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第2話 勇者じゃない私に渡されたのは、名札と書類の山
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石床の冷たさが、まだ掌に残っている。
王城地下の空気は湿っていて、古い井戸の底みたいな匂いがした。松明の火が揺れるたび、壁の影が伸び縮みして、私の心臓も一緒に上下している気がする。
「立てるか」
鎧の男が短く言う。声は硬い。命令というより確認に近いけど、確認のはずなのに拒否権は感じない。
「……立てます」
そう答えた瞬間、膝が一度だけ笑った。情けない。終電の中で薄くなった私の体は、異世界に来てもいきなり強くはならないらしい。
私はバッグの紐を握り直し、立ち上がった。スーツの膝が少し擦れていて、黒い布に灰色の粉がついている。現代の私がここに持ち込んだ“社会人の鎧”は、どう考えてもこの石造りの世界と相性が悪い。
「ついて来い」
先頭の騎士が歩き出す。足音が石に反響して、やたらと大きく聞こえる。私は置いていかれないように、必死で後ろを追った。
廊下を進むにつれ、空気が少しずつ変わった。湿り気が薄れ、香の匂いが混ざる。甘い、花のような——でもどこか薬草っぽい匂い。鼻の奥がくすぐったい。
そして、扉。
人の背丈の倍くらいある、重そうな両開きの扉が目の前に現れた。取っ手に金色の装飾。彫刻は細かく、蔓草みたいな模様が絡み合っている。いかにも「ここから先は偉い人の世界です」って顔をしている。
騎士が合図すると、扉の左右に立つ衛兵が一斉に押した。
ぎいぃ……と、木が軋む音。
扉が開いた瞬間、目に飛び込んできたのは——金色。
眩しい。眩しすぎる。
天井は高く、梁には金箔のような装飾が施され、巨大なシャンデリアみたいな魔法灯が青白く光っている。床は磨き上げられた石で、光が鏡みたいに反射して、私の足元を二重に映した。
大広間。
そこには、私が想像していた“異世界の王宮”が全部あった。
剣を携えた騎士が列を作り、ローブを着た魔法使いが杖を持ち、貴族っぽい人たちが扇子や羽飾りを揺らしてざわめいている。言葉は知らないはずなのに、耳に入ってくると意味がわかるのが、逆に怖い。
「召喚は成功だ」 「いや、転生者では?」 「勇者はどこだ、勇者は!」
視線が一斉に私に突き刺さる。
まるで、プレゼン会場に遅れて入ってきた新人みたいに、空気が私を裁く。私は背筋を伸ばし、呼吸を整えた。現代の面接で鍛えた“無表情の防御”を貼り付ける。
……でも。
胸の内側は、心臓が紙を破るみたいにバタバタしていた。
「こちらへ」
騎士に促され、私は広間の中央へ進む。磨かれた床が滑りそうで怖い。ヒールで来たの、誰だよって思う。自分だよ。
正面の高台に、玉座がある。そこに座っている人物は、冠をかぶり、重そうなマントを羽織っていた。王様——たぶん。隣には、柔らかい笑みを浮かべる女性。王妃か。さらにその周囲に、側近らしき人たちが並ぶ。
この空気。
会社の役員会議より、さらに胃が痛くなる。
「……名を名乗れ」
王様らしき人が言った。低い声。広間の奥まで届くように、響きがある。
私は一瞬、迷った。ここで本名を言っていいのか。けど、嘘をつくほどの余裕はない。
「綴原ペンナです」
自分の名前が、この豪奢な大広間に落ちるのが変な感じだった。ペンナ。ペン。現代の、紙の上の存在みたいな名前が、金の装飾に呑まれそうになる。
ざわめきが広がる。
「ツヅリ……?」 「変わった名だ」 「勇者の名ではないな」
その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。
勇者の名じゃない、って何。勇者なら許されるの。勇者じゃない私は、最初から値札が低いの。
王様は、隣の側近に目配せした。側近が前に出て、巻物を開く。
