王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

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第2話 悪女の指先

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 広場は、朝から祭りの後みたいな匂いがしていた。冷めた油、踏みつぶされた花びら、湿った麻袋。夜の灯(あか)りは消え、かわりに人の目だけがぎらぎらと光っている。木組みの処刑台は中央の噴水より高く、まるで新しい王権の記念碑のように眩しかった。
 私は縄で両手を縛られたまま、階段を一段ずつ登る。麻が手首に擦れて、皮膚の奥に火の粉を埋め込まれるような痛みが走る。指先はすでに温度を失い、自分の体から切り離された誰かの部品みたいだ。

「悪女だ!」
「聖女様に何をした!」
「呪い女! 火に入れろ!」

 罵声は、音楽の一種だと思えば耐えられる。規則的に波が来る。胸にぶつかって、過ぎる。私は波の合間に息を吸う。
 正面、仮設の壇上には白い布を纏った少女が立っていた。エリナ。世界で一番、涙の似合う顔。彼女は指を組み、空に掲げ、震える声で祈る。

「神よ、どうか……この災いから民をお救いください。彼女の呪いで、町が苦しんでいます」

 涙がぽとり、と壇の白布を濡らした。濡れた場所は、太陽にきらめく。人の心は光る水滴に弱い。周囲で嗚咽が連鎖する。
 その横、金の鎧に身を包んだ男が立った。王太子アレクシス。英雄の顔で剣を掲げ、声を張る。

「王国の平安のため、我らは正義を執行する! 神と民と、そして未来のために!」

 歓声が爆ぜた。演劇だ、と私は思う。完成度の高い、昂揚感のある、皆で泣ける劇。
 私は舞台装置。悪役。悲鳴を提供する道具。
 麻縄がぎり、と鳴るたび、指先の感覚が遠のいていく。熱と冷たさが同時にやってきて、どちらにも触れられない。

「リュシア=フィオーレ」

 読み上げる声が、よく通る。教会の書記。白手袋の指で羊皮紙を押さえ、罪名を滑らかに並べる。
 王家侮辱、聖女呪詛、虚偽申告、民心撹乱――。
 羅列は、暗い雨のように耳に降る。ひとつとして、私の生活に触れていない。私の朝の紅茶の香りも、侍女アメリアの笑い皺も、祖母の楽譜の鉛筆の跡も、何一つそこにはない。

 視界の端で、父と母の面影を探す。見当たらない。兵に囲まれているのか、教会に留め置かれているのか。――それを尋ねる権利は、今日の私にはないらしい。

 風が頬を撫で、髪の先を揺らした。その感触で、体の輪郭を思い出す。私はまだ、ここにいる。音叉で確かめるみたいに、胸骨を叩く。音は小さい。だけど、ゼロではない。

 幼い日の記憶が、唐突に立ち上がる。
 背筋に薄い木の板を挟んで歩く練習。背の低い庭師の少年と同じ目線でしゃがんで石を拾い上げたら、家庭教師に注意された。「上から目線は下げても、身分は下げるな」
 間違った答えは、存在してはいけない。
 正しさだけを集めた日々は、透明な牢屋みたいに清潔で、息苦しかった。
 それでも、私は息の仕方を覚えた。ピアノの前に座ると、祖母の書いた小曲集の最初の小節だけで胸が軽くなる。季節のための曲。春のための和音。夏のための上向アルペジオ。秋のための長い減七。冬のための、静かなドミナント。
 指先が鍵盤を知り、音が体を知る。
 ――その指先が、今は縄の下で氷のようだなんて。

「罪人を前へ!」

 衛兵の手が背中を押す。足枷の鎖が、石畳に乾いた傷を刻む。私は段の縁で立ち止まる。
 人、人、人。見慣れた顔もある。市場の女将、城下の書店主、教会の前で飴を売る老人。私に向けられた目は、みな同じ形に尖っている。
 怖いかと問われれば、怖い。
 怖いかと問われたら、怖いに決まっている。
 でも、恐怖は形があるぶん、まだ握れる。
 本当に厄介なのは、怒りと憎しみが正義の衣装を着たときの匂いだ。香水に砂を混ぜたような、甘くてざらつく匂い。

