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第7話 定規みたいな男が来て、「合理的だ」だけで胸が濡れた
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名札が浸透し始めた頃、ギルドの空気はほんの少しだけ変わった。
怒鳴り声はまだある。紙の山もまだある。報酬袋の封が開いたままの棚も、完全には直ってない。
でも、“誰に言えばいいか”が見えるだけで、人は怒鳴る前に一呼吸置くようになる。
「精算は誰だ?」
「依頼審査、今空いてる?」
「装備の件はあっち?」
言葉が、矢印になる。
矢印が増えると、混乱が減る。
そして、そういう変化は意外と早く、外に漏れる。
市場の酒場で。「最近ギルドの受付がマシになったらしいぞ」
街道の馬車で。「前より報酬の支払いが遅れなくなってきた」
王都の噂話は風みたいに広がる。風は、好き勝手な方向へ吹く。
だから、来た。
「王城から視察だって」
センパイが朝一番、そう言った。言い方は軽いのに、目が笑ってない。
「……視察?」
私が聞き返すと、センパイは肩をすくめる。
「改革とか噂になってんだよ。『最近ギルドが変だ』って。変だって、悪い意味じゃなくても、上は気になるじゃん。税金とか、報酬とか、そういうの絡むし」
「上に見られるの、嫌ですね」
本音が出た。
現代では、上に見られる時ほど地獄だった。現場の努力は評価されず、都合よく切り取られ、責任だけ降ってくる。視察は“褒めるため”じゃなく、“叩く理由を探すため”に来ることが多い。
「嫌だよ。絶対めんどい。だってあいつら、現場知らない顔で『なぜできない?』とか言うもん」
センパイはそう言って、わざとらしく肩を落とした。
私は黒板を見た。
そこには今日の未処理が書かれている。昨日よりは整っている。でも、完璧じゃない。完璧じゃないから、突かれやすい。
「……誰が来るんですか」
センパイが指を立てる。
「知らない。けど、王城の“統括官”って噂」
統括官。
その単語に、背筋が伸びた。
統括。つまり、管理する人。管理する人が来る。現場の“管理”が死んでいると見抜かれたら、どうなる?
改善が評価されるのか、逆に「今まで何してた」と叩かれるのか。
私は自分に言い聞かせる。
大丈夫。
事実を出せばいい。
数字と流れと、今やっていること。
でも、心臓は少し速い。
現代の記憶が、息の隙間に挟まってくる。黒崎マーカーの笑顔。会議室。B評価。追放通知。
“見られる”ことは、怖い。
午前の仕事を回しながらも、職員たちの落ち着かなさが伝染する。名札が揺れるたび、いつもより音が大きく聞こえた。
「視察って、どれくらい偉いのが来るんだ?」
精算担当の男が、報酬袋を数えながら聞く。
「さぁね。王族だったら死ぬ」
センパイが冗談めかして言う。
年配の装備管理担当が「余計なことすんなよ」とぼそっと言う。
依頼審査の女性は、承認印の場所を何度も確認している。いつもより丁寧すぎて逆に危うい。
私も、落ち着かない。
でも、落ち着かないままでも仕事は回る。
それが現代で身につけた厄介な技術だった。
そして、昼前。
扉の外が一瞬静かになった。
ざわついていた冒険者たちの声が、波が引くみたいに遠のく。誰かが息を飲む。
その静けさの中心から、足音が聞こえた。
硬い靴。
規則正しいリズム。
急がず、迷わず、躊躇せず。
扉が開く。
入ってきたのは——男だった。
黒髪。きっちりと結われ、一本の乱れもない。
制服は濃い色で、胸元に王城の紋章。布の皺が一つもない。まるで、アイロンをかけたばかりのシャツみたいに整っている。
背筋はまっすぐ。肩の線が美しい。余計な動きがない。
そして目。
眼差しが、定規の角みたいに鋭かった。
ただし、その鋭さは怒りじゃない。威圧でもない。
“測っている”目だ。
