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第20話「田舎娘と宮廷薬師、その先の未来」
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時は流れー
その日の営業を終えたグリーンノートは、いつもみたいに、ちょっとだけ疲れて、ちょっとだけ誇らしげな顔をしていた。
看板の灯りを落として、扉に「本日閉店」の札をかける。
店の中には、かすかに残ったハーブの匂いと、昼間のざわめきの余韻が漂っている。
外に出ると、空はすっかり群青色になっていた。
星が、まだ遠慮がちに瞬き始める時間帯。
田んぼの方からは水の音がして、森の方からは夜鳥の声が聞こえてくる。
薬草畑からは、タイムとカモミールが混ざった甘い香りが、風に乗ってゆらゆらと運ばれてきていた。
「ふー……今日もよく働いた」
ミントは、店の前の段差にどさりと腰を下ろした。
靴の裏には、一日の疲れがぎゅうぎゅうに詰まっているみたいで、足先がじんわりじんじんする。
けれど嫌な疲れじゃない。
「ちゃんと使われましたよー」と体が報告してくる感じの、心地よいだるさだった。
「勝手に座るな」
「ここ、店主の特権席です」
「じゃあ隣は宮廷薬師の特権席か?」
「そこは……“なんかいつのまにか居着いた人専用席”ですかね」
「肩書きひどくないか?」
文句を言いながらも、サフランは当たり前の顔でミントの隣に腰を下ろした。
肩と肩が、ちょっとだけ触れるか触れないかの距離。
お互い無意識に、その「ちょっとだけ」をキープしている。
ふと、二人の視線が薬草畑の方へ向いた。
夜の薬草畑は、昼間とは別の顔をしている。
月の光を受けて、ハーブたちの輪郭が淡く浮かび上がる。
風が通るたびに、葉が擦れ合ってささやく音がする。
「……いい匂いですね」
ミントがぽつりと言った。
「今日は一日中、店の中で人の匂いとインクの匂いに包まれてたから、余計にそう感じるのかもしれません」
「人の匂いとインクって」
「え、だって。汗とか、革とか、紙とか、コインとか、そういうの全部ひっくるめて“人の匂い”じゃないですか?」
「まあ、否定はできない」
サフランは、小さく笑ったあとで空を見上げた。
星が、さっきより増えている。
前よりも、村の灯りが増えた気がするのに、それでもこの村の夜空は星がちゃんと見える。
王都の庭で見上げた空と、同じ星のくせに――こっちの方が、ほんの少しだけ近く感じた。
「ねえ、サフランさん」
ミントが、不意に口を開いた。
「ん?」
「私、追放されたときさ」
声のトーンが、少しだけ遠くを見ているようになった。
「全部終わりだと思ってたんですよね」
王都の雨。
ローズ家の門。
ぼろぼろのトランクひとつ。
背中に浴びた冷たい視線と、吐き捨てられた「田舎娘」という言葉。
「“ここまで頑張ってきた意味、全部なかったんだな”って思って。
王都で、誰にもちゃんと見てもらえなくて。
“田舎娘のくせに”って笑われて。
夜会の一件で、完全にトドメ刺された感じで」
あの夜の心細さを思い出すと、胸の奥がきゅっとなる。
でも、今はもう、涙にはならない。
「でも、あの時――ここに帰ってきたから」
ミントは、夜の村をぐるりと見渡した。
遠くで、まだ明かりのついている家。
誰かが笑う声。
どこかから聞こえる、「また明日な」という声。
「今こうしていられるんだよね」
サフランは、横顔をちらりと見た。
店の灯りに照らされたミントの横顔は、あの頃よりずっと柔らかくなっている。
王都で鍛えられた覚悟と、村で育てられた優しさが、一緒にそこに座っている感じ。
「そうだな」
サフランは、簡単に肯定した。
「追放されて、ここに帰ってきてくれたから」
少しだけ間を置いて、続ける。
「あの時森で倒れていた俺を拾ってくれた。
