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第5話 『王宮崩壊の光翼』
しおりを挟む──許せない。
その言葉は、声にならなかった。
喉の奥までせり上がってきたのに、最後の一押しが足りなくて、空気と一緒に吸い込まれて消えた。
でも、胸の奥では、たしかにそう叫んでいた。
婚約を「国のため」と切り捨てられたことも。
公開の場で辱められたことも。
周りの視線も、笑いも、全部まとめて。
(許せるわけ、ないじゃない……)
それは、子どものわがままなんかじゃなくて。
命綱みたいに細く残っていた自分の誇りが、最後に振り絞った抵抗だった。
その感情が、竜のほうへ真っ直ぐ流れ込んでいくのが分かった。
アークヴァンの金色の瞳が、強く収縮する。
「……そうか」
低い声が、地を這うように響いた。
「主は、“許さない”」
ふっと、空気の温度が変わる。
さっきまで凍えるみたいに冷たかった空気が、今度は逆にじりじりと熱を帯びはじめる。
冬から一気に真夏へワープしたみたいな、皮膚の焼ける感覚。
胸の奥の脈動が、さらに速く、荒くなる。
ドクン、ドクン、ドクン──!
アークヴァンの喉元に、白い輝きがじわじわと集まっていく。
光が、鱗の隙間から漏れ出して、輪郭を曖昧にするほど。
宮廷魔導師が、絶望したように叫んだ。
「に、逃げろ! 竜のブレスだ!!」
その言葉が引き金になった。
王宮中庭に、悲鳴が弾ける。
「きゃあああああっ!!」 「おい、出口はどこだ!」 「や、やめろ! こっちに来るな、押すな!!」
貴族たちが我先にと出口に殺到する。
さっきまで優雅にグラスを傾けていた淑女も、偉そうに笑っていた紳士も、今はただ必死で走る人間にしか見えない。
椅子が倒れ、テーブルがひっくり返り、皿やグラスが割れる音がそこら中で響く。
悲鳴と怒号と、踏みつけられた誰かのうめき声。
地獄絵図、という言葉が一瞬頭をよぎって、エリーナは自分が妙に冷静なのに気づく。
(……ああ、こういうのが、“自業自得”ってやつなのかも)
すっと、そんな黒い感想が胸をよぎった。
アレクシオンは必死に声を張り上げている。
「落ち着け! 順に退避しろ! 押し合うな、怪我人が──!」
叫びながらも、その顔は蒼白だった。
腕の中のセレスを庇いながら、必死に人々を誘導している。
白銀の竜が、その様子を冷たく見下ろした。
「……主を傷つけた者ほど、よく走る」
吐き捨てるような声音。
そこには、軽蔑と憎悪が色濃く滲んでいる。
「アークヴァン……」
エリーナが名前を呼ぶと、竜の金色の瞳がほんの一瞬だけ柔らかさを取り戻した。
「恐れるな、主」
喉元に白炎を溜め込んだまま、アークヴァンは静かに言う。
「我が怒りは、お前には決して向かぬ」
その一言に、エリーナの心臓が少しだけ落ち着く。
怖い。
眼前で暴れようとしているこの力は、正直恐ろしい。
でも、それ以上に──
自分の痛みを代わりに怒ってくれている存在がいることが、不思議な安心を連れてくる。
(わたしのために、こんなふうに怒ってくれる人なんて……いなかったもの)
いつだって、「分かれ」だの「耐えろ」だの「立場を考えろ」だの。
自分の感情よりも、家の名誉と体裁を優先する言葉ばかりだった。
そんな世界で育ってきたからこそ、今目の前で「怒ってくれている」その事実が、胸に刺さる。
「主の涙は、我の逆鱗だ」
アークヴァンの口元から、白い光が漏れた。
それはもう、ちょっとした明かりなんかじゃない。
小さな太陽。
そんな表現が頭に浮かんだ瞬間──
「伏せろおおおおおっ!!」
誰かの叫び声と同時に、世界が真っ白になった。
轟音。
耳が破れるんじゃないかと思うほどの爆音が、頭の中まで直接叩きつけられる。
肺の中の空気が全部吹き飛んで、呼吸が止まる。
アークヴァンの口から放たれたのは、炎というにはあまりにも眩しい“光炎”だった。
真っ白な焔が、渦を巻きながら王宮の大広間へと薙ぎ払われる。
石でできた壁が、紙みたいにねじれ、砕け、吹き飛んだ。