世界を数値に落とし込む人の目。
後ろに数人の護衛と、書記らしき人物が続く。だが、主役はその男一人で十分だった。
センパイが、小声で言う。
「……うわ、あれ絶対偉い」
私も小声で返す。
「偉いだけじゃなくて、めちゃくちゃ厳しそう」
男はギルドの中を見渡した。
その視線が、カウンター、黒板、名札、棚、床へと滑る。
一瞬で全体を把握するみたいに。
私はその視線の動きに、妙な既視感を覚えた。
現代の私が炎上現場に入ったときの、あの視線。まず全体を見て、ボトルネックを探して、責任を整理するために頭の中で線を引く。
似ている。
でも、相手は王城の人間。立場が違う。こっちはただの転生OL。
心臓が少しだけ強く鳴った。
男が、護衛に何か短く言い、書記が頷いた。言葉は少ない。無駄がない。
そして男は、カウンターの前まで歩いてきた。
近くで見ると、顔立ちは端正だった。
目尻が少しだけ下がっているのに、視線は冷たい。
矛盾した印象。
その矛盾が、妙に気になる。
男が言った。声は驚くほど低く、静かだった。
「冒険者ギルド、王都支部。視察に来た」
センパイが慌てて頭を下げる。
「あ、えっと!ようこそ!受付担当の——」
「報告は不要。まず、確認する」
男の言葉が、センパイの挨拶を途中で切った。切り方が、冷たいのに乱暴じゃない。刃物ではなく、はさみみたいにスパッと切る。
男は黒板に視線を向ける。
「……これは何だ」
依頼審査の女性が口を開く。
「え、えっと!未処理の一覧で——」
男の視線が、女性から黒板へ戻る。
彼は黒板を読み込む。読み込む速度が速い。文字を追うだけじゃなく、構造を理解している。
私は、喉の奥が少し乾くのを感じた。
男が、次に名札へ目を向ける。
「担当が分かれているのか」
精算担当の男が、少し胸を張って言う。
「はい。最近、そうしました」
男は頷きもせず、ただ視線を動かす。
そして棚。報酬袋。封の甘さ。紙束の位置。床の紙の量。
全部、数秒で測り終える。
男が、ようやくカウンター越しに職員を見た。
「この改善は誰が?」
声は低い。静か。
でも、その一言に重さがある。
責任者を探す声。
現代で聞き慣れた“責任は誰が取る”の刃。
一瞬、職員たちが互いに目を合わせた。
センパイが私を見る。
精算担当の男が私を見る。
依頼審査の女性も、装備管理の年配男も、私を見る。
……逃げられない。
いや、逃げない。
私は一歩前に出た。名札が胸元で揺れる。木の軽い音が、今は妙に大きい。
「綴原ペンナです。提案と実施をしました」
男の視線が、私に刺さった。
定規の角みたいな目。
測られている。
今まで生きてきた全部を、数値にされそうな感覚。
私は背筋を伸ばし、目を逸らさない。
現代で学んだ。視線を逸らしたら、負ける。
男は、数秒、私を見た。
その沈黙が長い。
長いのに、嫌じゃない。
嫌じゃないのは、彼の視線に“嘲り”がないからだ。
そして、男は眉一つ動かさないまま言った。
「合理的だ」
たったそれだけ。
褒め言葉なのか、事実の確認なのか、判断がつかない。
声の温度も変わらない。
でも——
その短い言葉が、私の胸の中の乾いた部分に、水を落とした。
じわ、と染みる。
熱いわけじゃない。冷たいわけでもない。
ただ、潤う。
合理的。
現代で、私は“空気が読めない”と言われて追放された。
正論が強いと言われた。
周りが萎えると言われた。
でも、この男は、正論を正論として評価した。感情を挟まず、事実として。
それだけで、私は救われた気がした。
「……ありがとうございます」
口から出た声が、少しだけ震えた。自分でも驚く。
こんな一言で揺れるなんて、私、どれだけ乾いてたんだろう。
男は「礼は不要」とでも言うように、すぐ視線を黒板へ戻した。
「未処理の数が書かれている。だが、今日の流入と処理の差分が見えない」
差分。
言葉が、現代っぽい。
私は一瞬、心の中で笑った。やっぱりこの人、似てる。
「差分は、今から書き足します。流入件数と完了件数を横に」
「そうしろ」
命令。なのに不快じゃない。
理由がある命令は、不快じゃない。
現代で不快だったのは、理由のない命令だった。助かるわ~、で投げられる仕事。空気がね、で切られる評価。
男は、カウンターの内側に入る許可を求めるでもなく、すっと横に回った。護衛が一瞬身構えたが、男が手で制す。護衛が止まる。
その動きも無駄がない。
男は黒板の近くに立ち、もう一度全体を眺めた。
「……このギルドは、今までどのように運用していた」
センパイが曖昧に笑う。
「えーっと……気合い?」
「気合いで回るものではない」
男の言葉が、センパイの冗談をまたはさみで切る。
センパイが「ですよねー」と笑って、肩を落とす。
私は口を開いた。
「今までは、口伝と紙だけで回してました。担当も曖昧で、承認印の管理も不十分でした」
男の視線がこちらへ戻る。
「承認印の管理が不十分?」
私は昨日の棚を思い出し、喉の奥が冷たくなる。
「……はい。行方不明になりかけていました」
「なりかけて?」
私は一瞬迷った。
死亡報告書に挟まっていたことを言うべきか。言えば、ギルドの評判に傷がつく。職員が責められる。現場はまた縮こまる。
でも、隠せば、また同じことが起きる。
私は選んだ。
事実。
「死亡報告書の束に挟まっていました」
センパイが息を飲む。
精算担当の男が顔をしかめる。
依頼審査の女性がうつむく。
装備管理の年配男が舌打ちする。
男——罫堂ルーラは、表情を変えなかった。
眉一つ動かさない。
ただ、目が少しだけ細くなる。定規の角が、さらに鋭くなる。
「……改善は急務だな」
その言葉は、私たちを責めるためじゃない。
状況を認識するための言葉。
だから、痛くない。
私は頷いた。
「はい。だから、今は全体像を出して、担当を固定して、入口と出口を線で繋ぎました」
ルーラは黒板の線を見た。
「入口と出口、か」
「はい。入口が曖昧だと、出口も曖昧になります。責任が曖昧だと、結果も曖昧になります」
私は言いながら、自分の声が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
この男には、説明が届く。
届く相手がいると、人は言葉を整えられる。
ルーラは、短く言った。
「理解した」
それだけ。
なのに、胸がまた少し潤った。
理解された。
評価された。
正論を切り捨てられなかった。
私は、気づけば指先の力が抜けていた。肩が少しだけ下がる。
現代でいつも張り詰めていた糸が、ほんの少し緩んだ。
センパイが、小声で私に囁く。
「新人……あの人、誰」
私も小声で返す。
「たぶん、統括官。罫堂ルーラ……って名乗ってた」
「ルーラ……名前まで定規っぽい」
「罫線っぽいですね」
私がぼそっと言うと、センパイが吹き出しそうになって口を押さえた。
笑うな。今は笑うな。
でも、その小さな笑いが、緊張を少し溶かす。
ルーラは最後にもう一度だけ、黒板を見た。
そして、私を見た。
「綴原ペンナ」
呼び捨てじゃない。フルネームでもない。ちょうどいい距離の呼び方。
「はい」
「この場で続けろ。変化は、止めた瞬間に逆流する」
その言葉は忠告であり、承認だった。
「……はい。続けます」
ルーラはそれ以上何も言わず、踵を返した。
護衛と書記が続く。
扉が閉まると、ギルドの喧騒が戻ってくる。いつもの波が押し寄せる。
でも、私の中は少し違った。
合理的だ。
その四文字が、胸の奥で静かに光っている。
乾いた砂に落ちた水みたいに、じわじわと染み広がっていく。
私はチョークを取り、黒板の隅に小さく書き足した。
【今日の流入】
【今日の完了】
たった二行。
でも、それが私の答えだった。
王城の定規みたいな男に見られても、私は私の線を引く。
それが、ここで生きる私のやり方だから。