あれがなかったら、俺は今ここにいない」
森の、雨上がりの匂い。
血の匂いと、焼けた鉄の匂いと、一緒に混ざったハーブの香り。
あの日、意識が遠のく中で見た、必死で薬を塗る田舎娘の顔。
「正直、最初は“変な子だな”と思った」
「失礼ですね」
「森の真ん中で、あの状況で、“とりあえずこれ塗っときましょう”って簡単に言える奴、そういない」
「あー……」
言われてみれば、自分でもちょっとどうかしてた気がする。
「でも、その“変な子”がいなかったら、俺は夜哭百合の匂いに気づく前に死んでた。
王太子殿下も、死んでたかもしれない」
サフランは、星を見ながら言う。
「君が田舎に帰ったから、グリーンノートができた。
君が森で俺を拾ったから、俺はここを知った。
俺がここを知ったから、王都に田舎娘の噂を運べた。
王都が君を呼んだから、殿下は助かった」
「……すごい連鎖ですね」
「だろう」
サフランは、少しだけ照れたように笑った。
「俺から見ても、“全部終わったと思ったあの日”が、今に繋がってるようにしか見えない」
ミントは、夜空に視線を上げた。
星は、相変わらずマイペースに瞬いている。
人間のごちゃごちゃなんて、「ふーん」って感じで見下ろしてたぶん笑ってる。
「え、じゃあ、あれって」
「ん?」
「私を追放したローズ家の人たちのおかげってことになりません?」
「そこまで持ち上げなくていい」
「ですよね」
二人で、ふっと笑う。
笑いながらも、その中にはちゃんと「通り過ぎた過去」が混ざっていた。
ローズマリーの涙。
クローブのうつむいた横顔。
王城の中庭で見上げた星。
どれも、もう“今ここにはないもの”だけれど、完全に消えることもない。
「……ねえ、ミント」
サフランの声が、少しだけ低くなった。
ミントは、「ん?」と首を傾げる。
隣を見ると、サフランの表情が、いつもの半分眠そうな顔から少しだけ真剣な顔に変わっていた。
喉ぼとけが上下するのが見える。
本人も、少し緊張しているのがわかる。
(なに、その“ちょっと言いづらいんだけど”みたいな空気)
胸の奥が、妙にそわそわし始める。
「これから先の話なんだが」
「はい」
「俺は、王立宮廷薬師だ」
「そうですね」
「王都に仕事場があって、王城に仕事机があって、王太子殿下のそばにいるのが役目だ」
「はい」
言いながら、サフランの視線は空のままだ。
星と、この村と、自分の心の距離を測っているみたいだった。
「でも最近、ずっと思うんだ」
ミントの心臓が、トン、と大きく跳ねる。
「王都で薬を作るのも、嫌いじゃない。
殿下のそばにいるのも、意味がある。
ホップや宮廷薬師たちと議論するのも、それなりに楽しい」
「はい」
「でも――」
そこからの言葉を出すのに、サフランは少しだけ時間をかけた。
「一番“生きてる”って感じがするのは、ここにいる時なんだ」
ミントは、思わずサフランの横顔を見つめた。
「ここで、子どもに包帯の巻き方を教えたり。
村長に“それ飲み過ぎ”って説教したり。
デイジーに帳簿の誤魔化しを見抜かれたり」
「誤魔化してるんですか」
「“もうちょっと多く見せておけば村が安心するかな”と思って」
「それ誤魔化しっていうんですよ」
「だな」
苦笑しながらも、サフランは続ける。
「ここで君と一緒に、薬草を並べたり、配合を考えたりしている時間が――
俺にとって、一番自然なんだ」
ミントの喉が、きゅっと鳴った。
(あ、これ……やばいやつだ)
頭のどこかで冷静な自分が小さく叫ぶ。
でも、胸の中心で何かがふわっと浮かび上がって、うまく地に足がつかない。
サフランは、一度深く息を吸った。
「ミント」
名前を呼ばれる声が、少し震れている。
「これからも、君の店の一番近くで、君の薬作りを支えたい」
言葉ひとつひとつを選ぶように、ゆっくりと。
「宮廷薬師としてじゃなく――」
