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第12話:教会の鎖、前世と同じ手口
しおりを挟む光が消えたあと、空気だけが残った。
白い熱でも冷たい熱でもない、胸の奥に沈む重み。
それが大聖堂の中に漂い続けて、誰もが息の仕方を忘れたみたいだった。
司祭長が震える声で何かを宣言した後、群衆は一斉に動き出した。
歓声と恐れと欲が混ざって、渦になる。
「聖女さまだ!」
「触れれば救われる!」
「新しい聖女が――!」
誰かの手が伸びる。
私に触れようとする手。
祈りの手。奪う手。
私は反射で後退した。
背中が柱に当たる。冷たい石が、現実を叩く。
息が浅い。
喉がカラカラで、声が出ない。
ルシアンが、私の前に立った。
「下がれ」
彼の声は低く、短い。
剣は抜いていないのに、刃が見えるような声。
人々が怯み、司祭たちが慌てて間に入る。
「落ち着きなさい!」「神の選定を汚すな!」
それでも目は私から離れない。
私は目線を落とし、胸元の布を握りしめた。
布の下で聖印がまだ微かに熱い気がする。
世界が私を掴んだまま離していない。
「こちらへ」
司祭が、やけに丁寧な声で言った。
若い司祭。笑顔。柔らかい声。
でも目が笑っていない。
「神の光に選ばれた者よ、まずは奥へ。礼拝堂の奥へお移りください」
奥。
その言葉が、背中を冷やした。
奥に行けば、扉が閉まる。
扉が閉まれば、鍵がかかる。
鍵がかかれば、私は“保護”される。
――前と同じだ。
「……どこへ」
私が絞り出すと、司祭はさらに優しい声になった。
「安全な場所です。混乱が収まるまで、神の器を守らねばなりません」
器。
その単語が喉を刺す。
私は一歩下がろうとして、また柱に当たった。
逃げ場がない。
ルシアンが一歩前に出る。
「彼女はここにいる。移動は俺が判断する」
司祭が困ったように眉を寄せる。
「騎士殿、これは教会の務めです。選定された者は、規定により――」
「規定は知らない」
ルシアンは冷たく遮った。
「彼女が嫌がっている」
司祭の笑顔が一瞬だけ固くなる。
それでも笑顔を保つ。練習した笑顔。
そして、さらに甘い声で言った。
「怖がらなくていいのですよ、エリシアさま」
さま、が耳に張りつく。
「私たちはあなたを祝福し、守り、導きます。何も不自由はさせません」
不自由はさせない。
その言葉の裏に、私は不自由しか見えなかった。
祈れ。
笑え。
従え。
世界のために削れ。
胸が苦しくなる。
呼吸が浅くなる。
肩が勝手に上がる。
息が吸えない。
私は目を閉じた。
白い回廊が浮かぶ。
あの夜の前日。
司祭が優しく言った。
「あなたは特別なのよ。あなたのためなの」
「少しだけ我慢して」
「あなたならできるわ」
その優しさのあと、祈りが増えた。
儀式が増えた。
眠る時間が消えた。
笑う回数が増えた。
血の味が増えた。
そして最後に――追放。
「……だめ」
口から漏れたのは、ほとんど息だった。
司祭は聞こえないふりをした。
代わりに、後ろにいた別の司祭が合図する。
二人、三人。
黒衣の修道士が近づいてくる。
静かに、囲むように。
護衛じゃない。
包囲だ。
私は息を呑む。
足がすくむ。
ルシアンが腰の剣に手を置いた。
鞘の上から。
それだけで空気が尖る。
「やめろ」
ルシアンの声が低く震える。
怒りが混じる。
「一歩でも触れたら、俺は抜く」
司祭たちがざわつく。
「ここは大聖堂だぞ」
「騎士ごときが」
「神の選定に刃を向けるつもりか」
ルシアンは目を細める。
「神に向けてるんじゃない。人に向けてる」
その言葉が、私の胸を少しだけ支えた。
でも状況は変わらない。
囲みは狭まり、息がさらに浅くなる。
「落ち着きなさい」
司祭長が言う。
さっきの震えは消えている。
ここからは、権力の声だ。
「聖女は教会の庇護下に入る。それが王国の秩序だ。――連れて行け」
「っ……!」
私は一歩引こうとして、足がもつれた。
転びそうになる。
その瞬間、ルシアンが肩を抱くように私の身体を支えた。
抱きしめない。
でも、逃げ道を作る抱え方。
「エリシア、見ろ」
ルシアンが低い声で言う。
「俺の方を見ろ。呼吸しろ」
私は必死に彼の外套の匂いを吸った。
土と剣と、少し汗。
それが現実。
それが今。
呼吸が少し戻る。
でも、修道士の手が伸びる。
「失礼します」
言葉だけ丁寧。
手は冷たい。
ルシアンが身体を捻り、私を背後に隠す。
「失礼じゃない。侵害だ」
「騎士殿、あなたは分かっていない」
司祭長が苛立ちを隠さず言った。
「聖女は“個人”ではない。王国の祈りの要だ。疫病、飢饉、魔獣……あらゆる災厄に対する盾。私情で振り回されては困る」
私情。
私が怖いのは私情。
私が息をするのも私情。
生きたいも私情。
喉の奥が冷たくなる。
私を切り捨てるための言葉が、また同じ形で並んでいる。
そのとき、祭壇の奥の扉が開いた。
人の気配が、空気を変える。
重たい権力の匂いじゃない。
静かな、乾いた匂い。
「……騒がしいわね」
