11 / 20
第11話 『聖女セレスの秘密』
しおりを挟むロザリオの鎖が、細い指の中でかちゃりと鳴った。
白い石のはずの珠が、薄暗い部屋の中でかすかに光を弾く。
その光を見慣れたはずのセレスは、今はまるで見知らぬ刃物を見ているみたいに、強張った顔でそれを握りしめていた。
(……うるさい)
心臓の音がうるさい。
ロザリオの音も、外でささやき合う信徒たちの声も。
全部まとめて、耳の奥でガンガン響く。
「セレス様、こちらに」
扉の隙間から、若い神官が顔を覗かせた。
彼の目には、いつもの敬虔な尊敬ではなく、どうしようもない戸惑いと怯えが浮かんでいる。
「上層部がお待ちです」
「……はい」
セレスは立ち上がった。
白い修道服の裾が、わずかに揺れる。
数日前まで“王妃候補の聖女様”と持ち上げられていたその姿は──今はただ、尋問室へ連れていかれる罪人のそれに近い。
◆
大神殿の奥、滅多に使われない小さな部屋。
石の冷たさが骨の髄まで染み込んでくるような、無機質な空間だった。
セレスが通された部屋の中央には、簡素な木の机がひとつ。
その向かい側に、高位神官が二人と、老齢の司祭がひとり座っていた。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
「セレス」
老司祭が名を呼ぶ。
その声には、長年の教え子を呼ぶような優しさと、失望の影が混ざっていた。
「座りなさい」
「……はい、師父様」
セレスはおとなしく椅子に腰掛ける。
膝の上で、ロザリオをぎゅっと握り締めた。
白い珠が、かすかに熱を持っている。
それは、今まで何度も彼女の祈りを“飾って”きた熱だ。
(……もう、誤魔化せない)
昨日、白竜が王宮に現れたこと。
竜の咆哮と光が、王都中をひっくり返したこと。
それをきっかけに、神殿の内部もまた、ごまかしのきかない状態に引きずり出された。
“本物”が現れてしまったから。
白竜。
竜の主。
竜魔法。
その輝きの前では──セレスの光は、あまりにも薄っぺらい。
「セレス」
老司祭が、静かに口を開いた。
「問う。
そなたの“聖光”は、本当に主から授かったものか」
部屋の空気が、ぴん、と張り詰めた。
セレスの喉が、ひゅっと鳴る。
(来た)
そう思った瞬間、胃のあたりがぎゅっとつかまれたように痛んだ。
「……わたしは」
声が震える。
「ずっと、祈って……きました。
主に、救いを。
病める者に癒やしを。
飢える者にパンを……」
「その祈りの真摯さを疑っているわけではない」
老司祭は、静かに首を振った。
「だが、“光”そのものについて、我らは確かめねばならぬ。
昨夜、神殿の術師たちが、そなたのロザリオに封じられた魔力を調べた」
セレスの指先が、びくりと動く。
握りしめていたロザリオが、汗でじっとりと湿っていた。
「……魔具であることが判明した」
短い宣告。
それを聞いた瞬間、セレスの心臓が、どくりと大きく跳ねた。
やっぱり。
とうとう、見つかった。
「聖堂で奇跡が起きたとき、いつもそなたはそれを握り締めていた。
病が癒えた瞬間も、干ばつの村に雨が降ったときも」
別の高位神官が、冷静に続けた。
「“祈りだけで奇跡を起こした聖女”──そう宣伝してきたのは、この神殿だ」
その言葉に、セレスの胸がチクリと痛む。
宣伝。
たしかに、そうだった。
自分が望んだからというよりも、神殿が“そうさせた”。
「だが、その奇跡の多くが、“魔具に仕込まれた術式”によるものであったとしたら──」
高位神官の視線が、鋭くなる。
「それは“聖女の奇跡”ではなく、“魔道具の機能”でしかない」
セレスは、ぎゅっと唇を噛んだ。
反論できない。
する資格も、ない。
ロザリオの白石──その中心には、小さな魔結晶が埋め込まれている。
それを握りしめて、特定の言葉を唱えれば、光が溢れ出して小さな治癒や浄化を“演出”してくれる。
魔力のない者でも扱えるように調整された、廉価な魔具。
本来なら、地方の小さな祈祷師や巡回治療師が使うような、ささやかな道具。
それを──
