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第13話:裏切りと告白
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夜の帝都は、冷蔵庫みたいに均一な冷たさを保っていた。
屋根の継ぎ目から上がる湯気はひとつもなく、息だけが白い手紙になって宙にふわりと浮かんでは破れる。黒翼の屋上、鉄の手すりは氷の舌で舐めたみたいに滑り、月は紙の穴のように淡い。私は外套の襟を指で摘み、風の筋を読む。ラドンは私の斜め後ろ、肩幅ひとつ分の距離に立っていた。
「今日は、喉が乾いてる」
「乾杯は、まだ先よ」
「うん。──水、ひと口」
彼が差し出す金属の水筒は、昼の熱をすべて忘れていた。私は唇を当て、冷たい水の刃が舌を撫でるのを感じる。喉の壁が正確に収縮し、胃の底へ落ちる。その落ちていく感触を追いかけるように、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「アウリスは、来た」
「知ってる」
「見てたの?」
「音で分かる。君の足音が、半歩ふらついた」
「……観察魔」
「職業病」
私が呆れたふうに肩を竦めると、ラドンは笑わない目のまま、ほんのわずかに口角を上げた。笑う練習を忘れた人の笑い。
遠くで、祈祷院の遅い鐘が二度だけ鳴る。金属の輪郭が夜気に沈み、音の破片が屋根と屋根のあいだに挟まって、やがて溶ける。
「セラフィナ」
彼がわざと、私の本名を使う。
名前は杭だ。打たれると、呼吸の高さが固定される。
「うん」
「座る?」
「立ってる方が、今夜は崩れない」
「じゃあ、僕も立つ」
沈黙。粗い沈黙ではない。研磨された沈黙。私たちはその面取りされた静けさの上に、言葉を少しずつ置く。
「裏切りって、どこから?」
私が先に切り出した。自分の声が驚くほど静かだと思う。
ラドンは鉄の手すりに軽く触れ、指の腹で霜の結晶を潰した。
「“選んだ相手以外を選ぶとき”。あるいは“沈黙で、誰かの味方をするとき”。君は?」
「“約束の更新をしないとき”。昔の約束を、続いているふりで持ち歩くのが、私には一番の裏切り」
「なるほど」
彼は頷き、わざと視線を外へ滑らせる。遠く、王城の尖塔はまだ鋭い。
私の指先が、勝手に震えた。アウリスの眼差しが、まだ皮膚の内側で反響している。私がそれに気づくより早く、ラドンの影が近づいた。
「手」
命令ではない。確認の音色で、短く柔らかい。
私は迷わず差し出す。鉄に触れて冷えた指を、彼は自分の掌で包んだ。掌は温かくない。けれど、骨の形が“人間”の形で、規則正しい血のリズムだけが確かに伝わる。
その瞬間、胸の奥で、何かが音を立てた。割れる音ではなく、凍った層が剥がれる、薄く澄んだ音。
「君の手は、まだ震える」
「あなたがいると、止まる」
「それは危険だ」
「知ってる」
危険を指差して笑うことを、私に教えたのは彼だ。
風が一段強くなり、屋根瓦の上を低く走る。鉄の匂いに、遠い焚き火の匂いが混ざる。その匂いが私の背骨の奥の古い部屋のドアを叩き、忘れたつもりの映像を一枚だけ引っ張り出した。
「ラドン」
「うん」
「あなたは、どうして“黒翼”にいるの」
彼の瞳が、わずかに濃くなる。海の色に灰を落としたみたいに、深く、広く、冷たい。
しばらくして、彼は言った。
「俺も壊された側だ」
その言い方は、彼にしては珍しく粗かった。選ばれた語の角が立っていて、舌の裏で血が滲む音がする。
私は返事を待たず、彼の手を少し強く握った。骨と骨が正しく噛み合って、小さな“在る”の音が鳴る。
「いつ」
「昔。君より少し前。──北の端の町で、俺は石切り職人の家に生まれた。石は嘘をつかない。割れ目は割れ目の場所にあるし、脈は脈の方向に走る。父はそう言った」