ここで、初めてミントの方をまっすぐ見る。
その瞳は、夜の星より少しだけ真剣で、少しだけ怖がっていた。
「一人の男として」
空気が、ぴたりと止まった。
村の音も、夜鳥の声も、虫の声も、一瞬だけ遠ざかった気がする。
ミントの心臓が、爆音で鼓動を刻んでいる。
自分の鼓動がうるさすぎて、相手の呼吸が聞こえない。
(え、え、え)
脳内に、意味のない言葉がぐるぐる回る。
(今のって……え、告白? ですよね? 多分、きっと、いや、どう考えても)
顔が熱い。
耳まで熱い。
星の光なんかなくても、自分の頬が真っ赤になっているのがわかる。
「……えっと」
口が、勝手に動く。
「サ、サフランさん」
「うん」
「今のって、その……」
「その、だ」
サフランも、顔を少し赤くしていた。
こんな真面目な彼を見るのは初めてかもしれない。
いつもは皮肉と理性で自分を守っている男が、今だけはその鎧を少し外している。
「君が田舎娘だろうが、王家特認薬師だろうが、関係ない」
サフランは、視線を逸らさない。
「森で拾われた宮廷薬師としてじゃなく、
“ミントの隣にいたい”って思う男として――ここにいたい」
言葉を聞いているうちに、胸の奥に溜まっていた何かが、じんわりと溶けていくのがわかった。
田舎娘。
追放。
身の程知らず。
有能ぶってるだけ。
そんな言葉にぐさぐさ刺され続けてきた心に、ようやく違う種類の言葉が、まっすぐに届く。
「田舎娘の私なんですけど」
ミントは、泣きそうな笑いそうな、変な声で言った。
「王都で追放されたこともあって、王城でとんでもないことに巻き込まれたこともあって。
薬草と土と森の匂いじゃないと落ち着かない、面倒くさい薬師なんですけど」
言いながら、自分の手を膝の上でぎゅっと握りしめる。
「それでも――」
言葉を選ぶ。
何度も飲み込んで、ようやく外に出す。
「それでも、田舎娘の私でよければ」
星の光が、視界の端で揺れる。
「そばにいてくれると、嬉しいです」
言った瞬間、胸の奥に溜まっていた涙が、するりとこぼれそうになった。
でも、ここで泣いたら多分、息ができなくなる。
だから、代わりに笑う。
笑って、サフランの顔を見る。
彼もまた、目の奥で何かをほぐしていた。
「……了解した」
サフランは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあこれからは、田舎娘の店主と、その隣の――」
ちょっとだけ意地悪そうに笑う。
「“田舎に居ついた宮廷薬師の男”として、よろしく頼む」
「肩書きが長い」
「お前がつけたんだろうが」
二人で、ふっと笑った。
笑いながら、ミントは少しだけ迷って――自分の指先を、そっとサフランの方へ伸ばした。
膝の上。
ほんの少しの距離。
サフランも、一瞬だけ驚いた顔をしてから、ゆっくりと自分の手を動かす。
ぎこちなく、ためらいがちに。
でも、途中で引き返すことなく。
ミントの指先とサフランの指先が、ちょん、と触れた。
その瞬間、心臓がまた跳ねる。
けれど今度のそれは、恐怖の鼓動じゃなくて、何か新しいものが始まる前の合図みたいだった。
触れた指先は、そのまま逃げることなく――少しずつ、絡み合っていく。
最初は本当にぎこちなくて、不器用で。
縫い目の粗い手袋を一緒に着けようとしているみたいな、変な感覚。
でも、いったん絡んでしまうと、それが「ここにいるのが当たり前」という位置に、自然と落ち着いた。
「……あったかいですね」
ミントがぽそっと言うと、サフランは少し顔を赤くして、「そっちこそ」と返した。
指先から、じんわりと熱が伝わってくる。
それは、王都の暖炉の熱より、だいぶ不安定で、だいぶ頼りなくて――
その分だけ、生きている人間の温度だった。
◇
その頃、遠く王都では。
王城の高い塔の一角で、ひとりの青年が窓辺に立っていた。
王太子セージ。
病の影はもう薄い。