「セレス」
老司祭の声が、今度は少しだけ震えていた。
「なぜ、黙っていた」
その問いが、一番痛かった。
責める声ではない。
詰る声でもない。
一人の老人が、一人の少女に向けている、純粋な“悲しみ”の色。
セレスは、ロザリオを握りしめたまま、視線を落とした。
「……黙って、いたかったわけじゃ……」
喉が詰まる。
声がかすれた。
言い訳なんて、いくらでも思いつく。
神殿が、周りが、期待したから。
“聖女”という看板を与えられて、逃げられなくなったから。
でも──
(一番最初に選んだのは、わたしだった)
あの日のことを思い出す。
まだ“聖女候補”なんて呼ばれる前。
ひとりの少女として生きていた頃。
◆
セレスの家は、王都の外れにある、ボロボロの長屋だった。
雨の日には天井から水が垂れ、冬は隙間風が骨まで刺さる。
柱には、何度も修理した跡がある。
「セレス、パンはもうないの?」
幼い弟のエミルが、皿の上を覗き込む。
空っぽの皿に、黒いパン屑が数粒だけ。
「今日は、これで終わり」
セレスは、湿った布で弟の口元を拭った。
「明日の朝は、昨日のおじさんがくれたスープの残りがあるから。それまで我慢して」
「おなか、ぐーっていってる……」
「わたしも」
苦笑まじりに、セレスは自分の腹を押さえた。
父は数年前に病で死んだ。
母は病弱で、働きに出ることもできない。
家族を支えるのは、まだ十代になったばかりのセレスの肩。
洗濯。
針仕事。
神殿の掃除の手伝い。
日雇いで稼げる仕事は何でもやった。
でも、それでも足りない。
冬になれば暖炉にくべる薪が尽き、夏になれば井戸の水が濁る。
そのたびに、誰かが熱を出し、咳をし、痩せていく。
(たすけてください、主よ)
何度、祈ったか分からない。
子どもの頃から、祈るのだけは人一倍だった。
それだけが、自分に与えられた唯一の“取り柄”に思えたから。
けれど──
どれだけ祈っても、“奇跡”なんて起きなかった。
パンが突然増えることも、家が立派になることも、母の病が一晩で治ることもなかった。
現実は、冷たい。
神は、沈黙している。
「セレス」
そんな日々の中、彼女の前に現れたのが──神殿の中堅神官、トールだった。
「君、祈りが上手だね」
笑いながら、言った。
「上手、って……」
セレスは戸惑った。
「祈りって、そういうものなんですか?」
「そういうものさ」
トールは肩をすくめた。
「人の心を動かす言葉を選べる。
その声で、信徒たちの不安を和らげられる。
それができる人間を、神殿は“聖女候補”と呼ぶんだ」
軽い口調のわりに、その目は真剣だった。
「君を見ていると、思うんだ。
“ああ、この子に“奇跡”があったら、どれだけ人が救われるだろう”って」
セレスは、一瞬だけ息を飲んだ。
もし、自分に“奇跡”があったら。
母を治せる。
弟にご飯を食べさせられる。
近所の子どもたちが熱で死ぬ前に助けられる。
──そんな光景が、頭の中に一瞬だけよぎった。
「……でも、わたしには、なにも」
「“今は”ないだけだ」
トールは、いたずらっぽく笑った。
「なあ、セレス。
もし、ちょっとだけズルをして、“最初の一歩”を作れるとしたら──君は、それでも“奇跡”を拒む?」
「ズル……?」
首をかしげると、トールは懐から小さな布包みを取り出した。
中から出てきたのは、今、セレスの手の中にあるものとよく似た、白い石のロザリオ。
「これ、“魔具”だよ」
「魔具……」
貧民街でも噂くらいは聞いたことがある。
お金持ちが使う便利な道具。
火を起こしたり、水を浄化したりするもの。
「でも、これはちょっと変わっててね」
トールは、ロザリオを指でくるくる回した。
「“祈りに反応して光る”ように作られてる。
簡単な治療と浄化もおまけでついてくる。
ついこの前まで、地方の小さな礼拝所で使われてたらしいんだけど──」
「“魔具なんかに頼るな”って神官に怒鳴られたんだってさ」
皮肉な笑い。
セレスの胸が、ちくりと痛んだ。
「じゃあ、それは……」
「ああ。