彼の声は記憶を触るときの低さに落ちた。私は目を閉じ、耳をひらき、彼の音だけに焦点を合わせる。
「町に監督官が来た。帝国の“新しい秩序”の検分。帳簿が一冊、数字が一列、どこかで誰かが“よく”した。よくした、って変な言い方だけど──誰かにとってはよくて、俺たちにとっては悪かった。税の桁が一つ動いた。紙の上で、生活が一段、上がった」
「上がった生活は、落ちる時に音がする」
「そう。落ちる音で、俺は大人になった」
風が少し止む。彼の言葉は途切れない。
「父は抗議しない人だった。石を割るみたいに、問題も割ればいいと思っていた。けれど、石じゃない問題は、割ると粉になって肺に入る。母は咳をして、妹は頬がこけ、俺は“行ってこい”と言われて都へ出た。石の代わりに紙の割れ目を探せるようになったのは、ここに来てからだ」
「ここ?」
「黒翼。最初の上官は、優しかった。優しさは毒になる。用法用量、あの人は間違えた。俺は、あの人を一度、裏切った」
胸の奥で音が跳ねる。彼の声の温度が一瞬だけ下がり、その下がり方にだけ熱が混ざる。不思議な逆説。
私は問いを重ねる。「どう、裏切ったの」
「生かすために、見捨てた。連絡線が切断され、退路が二本潰れた夜、俺は部下を二手に分け、自分は反対側の影へ走った。上官は“全員で”を望んだ。俺は“残るために”を選んだ。結果として半分が戻って、半分が戻らなかった。上官は戻らなかった」
彼は乾いた笑いを、喉の奥で潰す。その音が、私の肋骨の内側で反響する。
「俺は、裏切りで生き延びて、忠誠で人を失った。──だから、ずっと、冷たくしてる。冷たければ、燃え残りが出ない」
冷たい復讐劇の温度が、ここでやっと意味を変える。私は彼の横顔を見つめ、言葉を選ぶのをやめた。
「あなたが冷たいなら、私が熱を貸す」
「貸し借りは、後で返ってくる」
「返すわ。利子をつけて」
「利子は嫌いじゃない」
風が笑う。屋根瓦の線に、柔らかい音が走る。遠い窓から遅いピアノの音が漏れ出し、夜のなかで薄くほどける。
私は外套の内側から薄い包帯の束を取り出す。癖でいつも持ち歩いている。彼の手に巻くつもりだったけれど、今夜は違う場所に使いたくなった。
「目を閉じて」
「なぜ」
「縛る」
「どこを」
「言葉を」
私は彼の手首ではなく、言葉の出口に包帯を回した。喉仏の位置を避け、首の後ろにリボンみたいにひと結び。彼の呼吸が止まらない程度の、やさしい拘束。
彼は笑わない目のまま、従った。
「これで、しばらく喋らなくていい」
「……」
「喋らないと、別の音が聴こえる。心臓とか、骨の上を風が渡る音とか、古い記憶が沈黙で得意になる音とか」
私は自分の耳を彼の胸に近づける。距離は危険。けれど、今夜の危険は正しい。
彼の心音は静かで、無駄がなくて、規律に従う。それでいて一拍だけ、意識的に遅れる場所がある。訓練で身についた“間”。その間に、彼は世界を挟む。
その“間”に、私の心音が滑り込む。互いの拍が干渉し、わずかに揺れ、やがて揃い始める。
胸に生まれる、痛みに似た共鳴。
私はそれを、名前で呼ばない。名前をつけると、距離が変わるから。
彼の指が、包帯の端を探り当てる。引けば外れる結び目。外さない。
かわりに、彼は囁きで結び目の輪郭をなぞった。
「君は、危険な結び方をする」
「ほどけるように結んだ」
「ほどかない方が危険だ」
「今夜は危険でいい」
私の声が震えた。凍った層が剥がれたあとの下にある、柔らかい地層が露出する。そこに風が当たって、痛い。
ラドンは私の髪を耳にかけた。指先の温度は控えめで、動きは丁寧で、訓練の痕跡がない。彼の“個人”の手だ。
彼が初めて、勤務表の外側で、私に触れた。
「セラフィナ」
「呼ばないで」
「呼ばれたいだろう」
「今夜は、呼ばれたくない」
「どうして」
「名前を呼ばれると、私の“役”が揺れる」
「揺れていい」