女の声。
低く、落ち着いた声。
怒鳴っていないのに、場が一瞬で静まった。
現れたのは、ひとりの女性だった。
黒に近い深緑のローブ。
胸元には教会の大きな紋章。
髪は銀混じりの黒をきっちりまとめ、顔立ちは鋭い。
けれど目が――静かだった。
湖面みたいに波がない。
そこに感情がないわけじゃない。
感情を飲み込んで、選び取った静けさ。
ミレイユ教会長。
名は、噂で聞いたことがある。
王都の教会を束ねる女。
冷徹で有能、誰より教会を守る人だと。
司祭たちが一斉に跪く。
「教会長!」
司祭長も慌てて頭を下げる。
「ミレイユ様、これは……」
ミレイユは跪く人々を見下ろし、ゆっくりと私へ視線を移した。
その目は、値踏みしない。
測らない。
ただ、確認する目。
そして、ルシアンを見る。
「騎士」
ミレイユが言う。
「剣から手を離しなさい」
ルシアンは一瞬だけ動きを止めた。
でも剣から手を離さない。
「離したら彼女が連れていかれる」
ルシアンは言った。
声が低い。
敬意はある。けれど譲らない。
ミレイユは静かに頷いた。
「そうね。あなたが剣を握った理由は分かる」
その言葉に、司祭たちがざわつく。
教会長が、騎士を肯定した。
ありえないという顔。
ミレイユは司祭長に視線を向けた。
「あなたたち、何をしているの」
司祭長は慌てて言葉を並べる。
「選定された者を保護し、儀式の準備を――」
「保護?」
ミレイユが繰り返す。
声は静か。
でも、刃みたいに尖っている。
「あなたたちの言う保護は、いつも鎖になる」
ミレイユは淡々と言った。
「それを“守り”と呼んで正当化する。……何度も見てきたわ」
司祭たちが息を呑む。
司祭長の顔色が変わる。
「教会長、それは……!」
ミレイユは遮った。
「彼女に選択権を与えなさい」
その言葉が落ちた瞬間、空気が割れた。
ざわめきが小さく爆発する。
司祭たちの顔に、理解できないという怒りが浮かぶ。
司祭長が声を強める。
「教会長! 選択権など! 聖女の務めは――」
「世界がそれを望んでいる」
ミレイユが言った。
その言葉は、祈りの言葉より重かった。
祭壇の火が、ふっと静かに揺れた気がした。
青白い炎が、一瞬だけ金色に近づく。
司祭長は言葉に詰まる。
「……世界、が?」
ミレイユは私を見る。
その目は、命令じゃない。
でも、逃げ道を与える目でもない。
ただ、選べと言っている。
「あなた」
ミレイユが私に言った。
「エリシア。……今、ここで決めなさい。教会に留まるか、留まらないか」
私は呼吸が止まった。
選べ。
選択権。
世界が望んでいる。
そんな言葉を、教会長の口から聞く日が来るなんて。
信じられない。
でも、怖い。
ここで「留まらない」と言えば、教会を敵に回す。
ここで「留まる」と言えば、鎖になる。
喉が震える。
言葉が出ない。
ルシアンの気配が、背後で揺れない。
支えている。
でも決めるのは、私だ。
私は唇を噛み、血の味の代わりに決意の痛みを探した。
「……私は」
声が掠れそうになる。
それでも言う。
「私は、強制されたくない」
息が震える。
「儀式も、祈りも……私が選ぶ。選ばせて」
司祭たちがざわつく。
「傲慢だ!」
「聖女のくせに!」
「教会長、こんな……!」
ミレイユは司祭たちを見た。
静かな目のまま。
そして、淡々と言う。
「反発するなら、理由を言いなさい」
声が低い。
「あなたたちが守っているのは、神か。王国か。教会か。……それとも、自分の席か」
その言葉で、司祭たちが黙った。
黙ったけれど、納得はしていない。
沈黙の中で、権力が軋む音がする。
司祭長が唇を噛み、絞り出すように言った。
「……しかし、秩序が」
ミレイユは頷いた。
「秩序は大事よ。でもね、秩序は人を壊したときに“罪”になる」
彼女の目が、私に戻る。
「エリシア。あなたは今夜、この場では連れていかれない。……騎士と共に帰りなさい」
私は息を吐いた。
胸の奥が少しだけ緩む。
でも安心できない。
教会の鎖は、外側から巻くのが得意だ。
今夜は逃げても、明日は違う。
ルシアンが剣から手を離した。
ゆっくりと。
それだけで、周囲の空気が少し柔らかくなる。
「行く」
ルシアンが小さく言う。
私は頷き、足を動かした。
膝がまだ震える。
でも動ける。
動けるだけで、今は十分だった。
背後で、司祭たちのざわめきが再び立ち上がる。
納得していない声。
反発の声。
そして、ミレイユの静かな声がそれを押さえつける。
「――忘れないで。世界は、彼女を“道具”として選んだんじゃない」
その言葉が、背中に刺さった。
優しさじゃない。
でも、救いの形をしていた。
私は大聖堂の扉を出た。
夜の空気が肺に入る。
冷たいのに、自由の匂いがする。
だけど、自由はまだ細い。
細い糸みたいに、今にも切れそうな自由。
教会の中で軋んだ権力の音が、
扉一枚隔てた外の世界まで、じわじわと追いかけてくる気がした。
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