君みたいな子のところに来るために、神殿の倉庫で眠ってたってわけだ」
トールは、ロザリオをセレスの手に乗せた。
冷たい石の感触。
でも、その中心には、かすかな温もりがあった。
「試してみる?」
「……わたしなんかが、そんな」
「“聖女の候補として試す”って言えば、話は変わる」
トールは、軽く肩を叩いた。
「これで小さな奇跡が起きたら、神殿は君に注目する。
信徒たちも、君を信じる。
君の家族だって、“聖女の家族”として支援を受けられる」
「家族……」
その単語が、胸のどこかを深く刺した。
母の咳。
弟の痩せた腕。
冬になると膝を抱えて震えていた、自分の姿。
「……わたしが、“聖女”になれたら」
かすれた声で、セレスは呟いた。
「お母さんも、弟も、助かる?」
「全部は無理でも、“今よりはマシになる”保証はしよう」
トールは、にやりと笑う。
「それに──」
少しだけ声を潜めた。
「神殿だって、“奇跡の聖女”がいれば助かるんだ。
世の中、不安だらけだからね。
分かりやすい希望が、どうしても必要なんだよ」
分かりやすい、希望。
それは、セレス自身が一番欲しかったものだった。
だから──そのとき、セレスは聞かなかった。
「これは、本当に主の望むことなのか」とか。
「ズルの始まりが、いつか取り返しのつかない嘘になるのではないか」とか。
聞いてしまったら、手が伸ばせなくなるから。
貧しさと絶望の中で、それでも家族を救いたいと願った少女には、そんな余裕はなかった。
『わたしが、“聖女になれたら”──』
その一言で、ロザリオは、彼女の手に渡った。
◆
今、そのロザリオが、尋問室の机の上に置かれている。
高位神官のひとりが、それを慎重に持ち上げ、光に透かした。
「これを誰から受け取った」
冷たい問い。
セレスは、唇を噛んだ。
トールの名を出せば、彼もただでは済まない。
神殿から追放されるどころか、罪に問われるだろう。
それでも──隠し通せるほど、彼女は賢くなかった。
「……神殿の、トール神官です」
かすれた声で名を告げると、部屋の空気がぴりっと緊張した。
「やはりか」
老司祭が、目を伏せた。
「彼は以前から、“現実的すぎる”物言いが多かった。
“奇跡を作る努力も必要だ”と、そう言い続けていた」
高位神官が、机を軽く叩く。
「トール神官の処遇は、別途協議する。
だがセレス──」
彼の視線が、ぐっと鋭くなる。
「そなた自身、ロザリオが“魔具”であることを知っていたな?」
「……はい」
嘘はつけなかった。
「知っていて、なお“聖女”として振る舞った」
「でも……」
セレスは、必死に言葉を探した。
「本当に……病気は癒えたんです。
村に雨も降った。
わたしの祈りが、無駄だったわけじゃなくて……」
「“魔具の力を媒介にした”からこそ、だろう?」
高位神官の声は冷たい。
「それを、“神の奇跡”として利用したのは誰だ」
「……利用、なんて」
「王宮だ」
もうひとりの高位神官が、静かに言った。
「そして、王太子殿下だ」
セレスの背筋が、ぴくりと震えた。
アレクシオン。
その名前だけで、胸の奥がざわつく。
「彼は、“聖女の奇跡”を求めた。
民心を安定させるために。
“無魔力の令嬢より、奇跡を起こす聖女のほうが王妃として相応しい”と」
セレスは、唇を噛み締めた。
(アレクシオン殿下……)
あの日。
王宮に初めて招かれた日のことを思い出す。
◆
煌びやかな大広間。
白い柱。
金の装飾。
高い天井からぶら下がるシャンデリア。
貧民街で育ったセレスにとって、それはまるで別世界だった。
「緊張しているね」
優しい声がした。
顔を上げると、そこには金髪の青年──アレクシオンがいた。
整った顔立ち。
優雅な立ち振る舞い。
でも、その目にはどこか疲れと諦めの影があった。
「……はい。
こんな場所、初めてなので」
セレスが正直に答えると、アレクシオンは少しだけ微笑んだ。
「君のほうが、“本物”に近い。
ここにいる誰よりも」
「本物……?」
「祈りを信じている人間、という意味だよ」
その言い方が、セレスには新鮮だった。