「異界より来たりし者、綴原ペンナ。汝に問う。剣を取る覚悟はあるか。魔を討つ意思はあるか」
テンプレだ。
テンプレなのに、現実だ。
私は、言葉を選ぶ。ここで「ないです」なんて言ったら、即退場かもしれない。逆に「あります」って言ったら、私の命が危ない。
「……状況を確認したいです。私は、何として呼ばれたんですか」
一瞬、空気が止まった。
貴族たちの扇子が止まり、魔法使いたちの杖が少し揺れ、騎士の鎧の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
側近が眉をひそめる。
王様が、少しだけ唇を歪めた。
「……率直だな」
率直って言い方。現代で言うと「扱いづらい」だ。
側近が巻物を閉じ、言い直すみたいに咳払いをした。
「結論から言おう。汝は勇者ではない」
その瞬間、胸の奥が——冷たくなった。
ああ、やっぱり。
やっぱり私は、主役じゃない。
……わかってた。わかってたはずなのに。
白い光に折り畳まれた時、どこかで期待してしまっていた。「異世界なら、私も報われるかも」って。そんな都合のいい夢を。
「勇者は、別の者が召喚される予定だった。しかし——」
側近が言葉を続ける。予定。予定が狂った。つまり私は、システムエラーみたいなもの。バグで出力された余分な紙。
王妃らしき女性が、困ったように微笑む。
「あなたを無駄にはしません。異界の知恵を持つ者は貴重ですもの」
無駄にはしません。
その言葉は優しいのに、どこか怖い。物を扱うみたいな言い方だ。
私は唇を噛んだ。
感情を出したら負ける。現代と同じ。
「では、私の役目は?」
王様が一度、頷いた。
「冒険者ギルドに配属する。事務局補佐だ」
……事務。
その単語が、私の心に針みたいに刺さる。
異世界に来ても事務。
勇者でも賢者でもなく、裏方。
私の人生、表舞台に出る予定、最初からなかったの?
「ギルド……?」
「そうだ。王都の冒険者ギルド。討伐依頼の管理、報酬の精算、民からの請願の整理——人手が足りぬ」
側近が淡々と説明する。言葉がまるで、業務内容の箇条書き。私の脳が勝手にチェックリストに変換する。
討伐依頼管理。精算。請願整理。
……めちゃくちゃ燃えてそう。炎上案件の匂いがする。
私は笑いそうになった。乾いた笑い。
世界が変わっても、仕事は仕事だ。しかも、いかにも地獄っぽい。
「待遇は?」
自分でも驚くほど、現代の口が出た。
貴族たちが「おお」とざわつく。「待遇」を聞く召喚者なんて、たぶん前例がない。魔法使いの一人が「俗っぽい」とでも言いたげに鼻を鳴らす。
でも私は、俗っぽくてもいい。生きるには条件が必要だ。
王様が少しだけ面倒そうに言う。
「住居は用意する。衣服もな。食事も——ギルドの規定に従う」
ギルドの規定。つまり、王宮の手厚さはない。
それでも、現代で“追放”された私には、住居と食事が保証されるだけでも、喉が少し楽になる気がした。
「……わかりました」
私は頭を下げた。深く、礼儀正しく。
頭を下げるのは悔しい。でも、ここで突っぱねるのは危険すぎる。
頭を上げると、側近が手招きした。
「これを」
差し出されたのは、木札だった。
薄い木を削っただけの、素朴な札。そこに紐が通され、首から下げるタイプの名札らしい。木の匂いがする。樹皮の、少し甘い香り。
そしてもう一つ。
「こちらも」
……紙束。
山みたいな紙束が、どん、と私の腕に乗せられる。予想以上に重い。ズシッと腕が沈む。紙の端が指に当たり、カサカサと擦れる音がした。
私は反射で抱え直した。抱えた瞬間、胸がぎゅっと痛む。
「……これ、何ですか」
「ギルドの未処理案件だ。あなたの仕事になる」
未処理案件。
現代でも聞き慣れた言葉が、異世界の大広間でさらっと出てくるのが笑えない。
私は紙束の一番上をちらりと見る。
文字は読める。意味もわかる。
依頼書。請願書。精算書。死亡報告?
