながら嗅いだ“禁忌のサンプル”の匂い。

 夜哭百合。

 その名が、脳裏に浮かんだ瞬間、背筋がぞくりと冷えた。

「……ホップ薬師長」

 サフランは、小さな声で呼びかける。

「夜哭百合に対する反応試薬は、まだ保管されていますか?」

 ホップの目が見開かれた。

「――! ……禁じられています」

「知っています。
 ですが今は、手段を選んでいる場合ではない」

 サフランは、珍しく言葉を強めた。

「殿下の容態は、“激務”で片付けていい状態ではありません。
 “未知の病”という言葉でごまかしているうちに、取り返しのつかないところまで行ってしまう」

 ホップは、数秒間、じっとサフランを見つめた。

 若いが現場叩き上げの宮廷薬師。
 王太子の信頼も厚い男。

 その瞳の中にあるものは、焦りでも、怒りでもなく。
 純粋な“恐怖”だった。

「……わかりました」

 ホップは深く息を吐いた。

「これも“勘”というやつでしょうね。
 私の勘は、“あなたの勘を無視するな”と言っています」

 二人は、人目を避けるように研究室へ向かった。

     ◇

 夜の宮廷薬師団の研究室は、昼とは別の顔をしていた。

 ランプの光で長く伸びた影。
 静まり返った棚。
 時折、薬草同士が微かに擦れ合う音。

 ホップは、鍵のかかった引き出しをひとつ開け、さらに小さな箱を取り出した。

「これは、もう“存在しない”ことになっている試薬です」

 箱の中には、琥珀色の小瓶が並んでいた。
 それぞれに細いラベルが貼られ、“夜哭百合 反応用”と書かれている。

「本来は、“研究目的でのみ使用可”だったものですが……今や、研究すら禁じられている」

「今から行うのは、“研究”です」

 サフランは、静かに言った。

「王太子殿下の体の中で何が起きているのか。
 それを知るための、最低限の行為です」

「……そういうことにしておきましょう」

 ホップは、わずかに口元を緩めた。

 セージから採取した血液を、小さなガラス皿に垂らす。
 そこに、ごく少量の反応試薬を落とした。

 ほんの一滴。

 最初の数秒、何も起きないように見えた。

 次の瞬間。

「――っ」

 赤い液体の中に、黒い筋がすっと走った。

 血の赤と、反応試薬の淡い色が、あり得ない形で絡み合う。
 表面に現れた黒い模様が、じわりじわりと広がっていく。

「これは……!」

 ホップが息を呑んだ。

「夜哭百合……もしくは、それに“極めて近い性質”を持つ毒物。
 その残滓が、殿下の血液中に存在している」

「完全な一致ではない?」

「夜哭百合そのものなら、ここまで長く持ちこたえておられないでしょう。
 もっと急激に、臓器を破壊しているはずです」

 つまり――。

「夜哭百合に似た性質を、“薄く”“長く”取り込む形で、体内に入っている」

 サフランの喉が乾いた。

「普通の薬師では、解毒できない」

 自分の声が、自分の耳に冷たく響く。

 夜哭百合は、“単発の中毒”であれば、まだ対処の手段がある。
 だが、こうして長期的に少しずつ取り込まれている場合――
 その“蓄積分”をどうやって洗い流すかは、ほとんど前例がない。

「……どうしますか」

 ホップが問う。

「あとは、陛下に報告し、“祈る”だけ、という選択肢もありますが」

「祈りで毒は抜けません」

 サフランは即答した。

 頭の中に、森の匂いがよみがえる。
 雨上がりの土。
 焦げた肉の匂い。
 そして――ひどく心細い状況の中で、確かな手つきで自分の腕を救ってくれた少女。

 ミント・フェンネル。

 彼女の薬は、ただ傷を塞いだだけではなかった。
 焼け焦げた組織と、魔力が焼いた後遺症を、驚くほど綺麗に洗い流してくれた。

(あの回復力は――“普通じゃなかった”)

