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第23話「王都に現れた“ミントの薬”と、最初の違和感」
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王都の下町は、相変わらずごちゃごちゃしていて落ち着かない。
舗装されきっていない石畳の上を、人と荷車と猫が同時に通ろうとして渋滞している。
パン屋の香ばしい匂いと、香辛料の屋台から立ちのぼる刺激的な香りと、干した魚の匂いが全部ごちゃ混ぜになって、鼻の奥をつんと刺した。
「……うるさい」
サフランは、思わず小さくこぼした。
別に嫌いなわけじゃない。
人が生きてる匂いがする場所だ。嫌いなはずがない。
ただ――田舎の、朝露の匂いとハーブの香りが染みついた肺には、少しばかり刺激が強すぎた。
(慣れたと思ってたんだがな)
自分の中の“基準”が変わってしまったのだと、認めざるを得ない。
グリーンノートの、あの静かな朝。
ミントが軒下でハーブを干している音。
子どもが店の前で走り回る足音。
あの音と匂いが、今や一番落ち着く場所になっている。
「さっさと用事を済ませて帰るか」
小さく呟いて、サフランは白衣の裾を少し持ち上げた。
今日の目的は、王立薬草取引の新規約に関する書類を宮廷薬師団長・ホップの代わりに王都役所へ出してくること。
本当は誰か若手にやらせてもよかったのだが、「ついでに空気を見てこい」と言われてしまった。
「空気を見てこい」というのはだいたい、「面倒なことが起きていないか嗅ぎ回ってこい」と同義だ。
(団長も人使いが荒くなったな……)
軽くため息をつきながら、大通りを一本外れた路地に入る。
この時間帯の下町は、露店が一番賑やかになる。
「傷薬だよー! よく効くよー!」
「こっちは咳止め! 王都一番の配合!」
「“眠れない夜のお供”! 翌朝スッキリ!」
あちこちで、薬らしき瓶を掲げる声が聞こえる。
王都では、正式な薬師だけでなく、簡単な薬の配合を覚えた行商人や、怪しい自称療法士も多い。
全部を取り締まるのは、不可能に近い。
(まあ、ひどいものは検査で弾かれてるはずだが……)
そう思った、その時。
「そこのお兄さん! 見ていかない?」
路地の角から、甲高い声が飛んできた。
振り向くと、汚れた帽子を深くかぶった行商風の男が、木箱の横にしゃがみ込んでいた。
箱の上には、ずらりと並ぶ色とりどりの小瓶。
「悪いが急いでいる」
「まあまあそう言わずに。今日入ったばかりの、すごい薬があるんだよ」
男は、にやりと笑って一本の瓶を持ち上げた。
薄い緑色の液体が、光を受けて揺れる。
「“田舎のミント薬師”の処方を再現した薬だ。最近王都で大人気なんだぜ」
足が止まった。
反射的に、一歩近づいてしまう。
「今なんと?」
「お、食いついたね」
男は得意げに、瓶を振ってみせる。
「知らないのかい? 王家特認の“田舎娘の薬師”さ。
なんでも、王太子殿下の命を救ったって噂でね。それから田舎の村の薬草店が大繁盛。
王都にも“ミントの薬が欲しい”って人が増えてきてるのさ」
「……」
サフランの眉が、わずかに動いた。
「で、これは?」
「その処方を、王都向けに持ってきたんだよ」
男は、どこか誇らしげに続ける。
「田舎まで行かなくても、同じ効き目が手に入る。
小さな怪我にも効くし、風邪のひきはじめにもいい。
最近じゃ、兵士やら下級官吏やらもまとめ買いしてくんだ」
「ほう」
「今なら一本、この値段だ」
男が示した値段は、確かに“そこそこ”という感じだった。
高すぎず、安すぎず。庶民でも頑張れば手が届く範囲。
(……そこそこだな)
問題は、値段ではない。
サフランは手を伸ばし、男から瓶を受け取った。
ラベルに、見覚えのある名前が書かれている。
『ミント・フェンネル処方 万能軟膏(風邪・軽傷・疲労に)』
文字は、それらしく崩してある。
ぱっと見れば、本人の癖を真似ているようにも見えた。
だが――。
「……字が違う」