神の奇跡を信じている者として、ではなく。
祈ることそのものを、大切に思っている者として。
「君の光を見た」
アレクシオンは続けた。
「病床の子どもたちの前で、君が祈ったとき。
光が溢れて、子どもたちの顔に笑顔が戻っていた」
セレスの胸が、きゅっと締め付けられる。
(あれは……)
本当は、ロザリオのせいだ。
でも、そのとき笑っていたのは、紛れもなく子どもたちだった。
光を浴びて、「痛くない」と笑っていた。
それを見ていたアレクシオンの横顔は──本当に、安堵しているように見えた。
「だから、頼みがある」
アレクシオンは、真剣な顔になった。
「俺の隣に立ってほしい」
その言葉に、セレスの心臓が跳ねる。
「そ、それは……」
「王妃として。
アストライア王国の、“聖女王妃”として」
冗談ではなかった。
その青い瞳は、本気だった。
「今、この国は不安に満ちている。
周辺諸国の動き。
魔物の活性化。
竜の不在」
アレクシオンは、少しだけ苦々しい顔をした。
「民は、“分かりやすい希望”を求めている。
王家だけでは足りない。
聖女の奇跡が、どうしても必要なんだ」
そのときのセレスは、彼の言葉に救われた気がした。
自分の祈りに、意味があると言ってもらえたこと。
自分の光に、価値があると言ってもらえたこと。
それが嬉しくて、目の奥が熱くなった。
「……でも」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「わたしの光なんて……本物の聖女様みたいに、立派なものじゃ……」
「形から入ってもいい」
アレクシオンは、あっさりと言った。
「最初は“奇跡の演出”だとしても、民は希望を見る。
その希望が、やがて本物を引き寄せるかもしれない」
「演出……」
その単語が、心のどこかをざらつかせた。
でも、すぐに上書きされていく。
「民の希望」という大義名分と。
「家族を救う」という個人的な願いに。
「……エリーナ様のことは」
ふと、セレスは聞いてしまった。
「カルヴェルト伯爵家の令嬢は……殿下の婚約者なのでは?」
アレクシオンの表情に、ほんの一瞬だけ影が走った。
「ああ。エリーナ」
名前を呼ぶその声には、複雑な色があった。
「彼女は、良い娘だ」
素直にそう言った。
「聡明で、礼儀正しくて、誇り高い。
王妃に必要な多くの資質を持っている」
一瞬、胸がきゅっとなった。
(だったら、どうして──)
喉まで出かかった言葉を、セレスは飲み込む。
アレクシオンは、その続きに違う言葉を乗せた。
「だが、魔力がない」
はっきりと、言った。
「この国の“竜の伝承”を支えてきた王妃としての役目を、彼女は果たせない」
「……無魔力、だから?」
「民は、見えるものにすがる」
アレクシオンは、窓の外を見ながら静かに言った。
「“竜の加護”を取り戻したいと願っている。
その象徴として、“聖女の光”が必要なんだ」
セレスの胸に、ひどく嫌な感情が芽生えた。
嫉妬とも、羨望ともつかない、黒いもの。
自分よりずっと恵まれた家に生まれた娘が、“ひとつ欠けているから”という理由で退けられようとしている。
それを聞いて、ざまあみろと笑えるほど、セレスは腐っていなかった。
ただ──
「選ばれない」彼女以上に、自分は「選ばれたい」と願ってしまった。
家族を救うために。
自分自身の存在を、肯定するために。
「君は、祈ることができる」
アレクシオンは、改めてセレスの正面に立ち、手を差し出してきた。
「その祈りに、少しだけ“魔具の助け”がついてくるかどうかは、たいした問題じゃない」
その言い方は、甘い毒だった。
「君が“聖女”として見られることに意味がある。
君の家族も、君自身も、それで救われる」
「……本当に、そう思いますか?」
セレスは、震える声で問い返した。
「主は、お許しになるでしょうか」
「君の祈りが、誰かを救うなら」
アレクシオンの青い瞳が、まっすぐ彼女を見つめる。
「俺は、それを“罪”だとは思わない」
その言葉に、揺れた。
