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第24話「“彼にふさわしいのは誰?”始まる前哨戦」
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バジル伯爵家の執務室は、いつだって静かすぎる。
高い天井。
壁一面の書棚。
磨き上げられた大きな机と、その向こうで書類にペンを走らせる男――バジル伯爵。
窓の外には王都の街並みが広がっているのに、この部屋の空気はまるで別の世界みたいに冷たい。
「お父様」
ノックのあと、リリーは静かに扉を開けた。
深緑色のドレス。
完璧な笑み。
背筋は一本の線みたいにまっすぐ。
さっき廊下の絨毯で盛大につまずきかけたことなんて、何事もなかったかのような顔をしている。
「リリーか。入れ」
バジル伯爵は手を止めずに言った。
低く落ち着いた声。
娘に対してすら、感情をあまり表に出さない。
「お話があると伺いましたわ」
「座りなさい」
伯爵は、机の前の椅子を顎で示す。
リリーはドレスの裾を整え、淑女らしく腰掛けた。
指先は膝の上で軽く組まれている。
外から見れば、完璧な貴族令嬢。
――内側では、心臓の鼓動がうるさい。
(どうせ、あの話でしょうね)
そう予測しながらも、父の口から聞くまでは気を抜けない。
「サフラン・ローウェル殿の件だ」
伯爵の言葉に、リリーはまぶたをわずかに伏せた。
「やはり、そうでしたのね」
「お前も耳にしているだろう。
ローウェル家と我がバジル家――互いの“家”として、婚約話を進めている」
「“家として”、ですわね」
リリーはあえてその言葉を繰り返す。
「サフラン・ローウェル殿は、本家の分家筋とはいえ血筋は確か。
王家直属の宮廷薬師。
王太子殿下の信頼も厚い。
若くして功績もある」
伯爵は淡々と事実を並べる。
「将来性は十分。“家”としては申し分ない相手だ」
「……合理的に考えても」
リリーは、静かに言った。
「悪くない話、ですわね」
「そうだ」
伯爵は娘をじっと見る。
「お前の年齢もそろそろ“いつまでも独り身でいるには目立つ頃合い”だ。
お前の資質を考えれば、相応の家に嫁ぐべきだが――」
「私の“価値”に見合う家と結びつくのは、バジル家の利益にもなる。
そうおっしゃりたいのでしょう?」
「話が早くて助かる」
血が繋がっているだけあって、思考の方向は似ている。
(ええ、わかっていますわ)
リリーは内心で肩をすくめる。
(私は“娘”である前に、“バジル家の駒”ですの)
そんなことは、子どもの頃から嫌というほど教え込まれてきた。
「私はこの縁談を、悪いとは思いません」
リリーははっきりと言った。
「サフラン殿の立場も将来も魅力的。
宮廷薬師の妻として、王城に出入りできる立場は、私自身の“評価”にも直結しますわ」
「自覚があるのは良いことだ」
「ただし」
リリーは、ほんの少しだけ声の温度を下げた。
「問題が一つ」
「……田舎娘の件か」
伯爵の目が鋭くなる。
リリーは、唇の端をきゅっと上げた。
「ええ、“田舎娘”ですわ」
王都中に飛び交う噂。
――田舎の村に、とてつもなく腕の良い薬師がいる。
――王太子殿下の命を救った。
――王家特認。
――それでも“田舎の薬草店”で店主をしている、変わり者。
名前は、ミント・フェンネル。
「“サフラン殿が田舎娘の薬師に骨抜きにされている”」
自分の口で言っておきながら、思わず眉間に皺が寄る。
「……下町の言葉は、本当に悪趣味ですわね」
「それが民の言葉だ」
伯爵は書類を一枚横にずらす。
「お前には関係のない噂話だ。
家同士が決めた縁談は、噂で揺らぐことはない」
「建前としては、そうでしょうけれど」
リリーは、少しだけ椅子に体重を預けた。
「実際のところ、どうなのです? お父様は」
「何がだ」
「サフラン殿が、“その田舎娘を選ぶ可能性”についてですわ」
伯爵の目がわずかに細められた。
肯定とも否定とも取れない沈黙。
しばしの間の後、伯爵は低く答えた。
「――可能性はある」
その一言で、リリーの喉がひゅっと鳴った。
「彼は、“合理”だけで動く男ではない。
王太子殿下に対しても、上辺だけの忠誠心ではなく、自分の信念で動いている。
そういう男が、“自分を救った田舎娘”を放っておけると思うか?」
「……思いませんわ」
認めるのは癪だけど、と心の中で付け足す。
「家の者たちは、“婚約は決まったも同然”と考えている。
だが、サフラン本人の意思は、まだはっきりとは固まっていない」
「……」
「だからこそ、バジル家としては――」
伯爵は、娘を真正面から見た。
「お前に問う。
この婚約を、望むか?」
リリーは、少しだけ目を見開いた。
(“家として”ではなく、“私自身”に聞くのですか?)
