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第13話:アデルの亀裂、嫉妬の根っこ
しおりを挟む鏡の前に立つと、顔が二つになる。
「アデル・ルミエール」
皆が呼ぶ名前の顔。
光の家の娘。聖女候補。愛されるべき微笑み。
「アデル」
誰も呼ばない名前の顔。
暗い廊下で、膝を抱えて泣いた子どもの顔。
今日、鏡の中の二つが、ずれていた。
大聖堂の選定の儀。
祈りの最中に、光が落ちた場所。
それが私じゃなかった瞬間から、世界が少しだけ歪んで見える。
指先が冷たい。
香水の匂いが、胸をむかつかせる。
好きでつけた匂いなのに、今は嘘の匂いに思える。
「……落ち着きなさい」
背後から、母の声がした。
柔らかい声。外に向けて整えた声。
でも、そこに温度はない。
私はゆっくり振り返る。
母は椅子に座り、私を見上げている。
服は高価で、姿勢は美しい。
その美しさは、愛情の代わりみたいに冷たい。
「あなたの顔、崩れているわよ」
母は言った。
「笑顔の筋肉が緩んでいる。練習不足?」
練習不足。
その言葉が、胸の奥を小さく切った。
私は頬を引き上げる。
口角を上げる。
目尻を少し下げる。
“慈愛”の角度。
「……大丈夫よ、お母さま」
声も整える。
息の吐き方も整える。
だって、そうしないと――私には価値がない。
母は満足そうに頷いた。
それから、机の上の紅茶を一口飲む。
香りを楽しむような仕草をしながら、淡々と言った。
「今回のことは想定外だったけれど、まだ終わりじゃないわ」
終わりじゃない。
その言葉は励ましに聞こえるはずなのに、私の胸には重りみたいに落ちた。
「……あの子」
私は喉の奥で言葉を探す。
「エリシア……って」
名前を口にするだけで、舌が苦い。
甘いはずの紅茶が急に渋くなる。
母は眉を動かした。
「ええ。あの子ね。突然現れて、神の光をさらっていった子」
さらっていった。
その言い方に、私は小さく息を呑む。
母は私の気持ちを代弁している。
でも代弁されるほど、私は自分が醜くなる気がした。
「あなたは、焦らなくていい」
母は続けた。
「努力は裏切らない。アデル、あなたは努力してきた。あの子は“偶然”よ」
偶然。
私は頷きかけて、止まった。
偶然で、あんな光が降る?
偶然で、あんな空気が変わる?
偶然で、誰も祈っていないのに世界が選ぶ?
偶然という言葉で片付けた瞬間、私の努力が全部軽くなる気がする。
努力は裏切らない――それを信じてきたのに。
私は笑顔を保ったまま、喉の奥に押し込んだ。
「……そうね」
そう言わなきゃ、ここで生きられない。
だって、私はずっと“そういう家”で育った。
幼い頃から比べられた。
親戚の集まりで、従姉妹の可愛さと。
教会で、他の候補の清らかさと。
舞踏会で、貴族の娘の華やかさと。
「アデルは可愛いけれど、もっと品が必要ね」
「アデルは歌が上手だけれど、祈りの声が弱いわ」
「アデルは優しいけれど、聖女にふさわしい強さが足りない」
足りない。足りない。足りない。
私はいつも足りなかった。
だから祈った。
祈れば満たされると思った。
祈れば神が見てくれると思った。
“聖女になれば愛される”
それが私の救いだった。
聖女になれば、母は私を誇る。
父は私の頭を撫でる。
兄は私を見下ろさない。
皆が私を必要とする。
必要とされれば、私はここにいていい。
そのために、努力した。
膝が痛くても祈った。
喉が枯れても歌った。
笑顔が引きつっても練習した。
鏡の前で、何百回も慈愛の角度を作った。
“光の家”の娘が、崩れてはいけないから。
――なのに。
祈りの最中に落ちた光。
それが私じゃなく、柱の陰の少女へ向かった瞬間。
世界は、私の努力を見ていなかった。
そう思ってしまった。
胸の奥で、何かがひび割れた。
乾いた音。
そこから冷たいものが滲み出して、心臓を濡らす。
母が立ち上がり、私の頬に触れた。
爪が当たって少し痛い。
「泣かないで」
母は言った。
「泣くなら、見えないところで泣きなさい」
私は頷く。
泣くな。崩れるな。
泣いたら価値が落ちる。
母は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きい。
静かになった瞬間、私の呼吸が乱れた。
苦しい。
胸が圧迫される。
香水が息を奪う。
私は鏡の前で、笑顔を外した。
顔が、疲れている。
目の下に薄い影。
頬の筋肉が痙攣している。
唇が乾いている。
「……私、何のために」
言葉が、勝手に落ちた。
何のために祈ってきたの。
誰のために笑ってきたの。
どうして、あの子は祈らずに選ばれるの。
エリシア。
柱の陰にいた少女。
王都の子じゃない顔。
でも目の奥が、私と同じ疲れを持っていた。
あの子は、私と同じなのに。
なのに、光はあの子を選んだ。
私は鏡を睨む。
睨んでも、そこにいるのは私だけだ。
だから余計に腹が立つ。
「……ずるい」
声が震えた。
ずるい。
努力してないのに――そう言いたい。
そう言えば、私は救われる。
でも、知ってしまっている。
エリシアの目が、ただの幸運の目じゃないことを。
あの目は、何かを失った目だった。
痛みを知っている目。
だからこそ、憎い。
痛みを知っているのに、選ばれる。
私が欲しかったものを、あの子が持っていく。
私は唇を噛んだ。
鏡の中の私が、同じように唇を噛む。
醜い顔。
光の娘の顔じゃない。
……嫌だ。
私は慌てて笑顔を作った。
いつもの角度。
慈愛。
優しさ。
聖女候補の微笑み。
「大丈夫よ」
私は鏡に言う。
「私は負けない」
その言葉は自分への呪いみたいに響いた。
そのとき、扉がノックされた。
「アデルさま」
侍女の声。
「エリシアさまが、控えの廊下にいらっしゃいます」
胸が跳ねた。
胃が冷える。
来た。
来てしまった。
「……通して」
私は微笑みを貼りつけたまま言った。
扉が開き、廊下の冷たい空気が入る。
そこに立っていたのは、エリシアだった。
近くで見ると、彼女は私より少し幼く見える。
体も細い。
でも、目だけが妙に大人びている。
世界を見過ぎた目。
彼女は、こちらを見て少しだけ肩を強張らせた。
警戒。
それが分かる。
私は一歩近づき、柔らかく言った。
「こんにちは、エリシアちゃん」
声を甘くする。
優しく。
友だちみたいに。
エリシアは少し遅れて頷く。
「……こんにちは」
その声の震えが、私の胸を刺した。
怖がっている。
私を怖がっている。
なぜ?