思わず口をついて出た。
ミントの字は、もっと素直だ。
丁寧で、少し丸くて、ところどころ迷いがある。
目の前のラベルは、意図的に“それっぽく”崩しているだけ。
書き慣れていない者が、形だけ真似たみたいな違和感がある。
「何か言ったかい?」
「いや」
短く返して、サフランは瓶の蓋をひねった。
カチ、と軽い音がして、かすかな香りが立ち上る。
鼻先に近づけて、ゆっくり息を吸う。
ハーブの匂い。
ミント系の爽やかさと、鎮静系の落ち着いた香りが混ざっている。
(……似ている)
一瞬、そう思った。
でも、そのすぐ後。
「違う」
はっきりとした言葉が、口から漏れた。
男がぎょっとする。
「な、なんだよ」
サフランは目を細めた。
確かに、一番表の香りはミントっぽい。
ペパーミントとレモンバーム、少しだけカモミール。
だが、その奥に――。
妙にきつい人工的な甘さと、舌の奥をちくちく刺すような刺激が混ざっている。
ミントが作る薬の香りは、もっと“まとまり”がある。
強い成分が入っていても、全体として一つの香りになるように調整されている。
これは、それがない。
「ミント・フェンネルの処方じゃない」
「な、何言って――」
「本人の薬を、何度も嗅いでいる」
サフランは淡々と告げた。
「王太子殿下の治療の時も。グリーンノートでも。
あいつの薬は、もっと穏やかで、もっと後味がいい。
これは――雑だ」
男の顔色が、わずかに変わる。
「王子様気分のお客さんにはこれで十分効くんだよ。
怪我も風邪もそれなりに治るし、文句言われる筋合いは――」
「怪我と風邪には“それなりに”効くだろうな」
サフランは、瓶を光にかざした。
液体の揺らぎ方が、妙に重たく見える。
「だが、きつい成分を混ぜすぎている。
刺激で体を“動かさざるを得なくさせている”だけだ」
「……」
「一回二回ならいい。
だが、何度も使えば、体の方が先に悲鳴をあげる」
実際、脳裏にいくつかの症例が浮かんだ。
――“妙に効きはいいけど、あとからだるくて動けない薬”。
――“飲んだ日は楽になるが、切れると余計にだるくなる薬”。
――“いつの間にか、それがないと不安になる薬”。
(依存の芽がある)
ミントが一番嫌うタイプの薬だ。
「これ、どこで仕入れた」
サフランの声が少し低くなる。
「さあね」
男はへらりと笑った。
「商売の秘密ってやつさ。
“田舎のミント薬師の処方を再現した”ってことだけ伝えられてる。
王都の正規の薬師だって、この配合は褒めてたぜ?」
「正規の薬師、ね」
誰だ、と喉元まで出かかったが、飲み込んだ。
ここで名前を聞いても、そう簡単には吐かないだろう。
「一本買う」
短く言って、サフランは腰の小袋から銀貨を出した。
男は一瞬戸惑ったが、すぐにニヤッと笑って受け取る。
「毎度! きっと気に入るぜ、“ミントの薬”」
「気に入るかどうかは、別の話だ」
瓶の蓋をきっちり閉め、白衣の内ポケットにしまう。
背を向けながら、サフランは小さく息を吐いた。
(“それなりに効く”から厄介なんだ)
完全な偽物なら、ここまで広まらない。
効き目がゼロなら、誰も二度と買わない。
問題は――。
「中身は別物なのに、“ミントの薬”という名前だけが歩いていく」
その事実が、胸の奥でじくじくと痛んだ。
◇
宮廷薬師団棟・分析室。
石造りの部屋の中には、銀色の器具とガラスの管が並んでいる。
熱を加える台。
液体を垂らすための細い管。
匂いを嗅ぎ分けるための実験用具。
「で、これがその“ミントの薬”ってやつか」
ホップが、瓶をつまむように持ち上げて言った。
「そう呼ばれている、偽物です」
サフランは、淡々と答える。
ホップは蓋をあけ、鼻先に近づけた。
しばし沈黙。
「……ふん」
短く鼻を鳴らす。
「どうです?」
「悪くない匂いだな」
「え」
「表面だけならな」
ホップは、手の中の瓶をじっと睨んだ。
「一番外側の香りは、よく出来てる。
“ミント殿の薬っぽい匂い”をうまく真似ている。
これなら、本人を知らない者なら、信じてもおかしくない」
「ですが」
「だが、だ」
