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第5話:救いではなく、取引としての手
しおりを挟む追放って、言葉の響きは派手なのに、実際はすごく雑だ。
人を物みたいに扱う作業だから、丁寧にする必要がない。
あかりはそういう種類の現実を、もう知ってしまっていた。
鉄格子が開いて、あかりの腕が掴まれる。
引っ張られて、外へ。
胸の棄却の印が、布越しにじくじく熱い。
昨日の泣き疲れが残っているのに、身体は緊張で軽く震えていた。
「歩け」
衛兵の声が短い。
短い言葉は、心を切るのが上手い。
「必要最低限で人を動かす」っていう冷たさがある。
あかりは黙って歩いた。
抵抗しない。
抵抗すると、奪われるものが増える。
その計算を、心じゃなく身体がしてしまう。
隣に、牢の奥にいたフードの人影も引き出される。
薄い青い匂い。悲しみと決意の混ざった匂い。
相手はあかりと目が合うと、ほんの少しだけ唇を動かした。
「……生きて」
声にならない声。
たぶん彼女は、ここで何度も追放を見てきた。
追放の先が、どうなるか知ってる目だった。
あかりの胸が、きゅっと縮む。
返事をしたいのに、言葉が出ない。
言葉を出したら縁が繋がる。
でも、繋がらなくてもいい縁なんて、この世界にあるのだろうか。
ルゥは衛兵の足元をすり抜けながら、あかりの隣にぴたりと付いた。
目立つはずなのに、誰も本気で追い払えない。
猫は強い。小さいのに、妙に強い。
「ルゥ、ついてきちゃダメだよ」
囁くと、ルゥは当然みたいに言った。
「ついてく。猫、契約した」
「いつ契約したの……」
「一昨日、名前つけた」
「え、名前で契約!?」
「この世界は縁が価値。名前は縁の糸。軽い言葉ほど重い」
あかりは頭が痛くなった。
でも、ルゥがついてくることが、心のどこかで嬉しい。
嬉しい匂いが漏れそうで、必死に抑える。
街の外へ連れて行かれる。
門の外は畑が広がり、遠くに森。
昼の光は残酷なくらい明るい。
追放されるって、こういう光の下で行われるんだ、と妙に冷静に思った。
「ここで捨てろ」
衛兵が命令する。
命令された衛兵が、あかりとフードの影を突き飛ばすみたいに外へ押し出した。
あかりはよろけて膝をつく。土の匂いが鼻を刺す。
「二度と街に近づくな。近づけば刺す」
言い捨てて、衛兵たちは門へ戻っていく。
背中が遠ざかる。
置いていかれる。
世界に、雑に放り出される。
あかりは土を握ったまま、立ち上がれなかった。
喉がひりつく。
水筒は奪われた。
食べ物も奪われた。
もう一度あの街道を歩けば、同じことが起きる。
遠回りすれば、途中で倒れる。
詰み。
ルゥが言っていた「詰む」が、今ここに来た。
「……終わってないって言ったじゃん」
小さく言う。
誰に言ってるのか自分でも分からない。
空に向かって言ったみたいな声。
ルゥがあかりの前に座る。
金色の目が、まっすぐ。
「終わってない。だから、ここで止まらない」
「でも、どうやって」
「歩く」
「水もないのに……」
「あるよ。縁」
「縁で水が出るの?」
「出ない。けど、生き残る方法を引き寄せる」
ルゥの言葉はいつも抽象的で、でも妙に具体的に胸に落ちる。
“引き寄せる”。
それは願いじゃなく、仕組みなのだろうか。
フードの影――女の人が、ゆっくり立ち上がった。
顔はまだ見えない。フードの下の目だけが、静かに揺れている。
彼女の周囲に漂う青が、風に散っては戻ってくる。
「……あなた、どこへ」
女の声はかすれている。
でも、声の芯が折れていない。
折れない人の声だ。
あかりは答えられなかった。
王都へ、って言うのは簡単。でも、行ける道がない。
「……王都、行きたい」
言った瞬間、胸の印が微かに熱を持つ。
反応する。
“王都”という言葉に。
誰かの縁が触れかけている。
鉄格子の中で感じた熱が、今も続いている。
女は小さく頷きそうになって、途中で止めた。
彼女も、縁のルールを知っているのだ。
「……私は、行けない。私は……」
言葉が途切れる。
言えない事情。
あかりは無理に聞かなかった。
聞いたら繋がってしまう。
繋がるのが怖いわけじゃない。
繋がることに責任が伴うのが怖い。
そのとき――風が変わった。
夜風ではない。昼なのに、肌を撫でる風が急に乾いた。
土の匂いの中に、紙とインクの匂いが混じった。
本の匂い。
