無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……

タマ マコト

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第11話 『聖女セレスの秘密』

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 ロザリオの鎖が、細い指の中でかちゃりと鳴った。

 白い石のはずの珠が、薄暗い部屋の中でかすかに光を弾く。
 その光を見慣れたはずのセレスは、今はまるで見知らぬ刃物を見ているみたいに、強張った顔でそれを握りしめていた。

(……うるさい)

 心臓の音がうるさい。
 ロザリオの音も、外でささやき合う信徒たちの声も。
 全部まとめて、耳の奥でガンガン響く。

「セレス様、こちらに」

 扉の隙間から、若い神官が顔を覗かせた。
 彼の目には、いつもの敬虔な尊敬ではなく、どうしようもない戸惑いと怯えが浮かんでいる。

「上層部がお待ちです」

「……はい」

 セレスは立ち上がった。

 白い修道服の裾が、わずかに揺れる。
 数日前まで“王妃候補の聖女様”と持ち上げられていたその姿は──今はただ、尋問室へ連れていかれる罪人のそれに近い。



 大神殿の奥、滅多に使われない小さな部屋。

 石の冷たさが骨の髄まで染み込んでくるような、無機質な空間だった。

 セレスが通された部屋の中央には、簡素な木の机がひとつ。
 その向かい側に、高位神官が二人と、老齢の司祭がひとり座っていた。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

「セレス」

 老司祭が名を呼ぶ。
 その声には、長年の教え子を呼ぶような優しさと、失望の影が混ざっていた。

「座りなさい」

「……はい、師父様」

 セレスはおとなしく椅子に腰掛ける。
 膝の上で、ロザリオをぎゅっと握り締めた。

 白い珠が、かすかに熱を持っている。

 それは、今まで何度も彼女の祈りを“飾って”きた熱だ。

(……もう、誤魔化せない)

 昨日、白竜が王宮に現れたこと。
 竜の咆哮と光が、王都中をひっくり返したこと。

 それをきっかけに、神殿の内部もまた、ごまかしのきかない状態に引きずり出された。

 “本物”が現れてしまったから。

 白竜。
 竜の主。
 竜魔法。

 その輝きの前では──セレスの光は、あまりにも薄っぺらい。

「セレス」

 老司祭が、静かに口を開いた。

「問う。
 そなたの“聖光”は、本当に主から授かったものか」

 部屋の空気が、ぴん、と張り詰めた。

 セレスの喉が、ひゅっと鳴る。

(来た)