「う、わぁああああっ!!」 「きゃああああああ!!」
悲鳴が、爆風に掻き消される。
エリーナの視界には、崩壊していく景色がスローモーションのように映り込んだ。
かつて何度も舞踏会が開かれた大広間。
豪奢なシャンデリア。
歴代国王の肖像画。
象徴のようにそびえていた白い柱。
それらが、白炎に舐められる。
熱で割れ、粉々になり、爆風に巻き上げられて宙を舞う。
床が、壁が、天井が。
すべて音を立てて崩れ、煙と光の中に消えていく。
「だ、殿下ァァァ!!」 「どこに逃げれば──ギャッ!」
誰かが瓦礫に飲み込まれるのが見えた気がして、エリーナは反射的に目をつぶった。
次の瞬間、自分の身体がふわりと浮く感覚がする。
「っ……!?」
驚いて目を開けると、世界の角度が変わっていた。
さっきまで石畳の上に立っていたはずなのに、今は白銀の大きな爪が、そっと自分の身体を包み込んでいる。
アークヴァンの前足が、まるで壊れ物を扱うみたいに慎重にエリーナを掬い上げていた。
「……え……」
状況についていけない頭が、間抜けな声を漏らす。
竜の前足の内側は、意外なほど滑らかだった。
鱗の縁は硬いのに、その掌にあたる部分だけが、体温を持った柔らかさを秘めている。
熱い。
でも、さっきまで感じていた“焼けるような熱”とは違う。
じんわりと、寒さを追い払う焚き火みたいな温度。
「主」
アークヴァンの声が、頭上から降ってくる。
「しっかり掴まっていろ」
言われるがままに、エリーナはドレスを無視して竜の指にしがみついた。
白銀の爪が、エリーナの身体を傷つけないギリギリのところで包み込んでいる。
爆風が再び吹き荒れる。
空気そのものが殴りつけてくるみたいな衝撃。
周囲の悲鳴が、瓦礫の崩れる音に混ざって、もう何がどうなっているのか分からない。
でも、その渦の中で──
エリーナの体だけは、嘘みたいに安定していた。
まるで、巨大な胸の中に抱きしめられているみたいな感覚。
(……あったかい)
自分でも驚くほど、冷静な感想が頭に浮かんだ。
さっきまで、ここは自分を公開処刑した場所だった。
笑われて、切り捨てられて、世界の端に追いやられた気分でいた。
そんな場所で、今、自分はひとりだけ別の世界にいる。
白銀の竜の掌の中。
爆風も瓦礫も、こちらには一切届かない。
ただ、柔らかな温度と、鼓動だけが伝わってくる。
ドクン、ドクン、と大きな心音。
それが、自分の胸の内側の脈動とぴたりと同期しているのが分かる。
(ああ……)
そこでようやく気づく。
(わたし、守られてるんだ)
誰かに守られる感覚なんて、いつ以来だろう。
幼い頃、熱を出したときに母が額に手を当ててくれた日のこと。
まだ何も知らなかった時期に、アレクシオンが「大丈夫だ」と微笑んでくれた夜のこと。
でも──
それらとは、まるで違う絶対的な安心が、今ここにある。
この掌の中にいる限り、自分は傷つかない。
傷つけさせない、とこの巨大な存在が世界に向かって宣言している。
「エリーナ様ああああっ!!」
遠くからミナの声が聞こえた。
視線を動かすと、少し離れた場所で、半分壊れた柱の陰にミナがしがみついていた。
ドレスの裾は破れ、髪も乱れているが、彼女は必死にエリーナを見上げている。
「生きて……生きていらっしゃるんですね……!」
「ミナ……! 危ないから、そこから離れて!」
アークヴァンの爪の合間から身を乗り出し、エリーナは叫ぶ。
そのとき、頭上で再び光が炸裂した。
バキィィィン──!!
崩れかけていた王宮の壁に、追い打ちをかけるように亀裂が走る。
大広間へ続く大扉が、内側からの衝撃で吹き飛んできた。
「うわあああっ!?」 「屋根が……崩れるぞ!!」
誰かの叫び通り、白い石でできた天井が、耐えきれなくなった糸のように一気にちぎれた。
巨大なシャンデリアごと、天井が落ちてくる。
その真下に──
アレクシオンと、セレスがいた。
「っ──!」
アレクシオンはとっさにセレスを抱き寄せ、床に伏せさせる。
その背中に、直撃しそうな瓦礫の影。
見ているだけで、背筋がぞわりとした。
(このままじゃ……!)