「弁明を許す」

 アレクシスが、少し身を屈めて私を見た。かつて恋人を呼ぶ声で私の名を呼んだ男の、完璧な距離。
 私は笑う。喉で、笑わない笑いをこぼす。

「……弁明?」
「言いたいことがあるなら、今だ」

 私は息を吸い、吐く。そのあいだに、心の表面で薄氷が音を立てた。ぴしり、と。
 ああ、そう。全部、脚本の上だったんだね。
 あなたの笑顔も、私の優等生も、聖女の涙も、枢機卿の指輪も。
 私は舞台袖で、これから火に入る役者。

「私は――」

 声が出た。自分のものなのに、少し他人の声に聞こえた。
「私は、何もしていない」

 言った瞬間、風に溶けた。
 群衆が笑い、罵り、石ころが空を飛ぶ。石は私の足元で跳ね、木の階段の隙間に落ちる。
「嘘吐き!」
「見苦しい!」
 音は重なると壁になる。壁は、言葉の形を潰す。
 私の四つの音節は、簡単に押しつぶされた。

 エリナが泣いた。彼女の涙は、世界の空気の密度を変える。祈りは風に乗って、群衆の肩に降る。
「神よ、彼女を赦し――」
 赦し? 私にとってそれは、認罪と同義だ。
 私は顔を上げ、彼女を見る。祈る目。細い肩。青白い手。――やせた。
 彼女は泣く機械じゃない。人間だ。
 なら、泣かされているのは誰? 誰がハンドルを回している?

「処刑を――」

 アレクシスの声が高まる。剣が太陽の光を割って、刃の線が私の瞳孔のど真ん中を走る。
 たぶん、この瞬間の彼は、本当に英雄になったつもりだ。脚本に忠実で、カメラの死角を知らない男の、完璧な立ち位置。
 私たちは長いこと、同じ授業で、同じ未来図を見てきた。
 王国のため。民のため。
 私のため。
 ――最後のは、いつから消えた?

 喉の奥に、金属の味がひろがる。恐怖が鉄を溶かすと、この味になる。
 私は自分の舌を噛んで、味を確かめる。
 生きている。
 まだ、ここにいる。

「待て」

 思わず、そう言いかけた。やめる。待てと言ったら、私の中の“乞い”が顔を出す。乞いぐせは、優等生の宿痾だ。
 私は違う言葉を探す。
 言い訳ではない。
 誓いでもない。
 呪いでもない。
 ――私は、私に向けて言う。

「私は、何もしていない」

 もう一度。今度は内側で。胸骨に向けて。
 薄氷がまた割れる。音が小さな赤い花びらみたいに、胸の内側に散る。
 冷たくて、綺麗。
 綺麗なものは、たいてい残酷だ。

 処刑人が近づく。顔に布。目だけが見える。彼は私の手首の縄をもう一度確かめ、硬い声で言った。
「動くな」
「うん」
 返事が口から出る。驚くほど静かだった。自分の声が、見知らぬ湖の底から届くみたいに遠い。
 指先は、相変わらず温度を失っている。けれど、その麻痕のひと筋ひと筋が、なぜか鍵盤の象牙みたいに思える。
 私は意識の中で、指を置く。最初の小節。春のための和音。
 タ、タ、タ――。
 心臓が合わせてくれる。

「罪人に最後の言葉は?」

 書記が聞く。慣れた手つき。私の言葉を羊皮紙に写す準備。
 私は笑う。書くがいい。記録は紙の中で朽ちればいい。

「――私を、忘れないで」

 誰に向けたのか、自分でもわからない。父と母かもしれない。自分自身かもしれない。あるいは、世界のどこかにいる、まだ名のない誰か。
 書記が眉をひそめた。羊皮紙に、ためらいの点が落ちる。
 アレクシスが剣を掲げ直し、声を張る。
「神と民と、未来のために!」