懐かしい匂いに、あかりの胸がきゅっとなる。
現代の書店の匂いみたいで。
遠くから車輪の音が聞こえた。
ガラガラ、と石を踏む音。
馬の蹄。
馬車が近づいてくる。
女が一歩、後ろへ下がる。
青い匂いが濃くなる。警戒の匂い。
「……来た」
ルゥが低く言った。
あかりの胸の印が、じわっと熱くなる。
まるでその音に呼応するみたいに。
馬車が視界に入る。
黒い木の車体。
派手じゃないけど、作りが丁寧。
旅装の男が手綱を引いている。
二十代後半くらい。すらっとした体格。
長い外套を羽織り、フードは被っていない。
髪は黒に近い茶。目は淡い灰色。
顔立ちは整っているけれど、笑顔が薄い。
“優しそう”より先に、“冷静そう”が来る。
男の周囲に漂う光の粒は、透明に近い。
感情の色が薄い。
でも、薄いからこそ、嘘が混じるとすぐ分かりそうだ。
馬車が止まる。
男が降りて、あかりたちを見た。
視線がまっすぐで、刺さる。
でも、刺さる種類が違う。
嫌悪じゃない。評価でもない。
“観察”。
標本を見る目。
だからこそ怖い。
「……棄却の匂い」
男がぽつりと言った。
あかりの背筋が凍る。
また、拒絶される。
また、追い払われる。
そう思った瞬間、ルゥが前に出た。
「この人たち、街から追放された」
ルゥが普通に喋る。
男は一瞬だけ目を細めた。驚きの匂いが、ほんの少しだけ甘く立つ。
でも、その匂いはすぐ消える。
感情を切り替えるのが早い人だ。
「喋る猫か」
「うん。で、あなたは誰」
ルゥの喋り方が馴れ馴れしい。
でも失礼じゃない。
猫だから許されるラインを完璧に踏んでいる。
男は少し考えるように間を置いてから言った。
「セレス=ヴァレリオ。王都の縁の書庫で、司書見習いをしている」
王都。
その単語があかりの胸を突く。
胸の印が、また熱を持つ。
触れかけていた縁が、今、触れた。
「司書……」
あかりの口から、勝手に言葉が漏れた。
書庫。図書館。
紙とインクの匂い。
あかりは本が好きだった。
現代でも、心がしんどいときほど本屋に逃げていた。
その逃げ場所の匂いが、目の前にある。
セレスはあかりを見た。
視線が胸元に落ちる。
隠しているのに、分かる。匂いで。
「君は異界人だな」
断定。
あかりは息を呑む。
否定しても無駄だ。
でも、肯定したら縁が繋がる。
名前と同じ。
軽い言葉は重い。
「……どうして、分かるの」
質問で返す。
ルゥが昨日教えた“ずるさ”。
生きるためのずるさ。
セレスは淡々と答えた。
「匂いが違う。感情の出方が違う。それに、棄却の印が“この世界のもの”じゃない」
この世界のものじゃない。
あかりの胸の印は、現代の婚約破棄という出来事が刻んだ傷。
この世界の縁のルールに無理矢理ねじ込まれてできた歪み。
だから異質。
だから目立つ。
だから危険。
セレスは次に、フードの女へ視線を移した。
女は一歩引いている。
青い匂いが揺れる。
「君も棄却か」
女は首を横に振った。
言葉を出さない。
賢い。縁を繋がない。
セレスはそれ以上追わなかった。追うほど縁が絡むことを知っている人の距離。
そして、セレスは再びあかりを見る。
「君を助ける」
あかりの心臓が跳ねる。
でも、次の言葉が来る。
この世界では、優しさはだいたい罠だ。
「条件がある」
ほらね。
あかりは心の奥で、少しだけ安心した。
条件があるなら、これは“善意”じゃない。
善意は、怖い。
見返りのない優しさは、裏切りの準備に見える。
「……条件って」
セレスはためらいなく言った。
「君の棄却の印を調べたい。縁の異常として興味がある。代償は――安全と食事、それから王都までの移動」
取引。
契約。
救いじゃない。
でも、だからこそ、あかりは受け入れられる。
あかりは息を吸った。
甘い鉄の匂いの中に、紙とインクの匂いが濃くなる。
その匂いが、不思議と喉を潤した。
「……私、実験台?」
「言い方は悪いが、近い」
正直。
嘘の灰色が見えない。
セレスの指先に、灰色が絡まない。
透明な匂い。
冷たいけど、澄んでいる。
「でも、君が拒否しても追わない。選ぶのは君だ」
その言葉が、あかりの胸をちくりと刺した。
“選ぶのは君”。
今まで、選んだものを渡されてきた人生だった。
選ぶ席をもらったことが、ほとんどない。
ルゥが小さく喉を鳴らした。
猫のゴロゴロ。
でも、ただの甘えじゃない。
「この人は嘘が少ない」