神殿では、“形だけの信仰”を罪と教えられてきた。
でも、目の前の王太子は、“結果が誰かを救うなら、形なんて些細なことだ”と言っている。
どちらが正しいのか、当時のセレスには分からなかった。
ただ──
そのときのアレクシオンは、本気でそう信じているように見えた。
「君が、俺の隣に立つことで」
彼は言った。
「この国は、少しだけマシな場所になる。
それは、君の望みとも、きっと一致しているはずだ」
“君の望み”という言葉に、胸が反応した。
母を救いたい。
弟を飢えから救いたい。
貧民街の子どもたちが、「明日」を信じられるようにしたい。
それが、自分の望みだ。
だから──セレスは、彼の手を取った。
『わたしで、いいのなら』
その一言が、彼女自身の“堕落の合図”になっていたことに、その時は気づかなかった。
◆
「アレクシオン殿下に唆されていた、というわけですか」
尋問室。
高位神官の問いに、セレスは小さく首を振った。
「“唆された”という言葉は……違うと思います」
絞り出すように、言葉を続ける。
「殿下は……“民の希望になるために一緒に立ってほしい”と仰いました。
“魔具の助けを借りることがあっても、祈りの本質が偽物でなければ、それは罪ではない”と」
「結果的に、それを信じてしまったのは、そなた自身だ」
老司祭の言葉は、優しいけれど容赦がない。
セレスは、うなだれた。
「……そうです」
アレクシオンが甘かったのも事実だ。
神殿がそれを利用したのも事実だ。
でも、それを選んだのは、自分だ。
家族を救うために。
自分を救うために。
小さなズルから始まった嘘は、いつの間にか“聖女”という大きな看板になって、彼女自身を拘束していった。
「セレス」
老司祭の声が、少しだけ柔らかくなる。
「そなたの祈りを、我々はずっと見てきた。
孤児院で子どもたちの頭を撫でる姿も。
貧しい者に自分のパンを分ける姿も」
セレスの喉が詰まる。
「それを、“全部嘘だった”とは、誰も思っていない」
老司祭の目に、かすかな涙が浮かんでいた。
「だが、“聖女”という看板の下で行われた“偽りの奇跡”については、向き合わねばならぬ」
「……はい」
逃げることは、もうできない。
「神殿としては、暫定的に“聖女としての地位を凍結する”ことになるでしょう」
高位神官が、淡々と告げる。
「ただし、全てを公にするかどうかは、まだ決まっていません。
王家の動きも関わってきますからな」
「王家……」
アレクシオンの顔が、浮かぶ。
彼も、今頃は――
(竜の主のことで、追い詰められているはず)
そう思った瞬間、胸の奥に、得体の知れない感情が湧き上がった。
ざまぁみろ。
と言い切れない。
でも、苦い安堵と、惨めな共感がぐちゃぐちゃに混ざった何か。
(結局、わたしたちは同じなのかもしれない)
民の希望を“演出”しようとして、過ちを犯した。
“正しさ”と“現実”の間で、都合のいいほうに転がった。
アレクシオンは王のために。
自分は家族のために。
どちらも、清廉な聖人なんかじゃない。
複雑な悪意と、どうしようもない哀しみが絡まり合って、今の状況を生み出している。
(エリーナ様……)
彼女の顔が浮かぶ。
公開の場で婚約破棄され、それでもまっすぐ立っていた少女。
自分が、その場にいたこと。
彼の隣に立ち、“新たな王妃”として抱かれていたこと。
「セレス殿」
高位神官の声が、現実に引き戻す。
「そなたに、最後の確認をする」
ロザリオを机に置きながら、彼は言った。
「今後、この“魔具”をどうするつもりか」
セレスは、食い入るようにロザリオを見つめた。
白い石。
小さな魔結晶。
それは、彼女の“罪”の象徴であり、同時に“家族を守った唯一の手段”でもあった。
母は、少しだけ元気になった。
妹弟たちも、聖女の家族として支援を受けられるようになった。
嘘だ。
でも、その嘘が救った命もある。
それを、どう扱えばいいのか。
「……師父様」
セレスは、老司祭のほうを見た。
「もし、わたしが、もう一度やり直せるなら」
声が震える。
「本物の奇跡なんて起こせないとしても。
