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第16話 決戦前夜、風の上でようやく自分の人生を見つめる
しおりを挟む王都の夜は、壊れかけた楽器みたいな音をしていた。
本来なら夜会の音楽や馬車の車輪や酔客の笑い声が遠くに混ざる時間なのに、今夜の王都には別の音ばかりが満ちている。避難を急ぐ人々の足音。泣き声を抑えようとして抑えきれない母親の息。荷車の軋み。兵士たちの怒鳴り声。どこかで崩れた石の落ちる鈍い音。結界の明滅に合わせて、空気そのものがきしむみたいな、不快で低い唸り。
見上げれば空は暗いのに、暗闇が綺麗じゃない。王都を覆う星律結界はもう均一な光の膜ではなく、ひび割れた氷の裏から青白い稲妻が走っているみたいに、ところどころ脈打ちながら揺れていた。
その夜、リリアは一人で結界塔の頂に立っていた。
王都中央にある中枢結界塔。黒い石で組まれた塔は、地上から見れば細く鋭く空を突き刺しているが、その頂は意外なほど静かだった。風が強い。裾を引く。銀の髪を容赦なく巻き上げる。でも、その冷たさが今はちょうどよかった。
ここに立つと、王都の大半が見える。
避難誘導の灯。
所々で立ち上る小さな火。
兵の持つ魔導灯の列。
城門へ向かって流れる人の帯。
いつか眩しいほど整って見えた街並みが、今は不安と疲労の色に沈んでいる。
「綺麗な国だったのに」
ぽつりとこぼす。
綺麗だった、というのはたぶん嘘ではない。大理石の城壁も、四季の花で彩られた大通りも、星灯祭の夜に結界が淡く輝く風景も、あの頃のリリアにはたしかに綺麗に見えていた。
でも、その綺麗さの下にはずっと、見たくないものが埋まっていたのだろう。
娘を部品として差し出す家。
価値を魔力で測る王家。
誰かが黙って沈んでいることで成り立つ平穏。
そして、その全部の上にかぶせられた、きらきらした王都の夜。
風が強く吹く。
リリアは塔の縁に手を置いた。石は冷たく、少しだけ湿っていた。地上では黒蝕孔の脈動に合わせて、まだ細かな地脈震動が続いているのだろう。その揺れは、人の足では分からなくても、今のリリアには皮膚の下へじわじわ伝わってくる。
決戦は明日だ。
最終封印術式の実行準備は整いつつある。帝国側と王国側の術師は互いにぎりぎりのところで協力し、結界塔の再配置と補助陣の構築、避難区画の最終整理、黒蝕孔周辺の封環補助線の引き直しを進めている。
明日、自分は黒蝕孔の中枢へ降りる。
前世の術式と今世の魂を一時的に重ねる。
星喰いに最も近い器になりかねない場所へ、自分の足で行く。
怖い。
その気持ちは消えていない。たぶん当たり前に消えないまま、最後まで抱えていくのだろう。
でも今夜、不思議と心は少しだけ静かだった。
たぶん、ここへ来るまでに積み上がったものがあるからだ。
無能と呼ばれた日を思い出す。
十歳の測定室。冷たい水晶。誰もが戸惑った顔をした中で、一番はっきり覚えているのは、自分の中に何もないわけじゃないのに、どうしてだろうと困惑した感覚だ。
あの頃はまだ、いつか何かの間違いだと分かると思っていた。
努力すれば埋まると思っていた。
礼儀作法も、歴史も、王妃教育も、全部きちんとやれば、足りない分を別の形で認めてもらえると信じていた。
父に見捨てられた夜も思い出す。
王城の大広間。婚約破棄。追放。拍手とざわめき。その中で父がたった一言、「家の名誉のためだ」と言った声。
あれはたぶん、人生の中で一番静かな音だった。
静かすぎて、逆にずっと耳に残った。
婚約破棄の瞬間も、今なら違う意味で思い出せる。
あの時、アルベルトに切り捨てられたのは、魔力ゼロの無能令嬢ではなかった。王国結界を知らないうちに支えていた接続役だった。そう知ってしまった今でも、あの瞬間の痛みは消えない。ただ、その痛みの形が少し変わっただけだ。