……ちょっと待って、死亡報告?
喉がひゅっと鳴った。
「これ、量……多くないですか」
つい本音が漏れた。
周囲がざわつく。「文句か?」という空気。
でも私は引かない。引いたら、踏まれるのを知っている。
側近は、冷たくもなく温かくもなく言った。
「人手が足りぬ。ゆえに、あなたが必要なのだ」
必要。
必要と言われると、心が揺れる。現代でもそうだった。必要と言われて働いて、使い潰されて、最後に「空気がね」だった。
私は腕の中の紙束を抱えたまま、息を整えた。紙の匂いが鼻に入る。懐かしい匂い。苦い匂い。
「……理解しました」
そのとき、王妃がふっと柔らかく声を落とした。
「あなた、つらい顔をしているわ。異界から来たばかりだものね」
私は目を上げる。
王妃の微笑みは優しい。けど、その優しさは“上からの優しさ”だ。包むようで、逃げ道を塞ぐ。
「大丈夫です。慣れてます」
そう言った自分の声が、思ったより平坦で、私は心の中で少しだけ自分を撫でた。よく言った。泣かなかった。折れなかった。
王様が手を振る。
「連れて行け」
騎士たちが私の両脇に付く。護衛というより、監視。
私は紙束を抱え、名札の木札を握り、広間を出た。
扉が閉じる直前、ざわめきが背中に刺さる。
「勇者ではないのか」 「なら使い道はあるのか」 「異界の女……」
言葉が刃みたいに追ってくる。
私は振り返らない。振り返ったら、また“空気”に飲まれる。
廊下に出ると、空気が少し冷たくて、肺が落ち着いた。
騎士が言う。
「ギルドまでは馬車で移動する。ついて来い」
「はい」
返事だけは素直にする。今は。
歩きながら、私は腕の中の紙束を見下ろした。
こんなに重いのに、紙は薄い。薄いのに、重い。
——まるで私みたいだ。
胸の奥が、また鈍く痛む。
「また、裏方なんだ」
声に出してしまった。
騎士がちらりとこちらを見る。
「不満か」
不満。
その言葉に、私は一瞬だけ笑った。
「……不満というか。慣れてるだけです」
慣れてる。
慣れって、怖い。人間を強くするけど、同時に感覚を鈍らせる。
でも。
私は紙束の角を揃えた。指先が自然に動く。端を揃えると、少しだけ心が落ち着く。
段取り。整理。記録。
私が持っている武器は、剣でも魔法でもない。
「ねえ」
思わず、騎士に声をかけた。
「ギルドって、今どんな状況ですか。未処理が山ってことは、炎上してますよね」
騎士は「えん……?」と眉を寄せた。
私は言い換える。
「つまり、問題が多い?」
騎士は短く答えた。
「多い。死人も出る」
さらっと言った。
その軽さが、逆に重かった。
死人が出る事務。
死人が出る管理不全。
私は目を閉じた。
頭の中で、工程表が勝手に広がる。
依頼受付→審査→割り当て→遂行→報告→精算。
どこで詰まってる?どこで漏れてる?どこで死んでる?
