王太子に裏切られたので、溺愛されてる魔王の嫁になります

タマ マコト

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第5話 蜜か毒か

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 昼と夜の境い目が、ここでは緩やかだった。廊下を一歩進むごとに、光は深くなり、影は薄くなる。案内役のラザロは足音をわずかに消し、私の歩幅に合わせて速度を調整した。壁面には黒曜石の鏡が点在し、近づくと表面に星が浮かぶ。鏡の中の星は私の呼吸で明滅し、まるで肺に宇宙を飼っているみたいで可笑しい。

「こちら、書の回廊。魔界の史書と契約文書を保存。水に浸しても燃やしても消えぬ紙を用いております」
「便利ね」
「便利は時に、慢心と同居しますので」
 ラザロの微笑は、よく研がれたナイフの背に似ていた。

 曲がり角で巨大な扉が現れた。扉は鼓動している。木でも金属でもない、古い生き物の皮膚のような質感。ラザロが手をかざすと、扉は嬉しそうに波紋を広げて開く。中から出てきたのは、角を折りたたんだ小柄な悪魔たち――厨房係だろう、エプロンに粉が付いている。彼らは私を見るや否や一斉に膝をつき、額を床に近づけた。

「“伴侶(はんりょ)”様」

 音の重さに、思わず立ち止まる。彼らの気配は敵意の角を折り、恐怖の尾を隠し、ただ礼のみを残していた。

「……どうして、私にそこまで」
 私が小声で問うと、ラザロはわずかに目を伏せ、答えを慎重に選ぶ。

「魔王の“伴侶”は、魔界の均衡を保つ核。歴代ただひとり。殿下の力は“夜”を司りますが、夜ばかりが続けば生命は枯れる。伴侶は夜に呼吸を与える“窓”。その窓が開かねば、魔界は窒息する」

「……私が、窓」
「ええ。風通しと、逃げ道と、光の入口。ゆえに敬意は“生存本能”でもあります」

 厨房の子鬼が恐る恐る顔を上げ、小さな包みを差し出してきた。包みの中には、黒砂糖でできた薔薇の菓子。花弁には細かな糖の霜が降りていて、指先で触れると、とてもかすかな温度を返す。

「新しい“伴侶”さまへ。甘いの、すき……ですか?」
 噛みしめた言葉。拙さが愛しい。

「好き。ありがとう」
 子鬼は涙が出そうなほどの笑顔を見せ、尻尾をばたばたさせて去っていく。背中に歓喜の音符が見えた。

「敵意のない目で見られるの、変な感じ」
「慣れます」
「慣れてしまうのかしら」
「慣れを嫌うなら、毎日少しずつ驚けば良いのです」

 次に案内されたのは戦の庭だった。広い石庭、中心に円環の刻印。そこでは角の太い将軍ガルドが兵に号令をかけていた。肩幅はドア二枚分、声は雷鳴。私を見ると、彼は巨体を折って片膝をつき、巨岩が礼をするみたいに低頭した。

「殿下の伴侶さま。ガルド、貴女の盾。命の限り」
「立って。石庭にひびが入るわ」
「はっ……!」
 どっと兵に笑いが広がり、石庭の緊張がほどける。私の口から自然と笑いがこぼれ、空気が少し甘くなった。

 回廊を歩けば、羽の生えた書記が羽根ペンを休め、廃墟のような顔立ちの魔術師が眼鏡を押し上げて会釈し、物陰の影に棲む者は影ごと頭を垂れる。その礼はいずれも恐れの色ではなく“場所への感謝”の匂いを帯びていた。ここにいる理由を、私が少しずつ持ち始めていることを、彼らは敏感に嗅ぎ取っているのだ。

 私室に戻ると、扉の前に大きな箱。ラザロが合図すると、箱はひとりでに開いて、黒薔薇が現れた。深い夜色。花弁の縁にほんのり青い縁取り。茎は細いのにしなやかで、棘は鋭いが血を欲しがらない形をしている。