頬には健康的な赤みが戻り、目には王太子としての決意と、人としての優しさが同居している。
彼は、夜風を受けながら、遠くの空を見上げていた。
窓から見える星は、以前より少しだけ明るく感じる。
王城の庭で見上げたあの日より、ずっと軽い気持ちで、今は星を見上げられる。
手には、一通の手紙。
田舎の薬草店から届いたものだ。
『王都からの新しい症例、拝見しました。
こちらでも似た症状の人が少しずつ出ていたので、村でできる範囲で対策を始めています――』
丁寧な字。
ところどころに混ざる、“ミントらしい”余白。
読み終えた後も、セージはしばらくその手紙を見つめていた。
「……あの田舎娘の薬師がいてくれる限り」
誰に言うでもなく、ぽつりと言葉がこぼれる。
「この国は、大丈夫だ」
宮廷薬師団がどれだけ優秀でも。
騎士団がどれだけ強くても。
王族がどれだけ賢くても。
それだけでは、国は回らない。
田舎の村で、小さな薬草店が灯りをともしていること。
そこで人の話を聞き、生活を守るための薬を作る誰かがいること。
それが、国の脈を静かに整えている。
「……ありがとう、ミント」
セージは、手紙をそっと大事に折りたたんだ。
王太子としての礼でもあり。
ひとりの青年としての、感謝でもあった。
◇
村の夜。
グリーンノートの前では、ミントとサフランが、まだ手を繋いだまま星を眺めていた。
遠く王都の塔と、田舎の小さな店。
その間には、目には見えないけれど確かな線が引かれている。
森の匂いと、土の匂いと、薬草の香り。
人の笑い声と、泣き声と、「助かったよ」という声。
田舎娘と呼ばれ、追放され、世界が一度壊れた少女は――
自分の手で、小さな世界をもう一度作り直した。
国を救い。
人を癒やし。
そして、自分自身も、愛される場所を手に入れた。
薬草店グリーンノートには、今日も人々の笑い声とハーブの香りが満ちている。
静かだけれど確かな、大きな物語は――
こうして、いつの間にか、日常の中へと溶けていくのだった。
その日の営業を終えたグリーンノートは、いつもみたいに、ちょっとだけ疲れて、ちょっとだけ誇らしげな顔をしていた。
看板の灯りを落として、扉に「本日閉店」の札をかける。
店の中には、かすかに残ったハーブの匂いと、昼間のざわめきの余韻が漂っている。
外に出ると、空はすっかり群青色になっていた。
星が、まだ遠慮がちに瞬き始める時間帯。
田んぼの方からは水の音がして、森の方からは夜鳥の声が聞こえてくる。
薬草畑からは、タイムとカモミールが混ざった甘い香りが、風に乗ってゆらゆらと運ばれてきていた。
「ふー……今日もよく働いた」
ミントは、店の前の段差にどさりと腰を下ろした。
靴の裏には、一日の疲れがぎゅうぎゅうに詰まっているみたいで、足先がじんわりじんじんする。
けれど嫌な疲れじゃない。
「ちゃんと使われましたよー」と体が報告してくる感じの、心地よいだるさだった。
「勝手に座るな」
「ここ、店主の特権席です」
「じゃあ隣は宮廷薬師の特権席か?」
「そこは……“なんかいつのまにか居着いた人専用席”ですかね」
「肩書きひどくないか?」
文句を言いながらも、サフランは当たり前の顔でミントの隣に腰を下ろした。
肩と肩が、ちょっとだけ触れるか触れないかの距離。
お互い無意識に、その「ちょっとだけ」をキープしている。
ふと、二人の視線が薬草畑の方へ向いた。
夜の薬草畑は、昼間とは別の顔をしている。
月の光を受けて、ハーブたちの輪郭が淡く浮かび上がる。
風が通るたびに、葉が擦れ合ってささやく音がする。
「……いい匂いですね」
ミントがぽつりと言った。
「今日は一日中、店の中で人の匂いとインクの匂いに包まれてたから、余計にそう感じるのかもしれません」
「人の匂いとインクって」
「え、だって。汗とか、革とか、紙とか、コインとか、そういうの全部ひっくるめて“人の匂い”じゃないですか?」