「揺れたら、勝てなくなる」
「勝つのはいつ」
「明日でも、明後日でもない。詰みの直前。──今夜は、詰みの前の夜」
「なら、揺れていい」
彼の論理は、私の論理とは違う歩幅で歩き、しかし、同じ場所に到達する。
私は彼に額を寄せた。額と額の間で、冬が一拍だけ止まる。
世界が少しだけ熱を思い出し、冷蔵庫のような夜の均一が崩れる。崩れた温度が頬を流れ、呼吸を温める。
「裏切り、してもいい?」
「誰を」
「冷たさを」
「うん。俺は、許す」
「あなたは」
「俺も、する。自分の沈黙を」
包帯の結び目が、彼の首の動きでわずかに擦れ、小さな布の音が鳴る。その音が、私の胸の奥で合図に変わる。
私は目を閉じ、彼の肩に手を回した。抱擁というには角度が不器用で、救助というには時間が長い。
彼が私を抱き返す。片腕は仕事の腕、もう片腕は個人の腕。両方が正しく回って、私の背中に静かな“囲い”を作る。
囲われる感覚に、私は少し怯え、そして、怯えた自分ごと受け入れた。怯えは逃げ道ではなく、境界線の印だ。
「俺は、君の“刃”を好きだ」
「危ない趣味」
「刃は、選んで抜ける君を救う。俺は、抜くなとは言わない。けれど、鞘に戻す時は、俺が見ていたい」
「目撃者」
「保証人」
「わたしの罪の?」
「生の」
胸の奥で、共鳴が形を増す。痛みに似た熱が、優しさの殻を破らないように、気をつけて広がる。
私は包帯の結び目を一度だけ指でつまみ、ほどかずに離した。「今夜は、喋らなくていい」と言い、彼は頷きで答えた。
屋上の向こう、街の灯がわずかに瞬く。遠い小窓で、誰かが湯を沸かし、誰かが本を閉じ、誰かが寝息に移る。その全部に、私たちの復讐は関係がない。関係をなくすために、私たちは復讐している。
冷たい復讐劇に、確かに“熱”が差し込んだ。熱は、刃を鈍らせない。選び方を明確にする。
「……一つだけ、告白」
私が言う。彼は包帯越しに、目で「どうぞ」と合図する。
「あなたの過去を聞いて、わたし、少しだけ安堵した」
「安堵?」
「あなたが“壊された側”だと知って、私の孤独が減った。誰かの不幸に救われる自分が、嫌い」
「嫌いな自分を、俺は嫌いじゃない」
「ややこしい」
「人間は、ややこしいのが健康だ」
「診断書、出してくれる?」
「勤務外だ」
私たちは、笑った。うっすらと。霜の縁が、笑いの熱で水に戻る。
私の指が、彼の胸の布地を掴む。力は弱い。落ちないための握りではなく、存在の確認の握り。
彼の顎が、私の髪に触れる。その軽さは、祈りに似ている。
「明日、君はまた“盤上の女王”になる」
「うん」
「俺は“影”で、駒を支える」
「うん」
「裏切らない」
「冷たさを、ね」
「うん」
包帯の結び目が、月の下で小さくきらめく。白いリボンは、罪にも罰にもならない。ただの印。今夜を“ここにあった”と記録するための、柔らかい栞。
「ラドン」
「うん」
「ありがとう。──助かった、あの夜も、今日も、話してくれても」
「礼は、仕事の邪魔にならない程度に」
「じゃあ、礼は今夜で終わり」
「了解」
彼は包帯の端をつまみ、ほどかないまま、指で一度だけ弾いた。
布の音が合図になり、私たちはゆっくり離れる。距離は元に戻る。けれど、温度だけが、少し残った。
「戻ろう。冷える」
「うん。……ねぇ」
「何」
「乾杯の練習、今夜はしない」
「本番で」
「うん。本番で」
階段へ向かう足音は、二人分でひとつの拍を刻む。
鼓動。計画。微笑み。
そこに混ざる、四拍目──“熱”。
冷たい復讐劇の真ん中に、火は小さく灯った。
誰にも見えない焔。
けれど、私たちには確かで、痛みに似て、甘く、前に進むための明かりだった。
屋根の継ぎ目から上がる湯気はひとつもなく、息だけが白い手紙になって宙にふわりと浮かんでは破れる。黒翼の屋上、鉄の手すりは氷の舌で舐めたみたいに滑り、月は紙の穴のように淡い。私は外套の襟を指で摘み、風の筋を読む。ラドンは私の斜め後ろ、肩幅ひとつ分の距離に立っていた。