怒鳴り声はまだある。紙の山もまだある。報酬袋の封が開いたままの棚も、完全には直ってない。
でも、“誰に言えばいいか”が見えるだけで、人は怒鳴る前に一呼吸置くようになる。
「精算は誰だ?」
「依頼審査、今空いてる?」
「装備の件はあっち?」
言葉が、矢印になる。
矢印が増えると、混乱が減る。
そして、そういう変化は意外と早く、外に漏れる。
市場の酒場で。「最近ギルドの受付がマシになったらしいぞ」
街道の馬車で。「前より報酬の支払いが遅れなくなってきた」
王都の噂話は風みたいに広がる。風は、好き勝手な方向へ吹く。
だから、来た。
「王城から視察だって」
センパイが朝一番、そう言った。言い方は軽いのに、目が笑ってない。
「……視察?」
私が聞き返すと、センパイは肩をすくめる。
「改革とか噂になってんだよ。『最近ギルドが変だ』って。変だって、悪い意味じゃなくても、上は気になるじゃん。税金とか、報酬とか、そういうの絡むし」
「上に見られるの、嫌ですね」
本音が出た。
現代では、上に見られる時ほど地獄だった。現場の努力は評価されず、都合よく切り取られ、責任だけ降ってくる。視察は“褒めるため”じゃなく、“叩く理由を探すため”に来ることが多い。
「嫌だよ。絶対めんどい。だってあいつら、現場知らない顔で『なぜできない?』とか言うもん」
センパイはそう言って、わざとらしく肩を落とした。
私は黒板を見た。
そこには今日の未処理が書かれている。昨日よりは整っている。でも、完璧じゃない。完璧じゃないから、突かれやすい。
「……誰が来るんですか」
センパイが指を立てる。
「知らない。けど、王城の“統括官”って噂」
統括官。
その単語に、背筋が伸びた。
統括。つまり、管理する人。管理する人が来る。現場の“管理”が死んでいると見抜かれたら、どうなる?
改善が評価されるのか、逆に「今まで何してた」と叩かれるのか。
私は自分に言い聞かせる。
大丈夫。
事実を出せばいい。
数字と流れと、今やっていること。
でも、心臓は少し速い。
現代の記憶が、息の隙間に挟まってくる。黒崎マーカーの笑顔。会議室。B評価。追放通知。
“見られる”ことは、怖い。
午前の仕事を回しながらも、職員たちの落ち着かなさが伝染する。名札が揺れるたび、いつもより音が大きく聞こえた。
「視察って、どれくらい偉いのが来るんだ?」
精算担当の男が、報酬袋を数えながら聞く。
「さぁね。王族だったら死ぬ」
センパイが冗談めかして言う。
年配の装備管理担当が「余計なことすんなよ」とぼそっと言う。
依頼審査の女性は、承認印の場所を何度も確認している。いつもより丁寧すぎて逆に危うい。
私も、落ち着かない。
でも、落ち着かないままでも仕事は回る。
それが現代で身につけた厄介な技術だった。
そして、昼前。
扉の外が一瞬静かになった。
ざわついていた冒険者たちの声が、波が引くみたいに遠のく。誰かが息を飲む。
その静けさの中心から、足音が聞こえた。
硬い靴。
規則正しいリズム。
急がず、迷わず、躊躇せず。
扉が開く。
入ってきたのは——男だった。
黒髪。きっちりと結われ、一本の乱れもない。
制服は濃い色で、胸元に王城の紋章。布の皺が一つもない。まるで、アイロンをかけたばかりのシャツみたいに整っている。
背筋はまっすぐ。肩の線が美しい。余計な動きがない。
そして目。
眼差しが、定規の角みたいに鋭かった。
ただし、その鋭さは怒りじゃない。威圧でもない。
“測っている”目だ。
世界を数値に落とし込む人の目。
後ろに数人の護衛と、書記らしき人物が続く。だが、主役はその男一人で十分だった。
センパイが、小声で言う。
「……うわ、あれ絶対偉い」
私も小声で返す。
「偉いだけじゃなくて、めちゃくちゃ厳しそう」
男はギルドの中を見渡した。
その視線が、カウンター、黒板、名札、棚、床へと滑る。
一瞬で全体を把握するみたいに。