「まあ、否定はできない」
サフランは、小さく笑ったあとで空を見上げた。
星が、さっきより増えている。
前よりも、村の灯りが増えた気がするのに、それでもこの村の夜空は星がちゃんと見える。
王都の庭で見上げた空と、同じ星のくせに――こっちの方が、ほんの少しだけ近く感じた。
「ねえ、サフランさん」
ミントが、不意に口を開いた。
「ん?」
「私、追放されたときさ」
声のトーンが、少しだけ遠くを見ているようになった。
「全部終わりだと思ってたんですよね」
王都の雨。
ローズ家の門。
ぼろぼろのトランクひとつ。
背中に浴びた冷たい視線と、吐き捨てられた「田舎娘」という言葉。
「“ここまで頑張ってきた意味、全部なかったんだな”って思って。
王都で、誰にもちゃんと見てもらえなくて。
“田舎娘のくせに”って笑われて。
夜会の一件で、完全にトドメ刺された感じで」
あの夜の心細さを思い出すと、胸の奥がきゅっとなる。
でも、今はもう、涙にはならない。
「でも、あの時――ここに帰ってきたから」
ミントは、夜の村をぐるりと見渡した。
遠くで、まだ明かりのついている家。
誰かが笑う声。
どこかから聞こえる、「また明日な」という声。
「今こうしていられるんだよね」
サフランは、横顔をちらりと見た。
店の灯りに照らされたミントの横顔は、あの頃よりずっと柔らかくなっている。
王都で鍛えられた覚悟と、村で育てられた優しさが、一緒にそこに座っている感じ。
「そうだな」
サフランは、簡単に肯定した。
「追放されて、ここに帰ってきてくれたから」
少しだけ間を置いて、続ける。
「あの時森で倒れていた俺を拾ってくれた。
あれがなかったら、俺は今ここにいない」
森の、雨上がりの匂い。
血の匂いと、焼けた鉄の匂いと、一緒に混ざったハーブの香り。
あの日、意識が遠のく中で見た、必死で薬を塗る田舎娘の顔。
「正直、最初は“変な子だな”と思った」
「失礼ですね」
「森の真ん中で、あの状況で、“とりあえずこれ塗っときましょう”って簡単に言える奴、そういない」
「あー……」
言われてみれば、自分でもちょっとどうかしてた気がする。
「でも、その“変な子”がいなかったら、俺は夜哭百合の匂いに気づく前に死んでた。
王太子殿下も、死んでたかもしれない」
サフランは、星を見ながら言う。
「君が田舎に帰ったから、グリーンノートができた。
君が森で俺を拾ったから、俺はここを知った。
俺がここを知ったから、王都に田舎娘の噂を運べた。
王都が君を呼んだから、殿下は助かった」
「……すごい連鎖ですね」
「だろう」
サフランは、少しだけ照れたように笑った。
「俺から見ても、“全部終わったと思ったあの日”が、今に繋がってるようにしか見えない」
ミントは、夜空に視線を上げた。
星は、相変わらずマイペースに瞬いている。
人間のごちゃごちゃなんて、「ふーん」って感じで見下ろしてたぶん笑ってる。
「え、じゃあ、あれって」
「ん?」
「私を追放したローズ家の人たちのおかげってことになりません?」
「そこまで持ち上げなくていい」
「ですよね」
二人で、ふっと笑う。
笑いながらも、その中にはちゃんと「通り過ぎた過去」が混ざっていた。
ローズマリーの涙。
クローブのうつむいた横顔。
王城の中庭で見上げた星。
どれも、もう“今ここにはないもの”だけれど、完全に消えることもない。
「……ねえ、ミント」
サフランの声が、少しだけ低くなった。
ミントは、「ん?」と首を傾げる。
隣を見ると、サフランの表情が、いつもの半分眠そうな顔から少しだけ真剣な顔に変わっていた。
喉ぼとけが上下するのが見える。
本人も、少し緊張しているのがわかる。
(なに、その“ちょっと言いづらいんだけど”みたいな空気)
胸の奥が、妙にそわそわし始める。
「これから先の話なんだが」