「贈り物。魔界の“温花(おんか)”の王。触れると、返事をします」
 私は恐る恐る指を伸ばし、花弁に触れた。
 温かい。
 肌温より少し低く、骨の冷えだけを吸って、代わりに心の中心へ火の粉を返してくる温度。

「……灯がともるみたい」
「そういう仕組みです」
「仕組み?」
「花に魂の音叉を内蔵。持ち主の鼓動に微調整して熱を返す。殿下が用意されました」

 花束の根元に小さな札が結ばれていた。硬質な文字で一行――《喉の霜を溶かす用》
 短いのに笑ってしまい、同時に目が熱くなる。セラの言っていた“儀式は象徴、象徴は効く”という言葉の意味が、ようやく理解の形を持って胸に収まる。

 日が傾く――といっても、この城では傾くのは星の帯だ。夕刻の合図は遠い角笛と、廊下に流れ始める冷たい音楽。私は黒薔薇を一輪だけ抜いて髪に挿し、テラスへ出た。風は塩でも砂でもない不思議な味がする。星の粉末を少し舐めたような、舌の奥でざらりと融ける甘味。

「待たせたか」

 背後でヴァルトの声。振り返ると、彼は鎧も外套も持たず、薄手の夜布一枚を肩に掛けていた。肌の白さがいっそう際立ち、青の瞳は夕星の芯を閉じ込めたように光っている。

「いいえ。星を見てた。逆さに落ちていくの、いつ見ても変な気分」
「上から下へ落ちているのではない。お前の視線が、今は少しだけ上を向くからだ」
「……詩人ね」
「事実だ」

 テラスの欄干に肘を置く。足元では風が薄い渦になり、夜の花粉を撫でていく。しばらく黙って同じ景色を眺める。黙っていられる沈黙は、親切だ。

「リュシア」
 私の名を呼ぶとき、彼は必ずほんの少し間を置く。大切な魔術を発動する時の合図みたいに。
「お前が望むのは、復讐か、忘却か」

 風が、耳殻の形を確かめるみたいに通り過ぎる。私は欄干に置いた指先を見た。縄の痕は薄くなり、五線譜の赤い線はもう痛みを司らない。

「……わからない」
 正直に言葉が出る。
「忘れたい夜はある。火に投げ込んで、灰まで見送って、風に飛ばしたい。でも、忘れたら、私が私じゃなくなる気がする。復讐は――甘い匂いがして、舌に乗せると苦い。飲み込むと、喉を裂く。たぶん、嗜好品」
「嗜好品」
「依存性もある」
 自分で言って、苦笑が漏れる。
「だから、選べない。どちらも“毒にも蜜にもなる”」

 ヴァルトの横顔が、わずかに綻ぶ。
「なら、訊き方を変える。お前が今いちばん欲しいのは何だ」

 私は目を閉じ、胸の内側で棚卸しをする。怒り、恐怖、羞恥、恋慕、悲しみ、憤り、空腹――ひとつひとつラベルを読み、触れて、戻す。その作業の奥で、ひとつだけ、手に吸いつく瓶があった。

「……真実が、欲しい」
 目を開ける。彼の青が、私の黒をまっすぐ受け止める。
「誰が私を悪女にしたのか、聖女の涙は誰のための水だったのか、王太子の笑顔は何枚重ねだったのか、教会の言葉はどこで作られたのか。私は、全部知りたい。知って、選び直すために」

 ヴァルトは何も言わず、私の手を取った。指先が触れる。黒薔薇の温度が、二人の皮膚の間に橋を架ける。彼は私の指の甲に口づけた。乾いた唇が触れ、呼気が薄い霜を溶かす。

「ならば、世界の嘘を剥がそう」

 彼の囁きは、夜の幕間に落ちる合図だった。幕間のキス。甘く、冷たい。演目の続きがより激しくなる予告の味。

「方法は、用意がある。教会の金の流れ、王城の暗い通路、枢機卿の鍵束。ラザロとセラとガルド、それぞれに得意な盗み方と暴き方がある。だが、指揮はお前だ」
「指揮」
「俺が前で全てを斬れば早い。けれど、それでは“お前の物語”に筋肉がつかない。……筋肉のない物語は、風で倒れる」

 欄干に置いた私の手の上に、彼の掌が重なる。魔王の掌はやはり冬の泉の温度で、しかし中心に小さな火の核がある。掌の真ん中のしずかな熱。そこに脈打つ音が私の脈と重なる。

「蜜は、毒にもなる」
 私は自分の声で言った。
「あなたの優しさも、飲み過ぎれば、私を弱くする」
「飲ませ過ぎない。お前の喉が求めるぶんだけ、注ぐ」
「難しいバーテンダーね」
「熟練者だ」

 ふ、と笑いが漏れる。その笑いで、固まっていた何かがほどけた。ほどけた糸は風に乗り、夜へ消えていく。

「リュシア」
 また、間。
「怖い時は言え。強いふりをしたい時は、先に宣言しろ。怒りたい時は、対象を指差せ。泣きたい時は、場所を選んでからにしろ。俺はお前の速度に合わせる」

「わかった。あなたは?」
「俺は、うるさくしすぎたら叱れ。黙りすぎたら突け。抱えすぎたら奪え」
「……了解」
 小さく敬礼の真似をする。彼が目だけで笑う。星の帯が背中越しに流れていく。

 遠くで角笛が一声鳴った。城のどこかで交替の合図だろう。私は欄干に頬を寄せ、夜風に髪を撫でさせる。黒薔薇が耳元でかすかに鳴った。花が鳴るのだ、と初めて知る。きゅん、と胸が甘くなる。

「アメリアは、必ず助ける」
 私の言葉に、ヴァルトは頷く。
「父と母も。……それから、あの子も」
「聖女か」
「彼女の涙は、本物だった」
「そうだ。だから利用された」
「それを、剥がす」
「ああ」

 決意は、熱ではなく、温度差として骨に沁みた。熱すぎると焦げる。冷たすぎると凍る。今のこれは、筋肉が動ける範囲のぬるさ――じゅうぶんに危険で、じゅうぶんに優しい温度。

「幕が上がる」
 私が呟くと、ヴァルトが首を傾げる。
「第一幕、救出。第二幕、覚悟。……今はちょうど幕間。観客に息をさせる時間」
「観客などいない」
「自分が観客よ。自分の心の」
「ややこしい劇だ」
「そうね。でも――面白い」

 彼は私の額に、今度はさらに短い口づけを落とした。味はしないのに、全身が甘くなる。蜜か、毒か。どちらでもあるのなら、飲み方を覚えればいい。私は舌の上でその感覚を転がし、喉の形を覚えさせる。

「部屋に戻る?」
「もう少し、風に当たる」
「当たれ。風は、お前の輪郭を研ぐ」

 彼は背後に下がり、私を置いていくのではなく、私の背と風のあいだに立った。風の刃から僅かに守る位置。過保護ではなく、配慮。私は肩をすくめ、星の砂をひとつ、舌で受けた気のせいを味わう。

 黒薔薇が、耳元でまた鳴る。
 胸の冷えに灯はともり、喉の霜は溶け、骨に温度が戻る。
 第一の物語は、救出と覚悟で閉じる――そう、私自身の声が内側で言った。ここでいったん幕を引き、楽屋で化粧を直し、衣装を替え、台詞を磨く。次の幕では、もっと深く斬る。もっと正確に踊る。

 夜は長い。
 長い夜は、私の味方だ。
 蜜も毒も、私の匙加減。
 星の風が二人の間を渡り、私はその風に頬を差し出す。冷たさはやがて甘さに変わる。幕間のキスの余韻が、まだ唇の内側で静かに光っていた。
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