珍しいことだと思った。
大抵、この家で決まることは「家」としての判断が先にあって、個人の希望は後回しだ。
それでも今、父はわざわざ自分に「望むか」と聞いている。
――試されている気がした。
自分がどれだけ“家”を理解していて、どれだけ“駒”になる覚悟があるか。
そして、どれだけ“自分”を持っているか。
「望みますわ」
リリーは、迷いなく答えた。
「サフラン・ローウェル殿との婚約。
合理的に考えても、感情的に考えても、悪くない選択ですもの」
「感情的に?」
「ええ」
リリーは、少しだけ頬を染めた。
「王都での評判を聞く限り、眼鏡越しに見る価値はありそうですし」
「眼鏡?」
「例えですわ」
軽く笑って、すぐに真顔に戻る。
「でも、その前に」
リリーの瞳が、静かに燃える。
「“田舎娘”の問題を、何とかしなくてはなりませんわね」
「お前ひとりで何とかなる問題ではない」
「そうでしょうけれど」
リリーはふっと笑う。
「私、プライドは高い方ですの」
「自覚はあるらしいな」
「ありますとも」
胸を張る仕草だけは、妙に気持ちいいくらい素直だった。
「だから、“家の決めた婚約相手”というだけでは、納得できませんの。
私が彼を選ぶように、彼にも私を選んでほしい。
“田舎娘とどちらがふさわしいか”――その勝負から逃げて、“家だから”で勝ったとは思いたくありませんわ」
伯爵は、娘をしばらく見つめた。
その目の奥に、微かな感情が浮かび上がる。
誇りとも、呆れともつかない色。
「……お前は本当に、私の娘だな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「勝手にしろ」
伯爵は小さくため息をついた。
「偽薬の噂も、耳にしているな?」
「ええ」
リリーの眉が、きゅっと寄る。
「“ミント薬師の真似をした薬が王都で出回っている”――そう聞いておりますわ。
なんでも、“本物より効くミントの薬”などと謳っているとか」
「被害も出始めている」
「まあ」
リリーは、唇を引き結んだ。
「田舎娘の癖に、王都全体を巻き込んで。
自分の名前の扱いも管理できないなんて、どれだけ無防備なのかしら」
声に棘が混ざる。
頭の中には、“ミント”という名前の田舎娘の姿が、都合よく歪んだ形で出来上がり始めていた。
――身の程知らず。
――自分がどれだけ影響力を持っているかもわからず、田舎でぬくぬくしている。
――そのせいで、王都が混乱している。
(野放しにしていい存在ではありませんわね)
心の奥で、冷たい決意が固まりつつあった。
◇
同じ頃、田舎の村。
グリーンノートの扉が、カランと軽やかな音を立てて開いた。
「失礼します……ミント薬師さん、いらっしゃいますか?」
「はーい、どうぞ」
ミントがカウンターの奥から顔を出す。
入ってきたのは、見慣れない顔の中年夫婦と、その後ろに隠れるように立っている若い娘だった。
服の形や生地の質からして、この村の人間ではない。
もっと大きな街、あるいは王都の外れから来たのだろう。
「遠いところありがとうございます。
どうされましたか?」
にこやかに問いかけると、夫婦は顔を見合わせた。
「その……実は」
言い出しにくそうにしているのを見て、ミントは「大丈夫ですよ」と柔らかく微笑む。
「ここでは、誰も笑ったり怒ったりしませんから。
ゆっくりお話ししてみてください」
その一言で、夫婦の肩の力がふっと抜けた。
「はい……」
娘の肩に手を置きながら、母親が話し始める。
「この子が、最近ずっと体調が悪くて。
王都に行った際に、“ミントさんの薬だ”と言われて、瓶を買ったんです」
ミントの指先が、ぴくりと動いた。
「王都で……私の名前の、薬を?」
「ええ。
“王家特認の田舎娘の薬師の処方を再現した薬だ”って……
ラベルにも、“ミント・フェンネル処方”って書いてあって」
父親が、包みから一本の瓶を取り出した。
薄い緑色の液体。
少し擦れたラベル。
そこに書かれた、見覚えのある文字――の、つもりの文字。
ミントは、息を飲んだ。
「それを飲んでから、最初は元気になったんです。
熱も下がって、“さすが本物の薬だ”って思ってたんですけど……」
母親の声が震える。
「しばらくすると、妙に体がだるいって言い出して。
薬を飲んでる時は動けるのに、切れた途端にぐったりして。
最近じゃ、“薬がないと不安だ”って……」
「……」
ミントは、そっと娘に目を向けた。
青白い顔。
目の下には薄いクマ。
椅子に座っているだけなのに、肩で息をしている。
「ごめんね、少し手を見てもいい?」
「……はい」
か細い返事。
ミントは娘の手を、両手で包み込むように持ち上げた。