目を開ける。
怖い。
でも、逃げる場所はない。
紙束を抱え直し、私は小さく息を吐いた。
白い光に折り畳まれた夜から、もう戻れないなら。
せめて、この紙の山を、私の手で“ページ”にしていくしかない。
そして私は、心の中でひとつだけ決めた。
——二度と「助かるわ~」で使い潰されない。
——必要なら、条件を取る。
——この世界の仕事も、私の人生も、私が管理する。
名札の木札が、胸元で小さく揺れた。
新しい“私の肩書き”が、軽い音を立てて、始まりを告げていた。
王城地下の空気は湿っていて、古い井戸の底みたいな匂いがした。松明の火が揺れるたび、壁の影が伸び縮みして、私の心臓も一緒に上下している気がする。
「立てるか」
鎧の男が短く言う。声は硬い。命令というより確認に近いけど、確認のはずなのに拒否権は感じない。
「……立てます」
そう答えた瞬間、膝が一度だけ笑った。情けない。終電の中で薄くなった私の体は、異世界に来てもいきなり強くはならないらしい。
私はバッグの紐を握り直し、立ち上がった。スーツの膝が少し擦れていて、黒い布に灰色の粉がついている。現代の私がここに持ち込んだ“社会人の鎧”は、どう考えてもこの石造りの世界と相性が悪い。
「ついて来い」
先頭の騎士が歩き出す。足音が石に反響して、やたらと大きく聞こえる。私は置いていかれないように、必死で後ろを追った。
廊下を進むにつれ、空気が少しずつ変わった。湿り気が薄れ、香の匂いが混ざる。甘い、花のような——でもどこか薬草っぽい匂い。鼻の奥がくすぐったい。
そして、扉。
人の背丈の倍くらいある、重そうな両開きの扉が目の前に現れた。取っ手に金色の装飾。彫刻は細かく、蔓草みたいな模様が絡み合っている。いかにも「ここから先は偉い人の世界です」って顔をしている。
騎士が合図すると、扉の左右に立つ衛兵が一斉に押した。
ぎいぃ……と、木が軋む音。
扉が開いた瞬間、目に飛び込んできたのは——金色。
眩しい。眩しすぎる。
天井は高く、梁には金箔のような装飾が施され、巨大なシャンデリアみたいな魔法灯が青白く光っている。床は磨き上げられた石で、光が鏡みたいに反射して、私の足元を二重に映した。
大広間。
そこには、私が想像していた“異世界の王宮”が全部あった。
剣を携えた騎士が列を作り、ローブを着た魔法使いが杖を持ち、貴族っぽい人たちが扇子や羽飾りを揺らしてざわめいている。言葉は知らないはずなのに、耳に入ってくると意味がわかるのが、逆に怖い。
「召喚は成功だ」 「いや、転生者では?」 「勇者はどこだ、勇者は!」
視線が一斉に私に突き刺さる。
まるで、プレゼン会場に遅れて入ってきた新人みたいに、空気が私を裁く。私は背筋を伸ばし、呼吸を整えた。現代の面接で鍛えた“無表情の防御”を貼り付ける。
……でも。
胸の内側は、心臓が紙を破るみたいにバタバタしていた。
「こちらへ」
騎士に促され、私は広間の中央へ進む。磨かれた床が滑りそうで怖い。ヒールで来たの、誰だよって思う。自分だよ。
正面の高台に、玉座がある。そこに座っている人物は、冠をかぶり、重そうなマントを羽織っていた。王様——たぶん。隣には、柔らかい笑みを浮かべる女性。王妃か。さらにその周囲に、側近らしき人たちが並ぶ。
この空気。
会社の役員会議より、さらに胃が痛くなる。
「……名を名乗れ」
王様らしき人が言った。低い声。広間の奥まで届くように、響きがある。
私は一瞬、迷った。ここで本名を言っていいのか。けど、嘘をつくほどの余裕はない。
「綴原ペンナです」
自分の名前が、この豪奢な大広間に落ちるのが変な感じだった。ペンナ。ペン。現代の、紙の上の存在みたいな名前が、金の装飾に呑まれそうになる。
ざわめきが広がる。
「ツヅリ……?」 「変わった名だ」 「勇者の名ではないな」
その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。
勇者の名じゃない、って何。勇者なら許されるの。勇者じゃない私は、最初から値札が低いの。
王様は、隣の側近に目配せした。側近が前に出て、巻物を開く。
「異界より来たりし者、綴原ペンナ。汝に問う。剣を取る覚悟はあるか。魔を討つ意思はあるか」
テンプレだ。
テンプレなのに、現実だ。
私は、言葉を選ぶ。ここで「ないです」なんて言ったら、即退場かもしれない。逆に「あります」って言ったら、私の命が危ない。
「……状況を確認したいです。私は、何として呼ばれたんですか」
一瞬、空気が止まった。
貴族たちの扇子が止まり、魔法使いたちの杖が少し揺れ、騎士の鎧の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
側近が眉をひそめる。
王様が、少しだけ唇を歪めた。
「……率直だな」
率直って言い方。現代で言うと「扱いづらい」だ。
側近が巻物を閉じ、言い直すみたいに咳払いをした。
「結論から言おう。汝は勇者ではない」
その瞬間、胸の奥が——冷たくなった。
ああ、やっぱり。
やっぱり私は、主役じゃない。
……わかってた。わかってたはずなのに。
白い光に折り畳まれた時、どこかで期待してしまっていた。「異世界なら、私も報われるかも」って。そんな都合のいい夢を。
「勇者は、別の者が召喚される予定だった。しかし——」
側近が言葉を続ける。予定。予定が狂った。つまり私は、システムエラーみたいなもの。バグで出力された余分な紙。
王妃らしき女性が、困ったように微笑む。
「あなたを無駄にはしません。異界の知恵を持つ者は貴重ですもの」
無駄にはしません。
その言葉は優しいのに、どこか怖い。物を扱うみたいな言い方だ。
私は唇を噛んだ。
感情を出したら負ける。現代と同じ。
「では、私の役目は?」
王様が一度、頷いた。
「冒険者ギルドに配属する。事務局補佐だ」
……事務。
その単語が、私の心に針みたいに刺さる。
異世界に来ても事務。
勇者でも賢者でもなく、裏方。
私の人生、表舞台に出る予定、最初からなかったの?
「ギルド……?」
「そうだ。王都の冒険者ギルド。討伐依頼の管理、報酬の精算、民からの請願の整理——人手が足りぬ」
側近が淡々と説明する。言葉がまるで、業務内容の箇条書き。私の脳が勝手にチェックリストに変換する。
討伐依頼管理。精算。請願整理。
……めちゃくちゃ燃えてそう。炎上案件の匂いがする。
私は笑いそうになった。乾いた笑い。
世界が変わっても、仕事は仕事だ。しかも、いかにも地獄っぽい。
「待遇は?」
自分でも驚くほど、現代の口が出た。
貴族たちが「おお」とざわつく。「待遇」を聞く召喚者なんて、たぶん前例がない。魔法使いの一人が「俗っぽい」とでも言いたげに鼻を鳴らす。
でも私は、俗っぽくてもいい。生きるには条件が必要だ。
王様が少しだけ面倒そうに言う。
「住居は用意する。衣服もな。食事も——ギルドの規定に従う」
ギルドの規定。つまり、王宮の手厚さはない。
それでも、現代で“追放”された私には、住居と食事が保証されるだけでも、喉が少し楽になる気がした。
「……わかりました」
私は頭を下げた。深く、礼儀正しく。
頭を下げるのは悔しい。でも、ここで突っぱねるのは危険すぎる。
頭を上げると、側近が手招きした。
「これを」
差し出されたのは、木札だった。
薄い木を削っただけの、素朴な札。そこに紐が通され、首から下げるタイプの名札らしい。木の匂いがする。樹皮の、少し甘い香り。
そしてもう一つ。
「こちらも」
……紙束。
山みたいな紙束が、どん、と私の腕に乗せられる。予想以上に重い。ズシッと腕が沈む。紙の端が指に当たり、カサカサと擦れる音がした。
私は反射で抱え直した。抱えた瞬間、胸がぎゅっと痛む。
「……これ、何ですか」
「ギルドの未処理案件だ。あなたの仕事になる」
未処理案件。
現代でも聞き慣れた言葉が、異世界の大広間でさらっと出てくるのが笑えない。
私は紙束の一番上をちらりと見る。
文字は読める。意味もわかる。
依頼書。請願書。精算書。死亡報告?