ホップは別の器具を手に取り、中の液体をほんの数滴移した。
火を弱くつけて、ゆっくり温める。
薬液の変化した香りが、ふわりと広がった。
先ほどよりもはっきりと、甘ったるい香りと、刺すような匂いが際立つ。
「……きついな」
サフランが眉をしかめる。
「甘草と……似たものを使っているが、質が悪い。
それに、覚醒作用のある草も混ぜているな」
ホップの声が低くなる。
「最初の一回二回なら、“よく効く薬”で済むだろう。
だが、続けて使えば――」
「体の方が、薬に合わせて無理やり動かされる」
サフランが言葉を継ぐ。
「疲れが取れているわけじゃないのに、“取れたように感じさせられている”。
その結果、余計に疲労が溜まっていく」
「そういうことだ」
ホップは、別の机に用意してあった、ミントが以前送ってきた正規の処方を手に取った。
小さな瓶。
ラベルには、ミントの丁寧な字。
蓋を開けた瞬間、部屋の空気が柔らかく変わった。
「……やっぱり違う」
サフランは目を細めた。
ミントの薬の香りは、強すぎない。
落ち着いたハーブの香りが、穏やかに鼻腔をなでていく。
温めると、その香りがふわっと広がる。
中心にあるのは、“休ませようとする匂い”。
無理に動かすのではなく、体の方が自然に回復するように手を貸す香り。
「一見、似ている。
でも、根本的にやろうとしていることが違う」
ホップは、両方の瓶を並べて見比べる。
「偽物の方は、“今すぐに効かせる”ことだけを考えている。
本物の方は、“明日も動ける体にする”ことを考えている」
沈黙。
二人の視線が、ラベルの名前に落ちる。
――ミント・フェンネル。
「これを、“ミントの薬”として売っている」
サフランの声が、わずかに震えた。
「今のところ、聞いた限りでは“小さな怪我や風邪”に使われているようだ。
だるい、頭が痛い、そんな声も出始めているが、まだ大事にはなっていない」
「“まだ”だな」
ホップは顔をしかめた。
「問題は、“ミント殿の名を騙っている”ことだけじゃない。
宮廷薬師団の検査を通っていない薬が、“公式の薬より効く”と噂され始めている」
それは、王都の医療体制そのものへの不信に繋がる。
「“宮廷の薬は効かないけど、ミントの薬なら効く”。
その噂は、第一部の一件で、既に半分くらい真実になってしまっている」
ナイーブなところのあるホップの口から、あえて辛辣な言葉が出る。
「今ここで、“ミントの薬ってのは危険だったんだ”という印象にすり替えられれば――」
「一気に、彼女も、王家も、宮廷薬師団も、まとめて信用を落とす」
サフランが言い終えた。
「誰かが意図的にやっている」
はっきりとそう言える程度には、整いすぎていた。
名前の使い方。
価格設定。
効き目。
噂の広がり方。
全部、「田舎娘の英雄譚」の後でやられたら、一番効く形をしている。
「……これは、まずいな」
ホップが額に手を当てる。
「放っておけば、“宮廷薬師団は何をしているんだ”という声が出る。
取り締まろうとすれば、“ミントの薬を潰そうとしている”と言われる」
「どっちに転んでも、ミントに火の粉が飛ぶ」
「そうだ」
ホップは、深く息を吐いた。
「サフラン」
「はい」
「戻るついでに、“田舎のミント薬師”の耳に入れてやれ。
これは、放っておくと洒落にならん」
「……了解しました」
サフランは、内ポケットの中の瓶をひとつ握りしめた。
冷たいガラス越しに、重たい液体の感触が伝わる。
(ミントの名前で、人を傷つける真似をしてるやつがいる)
それが許せなかった。
ミント自身が傷つけられるかもしれないことも。
彼女の作った“信頼”が、一瞬で崩されるかもしれないことも。
全部込みで、腹の底から怒りが湧いた。
「……団長」
「なんだ」
「偽薬の流通経路、どこまでわかってます?」
「まだ断片的だ。いくつかの商会と、貴族の裏サロンの名前がちらついている程度」
「そのうちの一つに――」
サフランは、先ほど聞いた男の言葉を思い出す。
“王都の正規の薬師だって、この配合は褒めてたぜ?”