脈をみる。
肌の色を見る。
爪の血色を見る。
舌の色もちらりと確認する。
――やっぱり。
(体が、自分の力で回復する前に、無理やり“動かされてる”)
内臓の疲労が、皮膚の上からでも伝わってきそうだった。
「ありがとう。
飲んでいたのは、この薬だけ?」
「はい……」
「王都の薬師さんには?」
「“田舎の薬なんて危ない”って、まともに取り合ってくれなくて……
“それでも飲みたいなら自己責任だ”って……」
母親の顔に、悔しさと不安が混ざる。
(王都……)
胸の奥に、嫌な予感が渦を巻く。
「その瓶、見せていただけますか?」
「もちろんです」
父親から瓶を受け取る。
ラベルに書かれた名前を見た瞬間、ミントの心臓がきゅっと縮んだ。
『ミント・フェンネル処方 万能薬』
書き方が違う。
癖が違う。
でも、それを知らない人にはわからない。
指先がわずかに震えた。
「……これは」
蓋をひねる。
立ち上る匂い。
ハーブの香り。
ミントと、鎮静系の匂い――に、紛れている別の何か。
(違う)
即座にわかった。
似ている。
似せてある。
でも、土台が違う。
「これは、私の薬じゃありません」
はっきりと言った。
夫婦が顔を上げる。
「え……?」
「私が作る薬は、もっと優しい匂いがします。
体を“動かす”のではなく、“休ませる”ように作っています」
ミントは、棚から自分の万能ハーブ水の瓶を取り出した。
蓋を開ける。
ふわりと広がる柔らかな香り。
「ほら、嗅いでみてください」
夫婦が順番に鼻に近づける。
「あ……」
「全然、違う……」
「ね?」
ミントは、小さく微笑もうとして――うまく笑えなかった。
胸の奥に、冷たい何かがじわじわ広がっていく。
「王都で、“ミントの薬”と称して売られているものがあるみたいです。
でもそれは、私の薬じゃない」
言葉にしながら、自分の中のショックと向き合う。
(私の名前で、誰かが薬を売っている)
(私の薬だと思って、信じて飲んだ人が、こんなに苦しそうにしている)
「……ミントさん?」
母親の不安そうな声。
ミントは、はっと我に返った。
「ごめんなさい。少し、考え事をしていました」
首を振って気持ちを切り替える。
「まずは、今のお嬢さんの体を整えましょう。
この薬は、もう飲まないでください」
「で、でも……」
「大丈夫です。
“ミントの薬”なら、ここに本物がありますから」
できる限り柔らかく、でも強く言う。
娘の方に向き直り、ミントは微笑んだ。
「薬を変えるのは不安だよね。
でもね、今の体は、“本当は休みたいのに休ませてもらってない”状態なんだ。
ちゃんと休ませてあげれば、きっと楽になるよ」
「……ほんと、ですか」
「うん。私が、そうします」
その言葉に、自分自身を縛る覚悟を込める。
――絶対に、救う。
自分の名前のせいで苦しんでいるかもしれないこの子を、絶対に。
◇
治療の方針を伝え、必要な薬草を選びながら、ミントは棚の影で小さく息を吐いた。
(誰かが、意図的にやってる)
偶然似た配合になった、なんて生ぬるい話ではない。
ラベルに名前を書く。
王都の噂を利用する。
それなりに効き目は出るように配合する。
でも、体への負担は考えていない。
全部、「一番楽な稼ぎ方」を知っている手だ。
(……嫌だ)
胸の奥に、じわっと熱いものが溜まっていく。
怒りとも、悲しみとも、悔しさともつかない混ざりもの。
その時。
「ミント」
店の扉が開いて、聞き慣れた声が入ってきた。
「ただい――」
いつもの調子で言いかけて、サフランは空気を察したのか、すぐに表情を引き締めた。
ミントと目が合う。
ミントの手には、さっきの偽薬の瓶。
サフランは、すぐに察した。
「……こっちでも、出たか」
「サフランさん」
ミントは、少し震える声で呼んだ。
「王都でも、これが?」
「ああ」
サフランは頷き、内ポケットから同じ瓶を取り出した。
「王都の下町で、“ミントの薬だ”って売られてた。
小さな怪我や風邪にはそれなりに効いて、そのあと体がだるくなるって、被害も出始めてる」
「――っ」
ミントの指先に、力がこもった。
「宮廷薬師団で分析した。
見た目も匂いも、“お前の処方っぽく”はある。
だが、本質は違う。
安い代替品と、きつい成分を混ぜてある」
「やっぱり……」
ミントは、唇を噛んだ。
「さっきのお客さんの娘さん、これを飲んでました。
最初は元気になって、そのあとぐったりして……
“薬がないと不安になる”って」
「依存の芽がある」
「はい」
短い会話の中で、状況がぴたりと噛み合ってしまう。
それが、余計に恐ろしかった。
「私の……」