 兵士たちが口々に言っていた。“田舎の奇跡薬師”。
 あの言葉を、サフランは今まで少しだけ鼻で笑っていた。

 ――奇跡なんて、努力と経験の塊に過ぎない。

 だが今、この状況で。
 “常識を超える”何かに頼らなければ、間に合わない。

「ホップ薬師長」

「はい」

「田舎の村に、夜哭百合すら打ち消せる“可能性”のある薬師がいます」

 ホップの目が、驚きと疑いで揺れた。

「その者とは……まさか」

「ミント・フェンネル。
 “田舎の奇跡薬師”と呼ばれている少女です」

 サフランは、はっきりと言った。

「彼女は、俺の腕を救った。
 焼け焦げた組織と魔力毒を、一晩でここまで回復させる処置を施した。
 宮廷薬師団でも、ごく一部の者にしかできないレベルを――森の中で、最低限の道具だけで、です」

「……噂以上、ということですか」

「噂なんて、まだ優しい方ですよ」

 思わず、口元が苦く笑った。

「王都の薬が効かない病が、彼女の店で“生活できるくらいには”なっている。
 そんな話が、辺境から噴き出しているんです」

 ホップはしばらく黙り込んだ。

 そして、ぽつりと呟く。

「王宮の薬師が、田舎の薬師に頼る……か」

「誇りを傷つける話かもしれませんが」

「誇りより、王太子殿下の命の方が重いに決まっているでしょう」

 ホップは、ふっと笑った。

「行きましょう。陛下のところへ」

     ◇

 玉座の間は、いつになく重苦しかった。

 王が玉座に座り、その右手に第二王太子クローブ。
 左手には、王妃と王太子付きの侍女たち。

 セージ本人は、当然ここにはいない。
 寝所のベッドの上で、微熱と戦いながら横たわっている。

「……夜哭百合、だと?」

 サフランとホップの報告を聞いた王の声は、抑えられた怒りを含んでいた。

「正確には、“夜哭百合に酷似した毒性を持つ何か”です。
 完全な一致ではありませんが、反応試薬は強く反応しました」

 ホップが答える。

「誰だ、そんなものを王城に持ち込んだのは」

「現時点では断定できません」

 サフランは、あえて一歩出るに留めた。

 クローブが、静かに口を開く。

「兄上が日常的に口にしているものは限られています。
 強壮剤、回復ポーション、ローズ家から献上された特別な薬……」

「ローズ家……か」

 王妃が眉を寄せた。

「彼らがそんな真似をする理由があるとは思えませんが」

「故意かどうかは、今は問いません」

 サフランは、言葉を続けた。

「問題は、“今この瞬間、殿下の体の中で毒が蓄積し続けている”という事実です」

「解毒はできぬのか」

 王の問いは重い。

 ホップが、沈痛な表情で首を振った。

「通常の解毒手段は、試せる限り試しました。
 しかし、毒は“薄く”“深く”染み込んでいるようで、“表面に浮いてこない”のです」

 サフランは、深く息を吸った。

「……だからこそ、提案があります」

「言え」

「田舎の一村に、“奇跡薬師”と呼ばれる少女がおります」

 ざわ、と、静かなざわめきが生まれた。

「前々から騎士団の間で噂になっていた者です。
 “王都の薬が効かない怪我や病でも、あそこなら生活できるくらいまで戻る”と」

「そんな荒唐無稽な噂を……」

 側近の一人が、思わず口を挟む。

 だが王は手で制した。

「続けよ」

「俺自身、その少女に救われています」

 サフランは、自分の左腕を軽く持ち上げた。

「森で瀕死の重傷を負った際、彼女の処置で一晩で動かせる程度まで回復しました。
 その後の後遺症も、ほとんど残っていません。
 兵士たちの間でも、彼女の薬による“異常な回復例”が複数報告されています」

「その者の名は?」

「ミント・フェンネル。
 伝説の薬師タイムの孫娘です」

 タイムの名が出た瞬間、王の目がわずかに揺れた。

「……タイム、か」

 若い頃、何度か耳にした名だ。
 王都に迎えたいと望みながら、頑なに田舎を選んだ薬師。

「その孫娘が、“祖母を超えるかもしれない”薬師として育っている可能性があります」

 サフランは、真正面から王を見た。

「もちろん、彼女が夜哭百合に対抗できるという保証はありません。
 ですが――今、王太子殿下の命を救う手段の中で、“最も可能性がある”のは、彼女だと考えています」

 玉座の間に、沈黙が落ちる。

 クローブが、穏やかな声で口を開いた。

「つまり、兄上の命を、田舎娘ひとりに委ねる、ということか」

 その言い方には、わずかな棘があった。
 だが、サフランは目を逸らさない。

「“委ねる”というより、“賭ける”です。
 何もしなければ、殿下の身体は確実に蝕まれていく。
 ならば、“普通ではない解決策”に賭ける価値はある」

「その少女を、王都に呼ぶのか?」

 王妃が問う。

「はい。
 できる限り早く、王家としての正式な招致として」

 王は、長く息を吐いた。

 息子の寝顔が脳裏に浮かぶ。
 幼い頃、泥だらけになりながら城の庭を駆け回っていた姿。
 民の話を真剣に聞こうと、身分を偽って城下町を歩き回っていた姿。

「父としては、息子の命にできることを、全てしたい」

 低く、しかしはっきりとした声。

「王としては、“王太子の命を田舎娘に預けた”と言われるのは、決して軽くはない」

「……陛下」

「だが」

 王は玉座に深く座り直した。

「何もしなかったときの悔いには、耐えられぬだろう」

 その瞳に宿ったのは、王としての決意か、父としての祈りか。

「よい。
 王家の名で、その薬師を緊急招致する。
 一刻を争う。最速の急使を出せ」

「ははっ!」

 サフランは深く頭を下げた。
 胸の奥で、何かがようやく動き出した気がした。

(ミント――)

 雨の森で見上げた少女の横顔が、鮮やかによみがえる。

(今度は俺が、“お前を必要としている”と言いに行く番だ)

     ◇

 急使は、その日のうちに王都を飛び立った。

 王家の紋章を刻んだ馬具。
 日夜を問わない交代制。
 街道沿いの宿と詰所で、馬と騎手だけを素早く入れ替える。

 王太子の命を乗せたような速度で、馬蹄が大地を叩き続ける。

 夕焼けの中を駆け、星空の下を駆け、朝焼けの中を駆ける。
 山を越え、森を抜け、畑の間を縫うように。

 道の脇に立つ村人が、遠くから舞い上がる土煙を見てざわめく。

「あの紋章……王家の急使じゃないか?」
「何があったんだ……戦か?」

 不安と好奇心が入り混じった視線が、駆け抜ける騎馬を追う。

 やがて、見慣れた小さな村の入り口が見えてきた。

 木の柱にぶら下がったボロボロの旗。
 畑と、川と、石を積んだだけの門柱。

 その奥に、小さな看板が揺れている。

《薬草店グリーンノート》

 急使は馬を一瞬だけ緩め、看板を確認すると、再び速度を上げて村の中へと飛び込んだ。

     ◇

 そのころ、グリーンノートの中は、いつもの夕方のざわめきに包まれていた。

「はい、お次の方――あ、今日はここで終わりにしますね。ごめんなさい、軟膏がもう足りなくて」

「いいよいいよ、明日また来るから。無理すんなよ、ミントちゃん」

「ありがとうございます……!」

 最後のお客を見送り、ミントはどっとその場にへたり込んだ。

「今日もよく働いたわねぇ」

 デイジーが笑いながら、カウンターを拭いている。

「明日の朝には、また村長が薬草届けてくれるって言ってたから、それまでに瓶とラベルの準備しとかないとね」

「ラベル地獄だ……」

 ミントは机に突っ伏しそうになった刹那。

 村の外から、地面を震わせるような蹄の音が聞こえてきた。

 ドドドドド――。

「な、何?」

「こんな勢いで村に入ってくる馬なんて……」

 通りを歩いていた村人たちが、一斉に振り向く。

 数息遅れて、グリーンノートの扉が勢いよく開いた。

「薬草店グリーンノートはここか!」

 低くよく通る声。
 見上げると、王家の紋章を胸につけた騎士が、息を荒げて立っていた。

 鎧は土埃にまみれ、額には汗が光っている。
 それでも、その姿勢は一分の隙もない。

「えっ、あ、はい! ここです!」

 ミントは慌てて跳ね起きた。

「店主、ミント・フェンネルはお前か」

「は、はいっ!」

 名を呼ばれた瞬間、胸がぎゅっと縮まる。

(王家の紋章……? なんで――)