「はい」
「俺は、王立宮廷薬師だ」
「そうですね」
「王都に仕事場があって、王城に仕事机があって、王太子殿下のそばにいるのが役目だ」
「はい」
言いながら、サフランの視線は空のままだ。
星と、この村と、自分の心の距離を測っているみたいだった。
「でも最近、ずっと思うんだ」
ミントの心臓が、トン、と大きく跳ねる。
「王都で薬を作るのも、嫌いじゃない。
殿下のそばにいるのも、意味がある。
ホップや宮廷薬師たちと議論するのも、それなりに楽しい」
「はい」
「でも――」
そこからの言葉を出すのに、サフランは少しだけ時間をかけた。
「一番“生きてる”って感じがするのは、ここにいる時なんだ」
ミントは、思わずサフランの横顔を見つめた。
「ここで、子どもに包帯の巻き方を教えたり。
村長に“それ飲み過ぎ”って説教したり。
デイジーに帳簿の誤魔化しを見抜かれたり」
「誤魔化してるんですか」
「“もうちょっと多く見せておけば村が安心するかな”と思って」
「それ誤魔化しっていうんですよ」
「だな」
苦笑しながらも、サフランは続ける。
「ここで君と一緒に、薬草を並べたり、配合を考えたりしている時間が――
俺にとって、一番自然なんだ」
ミントの喉が、きゅっと鳴った。
(あ、これ……やばいやつだ)
頭のどこかで冷静な自分が小さく叫ぶ。
でも、胸の中心で何かがふわっと浮かび上がって、うまく地に足がつかない。
サフランは、一度深く息を吸った。
「ミント」
名前を呼ばれる声が、少し震れている。
「これからも、君の店の一番近くで、君の薬作りを支えたい」
言葉ひとつひとつを選ぶように、ゆっくりと。
「宮廷薬師としてじゃなく――」
ここで、初めてミントの方をまっすぐ見る。
その瞳は、夜の星より少しだけ真剣で、少しだけ怖がっていた。
「一人の男として」
空気が、ぴたりと止まった。
村の音も、夜鳥の声も、虫の声も、一瞬だけ遠ざかった気がする。
ミントの心臓が、爆音で鼓動を刻んでいる。
自分の鼓動がうるさすぎて、相手の呼吸が聞こえない。
(え、え、え)
脳内に、意味のない言葉がぐるぐる回る。
(今のって……え、告白? ですよね? 多分、きっと、いや、どう考えても)
顔が熱い。
耳まで熱い。
星の光なんかなくても、自分の頬が真っ赤になっているのがわかる。
「……えっと」
口が、勝手に動く。
「サ、サフランさん」
「うん」
「今のって、その……」
「その、だ」
サフランも、顔を少し赤くしていた。
こんな真面目な彼を見るのは初めてかもしれない。
いつもは皮肉と理性で自分を守っている男が、今だけはその鎧を少し外している。
「君が田舎娘だろうが、王家特認薬師だろうが、関係ない」
サフランは、視線を逸らさない。
「森で拾われた宮廷薬師としてじゃなく、
“ミントの隣にいたい”って思う男として――ここにいたい」
言葉を聞いているうちに、胸の奥に溜まっていた何かが、じんわりと溶けていくのがわかった。
田舎娘。
追放。
身の程知らず。
有能ぶってるだけ。
そんな言葉にぐさぐさ刺され続けてきた心に、ようやく違う種類の言葉が、まっすぐに届く。
「田舎娘の私なんですけど」
ミントは、泣きそうな笑いそうな、変な声で言った。
「王都で追放されたこともあって、王城でとんでもないことに巻き込まれたこともあって。
薬草と土と森の匂いじゃないと落ち着かない、面倒くさい薬師なんですけど」
言いながら、自分の手を膝の上でぎゅっと握りしめる。
「それでも――」
言葉を選ぶ。
何度も飲み込んで、ようやく外に出す。
「それでも、田舎娘の私でよければ」
星の光が、視界の端で揺れる。
「そばにいてくれると、嬉しいです」
言った瞬間、胸の奥に溜まっていた涙が、するりとこぼれそうになった。
でも、ここで泣いたら多分、息ができなくなる。
だから、代わりに笑う。
笑って、サフランの顔を見る。