 そう思った瞬間、胃のあたりがぎゅっとつかまれたように痛んだ。

「……わたしは」

 声が震える。

「ずっと、祈って……きました。
 主に、救いを。
 病める者に癒やしを。
 飢える者にパンを……」

「その祈りの真摯さを疑っているわけではない」

 老司祭は、静かに首を振った。

「だが、“光”そのものについて、我らは確かめねばならぬ。
 昨夜、神殿の術師たちが、そなたのロザリオに封じられた魔力を調べた」

 セレスの指先が、びくりと動く。

 握りしめていたロザリオが、汗でじっとりと湿っていた。

「……魔具であることが判明した」

 短い宣告。

 それを聞いた瞬間、セレスの心臓が、どくりと大きく跳ねた。

 やっぱり。
 とうとう、見つかった。

「聖堂で奇跡が起きたとき、いつもそなたはそれを握り締めていた。
 病が癒えた瞬間も、干ばつの村に雨が降ったときも」

 別の高位神官が、冷静に続けた。

「“祈りだけで奇跡を起こした聖女”──そう宣伝してきたのは、この神殿だ」

 その言葉に、セレスの胸がチクリと痛む。

 宣伝。

 たしかに、そうだった。

 自分が望んだからというよりも、神殿が“そうさせた”。

「だが、その奇跡の多くが、“魔具に仕込まれた術式”によるものであったとしたら──」

 高位神官の視線が、鋭くなる。

「それは“聖女の奇跡”ではなく、“魔道具の機能”でしかない」

 セレスは、ぎゅっと唇を噛んだ。

 反論できない。
 する資格も、ない。

 ロザリオの白石──その中心には、小さな魔結晶が埋め込まれている。
 それを握りしめて、特定の言葉を唱えれば、光が溢れ出して小さな治癒や浄化を“演出”してくれる。

 魔力のない者でも扱えるように調整された、廉価な魔具。

 本来なら、地方の小さな祈祷師や巡回治療師が使うような、ささやかな道具。

 それを──

「セレス」

 老司祭の声が、今度は少しだけ震えていた。

「なぜ、黙っていた」

 その問いが、一番痛かった。

 責める声ではない。
 詰る声でもない。

 一人の老人が、一人の少女に向けている、純粋な“悲しみ”の色。

 セレスは、ロザリオを握りしめたまま、視線を落とした。

「……黙って、いたかったわけじゃ……」

 喉が詰まる。
 声がかすれた。

 言い訳なんて、いくらでも思いつく。

 神殿が、周りが、期待したから。
 “聖女”という看板を与えられて、逃げられなくなったから。

 でも──

(一番最初に選んだのは、わたしだった)

 あの日のことを思い出す。

 まだ“聖女候補”なんて呼ばれる前。
 ひとりの少女として生きていた頃。



 セレスの家は、王都の外れにある、ボロボロの長屋だった。

 雨の日には天井から水が垂れ、冬は隙間風が骨まで刺さる。
 柱には、何度も修理した跡がある。

「セレス、パンはもうないの?」

 幼い弟のエミルが、皿の上を覗き込む。

 空っぽの皿に、黒いパン屑が数粒だけ。

「今日は、これで終わり」

 セレスは、湿った布で弟の口元を拭った。

「明日の朝は、昨日のおじさんがくれたスープの残りがあるから。それまで我慢して」

「おなか、ぐーっていってる……」

「わたしも」

 苦笑まじりに、セレスは自分の腹を押さえた。

 父は数年前に病で死んだ。
 母は病弱で、働きに出ることもできない。

 家族を支えるのは、まだ十代になったばかりのセレスの肩。

 洗濯。
 針仕事。
 神殿の掃除の手伝い。

 日雇いで稼げる仕事は何でもやった。

 でも、それでも足りない。

 冬になれば暖炉にくべる薪が尽き、夏になれば井戸の水が濁る。
 そのたびに、誰かが熱を出し、咳をし、痩せていく。

(たすけてください、主よ)