私は光の娘なのに。
私は優しいのに。
そう思った瞬間、別の声が胸の奥から出た。
――だってあなた、優しいふりをしてるだけでしょ。
私は息を呑む。
その声は、私自身の声だ。
本当の私。
私は笑顔を保った。
笑顔を崩したら、負ける。
何に負けるのか分からないのに。
「大丈夫?」
私は言った。
「突然あんなに注目されて、怖かったよね」
怖かったよね。
その言葉は本物だった。
私も怖かったから。
選ばれるのが怖い。選ばれないのが怖い。
エリシアは目を逸らす。
「……うん」
私は胸がぎゅっとなる。
同情?
違う。
これは、焦り。
この子が“かわいそう”に見えた瞬間、私は少し救われる。
自分が下じゃないと思えるから。
……最低。
私は自分に嫌気が差して、笑顔の奥で奥歯を噛みしめた。
「私ね」
私は一歩、さらに近づいた。
距離を縮めれば、友だちになれる気がした。
友だちになれば、敵じゃなくなる気がした。
「あなたと、仲良くなりたい」
言ってしまった。
それは半分本気で、半分は計算だった。
エリシアの瞳が揺れた。
友だちになりたい気持ちと、なりたくない恐怖。
その揺れが、私の胸のひび割れを広げる。
私は、その揺れを見た瞬間、心の奥で――小さく呟いてしまった。
消えて。
音にならない呟き。
でも確かに、私の中から出た言葉。
消えて。
その瞬間、胃がひっくり返るみたいに気持ち悪くなった。
私は自分の手が汚れた気がして、指先を握り潰す。
エリシアの顔が少し硬くなる。
彼女は言葉にしない。
でも感じたのかもしれない。
“消えて”の匂いを。
私は、笑顔のまま言葉が詰まった。
喉の奥が熱い。
目が熱い。
「……ごめん」
何に対してのごめんか、自分でも分からない。
でも言わずにいられなかった。
エリシアが目を瞬かせる。
「……え?」
私は笑顔を崩してしまった。
崩れた顔のまま、涙が落ちた。
「私……変だよね」
声が震える。
「あなたに優しくしたいのに……怖いの」
怖い。
それが本音。
私の努力が崩れるのが怖い。
愛される根拠が消えるのが怖い。
私の価値が、空っぽになるのが怖い。
涙が止まらない。
恥ずかしい。
でも止まらない。
エリシアは戸惑った顔で立っている。
その戸惑いが、余計に私を惨めにする。
私は涙を袖で拭いた。
でも涙は拭いても拭いても出る。
頬が熱くて、息が詰まる。
「……ごめんね」
もう一度言った。
「私、あなたのこと……」
言葉が続かない。
“消えて”と言ってしまった自分が、怖い。
でも――涙が止まる頃、胸の奥で別のものが形を持ち始めた。
冷たい塊。
憎しみの種。
どうして私が、こんなに苦しまなきゃいけないの。
どうしてあの子が、選ばれるの。
どうして世界は、私の努力を見ないの。
その問いが、答えを求める形を変えていく。
悲しみから、怒りへ。
不安から、攻撃へ。
私は微笑みを、もう一度作った。
涙でぐしゃぐしゃなのに、角度だけは覚えている。
それが私の生き方だから。
「……仲良くしようね、エリシアちゃん」
声はまだ震えている。
でも言った。
言えば、私は“優しい子”に戻れる。
エリシアの目が揺れる。
警戒と、同情と、戸惑い。
その揺れを見ながら、私の胸の奥で冷たいものが固まっていく。
消えて、とはもう言わない。
でも――消えてほしいという願いが、形を持ち始めてしまった。
私はそれに気づいて、また少しだけ怖くなった。
怖くなったのに、
その怖さの奥で、憎しみは静かに息をし始めていた。
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