ミントは、ぎゅっと瓶を握りしめた。
「私の薬で、人を苦しめてるかもしれないんです」
「違う」
サフランの声が、少し強くなった。
「それはお前の薬じゃない。
お前の名前を勝手に使ってる、“偽物”だ」
「でも……名前が、私の……」
ミントの目に、じわりと涙がにじむ。
「王都の人たちは、“ミントの薬”だと思って飲んでるんですよね。
“ミントなら信じられる”って思って……
そのせいで、苦しんでる人がいるかもしれない」
「ミント」
サフランが、そっと彼女の肩に触れた。
「お前は、何か悪いことをしたか?」
「してません……」
「人を傷つける薬を作ったか?」
「作ってません……」
「じゃあ悪いのは誰だ」
サフランは、まっすぐにミントを見る。
「お前の名前を利用して、雑な薬を作ってる奴らだ。
楽して稼ぎたい連中だ。
“ミントの信用”を、勝手に泥で汚してる奴らだ」
「……」
「お前のせいじゃない」
ゆっくりと、言葉を刻むように。
「これは、悪用している奴らの問題だ」
それが真実だと頭ではわかっていても、胸の奥の罪悪感は簡単には消えない。
ミントは、ぽろりと涙をこぼした。
「でも、私が、もっと……
もっと早く気づいてたら、止められたかもしれないって……
“ミントの薬は安全だ”って思ってる人たちを、守れたかもしれないって……」
「全部、自分ひとりで背負おうとするな」
サフランの手が、優しく彼女の頭に乗った。
わしゃ、と軽く髪を撫でる。
「王都全体を、お前ひとりで管理しろって言う方が無茶だ。
グリーンノートで目の前の人を救うだけでも、十分すぎるほどやってる」
「でも」
「でも、じゃない」
サフランは、少しだけ笑った。
「どうしても何かしたいなら――一緒にやる。
王都で何が起きてるか、誰が関わってるか、俺が探る。
お前はここで、本物の“ミントの薬”を続けてくれ」
「……サフランさん」
「そうすれば、“偽物”と“本物”の違いは、必ず見えるようになる」
その言葉に、涙で滲んだ視界の中でも、少しだけ光が差した気がした。
「……はい」
ミントは、鼻をすすって、何度も頷いた。
「私、ちゃんと本物を作り続けます。
“名前だけじゃない、本物のミントの薬”を」
「それでいい」
サフランは手を離し、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「今さらお前が“やめます”って言っても、どうせ村長が許さないしな」
「そうですね……村長、きっと王都に怒鳴り込みますね」
「“うちの自慢の薬師に変な真似するんじゃねぇ!”ってな」
二人で、少し笑った。
笑いながらも、その笑いの奥には、じんとした痛みと決意が混じっていた。
◇
その頃、王都。
バジル伯爵家の玄関前に、立派な馬車が用意されていた。
黒い車体に、バジル家の紋章。
磨き上げられた車輪。
御者台には、気合の入った表情の御者。
玄関ホールには、リリーが立っていた。
深緑のドレスに、淡いクリーム色のショール。
いつもより少しだけ動きやすい服装。
足元を気にして、さっきからこっそり裾を踏まない練習をしているのは、もちろん誰にも言えない。
「本当に行くのか」
階段の上から、伯爵の声がした。
振り向くと、父が腕を組んでこちらを見下ろしている。
「ええ」
リリーは、真っ直ぐに答えた。
「田舎の村。
“ミント・フェンネル”とやらの薬草店。
この目で見てきます」
「田舎は、お前の慣れている世界とは違う」
「でしょうね」
想像するだけで、土煙と虫と、質素な食事が脳内に再生される。
(胃薬、持っていきませんと……)
「でも、お父様」
リリーは、階段の下から父を見上げた。
「彼にふさわしいのは誰か。
宮廷薬師としての未来に並んで立てるのは誰か。
このまま王都の屋敷の中で“家同士が決めたから”とふんぞり返っていても、答えは出ませんわ」
「……」
「私、自分で選びたいんですの」
胸の奥から言葉が出てくる。
「サフラン様を選ぶのも。
サフラン様に、私を選んでもらうのも。
“田舎娘に負けた”と陰口を叩かれる未来を、受け入れるかどうかも」
伯爵は、しばしリリーを見つめ、それから短く頷いた。
「好きにしろ」
それは、この家の人間にとって最大級の「許可」だった。
「ありがとうございます、お父様」
リリーは、珍しく心からの笑みを浮かべる。
くるりと向きを変え、玄関へ向かう。
扉が開くと、外の光が一気に差し込んだ。
石畳の先。
そのさらに先。
王都の外れを越え、森や丘を越えた場所に――“田舎の村”がある。
(サフラン様を)
心の中で、その名前を呼ぶ。
(あんな田舎娘から、取り戻してみせますわ)
それは、まだ“戦い”のつもりだった。