 群衆が応える。
 私の胸の中で、別の声が応える。
(私のために)

 私は自分の指先を見る。縄の下、皮膚が赤く線を引かれて、まるで誰かがそこに五線譜を刻んだみたいだ。
 そこに音符を置けるなら、私はまだ書ける。
 たとえそれが、最後の曲でも。

 視界のどこかで、エリナがすすり泣く。
 私は彼女と目を合わせない。合せたら、私の中の何かが崩れる。彼女は被害者でもあり、道具でもある。その両極の間に引き裂かれた少女に、私の怒りは届かない。怒りはいつだって、罪のないものに先に刺さるから。

 太陽が、刃の上で揺れる。
 影が、私の足元で揺れる。
 世界が、薄く震える。
 鐘楼の方角から、遅れて風。金属の冷たい匂い。
 まだ、七つ目の鐘は鳴らない。
 そのかわりに、胸の内側で――ぴしり、と。
 薄氷の最後の一片が、音を立てた。

 ああ、そう。
 私はようやく、悟る。
 私が“悪女”と呼ばれるために必要だったものは、真実ではなかった。
 必要だったのは、“物語”。
 英雄が立ち、聖女が泣き、悪女が沈黙する。
 それで、世界は納得する。
 世界は、納得したがる。

「始めよ!」

 アレクシスの声が落ちてくる。
 処刑人の手が動く。
 私は目を閉じない。
 代わりに、胸のなかの五線譜に、最後の音を置く。
 たったひとつの、最低音。鍵盤には存在しない、世界の底から上がってくる音。
 その音は、同時に遠くからも響いた。
 風が、逆向きに流れた。
 布が、吸い込まれる方向に揺れた。
 松明の炎が、下へ垂れた。

(……聞こえる?)

 私の問いに、世界がうなずく。
 群衆の罵声が一瞬、薄くなった。
 空気の密度が変わると、人は沈黙に近づく。
 私は息を吸う。
 吸った空気が、さっきより重い。黒い蜜みたいだ。喉から胸へ、冷たく甘く落ちていく。

 目を上げる。
 太陽が一枚、剥がれたみたいに見えた。
 光の薄皮の裏から、夜が覗く。絵の具の水に墨を落とした瞬間、じわりと広がるあの黒。
 群衆がどよめく。
 アレクシスがわずかに剣を下ろす。
 エリナの祈りの言葉が途切れ、彼女の口が「え」と形になる。
 マルティンの指輪の赤が、かえって白く見えるほど、世界が色を失った。

 麻縄が、皮膚に食い込む。
 指先は、まだ冷たい。
 けれど、冷たさはもはや、恐怖の形ではない。
 それは、前奏だ。
 私の曲の、長い長い前奏。

「――」

 誰かが言葉を発した。
 聞き取れない。距離のせいではない。音が、重すぎる。
 鐘楼の鐘が――やっぱり七つ目の手前で――ぱきん、と。
 世界のどこかで同じ音が響く。
 胸のなかの薄氷は、もう残っていない。
 かわりに、黒い水面が静かに揺れている。

 私は、笑った。
 自分でも驚くほど静かに。
 悪女の指先は、冷え切っている。
 でも、冷たさは演奏を邪魔しない。
 鍵盤の象牙はいつだって、冬の温度だったから。

「私は、何もしていない」

 三度目。今度は、私と世界の両方に向けて。
 その言葉が、黒い水面に落ち、波紋になって広がる。
 波紋の向こうから、誰かが歩いてくる気配がした。
 人ではない、夜の歩幅。
 時の歩幅。
 劇の台本に、書かれていない歩幅。

 処刑台の上で、私は姿勢を正す。
 背筋に、あの幼い日の薄い木の板を思い出す。
 完璧な姿勢で、完璧に黙る。
 ――幕が、上がる音を聞くために。
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