“誰かを救いたい”っていう気持ちだけは、捨てたくないです」
老司祭の目に、少しだけ光が戻る。
「だから──」
セレスは、ロザリオに手を伸ばし──そして、そっと引っ込めた。
「これは、“聖女の証”としてではなく、“わたしの罪の印”として、神殿に預けます」
その言葉に、高位神官たちがかすかに目を見開く。
「今まで、この光を“奇跡”として見てきた人たちに対して、わたしができることは……きっと、祈り続けることだけだと思うから」
自分の手では、もう光を生まない。
でも、祈ることはやめない。
それが、今の自分にできる、唯一の贖いだと思った。
老司祭は、静かに頷いた。
「……それでよい」
かすかな微笑み。
「祈りは、誰のものでもない。
聖女と呼ばれようが、呼ばれまいが、主はその声を聞いておられる」
その言葉に、セレスの目からぽろりと涙が零れた。
「……師父様」
「泣くな」
老司祭は、優しく目を細めた。
「泣きながらでもいい。
それでも、そなたが“誰かのために”祈る限り──私は、そなたを教え子と呼び続ける」
その一言に、喉が詰まる。
“聖女”ではなく。
“教え子”。
その呼び方が、不思議と救いだった。
◆
尋問室を出たあと、セレスはひとりで廊下を歩いていた。
足元がふらふらする。
さっきまで握りしめていたロザリオが手の中にないことが、妙に心細い。
(……これから、わたしはどうなるんだろう)
聖女では、なくなる。
王妃候補でも、なくなる。
ただの、貧民街出身の娘に戻る。
家族の支援も、止められるかもしれない。
そうなれば、またあの頃のように、飢えと寒さが彼らを襲う。
想像しただけで、吐き気がした。
でも──
これ以上、嘘で家族を守り続けることもできない。
自分の選んだ道が、こういう形で行き止まりになっているのだと、ようやく理解した。
(アレクシオン殿下……)
最後に、彼の顔が浮かぶ。
彼は今も、“正しい”と思っているのだろうか。
“形から入る奇跡”が、誰かを救うと信じた彼は。
それとも、白竜に真正面から否定されて、何かが折れかけているのだろうか。
(わたしだけが悪いんじゃない。
殿下だけが悪いんじゃない。
神殿だけが悪いんじゃない)
全部、混ざっている。
貧しさ。
不安。
欲望。
責任。
期待。
その全部が絡み合って、今の“偽りの聖女”を作った。
簡単に誰かひとりを悪役にできるほど、世界は親切じゃない。
(それでも──)
セレスは、窓の外に広がる空を見上げた。
青い空。
遠くに見える、王城の塔。
そのどこかに、竜の影がいるかもしれない。
竜に守られるひとりの少女がいるかもしれない。
「エリーナ様……」
小さく名前を呼ぶ。
嫉妬も、羨望も、今は少しだけ薄れた。
代わりに、胸の奥に残っているのは──
彼女に対する、どうしようもない“申し訳なさ”。
「いつか……謝らなくちゃ」
自分の立場を奪ったこと。
彼女の公開処刑に立ち会ってしまったこと。
王妃の座を奪い取る形になったこと。
どれも、“わたしは唆されただけ”では済ませられない。
いつか、竜の主となった彼女と向き合うときが来るだろう。
そのとき、自分がどう見られるのか、想像するだけで怖かった。
でも──
(逃げるだけの人生は、もう終わりにしたい)
小さな嘘から始まった“聖女としての人生”は、ここで終わる。
これから始まるのは、“セレスとしての人生”だ。
聖光を偽装した少女。
家族を救うために罪を重ねた娘。
王太子に甘い言葉を囁かれ、都合よく利用された“偽物のヒロイン”。
そんな肩書きを全部抱えたまま──
それでも、自分の足で立ち直らなきゃいけない。
複雑な悪意と哀しみを抱えたまま、
彼女は静かに歩き出した。
155
あなたにおすすめの小説
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい
神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。
嘘でしょう。