自分と田舎娘、どちらが彼にふさわしいか――という、誇りのかかった勝負。
馬車が走り出す。
王都から、田舎へ向かう車輪の音が、静かに物語の次の幕を開けようとしていた。
高い天井。
壁一面の書棚。
磨き上げられた大きな机と、その向こうで書類にペンを走らせる男――バジル伯爵。
窓の外には王都の街並みが広がっているのに、この部屋の空気はまるで別の世界みたいに冷たい。
「お父様」
ノックのあと、リリーは静かに扉を開けた。
深緑色のドレス。
完璧な笑み。
背筋は一本の線みたいにまっすぐ。
さっき廊下の絨毯で盛大につまずきかけたことなんて、何事もなかったかのような顔をしている。
「リリーか。入れ」
バジル伯爵は手を止めずに言った。
低く落ち着いた声。
娘に対してすら、感情をあまり表に出さない。
「お話があると伺いましたわ」
「座りなさい」
伯爵は、机の前の椅子を顎で示す。
リリーはドレスの裾を整え、淑女らしく腰掛けた。
指先は膝の上で軽く組まれている。
外から見れば、完璧な貴族令嬢。
――内側では、心臓の鼓動がうるさい。
(どうせ、あの話でしょうね)
そう予測しながらも、父の口から聞くまでは気を抜けない。
「サフラン・ローウェル殿の件だ」
伯爵の言葉に、リリーはまぶたをわずかに伏せた。
「やはり、そうでしたのね」
「お前も耳にしているだろう。
ローウェル家と我がバジル家――互いの“家”として、婚約話を進めている」
「“家として”、ですわね」
リリーはあえてその言葉を繰り返す。
「サフラン・ローウェル殿は、本家の分家筋とはいえ血筋は確か。
王家直属の宮廷薬師。
王太子殿下の信頼も厚い。
若くして功績もある」
伯爵は淡々と事実を並べる。
「将来性は十分。“家”としては申し分ない相手だ」
「……合理的に考えても」
リリーは、静かに言った。
「悪くない話、ですわね」
「そうだ」
伯爵は娘をじっと見る。
「お前の年齢もそろそろ“いつまでも独り身でいるには目立つ頃合い”だ。
お前の資質を考えれば、相応の家に嫁ぐべきだが――」
「私の“価値”に見合う家と結びつくのは、バジル家の利益にもなる。
そうおっしゃりたいのでしょう?」
「話が早くて助かる」
血が繋がっているだけあって、思考の方向は似ている。
(ええ、わかっていますわ)
リリーは内心で肩をすくめる。
(私は“娘”である前に、“バジル家の駒”ですの)
そんなことは、子どもの頃から嫌というほど教え込まれてきた。
「私はこの縁談を、悪いとは思いません」
リリーははっきりと言った。
「サフラン殿の立場も将来も魅力的。
宮廷薬師の妻として、王城に出入りできる立場は、私自身の“評価”にも直結しますわ」
「自覚があるのは良いことだ」
「ただし」
リリーは、ほんの少しだけ声の温度を下げた。
「問題が一つ」
「……田舎娘の件か」
伯爵の目が鋭くなる。
リリーは、唇の端をきゅっと上げた。
「ええ、“田舎娘”ですわ」
王都中に飛び交う噂。
――田舎の村に、とてつもなく腕の良い薬師がいる。
――王太子殿下の命を救った。
――王家特認。
――それでも“田舎の薬草店”で店主をしている、変わり者。
名前は、ミント・フェンネル。
「“サフラン殿が田舎娘の薬師に骨抜きにされている”」
自分の口で言っておきながら、思わず眉間に皺が寄る。
「……下町の言葉は、本当に悪趣味ですわね」
「それが民の言葉だ」
伯爵は書類を一枚横にずらす。
「お前には関係のない噂話だ。
家同士が決めた縁談は、噂で揺らぐことはない」
「建前としては、そうでしょうけれど」
リリーは、少しだけ椅子に体重を預けた。
「実際のところ、どうなのです? お父様は」
「何がだ」
「サフラン殿が、“その田舎娘を選ぶ可能性”についてですわ」
伯爵の目がわずかに細められた。
肯定とも否定とも取れない沈黙。
しばしの間の後、伯爵は低く答えた。
「――可能性はある」
その一言で、リリーの喉がひゅっと鳴った。
「彼は、“合理”だけで動く男ではない。
王太子殿下に対しても、上辺だけの忠誠心ではなく、自分の信念で動いている。
そういう男が、“自分を救った田舎娘”を放っておけると思うか?」
「……思いませんわ」
認めるのは癪だけど、と心の中で付け足す。
「家の者たちは、“婚約は決まったも同然”と考えている。
だが、サフラン本人の意思は、まだはっきりとは固まっていない」
「……」
「だからこそ、バジル家としては――」
伯爵は、娘を真正面から見た。
「お前に問う。
この婚約を、望むか?」
リリーは、少しだけ目を見開いた。
(“家として”ではなく、“私自身”に聞くのですか?)
珍しいことだと思った。
大抵、この家で決まることは「家」としての判断が先にあって、個人の希望は後回しだ。
それでも今、父はわざわざ自分に「望むか」と聞いている。
――試されている気がした。
自分がどれだけ“家”を理解していて、どれだけ“駒”になる覚悟があるか。
そして、どれだけ“自分”を持っているか。
「望みますわ」
リリーは、迷いなく答えた。
「サフラン・ローウェル殿との婚約。
合理的に考えても、感情的に考えても、悪くない選択ですもの」
「感情的に?」
「ええ」
リリーは、少しだけ頬を染めた。
「王都での評判を聞く限り、眼鏡越しに見る価値はありそうですし」
「眼鏡?」
「例えですわ」
軽く笑って、すぐに真顔に戻る。
「でも、その前に」
リリーの瞳が、静かに燃える。
「“田舎娘”の問題を、何とかしなくてはなりませんわね」
「お前ひとりで何とかなる問題ではない」
「そうでしょうけれど」
リリーはふっと笑う。
「私、プライドは高い方ですの」
「自覚はあるらしいな」
「ありますとも」
胸を張る仕草だけは、妙に気持ちいいくらい素直だった。
「だから、“家の決めた婚約相手”というだけでは、納得できませんの。
私が彼を選ぶように、彼にも私を選んでほしい。
“田舎娘とどちらがふさわしいか”――その勝負から逃げて、“家だから”で勝ったとは思いたくありませんわ」
伯爵は、娘をしばらく見つめた。
その目の奥に、微かな感情が浮かび上がる。
誇りとも、呆れともつかない色。
「……お前は本当に、私の娘だな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「勝手にしろ」
伯爵は小さくため息をついた。
「偽薬の噂も、耳にしているな?」
「ええ」
リリーの眉が、きゅっと寄る。
「“ミント薬師の真似をした薬が王都で出回っている”――そう聞いておりますわ。
なんでも、“本物より効くミントの薬”などと謳っているとか」
「被害も出始めている」
「まあ」
リリーは、唇を引き結んだ。
「田舎娘の癖に、王都全体を巻き込んで。
自分の名前の扱いも管理できないなんて、どれだけ無防備なのかしら」
声に棘が混ざる。
頭の中には、“ミント”という名前の田舎娘の姿が、都合よく歪んだ形で出来上がり始めていた。
――身の程知らず。
――自分がどれだけ影響力を持っているかもわからず、田舎でぬくぬくしている。
――そのせいで、王都が混乱している。
(野放しにしていい存在ではありませんわね)
心の奥で、冷たい決意が固まりつつあった。
◇
同じ頃、田舎の村。
グリーンノートの扉が、カランと軽やかな音を立てて開いた。
「失礼します……ミント薬師さん、いらっしゃいますか?」
「はーい、どうぞ」
ミントがカウンターの奥から顔を出す。
入ってきたのは、見慣れない顔の中年夫婦と、その後ろに隠れるように立っている若い娘だった。
服の形や生地の質からして、この村の人間ではない。
もっと大きな街、あるいは王都の外れから来たのだろう。
「遠いところありがとうございます。
どうされましたか?」
にこやかに問いかけると、夫婦は顔を見合わせた。
「その……実は」
言い出しにくそうにしているのを見て、ミントは「大丈夫ですよ」と柔らかく微笑む。
「ここでは、誰も笑ったり怒ったりしませんから。
ゆっくりお話ししてみてください」
その一言で、夫婦の肩の力がふっと抜けた。
「はい……」
娘の肩に手を置きながら、母親が話し始める。
「この子が、最近ずっと体調が悪くて。
王都に行った際に、“ミントさんの薬だ”と言われて、瓶を買ったんです」
ミントの指先が、ぴくりと動いた。
「王都で……私の名前の、薬を?」
「ええ。
“王家特認の田舎娘の薬師の処方を再現した薬だ”って……
ラベルにも、“ミント・フェンネル処方”って書いてあって」
父親が、包みから一本の瓶を取り出した。
薄い緑色の液体。
少し擦れたラベル。
そこに書かれた、見覚えのある文字――の、つもりの文字。
ミントは、息を飲んだ。
「それを飲んでから、最初は元気になったんです。
熱も下がって、“さすが本物の薬だ”って思ってたんですけど……」
母親の声が震える。
「しばらくすると、妙に体がだるいって言い出して。
薬を飲んでる時は動けるのに、切れた途端にぐったりして。
最近じゃ、“薬がないと不安だ”って……」
「……」
ミントは、そっと娘に目を向けた。
青白い顔。
目の下には薄いクマ。
椅子に座っているだけなのに、肩で息をしている。
「ごめんね、少し手を見てもいい?」
「……はい」
か細い返事。
ミントは娘の手を、両手で包み込むように持ち上げた。
脈をみる。
肌の色を見る。
爪の血色を見る。
舌の色もちらりと確認する。
――やっぱり。
(体が、自分の力で回復する前に、無理やり“動かされてる”)
内臓の疲労が、皮膚の上からでも伝わってきそうだった。
「ありがとう。
飲んでいたのは、この薬だけ?」
「はい……」
「王都の薬師さんには?」
「“田舎の薬なんて危ない”って、まともに取り合ってくれなくて……
“それでも飲みたいなら自己責任だ”って……」
母親の顔に、悔しさと不安が混ざる。
(王都……)
胸の奥に、嫌な予感が渦を巻く。
「その瓶、見せていただけますか?」
「もちろんです」
父親から瓶を受け取る。
ラベルに書かれた名前を見た瞬間、ミントの心臓がきゅっと縮んだ。
『ミント・フェンネル処方 万能薬』
書き方が違う。
癖が違う。
でも、それを知らない人にはわからない。
指先がわずかに震えた。
「……これは」
蓋をひねる。
立ち上る匂い。
ハーブの香り。
ミントと、鎮静系の匂い――に、紛れている別の何か。
(違う)
即座にわかった。
似ている。
似せてある。
でも、土台が違う。
「これは、私の薬じゃありません」
はっきりと言った。
夫婦が顔を上げる。
「え……?」
「私が作る薬は、もっと優しい匂いがします。
体を“動かす”のではなく、“休ませる”ように作っています」
ミントは、棚から自分の万能ハーブ水の瓶を取り出した。
蓋を開ける。
ふわりと広がる柔らかな香り。
「ほら、嗅いでみてください」
夫婦が順番に鼻に近づける。
「あ……」
「全然、違う……」
「ね?」
ミントは、小さく微笑もうとして――うまく笑えなかった。
胸の奥に、冷たい何かがじわじわ広がっていく。
「王都で、“ミントの薬”と称して売られているものがあるみたいです。
でもそれは、私の薬じゃない」
言葉にしながら、自分の中のショックと向き合う。
(私の名前で、誰かが薬を売っている)
(私の薬だと思って、信じて飲んだ人が、こんなに苦しそうにしている)
「……ミントさん?」
母親の不安そうな声。
ミントは、はっと我に返った。
「ごめんなさい。少し、考え事をしていました」
首を振って気持ちを切り替える。
「まずは、今のお嬢さんの体を整えましょう。
この薬は、もう飲まないでください」
「で、でも……」
「大丈夫です。
“ミントの薬”なら、ここに本物がありますから」
できる限り柔らかく、でも強く言う。
娘の方に向き直り、ミントは微笑んだ。
「薬を変えるのは不安だよね。
でもね、今の体は、“本当は休みたいのに休ませてもらってない”状態なんだ。
ちゃんと休ませてあげれば、きっと楽になるよ」
「……ほんと、ですか」
「うん。私が、そうします」
その言葉に、自分自身を縛る覚悟を込める。
――絶対に、救う。
自分の名前のせいで苦しんでいるかもしれないこの子を、絶対に。
◇
治療の方針を伝え、必要な薬草を選びながら、ミントは棚の影で小さく息を吐いた。
(誰かが、意図的にやってる)
偶然似た配合になった、なんて生ぬるい話ではない。
ラベルに名前を書く。
王都の噂を利用する。
それなりに効き目は出るように配合する。
でも、体への負担は考えていない。
全部、「一番楽な稼ぎ方」を知っている手だ。
(……嫌だ)
胸の奥に、じわっと熱いものが溜まっていく。
怒りとも、悲しみとも、悔しさともつかない混ざりもの。
その時。
「ミント」
店の扉が開いて、聞き慣れた声が入ってきた。
「ただい――」
いつもの調子で言いかけて、サフランは空気を察したのか、すぐに表情を引き締めた。
ミントと目が合う。
ミントの手には、さっきの偽薬の瓶。
サフランは、すぐに察した。
「……こっちでも、出たか」
「サフランさん」
ミントは、少し震える声で呼んだ。
「王都でも、これが?」
「ああ」
サフランは頷き、内ポケットから同じ瓶を取り出した。
「王都の下町で、“ミントの薬だ”って売られてた。
小さな怪我や風邪にはそれなりに効いて、そのあと体がだるくなるって、被害も出始めてる」
「――っ」
ミントの指先に、力がこもった。
「宮廷薬師団で分析した。
見た目も匂いも、“お前の処方っぽく”はある。
だが、本質は違う。
安い代替品と、きつい成分を混ぜてある」
「やっぱり……」
ミントは、唇を噛んだ。
「さっきのお客さんの娘さん、これを飲んでました。
最初は元気になって、そのあとぐったりして……
“薬がないと不安になる”って」
「依存の芽がある」
「はい」
短い会話の中で、状況がぴたりと噛み合ってしまう。
それが、余計に恐ろしかった。
「私の……」
ミントは、ぎゅっと瓶を握りしめた。
「私の薬で、人を苦しめてるかもしれないんです」
「違う」
サフランの声が、少し強くなった。
「それはお前の薬じゃない。
お前の名前を勝手に使ってる、“偽物”だ」
「でも……名前が、私の……」
