追放エンドだと思ったら世界が私を選んだ、元聖女のざまぁ再生記

タマ マコト

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第3話:エリシア・ノクス=セレスティア

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春の匂いがした。

土の湿り気。
花粉のむず痒さ。
遠くで焼かれるパンの香ばしさ。

――そんなもの、死ぬ直前の世界にはなかった。

目を開けると、天井が近い。
白い石の高い天井じゃない。木目のある板。煤けた梁。隙間から差す陽の光が、埃をきらきら浮かせている。

「……あ……」

声が出た。
ちゃんと、声。

喉が痛くない。
血の味もしない。
呼吸をすると、空気がぬるい。刃物みたいに肺を切らない。

私は一気に起き上がろうとして、ふらついた。
視界が揺れ、布団がずれる。草の匂いのする粗い布。肩にかかる髪が、やけに軽い。

それより――手。

私は自分の手を、恐る恐る目の前にかざす。

小さい。
指が細い。爪は短く、血色がある。肌は青白くも紫でもなく、健康な薄桃色をしている。

「……え」

喉から、乾いた音が漏れた。

私の手は、もっと痩せていた。
骨張って、血管が浮き、祈りでひび割れていた。
冷たくて、いつもどこか痛くて、でもそれを当たり前だと思っていた。

なのに今、手が――生きてる。

怖い。
怖いのに、目を逸らせない。

私は布団をめくって足を見た。
足も小さい。すねに傷跡がない。凍えた痕もない。
足先が動く。感覚がある。

「あ、やだ……」

自分の声が、幼い。
高くて、柔らかい。

私は息を呑んだ。
音を立てるのが怖くて、口を押さえる。
でも掌の感触がまた違う。柔らかい。温かい。

……夢?

死ぬとき、人は見るって言う。
幸せな夢。
今までの苦しみの代わりに与えられる幻。

「違う……」

違う。
これは夢にしては、匂いがリアルすぎる。
汗の酸っぱさ、布の埃、木の匂い。
耳元で鳴る鳥の声。遠くの犬の吠え声。

全部、今ここにある。

私は部屋を見回した。
狭い。
壁は木。床も木。窓は小さく、布のカーテンが揺れている。
隅に桶と、粗末な机。椅子は一脚。
豪華さなんて欠片もない。王都大聖堂とは真逆。

そのとき、扉が軋んで開いた。

「おっ、起きたかい」

入ってきたのは、四十代くらいの女性。
日に焼けた肌、太い腕、白いエプロンに小麦粉がついている。髪は無造作にまとめられ、目尻に笑い皺がある。

彼女は私を見るなり、ほっと息を吐いた。

「よかったぁ。昨日は熱がすごくてさ、死んじゃうかと思ったよ。水飲める? ほら」

木のコップが差し出される。
私はそれを受け取ろうとして、指が震えた。
コップの重さ。指の力。全部が新しい。

「……あなた、は……」

声が掠れない。
それが逆に怖い。

「私? 私はマルタ。パン屋のマルタだよ。昨日、森の道であんた倒れてたの。びっくりしたよ、ほんと」

森?
道?
倒れてた?

記憶が一瞬で戻る。
雪原。追放。凍え。闇。裂ける世界。

……森なんて、なかった。

私はコップの水を口に含む。
冷たくて、でも痛くない。喉を優しく潤す。
涙が出そうになる。水一口で泣くなんて、馬鹿みたいだ。

マルタは私の顔を覗き込んだ。

「まだぼんやりしてるね。そりゃそうか。ねえ、名前は?」

心臓が跳ねた。
名前。

セレフィア。
そう名乗った瞬間、全部が追いついてくる気がした。
聖女。追放。血。アルベルト。アデル。罵声。大聖堂。

私はその塊を、喉に飲み込めない。

「……な、まえ」

唇が震える。
何を言えばいい?
正直に言ったら、どうなる?
聖女だと言ったら、また檻に入れられる?
また祈れと言われる?
また削られる?