「今日は、喉が乾いてる」
「乾杯は、まだ先よ」
「うん。──水、ひと口」
彼が差し出す金属の水筒は、昼の熱をすべて忘れていた。私は唇を当て、冷たい水の刃が舌を撫でるのを感じる。喉の壁が正確に収縮し、胃の底へ落ちる。その落ちていく感触を追いかけるように、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「アウリスは、来た」
「知ってる」
「見てたの?」
「音で分かる。君の足音が、半歩ふらついた」
「……観察魔」
「職業病」
私が呆れたふうに肩を竦めると、ラドンは笑わない目のまま、ほんのわずかに口角を上げた。笑う練習を忘れた人の笑い。
遠くで、祈祷院の遅い鐘が二度だけ鳴る。金属の輪郭が夜気に沈み、音の破片が屋根と屋根のあいだに挟まって、やがて溶ける。
「セラフィナ」
彼がわざと、私の本名を使う。
名前は杭だ。打たれると、呼吸の高さが固定される。
「うん」
「座る?」
「立ってる方が、今夜は崩れない」
「じゃあ、僕も立つ」
沈黙。粗い沈黙ではない。研磨された沈黙。私たちはその面取りされた静けさの上に、言葉を少しずつ置く。
「裏切りって、どこから?」
私が先に切り出した。自分の声が驚くほど静かだと思う。
ラドンは鉄の手すりに軽く触れ、指の腹で霜の結晶を潰した。
「“選んだ相手以外を選ぶとき”。あるいは“沈黙で、誰かの味方をするとき”。君は?」
「“約束の更新をしないとき”。昔の約束を、続いているふりで持ち歩くのが、私には一番の裏切り」
「なるほど」
彼は頷き、わざと視線を外へ滑らせる。遠く、王城の尖塔はまだ鋭い。
私の指先が、勝手に震えた。アウリスの眼差しが、まだ皮膚の内側で反響している。私がそれに気づくより早く、ラドンの影が近づいた。
「手」
命令ではない。確認の音色で、短く柔らかい。
私は迷わず差し出す。鉄に触れて冷えた指を、彼は自分の掌で包んだ。掌は温かくない。けれど、骨の形が“人間”の形で、規則正しい血のリズムだけが確かに伝わる。
その瞬間、胸の奥で、何かが音を立てた。割れる音ではなく、凍った層が剥がれる、薄く澄んだ音。
「君の手は、まだ震える」
「あなたがいると、止まる」
「それは危険だ」
「知ってる」
危険を指差して笑うことを、私に教えたのは彼だ。
風が一段強くなり、屋根瓦の上を低く走る。鉄の匂いに、遠い焚き火の匂いが混ざる。その匂いが私の背骨の奥の古い部屋のドアを叩き、忘れたつもりの映像を一枚だけ引っ張り出した。
「ラドン」
「うん」
「あなたは、どうして“黒翼”にいるの」
彼の瞳が、わずかに濃くなる。海の色に灰を落としたみたいに、深く、広く、冷たい。
しばらくして、彼は言った。
「俺も壊された側だ」
その言い方は、彼にしては珍しく粗かった。選ばれた語の角が立っていて、舌の裏で血が滲む音がする。
私は返事を待たず、彼の手を少し強く握った。骨と骨が正しく噛み合って、小さな“在る”の音が鳴る。
「いつ」
「昔。君より少し前。──北の端の町で、俺は石切り職人の家に生まれた。石は嘘をつかない。割れ目は割れ目の場所にあるし、脈は脈の方向に走る。父はそう言った」
彼の声は記憶を触るときの低さに落ちた。私は目を閉じ、耳をひらき、彼の音だけに焦点を合わせる。
「町に監督官が来た。帝国の“新しい秩序”の検分。帳簿が一冊、数字が一列、どこかで誰かが“よく”した。よくした、って変な言い方だけど──誰かにとってはよくて、俺たちにとっては悪かった。税の桁が一つ動いた。紙の上で、生活が一段、上がった」
「上がった生活は、落ちる時に音がする」
「そう。落ちる音で、俺は大人になった」
風が少し止む。彼の言葉は途切れない。
「父は抗議しない人だった。石を割るみたいに、問題も割ればいいと思っていた。けれど、石じゃない問題は、割ると粉になって肺に入る。母は咳をして、妹は頬がこけ、俺は“行ってこい”と言われて都へ出た。石の代わりに紙の割れ目を探せるようになったのは、ここに来てからだ」
「ここ?」
「黒翼。最初の上官は、優しかった。優しさは毒になる。用法用量、あの人は間違えた。俺は、あの人を一度、裏切った」
胸の奥で音が跳ねる。彼の声の温度が一瞬だけ下がり、その下がり方にだけ熱が混ざる。不思議な逆説。
私は問いを重ねる。「どう、裏切ったの」
「生かすために、見捨てた。連絡線が切断され、退路が二本潰れた夜、俺は部下を二手に分け、自分は反対側の影へ走った。上官は“全員で”を望んだ。俺は“残るために”を選んだ。結果として半分が戻って、半分が戻らなかった。上官は戻らなかった」
彼は乾いた笑いを、喉の奥で潰す。その音が、私の肋骨の内側で反響する。
「俺は、裏切りで生き延びて、忠誠で人を失った。──だから、ずっと、冷たくしてる。冷たければ、燃え残りが出ない」
冷たい復讐劇の温度が、ここでやっと意味を変える。私は彼の横顔を見つめ、言葉を選ぶのをやめた。
「あなたが冷たいなら、私が熱を貸す」
「貸し借りは、後で返ってくる」
「返すわ。利子をつけて」
「利子は嫌いじゃない」
風が笑う。屋根瓦の線に、柔らかい音が走る。遠い窓から遅いピアノの音が漏れ出し、夜のなかで薄くほどける。
私は外套の内側から薄い包帯の束を取り出す。癖でいつも持ち歩いている。彼の手に巻くつもりだったけれど、今夜は違う場所に使いたくなった。
「目を閉じて」
「なぜ」
「縛る」
「どこを」
「言葉を」
私は彼の手首ではなく、言葉の出口に包帯を回した。喉仏の位置を避け、首の後ろにリボンみたいにひと結び。彼の呼吸が止まらない程度の、やさしい拘束。
彼は笑わない目のまま、従った。
「これで、しばらく喋らなくていい」
「……」
「喋らないと、別の音が聴こえる。心臓とか、骨の上を風が渡る音とか、古い記憶が沈黙で得意になる音とか」
私は自分の耳を彼の胸に近づける。距離は危険。けれど、今夜の危険は正しい。
彼の心音は静かで、無駄がなくて、規律に従う。それでいて一拍だけ、意識的に遅れる場所がある。訓練で身についた“間”。その間に、彼は世界を挟む。
その“間”に、私の心音が滑り込む。互いの拍が干渉し、わずかに揺れ、やがて揃い始める。
胸に生まれる、痛みに似た共鳴。
私はそれを、名前で呼ばない。名前をつけると、距離が変わるから。
彼の指が、包帯の端を探り当てる。引けば外れる結び目。外さない。
かわりに、彼は囁きで結び目の輪郭をなぞった。
「君は、危険な結び方をする」
「ほどけるように結んだ」
「ほどかない方が危険だ」
「今夜は危険でいい」
私の声が震えた。凍った層が剥がれたあとの下にある、柔らかい地層が露出する。そこに風が当たって、痛い。
ラドンは私の髪を耳にかけた。指先の温度は控えめで、動きは丁寧で、訓練の痕跡がない。彼の“個人”の手だ。
彼が初めて、勤務表の外側で、私に触れた。
「セラフィナ」
「呼ばないで」
「呼ばれたいだろう」
「今夜は、呼ばれたくない」
「どうして」
「名前を呼ばれると、私の“役”が揺れる」
「揺れていい」
「揺れたら、勝てなくなる」
「勝つのはいつ」
「明日でも、明後日でもない。詰みの直前。──今夜は、詰みの前の夜」
「なら、揺れていい」
彼の論理は、私の論理とは違う歩幅で歩き、しかし、同じ場所に到達する。
私は彼に額を寄せた。額と額の間で、冬が一拍だけ止まる。
世界が少しだけ熱を思い出し、冷蔵庫のような夜の均一が崩れる。崩れた温度が頬を流れ、呼吸を温める。
「裏切り、してもいい?」
「誰を」
「冷たさを」
「うん。俺は、許す」
「あなたは」
「俺も、する。自分の沈黙を」
包帯の結び目が、彼の首の動きでわずかに擦れ、小さな布の音が鳴る。その音が、私の胸の奥で合図に変わる。
私は目を閉じ、彼の肩に手を回した。抱擁というには角度が不器用で、救助というには時間が長い。
彼が私を抱き返す。片腕は仕事の腕、もう片腕は個人の腕。両方が正しく回って、私の背中に静かな“囲い”を作る。
囲われる感覚に、私は少し怯え、そして、怯えた自分ごと受け入れた。怯えは逃げ道ではなく、境界線の印だ。
「俺は、君の“刃”を好きだ」
「危ない趣味」
「刃は、選んで抜ける君を救う。俺は、抜くなとは言わない。けれど、鞘に戻す時は、俺が見ていたい」
「目撃者」
「保証人」
「わたしの罪の?」
「生の」
胸の奥で、共鳴が形を増す。痛みに似た熱が、優しさの殻を破らないように、気をつけて広がる。
私は包帯の結び目を一度だけ指でつまみ、ほどかずに離した。「今夜は、喋らなくていい」と言い、彼は頷きで答えた。
屋上の向こう、街の灯がわずかに瞬く。遠い小窓で、誰かが湯を沸かし、誰かが本を閉じ、誰かが寝息に移る。その全部に、私たちの復讐は関係がない。関係をなくすために、私たちは復讐している。
冷たい復讐劇に、確かに“熱”が差し込んだ。熱は、刃を鈍らせない。選び方を明確にする。
「……一つだけ、告白」
私が言う。彼は包帯越しに、目で「どうぞ」と合図する。
「あなたの過去を聞いて、わたし、少しだけ安堵した」
「安堵?」
「あなたが“壊された側”だと知って、私の孤独が減った。誰かの不幸に救われる自分が、嫌い」
「嫌いな自分を、俺は嫌いじゃない」
「ややこしい」
「人間は、ややこしいのが健康だ」
「診断書、出してくれる?」
「勤務外だ」
私たちは、笑った。うっすらと。霜の縁が、笑いの熱で水に戻る。
私の指が、彼の胸の布地を掴む。力は弱い。落ちないための握りではなく、存在の確認の握り。
彼の顎が、私の髪に触れる。その軽さは、祈りに似ている。
「明日、君はまた“盤上の女王”になる」
「うん」
「俺は“影”で、駒を支える」
「うん」
「裏切らない」
「冷たさを、ね」
「うん」
包帯の結び目が、月の下で小さくきらめく。白いリボンは、罪にも罰にもならない。ただの印。今夜を“ここにあった”と記録するための、柔らかい栞。
「ラドン」
「うん」
「ありがとう。──助かった、あの夜も、今日も、話してくれても」
「礼は、仕事の邪魔にならない程度に」
「じゃあ、礼は今夜で終わり」
「了解」
彼は包帯の端をつまみ、ほどかないまま、指で一度だけ弾いた。
布の音が合図になり、私たちはゆっくり離れる。距離は元に戻る。けれど、温度だけが、少し残った。
「戻ろう。冷える」
「うん。……ねぇ」
「何」
「乾杯の練習、今夜はしない」
「本番で」
「うん。本番で」
階段へ向かう足音は、二人分でひとつの拍を刻む。
鼓動。計画。微笑み。
そこに混ざる、四拍目──“熱”。
冷たい復讐劇の真ん中に、火は小さく灯った。
誰にも見えない焔。
けれど、私たちには確かで、痛みに似て、甘く、前に進むための明かりだった。
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ヒロイン「私はホラー映画の主人公か?!」
『見えない何か』に襲われるヒロインは────
※作中『イジメ』という表現が出てきますがこの作品はイジメを肯定するものではありません※
※作中、『イジメ』は、していません。生死をかけた戦いです※
◇テンプレ乙女ゲーム舞台転生。
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇なろうにも上げてます。
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