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第2話 最後のチャンスと残酷な期待
しおりを挟むその日、森の空気は、いつもより少しだけざわついていた。
朝から、黒いカラスが何度も上空を横切り、集落のあちこちで魔女たちが落ち着きなく行き来している。薬草棚の前で声を潜めて話す者、手早く結界の紋様を描き足す者。
ノワリエは、その真ん中で、完全に情報から置いていかれていた。
「ねぇ、何かあったの?」
すれ違ったファナに声をかけると、彼女はびくっと肩を震わせ、気まずそうに笑った。
「え、えっと……人間の国から、使者が来るんだって。昼には着くらしいよ」 「使者? なんで?」
「さぁ。でも、たぶん“例の契約”でしょ。大規模魔法のやつ。……あ、私、準備手伝い頼まれてるから!」
ファナはそれだけ言うと、逃げるみたいに小走りで去っていく。
ノワリエはぽつんと残され、掌を見下ろした。昨夜、鏡湖で練習したときに焦がした痕は、もうほとんど残っていない。
(大規模魔法の契約……)
それが何なのか、ぼんやりとしか知らない。
人間の国と魔女の集落の間には、古い約束がある。王都の魔導研究のために、一定周期で“魔女の力”を貸し出す。代わりに森への立ち入りを制限し、魔女たちの居場所を守る。
ノワリエが物心ついた頃には、その契約は当たり前のものとして存在していたけれど、「大規模魔法実験」に選ばれるのは、いつだって優秀な魔女たちだった。
(私には、関係ないやつ)
ずっと、そう思っていた。
だからこそ、昼前に魔女長の小屋へ呼び出されたとき、嫌な予感がした。
◇ ◇ ◇
「……入っていい?」
「入りなさい」
扉の向こうから聞こえるサナリアの声は、いつも通り冷静で、いつも通り、少しだけ重かった。
ノワリエが扉を開けて入ると、部屋の中央には見慣れない男が立っていた。
灰色のローブに、銀縁の眼鏡。年齢は三十代くらいか。人間の国の服装。腰には魔導具らしき金属の筒が下がっている。
男はノワリエを見ると、興味深そうに目を細めた。
「この子が……例の」 「ええ。紹介するわ。王都アルヴァン王国・魔導研究院からの使者、クラウス・ベルン博士」
サナリアは淡々と男の名を告げる。
「そしてこちらは、私の娘であり――ノクターンの集で、もっとも魔力量の多い見習い、ノワリエ」
その言い方に、ノワリエは思わず身体を強張らせた。
(“もっとも魔力量の多い見習い”……そこだけ切り取ると、なんかすごい人みたいに聞こえるじゃん)
現実は、“もっともよく暴発する見習い”なのに。
クラウスと名乗った男は、一歩近づいてきて、ノワリエの顔を覗き込む。
「ふむ。噂通りだ。瞳の色がいい。魔力の流れも――」
彼は何かを感じ取るように、空中で指をすっと動かす。ノワリエの周りの空気が、わずかに揺れた。
「……ほう。これは確かに、桁違いだ。王都の魔導士たちと比べても、上位数パーセントに入るだろう」
「えっ、そんな……」
褒められているのか、ただ数字として評価されているのか分からない声に、ノワリエは戸惑う。
サナリアは机の上に広げられた紙を指で叩いた。そこには複雑な魔法陣の設計図が描かれている。
「本題に入りましょう。ノワリエ」
「……はい」
「あなたに、役目を与えるわ」
その言葉に、胸の奥がどくんと跳ねた。
役目。
それは、ずっと欲しかったものだ。誰かにとっての“必要”になれる何か。
「人間の国との契約で、定期的に“大規模魔法実験”に協力していることは知っているわね」
「う、うん。優秀な魔女たちが、王都に行って、難しい魔法を……っていうのは」
「今回は、ここノクターンの集で行うことになった。そして――」
サナリアは、わずかに目を伏せた後、真正面からノワリエを見つめた。
「その中心に立つのは、あなたよ」
世界が、一瞬だけ静かになった気がした。
「……え?」
間の抜けた声が漏れる。
「ちょ、ちょっと待って。私、だよね? 今、“ノワリエ”って――」
「他に誰がいるの。あなた以上に魔力を注げる見習いはいない」
サナリアの声は淡々としている。そこに感情らしいものは見えない。
クラウスが続けた。
「今回の実験は、異界に漂うエネルギーの観測だ。世界の“縫い目”をほんの少しだけこじ開けて、その隙間から情報を拾う。……当然、莫大な魔力が必要になる」
彼の指先が、机の上の魔法陣をなぞる。渦巻くような線、重なる円、そこに細かく書き込まれた数式のような符号。
「中心に立つ者は、ただ魔力を流し込めばいい。制御は周囲の補助陣で行う。君のように、出力だけが規格外の者には、うってつけだ」
「うってつけ……」
ノワリエは、思わず自分の胸に手を当てる。心臓が早くなっているのが分かる。
(うってつけ。役に立てる。私でも)