 騎士は、胸元から封筒を取り出した。
 真紅の封蝋には、王家の紋章がくっきりと刻まれている。

「王家よりの緊急書状だ」

 その場にいた村人たちが、一斉に息を呑む。

「王家……!」
「ミントちゃんに……?」

 ざわざわと小さな波が広がった。

 ミントは、震える手で封筒を受け取る。

 手のひらにずしりと重みが乗った気がした。
 紙の重さだけじゃない。
 その向こう側にいる、“誰かの命”の重み。

 封蝋が、ランプの光を受けて鈍く光る。

「……開けても?」

「もちろんだ。
 中身は、お前に宛てられている」

 騎士の声は硬いが、どこか急かすような響きがあった。

 ミントは、震える指で封蝋を割った。
 ぺり、と音がして、重ねられた現実が剥がれていく。

 中には、上質な紙に、流麗な文字で文章が綴られていた。

『薬草店グリーンノート 店主ミント・フェンネル殿』

 自分の名前。
 “店主”という肩書き。

 それだけで、胸がじんと熱くなる。

 ――けれど、その先の文が、その熱を一瞬で凍らせた。

『王太子セージ・アルバード殿下、原因不明の病にて倒れられる。
 宮廷薬師団を挙げて治療に当たるも決定的な治療法を見出せず、
 殿下の御命、いまだ危うき状態にあり』

 文字が、目の前でゆらりと揺れた気がした。

『ついては、汝がかの伝説の薬師タイムの孫にして、
 数々の難治の怪我や病を癒したる“奇跡の薬師”と聞き及ぶにより――』

「“奇跡の薬師”……」

 思わず、小さく読み上げてしまう。

 背後で、村人たちが「ほら見ろ」と囁き合うのが聞こえた。

 ミントは、最後まで目を走らせた。

『王命をもって、王都への緊急招致をここに命ず。
 可能な限り早く王城へ参じ、王太子殿下の診立てと治療に協力せよ。
 道中の安全ならびに必要な物資は、王家がこれを保障するものとす』

 最後には、王の名と署名。
 重々しい文字が、紙の上に刻まれている。

 読み終えた瞬間、ミントは紙を持つ指に力が入らなくなりそうになった。

「ミントちゃん……?」

 すぐそばで、デイジーが心配そうに覗き込む。

 彼女の手が、そっとミントの背に添えられた。

「大丈夫?」

「……わかりません」

 正直な答えが、口からこぼれた。

 王太子。
 王家。
 王都。

 ――全部、自分には縁がないと思っていた世界だ。

 むしろ、自分を切り捨てた側。
 あの冷たい屋敷の主たちと同じ側。

「田舎娘の私が……王太子殿下を?」

 言葉にした瞬間、喉の奥がきゅっと詰まる。

(無理、じゃない?)

 頭の中で、弱い自分が囁く。

(だって私は、ローズ家でさえまともに認められなかった“田舎娘”で。
 王都から追い出された、役立たずで。
 ここでようやく、村の人たちに“ありがとう”って言ってもらえるようになったばかりで――)