追放の風も、まだ覚えている。
王城を出た夜、肌に触れた冷気は、惨めなはずなのに少しだけ優しかった。あの国の中にいる時より、外の風の方が、よほど嘘をつかないと思った。
そして、帝国での時間。
最初は監視だった。
拘束具もあった。
危険因子として扱われた。
でも、それでもなお、そこでは初めて“人として話を聞かれた”時間があった。
条件を口にしていいと言われた。
自分で選べと言われた。
役目ではなく意思を問われた。
思い返せば、あの国で手に入れたものは、綺麗な優しさではなかった。
もっと硬くて、不器用で、でも誤魔化しのないものだった。
「……全部、今の私なんだ」
口に出してみる。
無能と呼ばれた日も。
父に切られた痛みも。
婚約破棄も。
追放も。
帝国で拾われたことも。
怒ったことも、泣けなかったことも、誰かの都合ではなく自分で決めると覚えたことも。
どれが欠けても、今ここでこうして立っている自分にはならなかったのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥の痛みが少しだけ別の形へ変わる。
赦せるわけではない。
綺麗に納得したわけでもない。
でも、自分の人生を奪われただけのものにはしたくないと、初めてはっきり思えた。
「夜風に一人で浸る趣味があるのか」
低い声が背後からした。
驚くほどではない。足音で分かっていた気がする。
「あるように見えます?」
リリアは振り返った。
塔の出入口のあたりに、アルベルトが立っていた。王族の軽装甲に外套を羽織り、帯剣した姿。以前のような、きらきらした第一王子の光はもう薄い。代わりに、眠れていない人間特有の影が目元に残っている。
「見えないな」
「でしょうね」
少しだけ風が抜ける。
アルベルトは数歩だけ近づいて、でも一定の距離で止まった。その距離感が、以前とは全然違っていた。婚約者だった頃なら、もっと近くへ来て当然の立場だったはずなのに、今はその距離が妙に正しい気がする。
「話がある」
アルベルトが言う。
「謝罪ならいりませんよ」
リリアは先に言った。
アルベルトの顔が少しだけ歪む。
「分かっている」
「そうですか」
「……あの日、君に遮られた時、本当にその通りだと思った」
風の音の中でも、その声は意外なくらいはっきり聞こえた。
「私が言うべきは、言葉ではなく責任だと」
「ええ」
「だから今日は、それを言いに来た」
リリアは黙って彼を見た。
アルベルトは一度、夜の王都を振り返る。明滅する結界。避難の灯。崩れかけた国。
「明日、私も前線に立つ」
低い声。
「王族として、ではない。少なくともそれだけではない」
「……」
「この国がここまで壊れた責任の一端は、私にもある。だから、最後の瞬間に、誰かの後ろへ隠れるつもりはない」
リリアは返事をしなかった。
アルベルトは続ける。
「君に許してほしいわけじゃない」
「当然です」
「分かっている」
苦く笑う。
「君にそう簡単に許されるほど、私は軽くはない」
その言葉は、少しだけ昔の彼に似ていた。飾られた言葉じゃなく、自分のプライドごと現実に殴られて、それでも立っている人間の声だった。
「……逃げると思ってたんですけど」
リリアがぽつりと言う。
アルベルトは眉を寄せる。
「ひどい言われようだな」
「実際、そういう人に見えていましたから」
「否定できない」
「でしょうね」
そこで、少しだけ沈黙が落ちる。
リリアは正直に自分の胸の中を確かめた。
この人を許す気はない。
あの夜のことも、その前の時間も、消えはしない。
でも、今ここで背を向けずに立っていることだけは、認めてもいいのかもしれない。
「……逃げずに立つことだけは」
リリアは言った。
「認めます」
「それだけで十分だ」
アルベルトは静かに答える。
「昔のあなたなら、こういう時でも“王族は完璧であるべきだ”って顔をしてたでしょうね」
「今もそう思っている部分はある」
「厄介」
「知っている」
少しだけ、二人とも笑いそうになって、でも完全には笑えなかった。
それでいいのだと、リリアは思う。
ここで綺麗に和解する方が嘘だ。
アルベルトはそれ以上踏み込まなかった。
「では、明日」
「ええ」
「君が選んだ答えに、私は……」
そこまで言いかけて、彼は少しだけ言葉を止めた。
「いや。私は私の責任を果たす」
その言い直しに、リリアはほんの少しだけ目を細めた。
自分に寄りかからず、最後に自分の言葉で立とうとしたのだろう。
遅すぎる。でも、だからこそ今さらの一歩としては、少しだけましだ。
「そうしてください」
リリアは言った。
アルベルトが去ったあと、また塔の上は風の音だけになる。
リリアは空を見上げた。
星は見えるのに、どこか薄く曇ったような夜。黒蝕孔の脈動に引っ張られるみたいに、時々、結界光が空の色を歪める。
その時だった。
胸の奥の魔力が、ひどく嫌なふうに震えた。
「……っ」
反射的に結界塔の中心へ視線を落とす。地上では何も変わっていないように見えるのに、感覚だけが警鐘を鳴らす。
引かれている。
誰かが。
もっと深い方へ。
黒蝕孔の中枢へ。
その感覚を辿った瞬間、リリアの背筋に冷たいものが走った。
「セレナ……!」
◇
王城地下の隔離区画では、魔力遮断陣が限界まで明滅していた。
セレナは床に膝をついたまま、喉を引き裂くような息をしていた。黒い靄はもう薄い煙ではない。髪の先、指先、影の輪郭、その全部に染み出すみたいにまとわりついている。
目の前が揺れる。
壁も床も歪む。
自分の中から誰かが手を伸ばしてくる。
——こっち。
——もっと近くへ。
——お姉様のいた場所へ。
——あなたも選ばれなさい。
「いや……」
声にならない。
嫌だ。
でも、行きたい。
愛されたい。
選ばれたい。
認められたい。
その願いが、黒い囁きに溶けて、どこまでが自分の意思なのか分からなくなる。
騎士たちが扉の外で叫んでいる。
「魔力値急上昇!」
「封印鎖がもたない!」
「術師を呼べ、早く!」
でも、その声はもう遠い。
セレナの足元に黒い術式が滲み始める。黒蝕孔の脈動と同じ周期。心臓ではない、もっと底なしの飢えの鼓動。
引き寄せられていた。
ただの精神汚染ではもう済まない。
依代としての形が、完成に近づいている。
セレナは涙も出ない顔で、薄く笑った。
「……お姉様」
その呼び方には、憎しみも羨望も、愛されたかった渇望も、全部が混ざっていた。
「どうして、わたしじゃだめだったの……」
問いは誰にも届かない。
でも、届かないまま、黒い術式だけが足元から這い上がってくる。
◇
塔を駆け下りながら、リリアは自分の鼓動より速いものを感じていた。
もう後戻りできない。
セレナの汚染は、ただの傷に巣食った残滓ではなく、黒蝕孔の中枢と直接繋がる手前まで進んでいる。星喰いは飢えている。王都全体を喰らう前に、まず一番裂け目の大きい場所へ手を伸ばす。
それがセレナだ。
嫌いな妹。
でも、壊れた家と国が作った、もう一人の犠牲者。
胸の奥に浮かぶ感情は、もう言葉ひとつでは言えなかった。
憎い。
腹が立つ。
許せない。
でも見捨てたくない。
それを利用する星喰いが、何より許せない。
リリアは階段を降りながら、はっきりと理解していた。
姉妹の因縁は、もう個人同士の感情だけで終わるところを過ぎたのだと。
国家の崩壊。
家の罪。
災厄の目覚め。
愛されたかった二人の娘の歪み。
その全部が、今や一本の黒い糸で結ばれている。
そして、その糸はもう、あと少しで引き切られる。
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