……ちょっと待って、死亡報告?
喉がひゅっと鳴った。
「これ、量……多くないですか」
つい本音が漏れた。
周囲がざわつく。「文句か?」という空気。
でも私は引かない。引いたら、踏まれるのを知っている。
側近は、冷たくもなく温かくもなく言った。
「人手が足りぬ。ゆえに、あなたが必要なのだ」
必要。
必要と言われると、心が揺れる。現代でもそうだった。必要と言われて働いて、使い潰されて、最後に「空気がね」だった。
私は腕の中の紙束を抱えたまま、息を整えた。紙の匂いが鼻に入る。懐かしい匂い。苦い匂い。
「……理解しました」
そのとき、王妃がふっと柔らかく声を落とした。
「あなた、つらい顔をしているわ。異界から来たばかりだものね」
私は目を上げる。
王妃の微笑みは優しい。けど、その優しさは“上からの優しさ”だ。包むようで、逃げ道を塞ぐ。
「大丈夫です。慣れてます」
そう言った自分の声が、思ったより平坦で、私は心の中で少しだけ自分を撫でた。よく言った。泣かなかった。折れなかった。
王様が手を振る。
「連れて行け」
騎士たちが私の両脇に付く。護衛というより、監視。
私は紙束を抱え、名札の木札を握り、広間を出た。
扉が閉じる直前、ざわめきが背中に刺さる。
「勇者ではないのか」 「なら使い道はあるのか」 「異界の女……」
言葉が刃みたいに追ってくる。
私は振り返らない。振り返ったら、また“空気”に飲まれる。
廊下に出ると、空気が少し冷たくて、肺が落ち着いた。
騎士が言う。
「ギルドまでは馬車で移動する。ついて来い」
「はい」
返事だけは素直にする。今は。
歩きながら、私は腕の中の紙束を見下ろした。
こんなに重いのに、紙は薄い。薄いのに、重い。
——まるで私みたいだ。
胸の奥が、また鈍く痛む。
「また、裏方なんだ」
声に出してしまった。
騎士がちらりとこちらを見る。
「不満か」
不満。
その言葉に、私は一瞬だけ笑った。
「……不満というか。慣れてるだけです」
慣れてる。
慣れって、怖い。人間を強くするけど、同時に感覚を鈍らせる。
でも。
私は紙束の角を揃えた。指先が自然に動く。端を揃えると、少しだけ心が落ち着く。
段取り。整理。記録。
私が持っている武器は、剣でも魔法でもない。
「ねえ」
思わず、騎士に声をかけた。
「ギルドって、今どんな状況ですか。未処理が山ってことは、炎上してますよね」
騎士は「えん……?」と眉を寄せた。
私は言い換える。
「つまり、問題が多い?」
騎士は短く答えた。
「多い。死人も出る」
さらっと言った。
その軽さが、逆に重かった。
死人が出る事務。
死人が出る管理不全。
私は目を閉じた。
頭の中で、工程表が勝手に広がる。
依頼受付→審査→割り当て→遂行→報告→精算。
どこで詰まってる?どこで漏れてる?どこで死んでる?
目を開ける。
怖い。
でも、逃げる場所はない。
紙束を抱え直し、私は小さく息を吐いた。
白い光に折り畳まれた夜から、もう戻れないなら。
せめて、この紙の山を、私の手で“ページ”にしていくしかない。
そして私は、心の中でひとつだけ決めた。
——二度と「助かるわ~」で使い潰されない。
——必要なら、条件を取る。
——この世界の仕事も、私の人生も、私が管理する。
名札の木札が、胸元で小さく揺れた。
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