ルゥが判定する。
セレスはほんの少しだけ眉を上げた。
「猫に評価されるのは初めてだ」
「たぶん、光栄」
「たぶんね」
あかりはふっと笑った。
笑うと匂いが少し白くなる。
自分の感情が、今わかる。
怖い。でも、希望がある。
その混ざった匂いが、あかりの周りでふわっと揺れる。
あかりはフードの女を見た。
女は視線を逸らした。
青い匂いが、薄くなる。
彼女はこの取引に乗らない。
乗れない。
事情がある。
「……あなたは」
あかりが声をかけると、女は小さく首を振った。
そして短く言う。
「私は……ここでいい」
“ここでいい”って言い方が、痛かった。
ここでいいんじゃない。ここしかないんだ。
でも、あかりはそれ以上踏み込まなかった。
踏み込むのは優しさじゃなく、侵入になることがある。
あかりはセレスに向き直る。
胸の印が、まだ熱い。
触れかけた縁が、今、選択肢として形になっている。
「……分かった。取引、する」
言った瞬間、空気中の光の粒がすっと集まり、あかりの胸元に吸い込まれた気がした。
契約が結ばれた感覚。
軽い言葉ほど重い。
でも、今回は自分で選んだ。
その重さは、鎖じゃなくて――支えになるかもしれない。
「良い判断だ」
セレスは淡々と言って、馬車の扉を開けた。
「乗って」
あかりは一歩踏み出す。
足が震える。
でも、震えは罪じゃない。
弱さは罪じゃない。
世界が弱者として処理するだけ。
それを知った今、あかりは少しだけ立てる。
馬車の中は、木の香りと革の匂い。
毛布が置いてあり、小さな水袋がぶら下がっている。
あかりは水を見て、喉が鳴った。
でも勝手に飲めない。契約だから。
「飲んでいい?」
尋ねると、セレスは頷き――かけて、止めた。
そして言い直す。
「いい。飲め。条件に含まれてる」
あかりは水を口に含んだ。
冷たい。
身体の中を通っていく。
その一口で、やっと“生きてる”と思えた。
ルゥはあかりの隣に飛び乗って、毛布の上で丸くなる。
当然のように。
そして小さく言った。
「ね。猫、役に立つ」
「……うん。役に立つ。すごく」
言った瞬間、涙が出そうになって、あかりは慌てて窓の外を見た。
追放された門が遠ざかる。
フードの女が、遠くで小さくなっていく。
あかりは胸の奥が痛んだ。
でも、今は戻れない。
戻らない。
選んだ道を進む。
セレスが手綱を引き、馬車が動き出す。
車輪が石を踏む音が、リズムみたいに続く。
その音に合わせて、あかりの呼吸も少しずつ整っていく。
「王都まで、どれくらい?」
「二日。途中で野営する」
「二日……」
長い。
でも、昨日の夜に比べたら、怖さの種類が違う。
「君の棄却の印、痛むか?」
セレスが訊く。
その声は淡々としているけど、観察だけじゃない。
仕事としての誠実さがある。
「……少し。熱い」
「熱いのは異常だ」
「え」
「棄却の印は普通、冷たい。断絶の印だからな」
あかりは胸に手を当てた。
確かに熱い。
追放のときからずっと、微かに。
誰かの縁が触れかけている熱。
その意味が分からない。
ルゥが目を開けて、短く言った。
「再起動、進んでる」
「進んでるって、良いこと?」
「良いこと。たぶん」
「たぶんって何……」
「運命って、だいたい曖昧」
あかりは小さく笑った。
笑うと頬が少し温まる。
涙の跡が乾いていく。
窓から入る風が、頬を撫でて、塩の痕をさらっていく。
夕方、空が茜に染まるころ。
馬車の揺れに身を任せながら、あかりはふと思った。
明日は怖い。
でも、明日が怖いだけじゃない。
明日には、食事がある。
寝る場所がある。
王都という“次の場所”がある。
そして、選んだ取引がある。
怖さの中に、ほんの少しだけ、期待が混じる。
その期待は甘くて、でも今度は自分の手で守れる気がした。
あかりは小さく欠伸をした。
「寝ていいよ。猫、見張る」
「猫の見張り、信用していいの?」
「だめなときは、噛む」
「怖い……」
「安心して。噛むのは敵だけ」
あかりは目を閉じた。
馬車の揺れが子守唄みたいに続く。
紙とインクの匂いが、胸の奥で静かに灯る。
救いじゃない。取引だ。
でも、そのほうが今のあかりには優しい。
――明日は、怖いだけじゃない。
その予感を、あかりは毛布の温度と一緒に抱きしめた。
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