「宮廷とは別の、“正規の薬師”が関わっている可能性があります」
「私の知らない“正規”か」
「そうです」
ホップは、目を細めた。
宮廷薬師団の団長に知られずに「正規」を名乗れるのは、王都ではそう多くない。
王立学院の講師。
貴族専属の侍医。
あるいは――。
「……嫌な予感がするな」
「同感です」
二人の視線が、机の端に置かれた書類に一瞬だけ向く。
そこには、何件かの“匿名の報告書”が挟まれていた。
「最近、妙に効きすぎる薬の噂がある」という外部からの声。
全部、繋がってしまいそうで、まだ繋ぎたくない。
「とりあえず、ミント殿には警告を。
それとは別に、こっちでも流通経路を追う」
「了解」
サフランは立ち上がった。
椅子の脚が、床をきゅっと鳴らす。
「……サフラン」
背を向けかけたところで、ホップに呼び止められた。
「はい」
「お前は、怒っているか?」
その問いに、サフランは一瞬だけ目を伏せた。
「ええ」
隠さなかった。
「ミントの名前を使って、人を雑に扱っているやつがいる。
それが、腹の底から気に入らない」
「そうか」
ホップは小さく笑った。
「なら、ちょうどいい。
その怒りを、そのまま冷静に使え。
熱くなるなよ。“あいつ”の隣にいたいならな」
「肝に銘じます」
本気とも冗談ともつかない団長の言葉に、サフランは軽く頭を下げた。
◇
その頃、王都の別の場所。
下町の、一段と暗い路地裏。
石壁に寄りかかる影が、数人。
「今日の売れ行きは?」
「上々だ。ミントの名前はよく売れる」
「いいねぇ。田舎娘一人で王都全体を動かしてくれるなんて、楽なもんだ」
薄笑いが、暗闇の中で浮かぶ。
「“本物より効くミントの薬”って噂、もっと流していいか?」
「ああ。“本物は田舎の店でしか手に入らない。でも高いし遠い”ってことにしておけ」
「ほどほどに効いて、ほどほどに後を引く。
あとは勝手に、向こうから買いに来るさ」
「宮廷薬師たちは?」
「噂は耳に入れておけ。だが、“今のところ大事には至っていない”って顔をしとけ」
「了解」
ひとりが、薄暗い路地の奥をちらりと見る。
「しかし、“あのお方”もよく考えるね。
王家特認の田舎娘の名前で、王都の医療を揺らすなんて」
「改革者気取りの連中には、ちょうどいい薬だろう」
影の一人が、冷たく笑った。
「偽りの薬で、偽りの信頼をひっくり返す。
そんなものに頼っている国は、どうせ長くは持たない」
王都に現れた“ミントの薬”は、静かに、でも確実に。
ミントの名を借りて、人々の生活と信頼を侵食し始めていた。
舗装されきっていない石畳の上を、人と荷車と猫が同時に通ろうとして渋滞している。
パン屋の香ばしい匂いと、香辛料の屋台から立ちのぼる刺激的な香りと、干した魚の匂いが全部ごちゃ混ぜになって、鼻の奥をつんと刺した。
「……うるさい」
サフランは、思わず小さくこぼした。
別に嫌いなわけじゃない。
人が生きてる匂いがする場所だ。嫌いなはずがない。
ただ――田舎の、朝露の匂いとハーブの香りが染みついた肺には、少しばかり刺激が強すぎた。
(慣れたと思ってたんだがな)
自分の中の“基準”が変わってしまったのだと、認めざるを得ない。
グリーンノートの、あの静かな朝。
ミントが軒下でハーブを干している音。
子どもが店の前で走り回る足音。
あの音と匂いが、今や一番落ち着く場所になっている。
「さっさと用事を済ませて帰るか」
小さく呟いて、サフランは白衣の裾を少し持ち上げた。
今日の目的は、王立薬草取引の新規約に関する書類を宮廷薬師団長・ホップの代わりに王都役所へ出してくること。