頭の中が真っ白になりかけた、そのとき。

胸の奥に、何かがすっと落ちてきた。

“エリシア”

言葉じゃない。
思いついた、というより、そこに置かれていた名前を拾った感じ。

「……エリシア」

口から出た。
意外なくらい自然に。

マルタはにっこりした。

「エリシアね。いい名前じゃない。姓は? 家の名前とか、ないの?」

姓。
家の名前。

セレフィア・ルミエール。
ルミエール――光。教会がくれた光の姓。

私は言えない。
言った瞬間、あの白い回廊がこの部屋に侵食してくる気がした。

喉が詰まる。
視界の端が滲む。
でも、沈黙は怪しまれる。

「……えっと……」

自分の声が情けない。
どうしよう。
嘘をつかなきゃ。
でも、嘘が下手だ。ずっと、祈りしかしてこなかった。

その瞬間また、胸の奥から音もなく言葉が落ちてくる。

“ノクス=セレスティア”

夜。星。
意味が分からないのに、妙にしっくりくる。

「……ノクス=セレスティア」

私は呟いた。

マルタが目を丸くした。

「へえ、貴族っぽい姓だね。二重姓なんて珍しい。あんた、どっかの家の子なの?」

胸がきゅっと縮む。
貴族。家。
その言葉は危険だ。捕まる。返される。戻される。

「……わからないの」

私は、嘘を混ぜた本当を言った。
「気づいたら、ここにいて……」

マルタは少しだけ顔を曇らせ、それから優しく笑った。

「そっか。まあ、いいさ。いろいろあるよね、人には。今は熱下がったし、食べられそうならパン粥作るよ」

彼女はそう言って、扉のほうへ向かう。
扉の前で振り返り、指を立てた。

「無理して動かない。まずは休む。いい?」

私は小さく頷いた。

扉が閉まる。
部屋に静けさが戻る。

私は、胸を押さえた。
心臓がまだ速い。
エリシア。ノクス=セレスティア。
なぜそんな名前が出てきたのか分からない。

でも――怖くない。
少なくとも“セレフィア”より、怖くない。

私はベッドから降りた。
足の裏が床の冷たさをちゃんと感じる。
足音が軽い。
ふらつきながら、机の上に置かれた小さな鏡へ近づいた。

鏡は曇っていて、歪んでいる。
でも、そこに映った顔は……知らない顔だった。

幼い。
頬が丸い。目が大きい。
髪は淡い金より少し暗い蜂蜜色で、肩より短い。
唇は乾いていない。目の下に隈がない。

「……誰……」

呟いた声が、鏡の中の口から同じように動いて返ってくる。
それが怖い。

私は鏡に指を伸ばす。
冷たいガラスに触れる。
中の子も、同じように触れる。

……でも。

目。

目の奥だけは、確かに“私”だった。
疲れ切った、祈りで削れた、あの目。
笑うことを覚えてしまった目。

私の魂が、ここにいる。

「……生きてる」

言葉にした瞬間、膝が折れた。
床に座り込む。
息が震える。
泣きたくて、でも泣いたら何かが戻ってきそうで怖い。

私は両腕で自分を抱きしめた。
温かい。
自分の体温がある。
それがこんなに嬉しいなんて、知らなかった。

遠くから、パンを切る音がした。
包丁が木のまな板に当たる、トントンという音。
生活の音。
祈りとは関係ない音。

私はその音を聞きながら、記憶を整理しようとする。

雪原で倒れた。
死んだ。
はず。
なのに、ここは春の匂い。

……季節が違う。

窓の外を見た。
小さな庭。緑の芽。
土の色が濃い。
白じゃない。

私はよろよろと立ち上がり、窓を少し開けた。
外気が頬に触れる。冷たいけれど、冬じゃない。
鳥が鳴いている。
遠くで子どもの笑い声。

王都じゃない。
大聖堂の鐘も聞こえない。

でも、どこかで知っている空気。
この世界の匂いだ。私が生きていた世界の。

私の脳裏に、王都の地図が浮かぶ。
貧民街。河川。東の森。北の平原。
……この匂いは、東の森に近い小さな村のものに似ている。

「同じ世界……?」

口に出すと、胸がざわついた。
もし同じ世界なら、王都もある。教会もある。アルベルトもアデルもいる。

でも、時間が――違う。

なぜなら、私は“幼い”。
もしこれが夢じゃないなら、身体年齢が巻き戻っている。

私は震えながら、机の上の紙に目をやった。
新聞みたいなものではない。パン屋の帳簿。
でも端に日付が書かれている。

読み取る。
王国暦……。

王国暦の数字が、私の記憶より――小さい。

「……嘘」

声が漏れた。
指先が冷える。
でも、冷えるのは恐怖のせいだ。体は温かい。

十数年前。
まだ、私が聖女として祭壇に立つ前。
まだ、追放が起きる前。

――やり直しだ。

その認識が胸の奥で形になった瞬間、息が詰まった。
喜びではない。
希望でもない。

怖い。

同じ世界で、同じ未来が待っているなら?
また祈って、また削れて、また捨てられるなら?

私は鏡に映る自分を睨む。
幼い顔なのに、目だけが鋭くなる。

「……嫌だ」

小さく、でもはっきり言った。

「もう、嫌」

私は祈りの檻に戻りたくない。
優しく笑って、期待に応えて、壊れていくのは嫌。

そのとき、部屋の隅から淡い光がふっと漏れた。

私は息を止めて振り向く。

棚の下。
壁際に置かれた小さな箱。
木箱の蓋が少しずれていて、そこから光が滲んでいる。

怖い。
でも目が離せない。

私はゆっくり近づいた。
指先が震える。
蓋を持ち上げる。

中にあったのは、小さな金属の印。
聖堂で見たことがある意匠――円環と翼。
聖印。

なのに、王都の聖印よりずっと古い。
表面に細かな傷。
触れると、ひんやりしている。

そして、光。

淡く、呼吸するみたいに脈打つ光が、印の中心から滲んでいる。

「……なんで、ここに」

呟いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
痛い熱じゃない。
火傷みたいじゃない。
春の陽だまりみたいな熱。

聖印が、私を認識したみたいに光を強める。

私は反射で手を引っ込めた。
怖い。
聖女の証。
それがあるなら、私は結局――逃げられない。

でも。

同時に、思った。

これが“追放された私”の続きなら、
世界は私を簡単に捨てた。
なのに今、聖印がここにあるのは――世界が私を捨てきれていない証拠じゃないの?

私は聖印を見つめる。
光は淡いまま、静かに揺れる。

「……世界が、拒否した」

誰の声かも分からないのに、確かに“失うわけにはいかない”と言われた感触が、消えずに残っている。

失うわけにはいかない、と言った声。
あれが世界なら……。

私は聖印をそっと箱に戻した。
蓋を閉じる。
光は完全には消えず、木の隙間から細く漏れ続ける。

まるで、ここにいるよ、と言うみたいに。

そのとき、扉の向こうから足音が近づいた。
マルタの声。

「エリシアー、粥できたよ。食べられる?」

私は背筋を伸ばし、深呼吸した。
胸の中で、二つの名前がぶつかり合う。

セレフィア――追放された聖女。
エリシア――今、ここにいる私。

私は扉に向かって、声を出す。
ちゃんと出る声で。

「……うん。食べる」

そして心の中で、小さく決める。

同じ世界。十数年前。やり直し。
なら――私は、やり直す。

でもそれは、“前と同じ”じゃない。
同じ未来に向かうためじゃない。

私はもう、祈りのために生きない。

エリシア・ノクス=セレスティア。
この名前を、今は抱えて進む。

扉が開き、パン粥の温かい匂いが部屋を満たした。
その匂いに、私は少しだけ――ほんの少しだけ、泣きそうになった。
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