その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。
そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。
「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」
もう誰かが護ってくれるなんて思わない。
ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。
だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
【完結】王妃はもうここにいられません
なか
恋愛
「受け入れろ、ラツィア。側妃となって僕をこれからも支えてくれればいいだろう?」
長年王妃として支え続け、貴方の立場を守ってきた。
だけど国王であり、私の伴侶であるクドスは、私ではない女性を王妃とする。
私––ラツィアは、貴方を心から愛していた。
だからずっと、支えてきたのだ。
貴方に被せられた汚名も、寝る間も惜しんで捧げてきた苦労も全て無視をして……
もう振り向いてくれない貴方のため、人生を捧げていたのに。
「君は王妃に相応しくはない」と一蹴して、貴方は私を捨てる。
胸を穿つ悲しみ、耐え切れぬ悔しさ。
周囲の貴族は私を嘲笑している中で……私は思い出す。
自らの前世と、感覚を。
「うそでしょ…………」
取り戻した感覚が、全力でクドスを拒否する。
ある強烈な苦痛が……前世の感覚によって感じるのだ。
「むしろ、廃妃にしてください!」
長年の愛さえ潰えて、耐え切れず、そう言ってしまう程に…………
◇◇◇
強く、前世の知識を活かして成り上がっていく女性の物語です。
ぜひ読んでくださると嬉しいです!
はっきり言ってカケラも興味はございません
みおな
恋愛
私の婚約者様は、王女殿下の騎士をしている。
病弱でお美しい王女殿下に常に付き従い、婚約者としての交流も、マトモにしたことがない。
まぁ、好きになさればよろしいわ。
私には関係ないことですから。
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
だから聖女はいなくなった
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」
レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。
彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。
だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。
キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。
※7万字程度の中編です。
【完結】真の聖女だった私は死にました。あなたたちのせいですよ?
時
恋愛
聖女として国のために尽くしてきたフローラ。
しかしその力を妬むカリアによって聖女の座を奪われ、顔に傷をつけられたあげく、さらには聖女を騙った罪で追放、彼女を称えていたはずの王太子からは婚約破棄を突きつけられてしまう。
追放が正式に決まった日、絶望した彼女はふたりの目の前で死ぬことを選んだ。
フローラの亡骸は水葬されるが、奇跡的に一命を取り留めていた彼女は船に乗っていた他国の騎士団長に拾われる。
ラピスと名乗った青年はフローラを気に入って自分の屋敷に居候させる。
記憶喪失と顔の傷を抱えながらも前向きに生きるフローラを周りは愛し、やがてその愛情に応えるように彼女のほんとうの力が目覚めて……。
一方、真の聖女がいなくなった国は滅びへと向かっていた──
※小説家になろうにも投稿しています
いいねやエール嬉しいです!ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる