王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

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第1話 鐘が割れる夜

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 王都は祝祭の灯で、昼より明るかった。王宮の高い窓から見下ろすと、色とりどりの紙灯籠が川沿いにゆらめき、屋台の油の匂いが風に乗ってのぼってくる。笑い声、歌声、金属器を打つ乾いた音。――幸福の音の寄せ集め。
 私はそのすべてを、透き通ったガラス越しに眺めるような心持ちで歩いていた。練り上げた笑顔、完璧な姿勢、すべてが今日のためにあると思っていたのに。回廊の床は磨かれすぎて星のように光り、私の靴音がひとつ、またひとつ、薄く弾んで消える。

 角を曲がった先、王太子アレクシスが待っていた。真珠色の礼服に金糸が沈み、肩にかかるマントの縁が風に鳴る。彼の背後には、赤を基調にした祭服の枢機卿マルティン。蝋燭の炎が彼の指輪に反射して、蛇の舌のような光が柱に走った。

「遅くなりました、殿下」
「――来てくれて、ありがとう。リュシア」

 その声音は、何年も前から私が知っている優しさの形をしていた。けれど、瞳の温度が知らない。氷が薄く張った泉みたいに、触れたら割れて沈む冷たさ。

「婚約は、解消する」
 呼吸の仕組みを忘れた。
「……どういう、意味でしょうか」

「文字通りだよ。新たな王妃は聖女エリナだ。国は神の祝福を必要としている。君は――」
 彼はふっと目を伏せる。悲しみを演じる時の表情だ。
「君は、聖女に呪いをかけた疑いがある」

 濡れ衣。濡れてもいない、乾いた、紙より薄い嘘。
「誰がそんな――」
「民が見た。教会が調べた。枢機卿閣下もご存じだ」

 マルティンがそこで微笑んだ。砂を噛むような音が、胸の奥でこぼれる。
「王太子殿下も苦渋の決断である。お嬢様、罪は罪。聖女様が病に伏せるたび王都の祈祷は増し、しかし回復が滞る。原因を断たねばならんのです」

「私の名と家に、泥を塗るおつもりですか」
「違いますとも。教会はいつだって民の味方です」

 だったら、私の声は誰のものでもないのね。
 アレクシスの指が、かつて私の髪を梳いた温度を思い出す。演技の手。冷たい指。
「リュシア、君ならわかってくれる。これは国のためなんだ」

「……殿下」
 言葉の前に、笑ってしまいそうだった。笑えば崩れるから、唇の裏に歯を立てて堪える。
「私が学んだ“国のため”は、真実を曲げることではありません」

 彼の眉が、ほんの少しだけ寄った。「護衛」への合図。
 柱の影が動き、甲冑の鎖が鳴る。私は一歩下がる。回廊の風が頬を撫でた。熱のない風。
「帰りなさい、リュシア。邸で身を慎みなさい。明朝、改めて罪状が告げられる」

 命令の声。私の名前は“帰れ”と同義に変わったらしい。
 私は会釈し、裾を持ち上げる。礼は完璧に。背中が見えないところで、指が震えた。

     ◇

 夜の王都は、祭りの匂いと血の匂いが似ている。興奮が混ざると、甘さは鉄に転ぶ。
 邸の門に近づくと、門灯の光が不自然に揺れていた。衛兵。教会の紋章。私の家の紋章は布の下で覆われ、見えないものの扱いを受けている。
「お戻りか、公爵令嬢」
 声は粗い革靴みたいに硬い。
「父と母は?」
「事情聴取のため、教会へ」
「同行します」
「許可はない」

 屋敷の玄関に入ると、侍女たちの姿が歪む。拘束された腕、床に落ちた髪飾り。銀器は布で包まれ、書棚から引き抜かれた本が積まれている。押収。
「アメリア!」
 幼い頃から仕えてくれた侍女が、すぐ私の名を呼ぼうとして口を塞がれた。目だけで、何百もの言葉を伝え合う。――逃げて。――無理よ。――信じてる。
「家探しはおやめください」
 私が進み出ると、司祭服の若者が巻物を広げた。
「教会の令状だ」

「令状の発行権は世俗の法に反しませんか」
「王太子殿下の承認がある」
 それで、真実が変わるなら法は何のためにあるの。

 奥の音楽室から、ひとつだけ私のものが戻ってきた。古い楽譜。祖母の代から伝わる、季節ごとに弾くための小曲集。私が最初に覚えた旋律が、紙の端に鉛筆で残っている。
 拾い上げる手が震えた。音は確かだ。紙は嘘をつけない。
「持ち出し品の中にそれは――」
「私物です」
 言い切ると、司祭はあきれ顔で肩を竦めた。「好きにしろ」

 廊下の途中、金色の額縁の鏡が、私の顔を映す。涼しい目、整った唇、礼儀作法で研磨された仮面。――悪女の顔に見えるだろうか。
 腕を掴まれた。冷たい指。鉄臭い夜。
「リュシア=フィオーレ。拘束する」
 刃物のような言葉が、皮膚より奥、骨に刺さる。
「罪状は?」
「聖女に対する呪詛の容疑、王家に対する誹謗、並びに――」
「並びに、王の都合」
 衛兵が短く舌打ちし、私の肩を押した。楽譜が胸に当たり、少し安心する。音符は軽い盾。紙の盾。私はその盾を抱えて夜の外へ。

     ◇

 地下牢は冷たすぎて、音が凍る。滴る水の音が、石の歯の隙間で欠け、氷の破片みたいに散った。
 鉄格子。藁の匂い。湿った土の匂い。どれも知っているはずの王都の匂いが、ここでは別人の顔をしている。
 膝に楽譜を置く。指で紙の角を撫で、音を思い出す。
 ――最初の小節。春の光。左手のアルペジオ。
 弾けないから、喉で歌う。声はすぐに壁に吸われた。

 考えないようにすると、考えがやってくる。
 幼い私。背筋に棒を入れて歩かされた日々。正答。正答。正答。間違いは存在しない世界。
(私は、“正しく”育てられた)
 だから、愛されるはずだった。
 だから、王妃になるはずだった。
 だから、だから――

 足音が止まった。鉄の影がゆっくり延びて、私の膝に重なる。
「起きているか」
 低い声。研ぎ澄まされた刃のようでいて、傷口を切り広げないように配慮された刃。
 聖騎士ロラン。白い外套に銀の縁取り。顔に傷はないが、目の奥に戦場の跡が沈んでいる男。

「珍しいお客様ね、騎士殿」
「任務だ」
「任務の名は?」
「伝達」

 鍵が回り、格子が少し開く。入ってはこない。境界線に立ったまま。ロランは距離の測り方を心得ている。
「明朝、鐘が七つ鳴った時、お前は広場へ出る」
 彼は一呼吸置いた。
「処刑だ」

 楽譜が、ひゅっと冷たくなる。紙が冬になる。
「罪状の読み上げは?」
「王家侮辱、聖女呪詛、虚偽申告、その他多数」
「ひとつとして真実がないわ」
「俺は裁く役ではない」

「じゃあ、何のためにここへ?」
 ロランは黙った。沈黙の形が、彼の肩幅と同じくらい整っている。
「……知らせるためだ」
「優しさ?」
「義務だ」
「義務は、優しさの仮装が上手いのね」

 彼の眉が僅かに動いた。
「祈るか」
「祈りは神の所有物でしょう。私には音がある」
 私は紙の角を叩いてリズムを作る。心臓と合わせる。タタ、タタ、タタ。
「ロラン。あなたは、聖女が呪われていると本当に思っているの?」
「俺は思考を任務に混ぜない」
「混ぜないことが、潔白じゃない」
「……わかっている」

 その言葉は小さくて、でも確かだった。
「王太子は、悲しそうにしていた?」
「民の前では」
「二人きりでは?」
 沈黙。
「演技が上手い男だ」
「ええ。私もそう思う」

 牢の外を風が走り、松明の火が低く唸った。
「アレクシスは民のために、私を悪女にしたわ」
「王は、時に石を投げられる盾を欲しがる」
「それが、私」
「……そうだ」

 私は笑う。喉の奥に錆びた鈴があって、鳴るたびに涙腺が引かれる。
「あなたは私を憎んでる?」
「いいや」
「軽蔑してる?」
「いいや」
「じゃあ、何?」
「任務中だ」

 私は肩をすくめ、楽譜を抱きしめた。
「明日の朝は冷える?」
「冷える」
「じゃあ、綺麗に凍って見せるわ」
「凍らなくていい」

 その一言に、彼の本音の温度が混じった。
「ロラン、ひとつお願いがある」
「聞くだけは聞く」
「この楽譜を、燃やさないで」
「守ろう」

 彼は踵を返し、鍵の音を残して去る。足音が遠ざかるたび、夜が押し寄せてくる。
 私は膝の紙を見つめ、初めての小節を指で追う。
 祈りは神の言葉だというのなら、旋律は私の言葉だ。
 ――朝に、私が消えるとしても。
 ――音は、私の代わりに残る。

     ◇

 時間は、冷たい水のようにただ落ちる。考えようとすると、考えが凍り付いて霜になる。私は霜を舐める。苦い。
 遠くで、祭りの終わりを告げる太鼓が鳴る。遅れて、鐘が三つ。
 四つ。
 五つ。
 六つ。
 七つ――ではなかった。七つ目の前に、鐘の音はぱきん、と割れた。
 空気の中の金属音が途切れ、代わりに耳鳴りが満ちる。地下牢の石が、わずかにきしんだ。
 誰かが夜を引っ張って、裂いたみたいに。

 自分の胸の奥でも、何かが割れた。
 ああ、そうか。
 これは喪失の音だ。
 大切なものが、音を立てて壊れるとき、音は外より先に内側で割れる。
 そして――割れた空白に、何かが入り込む。

 冷たさでも、熱でもない。
 色に喩えるなら、墨が水に落ちた瞬間の広がり。
 匂いに喩えるなら、まだ名を持たない夜の匂い。
 音に喩えるなら、最低音。楽譜の下の下、鍵盤に存在しない音。

 私は顔を上げる。地下の闇が、わずかに明るい。
 明るい、と言っていいのかわからない。光ではないのに見える。黒いのに、見える。
 格子の向こう、廊下の奥で、風が逆向きに流れていた。布が吸い込まれる方向に揺れ、松明の炎が下へ垂れた。

(鐘が、割れた)

 胸の中の何かと、世界の何かが、同じ音で割れたのだ。
 私は楽譜を抱きしめる。紙がかすかにざわめく。
 七つ目の鐘が、どうしても鳴らない。
 代わりに、息を呑む音が城中から湧く。驚きと、恐怖と、歓喜と。
 それらの混ざった気配が、地の底にいる私の皮膚にも触れてきた。

 鉄の匂いが、甘くなった。
 夜が、色を変える。
 ――何かが来る。
 まだ名前のない、巨大な“何か”が。

 私は、微笑んだ。凍る必要は、ないらしい。
 鐘が割れた音は、終わりの音ではなく、幕が上がる合図。
 私の物語は、誰かの脚本の外で始まる。
 楽譜の最初の小節に、そっと指を置く。
 タタ、タタ、タタ――胸のリズムを数える。
「聞こえる?」
 誰にともなく問いかけると、地下の空気が低く震えた。

 返事の代わりに、夜そのものがうなずいた。
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