口を開きかけたその瞬間。
世界が、さらに白く染まった。
アークヴァンが、翼を広げたのだ。
光。
その翼は、ただの皮膜と骨ではなかった。
白銀の羽根の間から、純白の光が膨れ上がり、まるで巨大な“盾”のように空間を覆っていく。
天井から落ちてきた瓦礫が、その光の膜にぶつかった。
ドゴォォンッ!!
鈍い衝撃音。
粉塵が舞い上がる。
だが、瓦礫はそこから先には進まなかった。
巨大な石も、鉄の骨組みも、シャンデリアも。
全部、光の翼に支えられていた。
「なっ……!」
アレクシオンが驚愕の声を漏らす。
彼のすぐ頭上で、落ちてくるはずだった石が、ぴたりと宙に止まっている。
光の翼が、その全てを受け止めていた。
「今の……竜が、守ったのか……?」
誰かが震えながら呟く。
アークヴァンは、冷たく言い捨てた。
「主が望んだからだ」
翼の下、爪の中。
エリーナの目から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「アークヴァン……お願い。誰も死なないで……」
さっきまで、「ざまぁ」とか「自業自得」とか黒いことを考えていたくせに。
口から出てきたのは、結局そんな言葉だった。
アークヴァンは、わずかに息を吐く。
「優しすぎる、主」
その声音には、呆れと、愛おしさが混ざっていた。
「だからこそ、守る価値があるのだがな」
翼に溜め込んだ光が、じわじわと弱まっていく。
支えていた瓦礫を、慎重に別の場所へと滑らせるように放す。
崩壊した天井は、もはや原形を留めていなかった。
シャンデリアも、壁も、柱も、全部ぐちゃぐちゃに混ざり合って一つの廃墟になっている。
王宮の大広間は──半壊どころか、ほとんど“終わっていた”。
でも、生きている。
少なくとも、エリーナが視界に捉えている範囲では、誰ひとりとして下敷きにはなっていなかった。
震えながら立ち上がる貴族たち。
泣きじゃくる侍女。
座り込んだまま動けない騎士。
今の光翼がなければ、何人死んでいてもおかしくなかった。
「な、なんてことを……!」
遅れて駆けつけてきた王宮の兵たちや官吏が、廃墟と化した大広間を見て絶句した。
「王宮が……」 「建国以来の大広間が……!」
王家の象徴ともいえる場所。
国の威信そのものだった建物が、たった一度の咆哮と白炎と翼だけで、あっけなくねじ伏せられている。
王国の夜が、決定的に変わった瞬間だった。
“竜は伝説だ”“竜の加護はとっくに失われた”──
そんな呑気な台詞は、もう誰も口にできない。
白銀の巨体が、堂々と王宮の真ん中に座し、
その掌の中にひとりの伯爵令嬢を抱きしめている。
「エリーナ」
アレクシオンがよろよろと立ち上がり、こちらを見上げた。
服は埃まみれで、頬にも擦り傷がついている。
さっきまでの完璧な王太子の姿は、微塵も残っていなかった。
「エリーナ……!」
名前を呼ぶ声には、焦りと安堵が入り混じっている。
その後ろで、セレスが震える手でロザリオを握りしめて祈っていた。
「アレクシオン殿下……神よ、どうか……」
竜の爪の中で、エリーナはアレクシオンを見下ろす形になった。
立場が、完全に逆転していた。
ついさっきまで、彼は自分の人生を握る側で、自分はただ切り捨てられる駒だった。
今は、逆だ。
竜は自分の味方で。
王宮は竜の怒りで半壊して。
人々の視線は、自分と竜へと向かっている。
胸の奥に、得体のしれない感覚が広がった。
優越感、と呼ぶにはあまりにも苦くて。
でも、ざまあみろ、と笑うには、どこか痛すぎて。
(……もう、もとには戻らない)
そんな予感だけは、はっきりしていた。
王宮も。
王国も。
エリーナ自身の人生も。
白銀の竜が、静かに咆哮する。
グォオオオオオオオ──ッ!
その声は、怒りだけじゃない。
宣言だ。
「ここに、竜の主がいる」
「彼女を傷つける者は、許さない」
そう、世界に向かって知らしめる叫びだった。
アストライア王国の夜空に、その声がいつまでも木霊していた。
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