「でも」

 その囁きを、別の声が遮った。

 森の匂い。
 焼けた傷。
 その中で、震える手で必死に処置をしたあの夜。

『助かった。命の恩人だ』

 サフランの声が、よみがえる。

『近いうちに、必ずまた来る。
 ここは、俺にとっても“覚えておくべき場所”だ』

 ――その“覚えておくべき場所”から、今、王都が助けを求めている。

「ミント」

 デイジーが、そっと肩を叩いた。

「怖い?」

「……はい」

 嘘はつけなかった。

「怖いです。
 私なんかが行って、本当に役に立てるのか。
 もし間違えたら……王太子殿下の命に関わる」

 膝がわずかに震える。

 その震えを、もう一度別の手が支えた。

「ミントちゃん」

 いつのまにか、村長が扉のところに立っていた。

 丸い身体。
 眠そうな目。
 でも、その瞳の奥は、いつもよりずっと真剣だ。

「お前、誰の店だ?」

「……え?」

「薬草店グリーンノート。
 誰の店だ?」

「わ、私の……店です」

「そうだ。ミントの店だ。
 田舎娘で、追放されて、それでもここで立ち上がって――村の“薬師”になったお前の店だ」

 村長は、ゆっくりと近づいてきた。

「王太子だろうが村人だろうが、人の命の重さに変わりはない。
 お前は、今までと同じことをするだけだ。“目の前の人に合う薬を考える”」

「でも……王太子殿下なんて、そんな……」

「ミントちゃん」

 今度はデイジーが、ぐいっと顔を近づけた。

「もし、あんたが行って“ダメでした”ってなったときと――
 “行かなかった”せいで誰かが後悔するときと、どっちが嫌?」

 胸を刺すような問いだった。

 目を閉じたときに思い浮かぶのは、笑ってくれた人たちの顔。
 腰の痛みが軽くなったと喜んだダンデライオン。
 子どもの咳が止まって涙ぐんだお母さん。
 森で、痛みに顔を歪めながら感謝を言ってくれたサフラン。

(行って失敗したら、きっと一生自分を責める。
 行かずに、後で“あの時行っていれば”って誰かが泣いていたら――それも、一生許せない)

 ミントは、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

 田舎の空気。
 土とハーブと、人の生活の匂い。

 それを肺いっぱいに満たしてから、王家の書状を胸に抱きしめる。

「……行きます」

 震えは、まだ残っている。
 でも、その奥に、別の熱が灯っていた。

「私でよければ。
 田舎娘の私でよければ――王太子殿下を診させてください」

 騎士の瞳が、わずかに柔らかくなる。

「王家は、君に“賭ける”ことを選んだ。
 それだけの理由が、君にはあると聞いている」

「たぶん、それ言い出したの、サフランさんですね……」

 思わず小さく笑ってしまう。

 胸の奥の震えはまだ消えない。
 だけど、そこに少しだけ“誇らしさ”が混ざった。

 田舎娘。
 追放された元使用人。
 村の小さな薬草店の店主。

 ――その全部を抱えたまま、今度は“王太子の命”という、とんでもない重さと向き合うことになる。

 ミントはもう一度書状を見下ろし、小さく呟いた。

「田舎娘の私が……王太子殿下を?」

 その言葉は、もう“否定”ではなく。
 自分に言い聞かせるための“確認”に、ほんの少しだけ近づいていた。
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もう耐えられない! 隣国から嫁いで五年。一度も国王である夫から関心を示されず白い結婚を続けていた王妃フィリエルはついに決断した。 わたし、もう王妃やめる! 政略結婚だから、ある程度の覚悟はしていた。けれども幼い日に淡い恋心を抱いて以来、ずっと片思いをしていた相手から冷たくされる日々に、フィリエルの心はもう限界に達していた。政略結婚である以上、王妃の意思で離婚はできない。しかしもうこれ以上、好きな人に無視される日々は送りたくないのだ。 離婚できないなら人間をやめるわ! 王妃で、そして隣国の王女であるフィリエルは、この先生きていてもきっと幸せにはなれないだろう。生まれた時から政治の駒。それがフィリエルの人生だ。ならばそんな「人生」を捨てて、人間以外として生きたほうがましだと、フィリエルは思った。 これからは自由気ままな「猫生」を送るのよ! フィリエルは少し前に知り合いになった、「廃墟の塔の魔女」に頼み込み、猫の姿に変えてもらう。 よし!楽しいセカンドラウフのはじまりよ!――のはずが、何故か夫(国王)に拾われ、ペットにされてしまって……。 「ふふ、君はふわふわで可愛いなぁ」 やめてえ!そんなところ撫でないで~! 夫(人間)妻(猫)の奇妙な共同生活がはじまる――

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