ミントの目に、じわりと涙がにじむ。
「王都の人たちは、“ミントの薬”だと思って飲んでるんですよね。
“ミントなら信じられる”って思って……
そのせいで、苦しんでる人がいるかもしれない」
「ミント」
サフランが、そっと彼女の肩に触れた。
「お前は、何か悪いことをしたか?」
「してません……」
「人を傷つける薬を作ったか?」
「作ってません……」
「じゃあ悪いのは誰だ」
サフランは、まっすぐにミントを見る。
「お前の名前を利用して、雑な薬を作ってる奴らだ。
楽して稼ぎたい連中だ。
“ミントの信用”を、勝手に泥で汚してる奴らだ」
「……」
「お前のせいじゃない」
ゆっくりと、言葉を刻むように。
「これは、悪用している奴らの問題だ」
それが真実だと頭ではわかっていても、胸の奥の罪悪感は簡単には消えない。
ミントは、ぽろりと涙をこぼした。
「でも、私が、もっと……
もっと早く気づいてたら、止められたかもしれないって……
“ミントの薬は安全だ”って思ってる人たちを、守れたかもしれないって……」
「全部、自分ひとりで背負おうとするな」
サフランの手が、優しく彼女の頭に乗った。
わしゃ、と軽く髪を撫でる。
「王都全体を、お前ひとりで管理しろって言う方が無茶だ。
グリーンノートで目の前の人を救うだけでも、十分すぎるほどやってる」
「でも」
「でも、じゃない」
サフランは、少しだけ笑った。
「どうしても何かしたいなら――一緒にやる。
王都で何が起きてるか、誰が関わってるか、俺が探る。
お前はここで、本物の“ミントの薬”を続けてくれ」
「……サフランさん」
「そうすれば、“偽物”と“本物”の違いは、必ず見えるようになる」
その言葉に、涙で滲んだ視界の中でも、少しだけ光が差した気がした。
「……はい」
ミントは、鼻をすすって、何度も頷いた。
「私、ちゃんと本物を作り続けます。
“名前だけじゃない、本物のミントの薬”を」
「それでいい」
サフランは手を離し、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「今さらお前が“やめます”って言っても、どうせ村長が許さないしな」
「そうですね……村長、きっと王都に怒鳴り込みますね」
「“うちの自慢の薬師に変な真似するんじゃねぇ!”ってな」
二人で、少し笑った。
笑いながらも、その笑いの奥には、じんとした痛みと決意が混じっていた。
◇
その頃、王都。
バジル伯爵家の玄関前に、立派な馬車が用意されていた。
黒い車体に、バジル家の紋章。
磨き上げられた車輪。
御者台には、気合の入った表情の御者。
玄関ホールには、リリーが立っていた。
深緑のドレスに、淡いクリーム色のショール。
いつもより少しだけ動きやすい服装。
足元を気にして、さっきからこっそり裾を踏まない練習をしているのは、もちろん誰にも言えない。
「本当に行くのか」
階段の上から、伯爵の声がした。
振り向くと、父が腕を組んでこちらを見下ろしている。
「ええ」
リリーは、真っ直ぐに答えた。
「田舎の村。
“ミント・フェンネル”とやらの薬草店。
この目で見てきます」
「田舎は、お前の慣れている世界とは違う」
「でしょうね」
想像するだけで、土煙と虫と、質素な食事が脳内に再生される。
(胃薬、持っていきませんと……)
「でも、お父様」
リリーは、階段の下から父を見上げた。
「彼にふさわしいのは誰か。
宮廷薬師としての未来に並んで立てるのは誰か。
このまま王都の屋敷の中で“家同士が決めたから”とふんぞり返っていても、答えは出ませんわ」
「……」
「私、自分で選びたいんですの」
胸の奥から言葉が出てくる。
「サフラン様を選ぶのも。
サフラン様に、私を選んでもらうのも。
“田舎娘に負けた”と陰口を叩かれる未来を、受け入れるかどうかも」
伯爵は、しばしリリーを見つめ、それから短く頷いた。
「好きにしろ」
それは、この家の人間にとって最大級の「許可」だった。
「ありがとうございます、お父様」
リリーは、珍しく心からの笑みを浮かべる。
くるりと向きを変え、玄関へ向かう。
扉が開くと、外の光が一気に差し込んだ。
石畳の先。
そのさらに先。
王都の外れを越え、森や丘を越えた場所に――“田舎の村”がある。
(サフラン様を)
心の中で、その名前を呼ぶ。
(あんな田舎娘から、取り戻してみせますわ)
それは、まだ“戦い”のつもりだった。
自分と田舎娘、どちらが彼にふさわしいか――という、誇りのかかった勝負。
馬車が走り出す。
王都から、田舎へ向かう車輪の音が、静かに物語の次の幕を開けようとしていた。
222
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