私はその視線の動きに、妙な既視感を覚えた。
現代の私が炎上現場に入ったときの、あの視線。まず全体を見て、ボトルネックを探して、責任を整理するために頭の中で線を引く。
似ている。
でも、相手は王城の人間。立場が違う。こっちはただの転生OL。
心臓が少しだけ強く鳴った。
男が、護衛に何か短く言い、書記が頷いた。言葉は少ない。無駄がない。
そして男は、カウンターの前まで歩いてきた。
近くで見ると、顔立ちは端正だった。
目尻が少しだけ下がっているのに、視線は冷たい。
矛盾した印象。
その矛盾が、妙に気になる。
男が言った。声は驚くほど低く、静かだった。
「冒険者ギルド、王都支部。視察に来た」
センパイが慌てて頭を下げる。
「あ、えっと!ようこそ!受付担当の——」
「報告は不要。まず、確認する」
男の言葉が、センパイの挨拶を途中で切った。切り方が、冷たいのに乱暴じゃない。刃物ではなく、はさみみたいにスパッと切る。
男は黒板に視線を向ける。
「……これは何だ」
依頼審査の女性が口を開く。
「え、えっと!未処理の一覧で——」
男の視線が、女性から黒板へ戻る。
彼は黒板を読み込む。読み込む速度が速い。文字を追うだけじゃなく、構造を理解している。
私は、喉の奥が少し乾くのを感じた。
男が、次に名札へ目を向ける。
「担当が分かれているのか」
精算担当の男が、少し胸を張って言う。
「はい。最近、そうしました」
男は頷きもせず、ただ視線を動かす。
そして棚。報酬袋。封の甘さ。紙束の位置。床の紙の量。
全部、数秒で測り終える。
男が、ようやくカウンター越しに職員を見た。
「この改善は誰が?」
声は低い。静か。
でも、その一言に重さがある。
責任者を探す声。
現代で聞き慣れた“責任は誰が取る”の刃。
一瞬、職員たちが互いに目を合わせた。
センパイが私を見る。
精算担当の男が私を見る。
依頼審査の女性も、装備管理の年配男も、私を見る。
……逃げられない。
いや、逃げない。
私は一歩前に出た。名札が胸元で揺れる。木の軽い音が、今は妙に大きい。
「綴原ペンナです。提案と実施をしました」
男の視線が、私に刺さった。
定規の角みたいな目。
測られている。
今まで生きてきた全部を、数値にされそうな感覚。
私は背筋を伸ばし、目を逸らさない。
現代で学んだ。視線を逸らしたら、負ける。
男は、数秒、私を見た。
その沈黙が長い。
長いのに、嫌じゃない。
嫌じゃないのは、彼の視線に“嘲り”がないからだ。
そして、男は眉一つ動かさないまま言った。
「合理的だ」
たったそれだけ。
褒め言葉なのか、事実の確認なのか、判断がつかない。
声の温度も変わらない。
でも——
その短い言葉が、私の胸の中の乾いた部分に、水を落とした。
じわ、と染みる。
熱いわけじゃない。冷たいわけでもない。
ただ、潤う。
合理的。
現代で、私は“空気が読めない”と言われて追放された。
正論が強いと言われた。
周りが萎えると言われた。
でも、この男は、正論を正論として評価した。感情を挟まず、事実として。
それだけで、私は救われた気がした。
「……ありがとうございます」
口から出た声が、少しだけ震えた。自分でも驚く。
こんな一言で揺れるなんて、私、どれだけ乾いてたんだろう。
男は「礼は不要」とでも言うように、すぐ視線を黒板へ戻した。
「未処理の数が書かれている。だが、今日の流入と処理の差分が見えない」
差分。
言葉が、現代っぽい。
私は一瞬、心の中で笑った。やっぱりこの人、似てる。
「差分は、今から書き足します。流入件数と完了件数を横に」
「そうしろ」
命令。なのに不快じゃない。
理由がある命令は、不快じゃない。
現代で不快だったのは、理由のない命令だった。助かるわ~、で投げられる仕事。空気がね、で切られる評価。
男は、カウンターの内側に入る許可を求めるでもなく、すっと横に回った。護衛が一瞬身構えたが、男が手で制す。護衛が止まる。