 何度、祈ったか分からない。

 子どもの頃から、祈るのだけは人一倍だった。
それだけが、自分に与えられた唯一の“取り柄”に思えたから。

 けれど──

 どれだけ祈っても、“奇跡”なんて起きなかった。

 パンが突然増えることも、家が立派になることも、母の病が一晩で治ることもなかった。

 現実は、冷たい。

 神は、沈黙している。

「セレス」

 そんな日々の中、彼女の前に現れたのが──神殿の中堅神官、トールだった。

「君、祈りが上手だね」

 笑いながら、言った。

「上手、って……」

 セレスは戸惑った。

「祈りって、そういうものなんですか?」

「そういうものさ」

 トールは肩をすくめた。

「人の心を動かす言葉を選べる。
 その声で、信徒たちの不安を和らげられる。
 それができる人間を、神殿は“聖女候補”と呼ぶんだ」

 軽い口調のわりに、その目は真剣だった。

「君を見ていると、思うんだ。
 “ああ、この子に“奇跡”があったら、どれだけ人が救われるだろう”って」

 セレスは、一瞬だけ息を飲んだ。

 もし、自分に“奇跡”があったら。

 母を治せる。
 弟にご飯を食べさせられる。
 近所の子どもたちが熱で死ぬ前に助けられる。

 ──そんな光景が、頭の中に一瞬だけよぎった。

「……でも、わたしには、なにも」

「“今は”ないだけだ」

 トールは、いたずらっぽく笑った。

「なあ、セレス。
 もし、ちょっとだけズルをして、“最初の一歩”を作れるとしたら──君は、それでも“奇跡”を拒む?」

「ズル……?」

 首をかしげると、トールは懐から小さな布包みを取り出した。

 中から出てきたのは、今、セレスの手の中にあるものとよく似た、白い石のロザリオ。

「これ、“魔具”だよ」

「魔具……」

 貧民街でも噂くらいは聞いたことがある。

 お金持ちが使う便利な道具。
 火を起こしたり、水を浄化したりするもの。

「でも、これはちょっと変わっててね」

 トールは、ロザリオを指でくるくる回した。

「“祈りに反応して光る”ように作られてる。
 簡単な治療と浄化もおまけでついてくる。
 ついこの前まで、地方の小さな礼拝所で使われてたらしいんだけど──」

「“魔具なんかに頼るな”って神官に怒鳴られたんだってさ」

 皮肉な笑い。

 セレスの胸が、ちくりと痛んだ。

「じゃあ、それは……」

「ああ。
 君みたいな子のところに来るために、神殿の倉庫で眠ってたってわけだ」

 トールは、ロザリオをセレスの手に乗せた。

 冷たい石の感触。
 でも、その中心には、かすかな温もりがあった。

「試してみる?」

「……わたしなんかが、そんな」

「“聖女の候補として試す”って言えば、話は変わる」

 トールは、軽く肩を叩いた。

「これで小さな奇跡が起きたら、神殿は君に注目する。
 信徒たちも、君を信じる。
 君の家族だって、“聖女の家族”として支援を受けられる」

「家族……」

 その単語が、胸のどこかを深く刺した。

 母の咳。
 弟の痩せた腕。
 冬になると膝を抱えて震えていた、自分の姿。

「……わたしが、“聖女”になれたら」

 かすれた声で、セレスは呟いた。

「お母さんも、弟も、助かる?」

「全部は無理でも、“今よりはマシになる”保証はしよう」

 トールは、にやりと笑う。

「それに──」

 少しだけ声を潜めた。

「神殿だって、“奇跡の聖女”がいれば助かるんだ。
 世の中、不安だらけだからね。
 分かりやすい希望が、どうしても必要なんだよ」

 分かりやすい、希望。

 それは、セレス自身が一番欲しかったものだった。

 だから──そのとき、セレスは聞かなかった。

 「これは、本当に主の望むことなのか」とか。
 「ズルの始まりが、いつか取り返しのつかない嘘になるのではないか」とか。

 聞いてしまったら、手が伸ばせなくなるから。

 貧しさと絶望の中で、それでも家族を救いたいと願った少女には、そんな余裕はなかった。

『わたしが、“聖女になれたら”──』

 その一言で、ロザリオは、彼女の手に渡った。



 今、そのロザリオが、尋問室の机の上に置かれている。

 高位神官のひとりが、それを慎重に持ち上げ、光に透かした。

「これを誰から受け取った」

 冷たい問い。

 セレスは、唇を噛んだ。

 トールの名を出せば、彼もただでは済まない。
 神殿から追放されるどころか、罪に問われるだろう。

 それでも──隠し通せるほど、彼女は賢くなかった。

「……神殿の、トール神官です」

 かすれた声で名を告げると、部屋の空気がぴりっと緊張した。

「やはりか」

 老司祭が、目を伏せた。

「彼は以前から、“現実的すぎる”物言いが多かった。
 “奇跡を作る努力も必要だ”と、そう言い続けていた」

 高位神官が、机を軽く叩く。

「トール神官の処遇は、別途協議する。
 だがセレス──」

 彼の視線が、ぐっと鋭くなる。

「そなた自身、ロザリオが“魔具”であることを知っていたな?」

「……はい」

 嘘はつけなかった。

「知っていて、なお“聖女”として振る舞った」

「でも……」

 セレスは、必死に言葉を探した。

「本当に……病気は癒えたんです。
 村に雨も降った。
 わたしの祈りが、無駄だったわけじゃなくて……」

「“魔具の力を媒介にした”からこそ、だろう?」

 高位神官の声は冷たい。

「それを、“神の奇跡”として利用したのは誰だ」

「……利用、なんて」

「王宮だ」

 もうひとりの高位神官が、静かに言った。

「そして、王太子殿下だ」

 セレスの背筋が、ぴくりと震えた。

 アレクシオン。

 その名前だけで、胸の奥がざわつく。

「彼は、“聖女の奇跡”を求めた。
 民心を安定させるために。
 “無魔力の令嬢より、奇跡を起こす聖女のほうが王妃として相応しい”と」

 セレスは、唇を噛み締めた。

(アレクシオン殿下……)