ぐらぐらと、足元が揺れる感覚。嬉しいのか、怖いのか、自分でも判別がつかない。
サナリアが、言葉を重ねる。
「これは、あなたの最後の機会よ、ノワリエ」
ぴたりと、時間が止まった。
「……さいご、の?」
「ええ」
サナリアは、ほんの少しだけ目を細めた。その瞳の奥には、いつもの冷たさと、言葉にしない何かが渦巻いている。
「今まで何度も、言葉ではっきり伝えずにきたけれど。あなたの失敗は、もう見過ごせないところまで来ている」
ノワリエの喉が、乾いた。
「この集は、隠れて生きている。外に正体を知られれば、狩り尽くされるわ。だからこそ、内部での“事故”も許されない」
「……」
「あなたの暴走で、誰かが大怪我をしたり、森が燃えたりする可能性を、これ以上見て見ぬふりはできない。魔女長として、ね」
それは、魔女長の言葉だった。
母親ではなく。
「だ、だからって……」
ノワリエは、必死に声を絞り出す。
「だからって、“最後の機会”って……それ、どういう――」
「そのままの意味よ」
サナリアは静かに告げる。
「今回の実験を成功させれば、“役立たず”という評価を、少しは覆せるかもしれない。あなたの存在は、この集にとって“危険”だけじゃなく“資源”として見直されるでしょう」
甘い。
けれど、その甘さには、毒が混ざっている。
理解しなきゃいけないのに、心が先に飛びつく。
(成功したら、認めてもらえる? ここにいていいって、やっと……?)
「逆に言えば」
サナリアの声が、ノワリエの浮きかけた心を、真っ逆さまに引きずり落とす。
「失敗したときは――それが、あなたの限界ということ」
クラウスが、少しだけ言葉を挟んだ。
「もちろん、我々も最大限の安全策は講じますよ。ですが、研究には危険がつきものだ。ノワリエ嬢のような“突出した才能”を持つ者が協力してくれれば、成功率はぐっと上がる」
言い換えれば、“君が必要だ”。数字の上では。
ノワリエは、自分の手が震えているのに気づいた。指先から腕へ、震えが遡っていく。
「……私、が。やるんだよね」
「嫌なら、断ってもいいわ」
サナリアはそう言った。
けれど、その言葉の裏にあるものくらい、ノワリエにも分かる。
ここで“嫌だ”と言えば、それこそ完全に見放される。役立たずの烙印は、永遠に消えない。
ずっと、ここにいていいのかどうかも分からないまま、隅っこで小さくなって生きていく。あるいは、どこかへ追い出される。
どっちにしても、苦しい未来が待っているなら――。
ノワリエは、唇を噛んだ。血の味がわずかに広がる。
「……やる」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠く聞こえる。
「やらせてください。私、ちゃんと……役に立ちたいから」
サナリアは、微かに頷いた。そこに安堵はない。諦めとも違う、感情の名前の分からない表情。
「いいでしょう。詳細な魔法陣の構造については、クラウス博士から説明を受けて」
クラウスが、にやりと笑う。
「頼もしい返事だ。では、ノワリエ君。君の魔力には、存分に働いてもらおう」
◇ ◇ ◇
説明は、難しかった。
紙の上にびっしりと描かれた魔法陣の構造、補助陣との連結、魔力の流し方。クラウスの口から出てくる専門用語は、半分くらいしか理解できなかった。
「ここが“異界との接触点”になる。君はここに立ち、ただひたすら魔力を注ぎ込む。その流れを、この補助陣が横から制御する。わかったかな?」
「……たぶん」
「不安なら、事前に少しずつ慣らしていこう。君の魔力量なら、一気にやるより段階的に増やしたほうが安全だ」
クラウスは合理的だった。ノワリエ個人に情はないが、失敗されると困るからこそ、彼女の状態を真剣に観察している。
「怖いか?」
ふいに問われて、ノワリエはびくりと肩を揺らした。
「えっ、その……正直、怖いです。すごく」
「正直でよろしい」
クラウスは笑った。その笑いは意外と柔らかかった。
「怖さを自覚している者のほうが、無茶をしにくい。君は、今までどの程度の規模で魔力を出してきた?」
「えっと……訓練で、周りを焦がすくらいに」
「ふむ。なら、今回は“世界の縫い目に触れるくらい”だな」
「例えが怖いんだけど」
思わずツッコむと、クラウスは肩をすくめた。
「だが、君の力なら届く。君が全力で魔力を出せば、世界の向こう側が、ほんの一瞬だけ顔を覗かせるかもしれない」
「……世界の、向こう側」
言葉の響きに、ぞくりとした。
怖さと、好奇心と、得体の知れない期待。胸の中がぐちゃぐちゃに混ざる。
(私の魔力が、そこまで届くなら――きっと、誰かの役に立てる)
そう思ってしまった時点で、もう引き返せなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ノワリエは、自分の小屋のベッドに寝転がって、天井を見上げていた。
