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第15話:世界の選別、奇跡が降りる場所が変わる
しおりを挟む王都の朝は、咳から始まった。
窓の外、通りを歩く男が咳き込む。
露店の女が咳を抑えながら客に笑う。
馬が鼻を鳴らし、獣臭と人いきれに混じって、薬草の苦い匂いが漂う。
「最近、多い」
宿の主人が言った。
「熱も出るし、喉がやられる。貧民街から広がってるって噂だよ」
貧民街。
その言葉に、私の胸の奥がざらつく。
王都の中心がきらきらしているほど、その外側は暗い。
光が届かない場所を、私は知っている。
知っているのに、見ないふりをしていた。
見れば、祈らなきゃいけなくなると思っていたから。
救わなきゃいけなくなると思っていたから。
「行くな」
ルシアンが短く言った。
宿の椅子に腰掛け、剣の手入れをしている。
布で刃を拭くたび、金属の匂いがふっと立つ。
「……貧民街?」
私が聞くと、ルシアンは頷いた。
「混乱の匂いがする。疫病が出ると、まず弱いところが燃える」
彼は淡々と言って、刃を止めた。
「そして、誰かが“原因”を欲しがる」
原因。
その単語が喉に引っかかる。
原因を欲しがるとき、人は一番残酷になる。
私が答えられずにいると、扉が叩かれた。
控えめなノック。
でも焦りが混ざっている音。
ルシアンが立ち上がり、扉を開ける。
外にいたのは、黒衣の修道士だった。
前に見た、教会の“囲い”の一員。
目が冷たい。口元は丁寧な形に整っている。
「エリシアさま」
修道士は頭を下げる。
「教会長ミレイユさまより、至急ご同行願いたいと」
至急。
その言葉が、私の胃を掴んだ。
「理由は」
ルシアンが先に聞く。
修道士は一瞬だけ眉を動かす。
でも声は丁寧なまま。
「疫病の兆しが出ています。神の加護が必要です」
視線が私へ向く。
「選ばれた方の力を――」
力。
また、力。
私は息を吸って、吐く。
怖い。
でも今は逃げたくない。逃げたら、別の形で鎖が巻かれるだけ。
「……行く」
私は言った。
ルシアンが私を見る。
「無理はするな」
「無理はしない」
自分に言い聞かせるみたいに返す。
大聖堂は、昼間でも白く冷たかった。
香の匂いが重く、床の石が足裏に冷たさを返す。
司祭たちの動きが忙しい。
声が小さく鋭い。
不安を隠すための忙しさ。
ミレイユ教会長は祭壇の手前で待っていた。
深緑のローブ。
静かな目。
でも今日は、その静けさの奥に薄い焦りがある。
「来たのね」
ミレイユが言った。
「状況が悪い」
私は喉を鳴らす。
「疫病……?」
ミレイユは頷く。
「兆し。まだ爆発してはいない。でも、火種はある。……そして民は神託の乱れを覚えている。怖がっている」
怖がっている。
その言葉は、優しさに聞こえるのに、同時に脅迫みたいでもある。
怖がっている民のために、あなたが動け、と。
司祭長が一歩前に出た。
あの、権力の声の司祭長だ。
彼は私を見て、丁寧な形で言う。
「エリシアさま。祭壇へ」
祭壇。
その言葉が、喉の奥に冷たい刃を押し当てた。
「ここに立ち、祈りを捧げていただきたい」
司祭長は続ける。
「あなたが選定された以上、あなたの祈りは王国の盾です」
盾。
また“王国のため”だ。
私はゆっくり首を振った。
「祈りたくない」
司祭長の口元が引きつった。
「……祈りたくない、では済まされません」
ルシアンが一歩前に出る。
「彼女の意思だ」
司祭長の目が冷える。
「騎士殿、ここは教会だ。剣の理屈は通らない」
「剣の理屈じゃない」
ルシアンは低い声で言った。
「人の理屈だ」
ミレイユが静かに手を上げ、二人を止める。
そして私を見た。
「祈りは強制しない」
彼女は言った。
「ただ……立つだけでいい。あなたがここにいることが、民の心の支えになる」
立つだけ。
その言葉は優しい。
でも、立つだけで終わらないことを私は知っている。
私は祭壇へ近づいた。
足元の石が冷たい。
高い階段。
前世で転げ落ちた階段が、重なりそうになるのを必死に振り払う。
祭壇の前に立つ。
光を受ける場所。
人の視線が刺さる場所。
「……これでいい?」
私は絞り出す。
司祭長が満足そうに頷く。
「ええ。では、祈りを――」
「祈らない」
私は言った。
声は震えたけれど、引かなかった。
司祭たちがざわつく。
ミレイユが静かに言った。
「祈りは不要よ。……世界がどう反応するか、見ましょう」
世界がどう反応するか。
その言い方が、私は少しだけ救われた。
教会じゃなく、世界を見る。
その視点。
司祭長は不服そうに唇を噛み、祈りの言葉を唱え始めた。
周囲の司祭も続く。
聖歌隊が歌う。
香が濃くなる。
祭壇の火が揺れる。
私は息を止めた。
前は祈っていないのに光が落ちた。
今回も落ちたら、私はまた捕まる。
でも――
落ちなかった。
火は揺れる。
揺れて、揺れて、そして青白くなる。
でも決定的な光の柱は降りてこない。
司祭の祈りが強くなる。
声が重なる。
まるで音で世界を叩き起こそうとするみたいに。
「神よ!」
司祭長が声を張る。
「今こそ加護を! 疫病を鎮め、王国を守り――」
守り、守り、守り。