本当は誰か若手にやらせてもよかったのだが、「ついでに空気を見てこい」と言われてしまった。
「空気を見てこい」というのはだいたい、「面倒なことが起きていないか嗅ぎ回ってこい」と同義だ。
(団長も人使いが荒くなったな……)
軽くため息をつきながら、大通りを一本外れた路地に入る。
この時間帯の下町は、露店が一番賑やかになる。
「傷薬だよー! よく効くよー!」
「こっちは咳止め! 王都一番の配合!」
「“眠れない夜のお供”! 翌朝スッキリ!」
あちこちで、薬らしき瓶を掲げる声が聞こえる。
王都では、正式な薬師だけでなく、簡単な薬の配合を覚えた行商人や、怪しい自称療法士も多い。
全部を取り締まるのは、不可能に近い。
(まあ、ひどいものは検査で弾かれてるはずだが……)
そう思った、その時。
「そこのお兄さん! 見ていかない?」
路地の角から、甲高い声が飛んできた。
振り向くと、汚れた帽子を深くかぶった行商風の男が、木箱の横にしゃがみ込んでいた。
箱の上には、ずらりと並ぶ色とりどりの小瓶。
「悪いが急いでいる」
「まあまあそう言わずに。今日入ったばかりの、すごい薬があるんだよ」
男は、にやりと笑って一本の瓶を持ち上げた。
薄い緑色の液体が、光を受けて揺れる。
「“田舎のミント薬師”の処方を再現した薬だ。最近王都で大人気なんだぜ」
足が止まった。
反射的に、一歩近づいてしまう。
「今なんと?」
「お、食いついたね」
男は得意げに、瓶を振ってみせる。
「知らないのかい? 王家特認の“田舎娘の薬師”さ。
なんでも、王太子殿下の命を救ったって噂でね。それから田舎の村の薬草店が大繁盛。
王都にも“ミントの薬が欲しい”って人が増えてきてるのさ」
「……」
サフランの眉が、わずかに動いた。
「で、これは?」
「その処方を、王都向けに持ってきたんだよ」
男は、どこか誇らしげに続ける。
「田舎まで行かなくても、同じ効き目が手に入る。
小さな怪我にも効くし、風邪のひきはじめにもいい。
最近じゃ、兵士やら下級官吏やらもまとめ買いしてくんだ」
「ほう」
「今なら一本、この値段だ」
男が示した値段は、確かに“そこそこ”という感じだった。
高すぎず、安すぎず。庶民でも頑張れば手が届く範囲。
(……そこそこだな)
問題は、値段ではない。
サフランは手を伸ばし、男から瓶を受け取った。
ラベルに、見覚えのある名前が書かれている。
『ミント・フェンネル処方 万能軟膏(風邪・軽傷・疲労に)』
文字は、それらしく崩してある。
ぱっと見れば、本人の癖を真似ているようにも見えた。
だが――。
「……字が違う」
思わず口をついて出た。
ミントの字は、もっと素直だ。
丁寧で、少し丸くて、ところどころ迷いがある。
目の前のラベルは、意図的に“それっぽく”崩しているだけ。
書き慣れていない者が、形だけ真似たみたいな違和感がある。
「何か言ったかい?」
「いや」
短く返して、サフランは瓶の蓋をひねった。
カチ、と軽い音がして、かすかな香りが立ち上る。
鼻先に近づけて、ゆっくり息を吸う。
ハーブの匂い。
ミント系の爽やかさと、鎮静系の落ち着いた香りが混ざっている。
(……似ている)
一瞬、そう思った。
でも、そのすぐ後。
「違う」
はっきりとした言葉が、口から漏れた。
男がぎょっとする。
「な、なんだよ」
サフランは目を細めた。
確かに、一番表の香りはミントっぽい。
ペパーミントとレモンバーム、少しだけカモミール。
だが、その奥に――。
妙にきつい人工的な甘さと、舌の奥をちくちく刺すような刺激が混ざっている。