その動きも無駄がない。
男は黒板の近くに立ち、もう一度全体を眺めた。
「……このギルドは、今までどのように運用していた」
センパイが曖昧に笑う。
「えーっと……気合い?」
「気合いで回るものではない」
男の言葉が、センパイの冗談をまたはさみで切る。
センパイが「ですよねー」と笑って、肩を落とす。
私は口を開いた。
「今までは、口伝と紙だけで回してました。担当も曖昧で、承認印の管理も不十分でした」
男の視線がこちらへ戻る。
「承認印の管理が不十分?」
私は昨日の棚を思い出し、喉の奥が冷たくなる。
「……はい。行方不明になりかけていました」
「なりかけて?」
私は一瞬迷った。
死亡報告書に挟まっていたことを言うべきか。言えば、ギルドの評判に傷がつく。職員が責められる。現場はまた縮こまる。
でも、隠せば、また同じことが起きる。
私は選んだ。
事実。
「死亡報告書の束に挟まっていました」
センパイが息を飲む。
精算担当の男が顔をしかめる。
依頼審査の女性がうつむく。
装備管理の年配男が舌打ちする。
男——罫堂ルーラは、表情を変えなかった。
眉一つ動かさない。
ただ、目が少しだけ細くなる。定規の角が、さらに鋭くなる。
「……改善は急務だな」
その言葉は、私たちを責めるためじゃない。
状況を認識するための言葉。
だから、痛くない。
私は頷いた。
「はい。だから、今は全体像を出して、担当を固定して、入口と出口を線で繋ぎました」
ルーラは黒板の線を見た。
「入口と出口、か」
「はい。入口が曖昧だと、出口も曖昧になります。責任が曖昧だと、結果も曖昧になります」
私は言いながら、自分の声が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
この男には、説明が届く。
届く相手がいると、人は言葉を整えられる。
ルーラは、短く言った。
「理解した」
それだけ。
なのに、胸がまた少し潤った。
理解された。
評価された。
正論を切り捨てられなかった。
私は、気づけば指先の力が抜けていた。肩が少しだけ下がる。
現代でいつも張り詰めていた糸が、ほんの少し緩んだ。
センパイが、小声で私に囁く。
「新人……あの人、誰」
私も小声で返す。
「たぶん、統括官。罫堂ルーラ……って名乗ってた」
「ルーラ……名前まで定規っぽい」
「罫線っぽいですね」
私がぼそっと言うと、センパイが吹き出しそうになって口を押さえた。
笑うな。今は笑うな。
でも、その小さな笑いが、緊張を少し溶かす。
ルーラは最後にもう一度だけ、黒板を見た。
そして、私を見た。
「綴原ペンナ」
呼び捨てじゃない。フルネームでもない。ちょうどいい距離の呼び方。
「はい」
「この場で続けろ。変化は、止めた瞬間に逆流する」
その言葉は忠告であり、承認だった。
「……はい。続けます」
ルーラはそれ以上何も言わず、踵を返した。
護衛と書記が続く。
扉が閉まると、ギルドの喧騒が戻ってくる。いつもの波が押し寄せる。
でも、私の中は少し違った。
合理的だ。
その四文字が、胸の奥で静かに光っている。
乾いた砂に落ちた水みたいに、じわじわと染み広がっていく。
私はチョークを取り、黒板の隅に小さく書き足した。
【今日の流入】
【今日の完了】
たった二行。
でも、それが私の答えだった。
王城の定規みたいな男に見られても、私は私の線を引く。
それが、ここで生きる私のやり方だから。
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2023/09/06 少し修正したバージョンと入れ替えながら更新を再開します。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
【完結】ゲーム開始は自由の時! 乙女ゲーム? いいえ。ここは農業系ゲームの世界ですよ?
キーノ
ファンタジー
私はゲームの世界に転生したようです。主人公なのですが、前世の記憶が戻ったら、なんという不遇な状況。これもゲームで語られなかった裏設定でしょうか。
ある日、我が家に勝手に住み着いた平民の少女が私に罵声を浴びせて来ました。乙女ゲーム? ヒロイン? 訳が解りません。ここはファーミングゲームの世界ですよ?
自称妹の事は無視していたら、今度は食事に毒を盛られる始末。これもゲームで語られなかった裏設定でしょうか?
私はどんな辛いことも頑張って乗り越えて、ゲーム開始を楽しみにいたしますわ!
※紹介文と本編は微妙に違います。
完結いたしました。
感想うけつけています。
4月4日、誤字修正しました。
【完結】五度の人生を不幸な出来事で幕を閉じた転生少女は、六度目の転生で幸せを掴みたい!
アノマロカリス
ファンタジー
「ノワール・エルティナス! 貴様とは婚約破棄だ!」
ノワール・エルティナス伯爵令嬢は、アクード・ベリヤル第三王子に婚約破棄を言い渡される。
理由を聞いたら、真実の相手は私では無く妹のメルティだという。
すると、アクードの背後からメルティが現れて、アクードに肩を抱かれてメルティが不敵な笑みを浮かべた。
「お姉様ったら可哀想! まぁ、お姉様より私の方が王子に相応しいという事よ!」
ノワールは、アクードの婚約者に相応しくする為に、様々な事を犠牲にして尽くしたというのに、こんな形で裏切られるとは思っていなくて、ショックで立ち崩れていた。
その時、頭の中にビジョンが浮かんできた。
最初の人生では、日本という国で淵東 黒樹(えんどう くろき)という女子高生で、ゲームやアニメ、ファンタジー小説好きなオタクだったが、学校の帰り道にトラックに刎ねられて死んだ人生。
2度目の人生は、異世界に転生して日本の知識を駆使して…魔女となって魔法や薬学を発展させたが、最後は魔女狩りによって命を落とした。
3度目の人生は、王国に使える女騎士だった。
幾度も国を救い、活躍をして行ったが…最後は王族によって魔物侵攻の盾に使われて死亡した。
4度目の人生は、聖女として国を守る為に活動したが…
魔王の供物として生贄にされて命を落とした。
5度目の人生は、城で王族に使えるメイドだった。
炊事・洗濯などを完璧にこなして様々な能力を駆使して、更には貴族の妻に抜擢されそうになったのだが…同期のメイドの嫉妬により捏造の罪をなすりつけられて処刑された。
そして6度目の現在、全ての前世での記憶が甦り…
「そうですか、では婚約破棄を快く受け入れます!」
そう言って、ノワールは城から出て行った。
5度による浮いた話もなく死んでしまった人生…
6度目には絶対に幸せになってみせる!
そう誓って、家に帰ったのだが…?
一応恋愛として話を完結する予定ですが…
作品の内容が、思いっ切りファンタジー路線に行ってしまったので、ジャンルを恋愛からファンタジーに変更します。
今回はHOTランキングは最高9位でした。
皆様、有り難う御座います!
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