その言葉が増えるほど、祭壇の火は冷たくなる。
金色が薄れていく。
そして、とうとう。
火が、ふっと小さくなった。
まるで、ため息みたいに。
まるで、期待に飽きたみたいに。
大聖堂の空気が、ざわりと揺れた。
「……なぜだ」
司祭長が掠れた声で言う。
「なぜ、反応しない……!」
ミレイユの目が細くなる。
「……世界が、ここを選んでいない」
その言葉で、司祭たちの顔が一斉に歪んだ。
選ばれていない。
教会が。
私は祭壇の前で立ったまま、指先が冷たくなるのを感じた。
怖さと同時に、奇妙な解放感があった。
“祈らなくても起きる奇跡”は、ここでは起きない。
つまり――私がここに縛られても、世界は従わない。
そのとき、扉が開く音がした。
ざわめきが入り込む。
外の空気。
人の息。
そして荒い足音。
ルシアンが大聖堂の入口に立っていた。
彼の横に、小さな影がある。
子ども。
痩せた男の子だった。
年は八つか九つ。
頬がこけ、目が大きすぎる。
服は薄汚れ、袖が短い。
手首が細い。
彼は立っているのに、身体が揺れていた。
熱でふらふらしている。
「……何をしている」
司祭長が怒鳴る。
「神聖な儀式の場に――!」
ルシアンはその声を無視した。
子どもの肩を支え、ゆっくりと前へ進ませる。
「この子が倒れていた」
ルシアンの声は低い。
「貧民街の路地で。熱が高く、呼吸が浅い。……祈りの場が必要だろう?」
司祭長が顔を引きつらせる。
「汚れた者を連れ込むな!」
汚れた者。
その言葉が、私の胃をえぐった。
子どもが小さく咳をした。
乾いた咳。
喉の奥を削る咳。
私は祭壇の上から、その子を見つめた。
目が合った。
彼の瞳には、助けてと言う力すら残っていない。
ただ、生きたいのに息ができない目。
次の瞬間だった。
大聖堂の空気が、変わった。
香の匂いが薄れ、石の冷たさが柔らかくなる。
祭壇の火が、青白さを捨てて、静かな金色に戻る。
司祭たちが息を呑む。
光が落ちた。
私ではない。
祭壇でもない。
司祭長でもない。
光は、男の子の頭上に降り注いだ。
白い、柔らかな光。
雪じゃなく、春の花びらみたいな光。
それが男の子を包み、肌の熱を撫でる。
男の子の咳が止まる。
肩の上下がゆっくりになり、荒かった呼吸が落ち着く。
赤かった頬が、少しだけ健康な色に戻る。
「……え」
司祭の誰かが声を漏らす。
次に、観衆のざわめきが波になる。
「今、あの子が……」
「聖女さまじゃないのに……」
「違う、聖女さまの近くだから……?」
「いや、聖女さまは祭壇にいるのに、光が――」
男の子が、ぼんやりと目を開けた。
そして、ルシアンの袖を掴んで小さく言った。
「……息、できる……」
その声が、たったそれだけの言葉が、
私の胸の奥を熱くした。
私は気づいてしまう。
世界は、私を通して救っているわけじゃない。
世界は、救いたいものを救っている。
その場にいる私の価値じゃない。
教会の権威じゃない。
王都の中心じゃない。
“今、救われなければ死ぬもの”を、救っている。
ざわめきの中で、誰かが言った。
恐怖混じりの声で。
「……聖女が救うんじゃない」 世界が、救いたいものを救うんだ……」
その言葉は、祈りより鋭く広がった。
人々の目が変わる。
司祭を見ていた目が、祭壇を見ていた目が、
貧民街の子どもを見つめる目に変わる。
司祭長の顔が歪んだ。
怒りと恐怖と理解不能で、表情が崩れる。
「馬鹿な……そんなことが……!」
彼は叫ぶ。
「奇跡は祭壇で起きる! 教会の権威のもとで――!」
ミレイユが静かに言った。
声は小さいのに、全員の耳に届く。
「権威のもとで起きる奇跡なら、それは神じゃなく制度よ」
彼女の目が冷たい。
「……今、起きたのは、制度の外側」
私は祭壇の上で立ったまま、息を吸った。
胸が痛い。
でもそれは恐怖だけじゃない。
私は、初めて理解する。
私が“祈らない聖女”として選ばれた意味。
それは、祈りという制度から奇跡を引き剥がすため。
権力の中心から救いを引き離すため。
だから、ここでは発動しない。
ここでは、世界は動かない。
世界が救うのは、
救われない側に落ちている人だ。
ルシアンが子どもを支えながら、私を見上げた。
その目で、言っている。
見たか。
これが世界だ。
私は小さく頷いた。
喉が熱い。
泣きそうになるのを堪える。
大聖堂の中で、教会の鎖が軋む音がする。
司祭たちの権力が、目に見えない形で崩れ始める音。
そして私は知った。
これは報復じゃない。ただ、世界が選ばなくなっただけ
世界が“選ばない”という形で、
王国の中枢から奇跡が離れていく。
その瞬間から、王都は――いや、王国は、
選ばれない側へ落ち始めた。
青白い火の揺れが、再び祭壇に戻る。
けれど、さっきの光はもう戻らない。
救いは、中心を嫌ったみたいに外へ流れていく。
私は祭壇の上で、ただ立っていた。
祈らずに。
鎖を握らずに。
そして胸の奥で、静かに確信した。
この国は、もう私を“道具”にしても救われない。
世界は、別の場所を選び始めている。
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