 あの日。

 王宮に初めて招かれた日のことを思い出す。



 煌びやかな大広間。

 白い柱。
 金の装飾。
 高い天井からぶら下がるシャンデリア。

 貧民街で育ったセレスにとって、それはまるで別世界だった。

「緊張しているね」

 優しい声がした。

 顔を上げると、そこには金髪の青年──アレクシオンがいた。

 整った顔立ち。
 優雅な立ち振る舞い。
 でも、その目にはどこか疲れと諦めの影があった。

「……はい。
 こんな場所、初めてなので」

 セレスが正直に答えると、アレクシオンは少しだけ微笑んだ。

「君のほうが、“本物”に近い。
 ここにいる誰よりも」

「本物……?」

「祈りを信じている人間、という意味だよ」

 その言い方が、セレスには新鮮だった。

 神の奇跡を信じている者として、ではなく。
 祈ることそのものを、大切に思っている者として。

「君の光を見た」

 アレクシオンは続けた。

「病床の子どもたちの前で、君が祈ったとき。
 光が溢れて、子どもたちの顔に笑顔が戻っていた」

 セレスの胸が、きゅっと締め付けられる。

(あれは……)

 本当は、ロザリオのせいだ。
 でも、そのとき笑っていたのは、紛れもなく子どもたちだった。

 光を浴びて、「痛くない」と笑っていた。

 それを見ていたアレクシオンの横顔は──本当に、安堵しているように見えた。

「だから、頼みがある」

 アレクシオンは、真剣な顔になった。

「俺の隣に立ってほしい」

 その言葉に、セレスの心臓が跳ねる。

「そ、それは……」

「王妃として。
 アストライア王国の、“聖女王妃”として」

 冗談ではなかった。
 その青い瞳は、本気だった。

「今、この国は不安に満ちている。
 周辺諸国の動き。
 魔物の活性化。
 竜の不在」

 アレクシオンは、少しだけ苦々しい顔をした。

「民は、“分かりやすい希望”を求めている。
 王家だけでは足りない。
 聖女の奇跡が、どうしても必要なんだ」

 そのときのセレスは、彼の言葉に救われた気がした。

 自分の祈りに、意味があると言ってもらえたこと。
 自分の光に、価値があると言ってもらえたこと。

 それが嬉しくて、目の奥が熱くなった。

「……でも」

 かろうじて絞り出した声は、震えていた。

「わたしの光なんて……本物の聖女様みたいに、立派なものじゃ……」

「形から入ってもいい」

 アレクシオンは、あっさりと言った。

「最初は“奇跡の演出”だとしても、民は希望を見る。
 その希望が、やがて本物を引き寄せるかもしれない」

「演出……」

 その単語が、心のどこかをざらつかせた。

 でも、すぐに上書きされていく。

 「民の希望」という大義名分と。
 「家族を救う」という個人的な願いに。

「……エリーナ様のことは」

 ふと、セレスは聞いてしまった。

「カルヴェルト伯爵家の令嬢は……殿下の婚約者なのでは?」

 アレクシオンの表情に、ほんの一瞬だけ影が走った。

「ああ。エリーナ」

 名前を呼ぶその声には、複雑な色があった。

「彼女は、良い娘だ」

 素直にそう言った。

「聡明で、礼儀正しくて、誇り高い。
 王妃に必要な多くの資質を持っている」

 一瞬、胸がきゅっとなった。

(だったら、どうして──)

 喉まで出かかった言葉を、セレスは飲み込む。

 アレクシオンは、その続きに違う言葉を乗せた。

「だが、魔力がない」

 はっきりと、言った。

「この国の“竜の伝承”を支えてきた王妃としての役目を、彼女は果たせない」

「……無魔力、だから?」

「民は、見えるものにすがる」

 アレクシオンは、窓の外を見ながら静かに言った。

「“竜の加護”を取り戻したいと願っている。
 その象徴として、“聖女の光”が必要なんだ」

 セレスの胸に、ひどく嫌な感情が芽生えた。

 嫉妬とも、羨望ともつかない、黒いもの。

 自分よりずっと恵まれた家に生まれた娘が、“ひとつ欠けているから”という理由で退けられようとしている。

 それを聞いて、ざまあみろと笑えるほど、セレスは腐っていなかった。
 ただ──
 「選ばれない」彼女以上に、自分は「選ばれたい」と願ってしまった。

 家族を救うために。
 自分自身の存在を、肯定するために。

「君は、祈ることができる」

 アレクシオンは、改めてセレスの正面に立ち、手を差し出してきた。

「その祈りに、少しだけ“魔具の助け”がついてくるかどうかは、たいした問題じゃない」

 その言い方は、甘い毒だった。

「君が“聖女”として見られることに意味がある。
 君の家族も、君自身も、それで救われる」

「……本当に、そう思いますか?」

 セレスは、震える声で問い返した。

「主は、お許しになるでしょうか」

「君の祈りが、誰かを救うなら」

 アレクシオンの青い瞳が、まっすぐ彼女を見つめる。

「俺は、それを“罪”だとは思わない」

 その言葉に、揺れた。

 神殿では、“形だけの信仰”を罪と教えられてきた。
 でも、目の前の王太子は、“結果が誰かを救うなら、形なんて些細なことだ”と言っている。

 どちらが正しいのか、当時のセレスには分からなかった。

 ただ──
 そのときのアレクシオンは、本気でそう信じているように見えた。

「君が、俺の隣に立つことで」

 彼は言った。

「この国は、少しだけマシな場所になる。
 それは、君の望みとも、きっと一致しているはずだ」

 “君の望み”という言葉に、胸が反応した。

 母を救いたい。
 弟を飢えから救いたい。
 貧民街の子どもたちが、「明日」を信じられるようにしたい。

 それが、自分の望みだ。

 だから──セレスは、彼の手を取った。

『わたしで、いいのなら』

 その一言が、彼女自身の“堕落の合図”になっていたことに、その時は気づかなかった。



「アレクシオン殿下に唆されていた、というわけですか」

 尋問室。

 高位神官の問いに、セレスは小さく首を振った。

「“唆された”という言葉は……違うと思います」

 絞り出すように、言葉を続ける。

「殿下は……“民の希望になるために一緒に立ってほしい”と仰いました。
 “魔具の助けを借りることがあっても、祈りの本質が偽物でなければ、それは罪ではない”と」

「結果的に、それを信じてしまったのは、そなた自身だ」

 老司祭の言葉は、優しいけれど容赦がない。

 セレスは、うなだれた。

「……そうです」

 アレクシオンが甘かったのも事実だ。
 神殿がそれを利用したのも事実だ。

 でも、それを選んだのは、自分だ。

 家族を救うために。
 自分を救うために。

 小さなズルから始まった嘘は、いつの間にか“聖女”という大きな看板になって、彼女自身を拘束していった。

「セレス」

 老司祭の声が、少しだけ柔らかくなる。

「そなたの祈りを、我々はずっと見てきた。
 孤児院で子どもたちの頭を撫でる姿も。
 貧しい者に自分のパンを分ける姿も」

 セレスの喉が詰まる。

「それを、“全部嘘だった”とは、誰も思っていない」

 老司祭の目に、かすかな涙が浮かんでいた。

「だが、“聖女”という看板の下で行われた“偽りの奇跡”については、向き合わねばならぬ」

「……はい」

 逃げることは、もうできない。

「神殿としては、暫定的に“聖女としての地位を凍結する”ことになるでしょう」

 高位神官が、淡々と告げる。

「ただし、全てを公にするかどうかは、まだ決まっていません。
 王家の動きも関わってきますからな」

「王家……」

 アレクシオンの顔が、浮かぶ。

 彼も、今頃は――

(竜の主のことで、追い詰められているはず)

 そう思った瞬間、胸の奥に、得体の知れない感情が湧き上がった。

 ざまぁみろ。
 と言い切れない。

 でも、苦い安堵と、惨めな共感がぐちゃぐちゃに混ざった何か。

(結局、わたしたちは同じなのかもしれない)

 民の希望を“演出”しようとして、過ちを犯した。
 “正しさ”と“現実”の間で、都合のいいほうに転がった。

 アレクシオンは王のために。
 自分は家族のために。

 どちらも、清廉な聖人なんかじゃない。

 複雑な悪意と、どうしようもない哀しみが絡まり合って、今の状況を生み出している。

(エリーナ様……)

 彼女の顔が浮かぶ。
 公開の場で婚約破棄され、それでもまっすぐ立っていた少女。

 自分が、その場にいたこと。
 彼の隣に立ち、“新たな王妃”として抱かれていたこと。

「セレス殿」

 高位神官の声が、現実に引き戻す。

「そなたに、最後の確認をする」

 ロザリオを机に置きながら、彼は言った。

「今後、この“魔具”をどうするつもりか」

 セレスは、食い入るようにロザリオを見つめた。

 白い石。
 小さな魔結晶。
 それは、彼女の“罪”の象徴であり、同時に“家族を守った唯一の手段”でもあった。

 母は、少しだけ元気になった。
 妹弟たちも、聖女の家族として支援を受けられるようになった。

 嘘だ。
 でも、その嘘が救った命もある。

 それを、どう扱えばいいのか。

「……師父様」

 セレスは、老司祭のほうを見た。

「もし、わたしが、もう一度やり直せるなら」

 声が震える。

「本物の奇跡なんて起こせないとしても。
 “誰かを救いたい”っていう気持ちだけは、捨てたくないです」

 老司祭の目に、少しだけ光が戻る。

「だから──」

 セレスは、ロザリオに手を伸ばし──そして、そっと引っ込めた。

「これは、“聖女の証”としてではなく、“わたしの罪の印”として、神殿に預けます」

 その言葉に、高位神官たちがかすかに目を見開く。

「今まで、この光を“奇跡”として見てきた人たちに対して、わたしができることは……きっと、祈り続けることだけだと思うから」

 自分の手では、もう光を生まない。
 でも、祈ることはやめない。

 それが、今の自分にできる、唯一の贖いだと思った。

 老司祭は、静かに頷いた。

「……それでよい」

 かすかな微笑み。

「祈りは、誰のものでもない。
 聖女と呼ばれようが、呼ばれまいが、主はその声を聞いておられる」

 その言葉に、セレスの目からぽろりと涙が零れた。

「……師父様」

「泣くな」

 老司祭は、優しく目を細めた。

「泣きながらでもいい。
 それでも、そなたが“誰かのために”祈る限り──私は、そなたを教え子と呼び続ける」

 その一言に、喉が詰まる。

 “聖女”ではなく。
 “教え子”。

 その呼び方が、不思議と救いだった。



 尋問室を出たあと、セレスはひとりで廊下を歩いていた。

 足元がふらふらする。
 さっきまで握りしめていたロザリオが手の中にないことが、妙に心細い。

(……これから、わたしはどうなるんだろう)

 聖女では、なくなる。
 王妃候補でも、なくなる。

 ただの、貧民街出身の娘に戻る。

 家族の支援も、止められるかもしれない。
 そうなれば、またあの頃のように、飢えと寒さが彼らを襲う。

 想像しただけで、吐き気がした。

 でも──
 これ以上、嘘で家族を守り続けることもできない。

 自分の選んだ道が、こういう形で行き止まりになっているのだと、ようやく理解した。

(アレクシオン殿下……)

 最後に、彼の顔が浮かぶ。

 彼は今も、“正しい”と思っているのだろうか。
 “形から入る奇跡”が、誰かを救うと信じた彼は。

 それとも、白竜に真正面から否定されて、何かが折れかけているのだろうか。

(わたしだけが悪いんじゃない。
 殿下だけが悪いんじゃない。
 神殿だけが悪いんじゃない)

 全部、混ざっている。

 貧しさ。
 不安。
 欲望。
 責任。
 期待。

 その全部が絡み合って、今の“偽りの聖女”を作った。

 簡単に誰かひとりを悪役にできるほど、世界は親切じゃない。

(それでも──)

 セレスは、窓の外に広がる空を見上げた。

 青い空。
 遠くに見える、王城の塔。

 そのどこかに、竜の影がいるかもしれない。
 竜に守られるひとりの少女がいるかもしれない。

「エリーナ様……」

 小さく名前を呼ぶ。

 嫉妬も、羨望も、今は少しだけ薄れた。

 代わりに、胸の奥に残っているのは──
 彼女に対する、どうしようもない“申し訳なさ”。

「いつか……謝らなくちゃ」

 自分の立場を奪ったこと。
 彼女の公開処刑に立ち会ってしまったこと。
 王妃の座を奪い取る形になったこと。

 どれも、“わたしは唆されただけ”では済ませられない。

 いつか、竜の主となった彼女と向き合うときが来るだろう。
 そのとき、自分がどう見られるのか、想像するだけで怖かった。

 でも──

(逃げるだけの人生は、もう終わりにしたい)

 小さな嘘から始まった“聖女としての人生”は、ここで終わる。

 これから始まるのは、“セレスとしての人生”だ。

 聖光を偽装した少女。
 家族を救うために罪を重ねた娘。
 王太子に甘い言葉を囁かれ、都合よく利用された“偽物のヒロイン”。

 そんな肩書きを全部抱えたまま──
 それでも、自分の足で立ち直らなきゃいけない。

 複雑な悪意と哀しみを抱えたまま、
 彼女は静かに歩き出した。
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