彼もまた、目の奥で何かをほぐしていた。
「……了解した」
サフランは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあこれからは、田舎娘の店主と、その隣の――」
ちょっとだけ意地悪そうに笑う。
「“田舎に居ついた宮廷薬師の男”として、よろしく頼む」
「肩書きが長い」
「お前がつけたんだろうが」
二人で、ふっと笑った。
笑いながら、ミントは少しだけ迷って――自分の指先を、そっとサフランの方へ伸ばした。
膝の上。
ほんの少しの距離。
サフランも、一瞬だけ驚いた顔をしてから、ゆっくりと自分の手を動かす。
ぎこちなく、ためらいがちに。
でも、途中で引き返すことなく。
ミントの指先とサフランの指先が、ちょん、と触れた。
その瞬間、心臓がまた跳ねる。
けれど今度のそれは、恐怖の鼓動じゃなくて、何か新しいものが始まる前の合図みたいだった。
触れた指先は、そのまま逃げることなく――少しずつ、絡み合っていく。
最初は本当にぎこちなくて、不器用で。
縫い目の粗い手袋を一緒に着けようとしているみたいな、変な感覚。
でも、いったん絡んでしまうと、それが「ここにいるのが当たり前」という位置に、自然と落ち着いた。
「……あったかいですね」
ミントがぽそっと言うと、サフランは少し顔を赤くして、「そっちこそ」と返した。
指先から、じんわりと熱が伝わってくる。
それは、王都の暖炉の熱より、だいぶ不安定で、だいぶ頼りなくて――
その分だけ、生きている人間の温度だった。
◇
その頃、遠く王都では。
王城の高い塔の一角で、ひとりの青年が窓辺に立っていた。
王太子セージ。
病の影はもう薄い。
頬には健康的な赤みが戻り、目には王太子としての決意と、人としての優しさが同居している。
彼は、夜風を受けながら、遠くの空を見上げていた。
窓から見える星は、以前より少しだけ明るく感じる。
王城の庭で見上げたあの日より、ずっと軽い気持ちで、今は星を見上げられる。
手には、一通の手紙。
田舎の薬草店から届いたものだ。
『王都からの新しい症例、拝見しました。
こちらでも似た症状の人が少しずつ出ていたので、村でできる範囲で対策を始めています――』
丁寧な字。
ところどころに混ざる、“ミントらしい”余白。
読み終えた後も、セージはしばらくその手紙を見つめていた。
「……あの田舎娘の薬師がいてくれる限り」
誰に言うでもなく、ぽつりと言葉がこぼれる。
「この国は、大丈夫だ」
宮廷薬師団がどれだけ優秀でも。
騎士団がどれだけ強くても。
王族がどれだけ賢くても。
それだけでは、国は回らない。
田舎の村で、小さな薬草店が灯りをともしていること。
そこで人の話を聞き、生活を守るための薬を作る誰かがいること。
それが、国の脈を静かに整えている。
「……ありがとう、ミント」
セージは、手紙をそっと大事に折りたたんだ。
王太子としての礼でもあり。
ひとりの青年としての、感謝でもあった。
◇
村の夜。
グリーンノートの前では、ミントとサフランが、まだ手を繋いだまま星を眺めていた。
遠く王都の塔と、田舎の小さな店。
その間には、目には見えないけれど確かな線が引かれている。
森の匂いと、土の匂いと、薬草の香り。
人の笑い声と、泣き声と、「助かったよ」という声。
田舎娘と呼ばれ、追放され、世界が一度壊れた少女は――
自分の手で、小さな世界をもう一度作り直した。
国を救い。
人を癒やし。
そして、自分自身も、愛される場所を手に入れた。
薬草店グリーンノートには、今日も人々の笑い声とハーブの香りが満ちている。
静かだけれど確かな、大きな物語は――
こうして、いつの間にか、日常の中へと溶けていくのだった。
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