体は疲れているはずなのに、目は冴えて仕方ない。心臓が、昼からずっとドラムみたいに鳴り続けている。
さっきのサナリアとの会話が、何度も何度も頭の中でループする。
「これは、あなたの最後の機会よ」
「この実験を成功させれば、“役立たず”という評価を少しは覆せるかもしれない」
――少しは。
そこが卑怯だと思った。
全部じゃない。完全に認めてくれるとも言っていない。けれど、“少しは覆せるかも”という言葉は、喉が渇くくらい魅力的だった。
(ずるいよ、お母さん)
ぽつりと、誰にも届かない言葉が漏れる。
(そんな風に言われたら、断れないに決まってるじゃん)
今まで、何度も何度も失敗して、そのたびに謝って、誰かに怒られて、距離を置かれてきた。
その全部が、一回の成功で帳消しになるなんて思っていない。
でも、“少しは”変わるかもしれない。その“少し”に、すがりたかった。
(私だって、ここにいたい)
ノクターンの集は、窮屈で、冷たくて、優しくなくて――それでも、ノワリエが知っている唯一の“居場所”だ。
そこから「あんたはいらない」と言われるのが、いちばん、怖かった。
ベッドから身を起こす。窓から外を覗くと、森は静まり返っている。サナリアの気配も、今は近くにない。
「……やっぱ、寝れない」
ノワリエはローブを羽織り、そっと外に出た。
向かったのは、やっぱり鏡湖。
昨夜と同じ場所に立つと、湖面が月を映して揺れていた。風が少し強く、木々がざわざわと歌っている。
「明日、か」
実験は、明日の昼に行われる。
準備に丸一日もかからない。魔法陣の設置は、すでに半分以上終わっているらしい。
ノワリエは、手を前に出した。
「……イメージ、イメージ」
クラウスが言っていた。
魔力を一点に集め、それを“細く長く”出し続けるイメージ。噴水ではなく、水道。ドバッと出すんじゃなくて、ずっと細く流し続ける。
想像しただけで、気が遠くなりそうだった。今までのノワリエの魔法は、だいたい全部“ドバッ”だったからだ。
「細く、長く、静かに……」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
体の中にある魔力を、意識で撫でる。喉の奥から胸、胃のあたり、背骨に沿って、ぞわぞわした熱が流れる。
それを、掌へ。
いっぱいに集めない。ほんの少しだけ。そっと、そっと。
夜の空気が、肌に刺さる。心臓の音が、耳の奥でうるさい。
「ここで……役に立てたら」
ノワリエは、自分に言い聞かせるように続けた。
「ここでちゃんとやれたら、私も、みんなと並べるんだよね。リュシエルともファナとも、同じところに立てるんだよね」
誰も、約束してくれてはいない。
サナリアだって、「少しは覆せるかも」と言っただけだ。
それでも、その言葉にすがるしかなかった。
魔力が、掌に集まっていく。
昨夜よりは、暴れ方が少ない気がした。昼間、クラウスの説明を聞いたおかげか、魔力の流れを“線”として掴めるようになった気がする。
「……そうそう、そのまま、そのまま……」
自分を褒めるみたいに小声で呟く。ほんのりとした熱が、掌から外へにじみ出す。
ぱっと、小さな火が灯った。
ろうそくの炎くらいの、小さくて頼りない火。でも、それは暴発せずに、ちゃんとそこに“留まっていた”。
「……っ!」
息を呑む。
指先が震える。火が揺れる。
「や、やば、消えないで、お願いだから――」
余計なことを考えた瞬間、火はふっと消えた。残されたのは、じんじんとした痺れと、心臓のどくどくだけ。
それでも、ノワリエは笑った。
「……ちょっと、進歩した」
誰も見ていない、夜の湖畔。
たった一人の、たった一回の成功。それでも、ノワリエの中では、今までとまるで違う重みを持っていた。
掌を胸の上に当てる。
心臓はまだ早鐘のように鳴っている。怖い。すごく怖い。
明日の実験で、自分がどうなるか分からない。成功するのか、失敗するのか。そのとき、自分がここにいられるのか。
全部、分からない。
それでも。
「やるって、言っちゃったから」
自分の声で、自分を縛る。
「ここで逃げたら、きっと一生後悔する。……それだけは、やだ」
指先の震えを、掌で包むようにぎゅっと握る。
夜風が、ノワリエの髪を撫でていく。湖面に映る月が、少しだけ揺れる。
この先、自分の命がどうなるのかなんて、今のノワリエには想像もつかない。
ただひたすら、“明日の実験を成功させること”だけを、頭の中で繰り返しイメージし続けた。
細く、長く、静かに。
世界の向こう側へ届くくらい、まっすぐに。
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