ミントが作る薬の香りは、もっと“まとまり”がある。
強い成分が入っていても、全体として一つの香りになるように調整されている。
これは、それがない。
「ミント・フェンネルの処方じゃない」
「な、何言って――」
「本人の薬を、何度も嗅いでいる」
サフランは淡々と告げた。
「王太子殿下の治療の時も。グリーンノートでも。
あいつの薬は、もっと穏やかで、もっと後味がいい。
これは――雑だ」
男の顔色が、わずかに変わる。
「王子様気分のお客さんにはこれで十分効くんだよ。
怪我も風邪もそれなりに治るし、文句言われる筋合いは――」
「怪我と風邪には“それなりに”効くだろうな」
サフランは、瓶を光にかざした。
液体の揺らぎ方が、妙に重たく見える。
「だが、きつい成分を混ぜすぎている。
刺激で体を“動かさざるを得なくさせている”だけだ」
「……」
「一回二回ならいい。
だが、何度も使えば、体の方が先に悲鳴をあげる」
実際、脳裏にいくつかの症例が浮かんだ。
――“妙に効きはいいけど、あとからだるくて動けない薬”。
――“飲んだ日は楽になるが、切れると余計にだるくなる薬”。
――“いつの間にか、それがないと不安になる薬”。
(依存の芽がある)
ミントが一番嫌うタイプの薬だ。
「これ、どこで仕入れた」
サフランの声が少し低くなる。
「さあね」
男はへらりと笑った。
「商売の秘密ってやつさ。
“田舎のミント薬師の処方を再現した”ってことだけ伝えられてる。
王都の正規の薬師だって、この配合は褒めてたぜ?」
「正規の薬師、ね」
誰だ、と喉元まで出かかったが、飲み込んだ。
ここで名前を聞いても、そう簡単には吐かないだろう。
「一本買う」
短く言って、サフランは腰の小袋から銀貨を出した。
男は一瞬戸惑ったが、すぐにニヤッと笑って受け取る。
「毎度! きっと気に入るぜ、“ミントの薬”」
「気に入るかどうかは、別の話だ」
瓶の蓋をきっちり閉め、白衣の内ポケットにしまう。
背を向けながら、サフランは小さく息を吐いた。
(“それなりに効く”から厄介なんだ)
完全な偽物なら、ここまで広まらない。
効き目がゼロなら、誰も二度と買わない。
問題は――。
「中身は別物なのに、“ミントの薬”という名前だけが歩いていく」
その事実が、胸の奥でじくじくと痛んだ。
◇
宮廷薬師団棟・分析室。
石造りの部屋の中には、銀色の器具とガラスの管が並んでいる。
熱を加える台。
液体を垂らすための細い管。
匂いを嗅ぎ分けるための実験用具。
「で、これがその“ミントの薬”ってやつか」
ホップが、瓶をつまむように持ち上げて言った。
「そう呼ばれている、偽物です」
サフランは、淡々と答える。
ホップは蓋をあけ、鼻先に近づけた。
しばし沈黙。
「……ふん」
短く鼻を鳴らす。
「どうです?」
「悪くない匂いだな」
「え」
「表面だけならな」
ホップは、手の中の瓶をじっと睨んだ。
「一番外側の香りは、よく出来てる。
“ミント殿の薬っぽい匂い”をうまく真似ている。
これなら、本人を知らない者なら、信じてもおかしくない」
「ですが」
「だが、だ」
ホップは別の器具を手に取り、中の液体をほんの数滴移した。
火を弱くつけて、ゆっくり温める。
薬液の変化した香りが、ふわりと広がった。
先ほどよりもはっきりと、甘ったるい香りと、刺すような匂いが際立つ。
「……きついな」
サフランが眉をしかめる。
「甘草と……似たものを使っているが、質が悪い。
それに、覚醒作用のある草も混ぜているな」
ホップの声が低くなる。
「最初の一回二回なら、“よく効く薬”で済むだろう。
だが、続けて使えば――」
「体の方が、薬に合わせて無理やり動かされる」
サフランが言葉を継ぐ。
「疲れが取れているわけじゃないのに、“取れたように感じさせられている”。
その結果、余計に疲労が溜まっていく」
「そういうことだ」
ホップは、別の机に用意してあった、ミントが以前送ってきた正規の処方を手に取った。
小さな瓶。
ラベルには、ミントの丁寧な字。
蓋を開けた瞬間、部屋の空気が柔らかく変わった。
「……やっぱり違う」
サフランは目を細めた。
ミントの薬の香りは、強すぎない。
落ち着いたハーブの香りが、穏やかに鼻腔をなでていく。
温めると、その香りがふわっと広がる。
中心にあるのは、“休ませようとする匂い”。
無理に動かすのではなく、体の方が自然に回復するように手を貸す香り。
「一見、似ている。
でも、根本的にやろうとしていることが違う」
ホップは、両方の瓶を並べて見比べる。
「偽物の方は、“今すぐに効かせる”ことだけを考えている。
本物の方は、“明日も動ける体にする”ことを考えている」
沈黙。
二人の視線が、ラベルの名前に落ちる。
――ミント・フェンネル。
「これを、“ミントの薬”として売っている」
サフランの声が、わずかに震えた。
「今のところ、聞いた限りでは“小さな怪我や風邪”に使われているようだ。
だるい、頭が痛い、そんな声も出始めているが、まだ大事にはなっていない」
「“まだ”だな」
ホップは顔をしかめた。
「問題は、“ミント殿の名を騙っている”ことだけじゃない。
宮廷薬師団の検査を通っていない薬が、“公式の薬より効く”と噂され始めている」
それは、王都の医療体制そのものへの不信に繋がる。
「“宮廷の薬は効かないけど、ミントの薬なら効く”。
その噂は、第一部の一件で、既に半分くらい真実になってしまっている」
ナイーブなところのあるホップの口から、あえて辛辣な言葉が出る。
「今ここで、“ミントの薬ってのは危険だったんだ”という印象にすり替えられれば――」
「一気に、彼女も、王家も、宮廷薬師団も、まとめて信用を落とす」
サフランが言い終えた。
「誰かが意図的にやっている」
はっきりとそう言える程度には、整いすぎていた。
名前の使い方。
価格設定。
効き目。
噂の広がり方。
全部、「田舎娘の英雄譚」の後でやられたら、一番効く形をしている。
「……これは、まずいな」
ホップが額に手を当てる。
「放っておけば、“宮廷薬師団は何をしているんだ”という声が出る。
取り締まろうとすれば、“ミントの薬を潰そうとしている”と言われる」
「どっちに転んでも、ミントに火の粉が飛ぶ」
「そうだ」
ホップは、深く息を吐いた。
「サフラン」
「はい」
「戻るついでに、“田舎のミント薬師”の耳に入れてやれ。
これは、放っておくと洒落にならん」
「……了解しました」
サフランは、内ポケットの中の瓶をひとつ握りしめた。
冷たいガラス越しに、重たい液体の感触が伝わる。
(ミントの名前で、人を傷つける真似をしてるやつがいる)
それが許せなかった。
ミント自身が傷つけられるかもしれないことも。
彼女の作った“信頼”が、一瞬で崩されるかもしれないことも。
全部込みで、腹の底から怒りが湧いた。
「……団長」
「なんだ」
「偽薬の流通経路、どこまでわかってます?」
「まだ断片的だ。いくつかの商会と、貴族の裏サロンの名前がちらついている程度」
「そのうちの一つに――」
サフランは、先ほど聞いた男の言葉を思い出す。
“王都の正規の薬師だって、この配合は褒めてたぜ?”
「宮廷とは別の、“正規の薬師”が関わっている可能性があります」
「私の知らない“正規”か」
「そうです」
ホップは、目を細めた。
宮廷薬師団の団長に知られずに「正規」を名乗れるのは、王都ではそう多くない。
王立学院の講師。
貴族専属の侍医。
あるいは――。
「……嫌な予感がするな」
「同感です」
二人の視線が、机の端に置かれた書類に一瞬だけ向く。
そこには、何件かの“匿名の報告書”が挟まれていた。
「最近、妙に効きすぎる薬の噂がある」という外部からの声。
全部、繋がってしまいそうで、まだ繋ぎたくない。
「とりあえず、ミント殿には警告を。
それとは別に、こっちでも流通経路を追う」
「了解」
サフランは立ち上がった。
椅子の脚が、床をきゅっと鳴らす。
「……サフラン」
背を向けかけたところで、ホップに呼び止められた。
「はい」
「お前は、怒っているか?」
その問いに、サフランは一瞬だけ目を伏せた。
「ええ」
隠さなかった。
「ミントの名前を使って、人を雑に扱っているやつがいる。
それが、腹の底から気に入らない」
「そうか」
ホップは小さく笑った。
「なら、ちょうどいい。
その怒りを、そのまま冷静に使え。
熱くなるなよ。“あいつ”の隣にいたいならな」
「肝に銘じます」
本気とも冗談ともつかない団長の言葉に、サフランは軽く頭を下げた。
◇
その頃、王都の別の場所。
下町の、一段と暗い路地裏。
石壁に寄りかかる影が、数人。
「今日の売れ行きは?」
「上々だ。ミントの名前はよく売れる」
「いいねぇ。田舎娘一人で王都全体を動かしてくれるなんて、楽なもんだ」
薄笑いが、暗闇の中で浮かぶ。
「“本物より効くミントの薬”って噂、もっと流していいか?」
「ああ。“本物は田舎の店でしか手に入らない。でも高いし遠い”ってことにしておけ」
「ほどほどに効いて、ほどほどに後を引く。
あとは勝手に、向こうから買いに来るさ」
「宮廷薬師たちは?」
「噂は耳に入れておけ。だが、“今のところ大事には至っていない”って顔をしとけ」
「了解」
ひとりが、薄暗い路地の奥をちらりと見る。
「しかし、“あのお方”もよく考えるね。
王家特認の田舎娘の名前で、王都の医療を揺らすなんて」
「改革者気取りの連中には、ちょうどいい薬だろう」
影の一人が、冷たく笑った。
「偽りの薬で、偽りの信頼をひっくり返す。
そんなものに頼っている国は、どうせ長くは持たない」
王都に現れた“ミントの薬”は、静かに、でも確実に。
ミントの名を借りて、人々の生活と信頼を侵食し始めていた。
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