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第6話:縁の書庫、心が整理される場所
しおりを挟む王都が見えたのは、二日目の夕方だった。
空がまだ明るいのに、遠くの雲が紫に染まっている。
城壁は大きく、石は白っぽくて、夕日の光を吸い返していた。
あかりはその光を見ただけで、喉の奥がつん、とした。
都会の光とは違う。
ネオンみたいに人を煽らない。
ただ、そこに「続いてきた時間」がある。
「……王都」
声にすると、胸の棄却の印が微かに熱を持った。
熱は痛みじゃなく、体温に近い。
期待の甘さが漏れそうで、あかりは唇を噛む。
馬車は王都の正門へ向かわず、外壁に沿って走った。
人の流れが多い門を避けるように、細い道へ。
石畳が途切れ、路地が増える。
空気の匂いも変わっていく。家畜と煙、香辛料、焼いた肉、湿った石。
そして――紙とインク。
あかりの胸が、不意に軽くなった。
「この匂い……」
「縁の書庫が近い」
セレスが淡々と言う。
手綱を握る指がぶれない。
この人は、感情を乱さないことを武器にしてる。
ルゥは毛布の上で丸くなっていたのに、匂いが変わった瞬間に顔を上げた。
金色の瞳が、夜に向かう街を映している。
「……ここ、好き」
ルゥがぽつりと言った。
「え、猫にも好みあるんだ」
「あるよ。嫌いな場所もある」
ルゥの尻尾が小さく揺れる。
あかりはその尻尾の先に、空気中の光の粒がふわっと集まるのを見た。
王都の光は、村の光より複雑だ。色が多い。匂いも多い。
人の数が多いから、縁の数も多い。
馬車が止まったのは、大通りから一本外れた、石壁の高い建物の裏手だった。
裏口。
大きな鉄の扉。
扉の周囲は、静かすぎる。
街の喧騒が、ここだけ薄い布で遮られているみたいに遠い。
セレスが馬車を降り、あかりに手を差し出した。
でも、その手は「どうぞ」じゃなく「手順」みたいな角度で出ている。
あかりはその手を取るか迷って、結局、自分で降りた。
「……私、目立つ?」
「目立つ」
セレスは即答した。
優しくしないところが、逆にありがたい。
「棄却の匂いが、王都では余計に目立つ。人が多いから、拒絶の波も大きい」
「……波」
「嫌悪は集団で増幅する」
あかりはため息を飲み込んだ。
ここでも同じだ。
人が多いほど、値札は貼られやすい。
セレスは外套の内側から、小さな紙片を取り出した。
薄い護符。
淡い金色の線が走っていて、触れると紙なのに冷たくない。
「これを使う」
「……お札?」
「護符。棄却の印を隠すためのものだ」
「隠せるの?」
「完全には消せない。けど、見えにくくはできる」
セレスはそう言って、護符をあかりの手に渡した。
手のひらに乗った紙片は、呼吸するみたいに微かに熱い。
「貼るの?」
「君の意思で“触れて”馴染ませる。勝手に貼ると反発する」
「反発って、痒くなるとか?」
「最悪、焼ける」
「……こわ」
「だから説明してる」
セレスの淡々とした声は、怖いことを“普通のこと”として並べる。
でも、そこに嘘がない。
あかりは護符を胸元に当てた。
布越しに棄却の印の裂け目が、じくっと反応する。
「……うわ、熱い」
「呼吸を落ち着け。感情が揺れると護符も揺れる」
「いや、無理。熱いもん!」
「無理じゃない。やる」
セレスまでルゥみたいなこと言う。
あかりは思わず笑いそうになって、呼吸が乱れた。
護符が一瞬、ぱちっと静電気みたいに跳ねる。
「ほら」
「ごめん……!」
「謝るなら、落ち着け」
言い方が厳しいのに、嫌じゃない。
守られてる感じじゃないからだ。
“やり方を渡されている”感じ。
それなら、あかりは自分で立っていられる。
あかりは深呼吸した。
胸の奥で、怒りも悲しみも、ひとつずつ棚に置くみたいに落ち着かせる。
本を並べるみたいに。
一冊ずつ。
丁寧に。
護符の熱が、じわっと肌に溶けた。
痛みが消えて、代わりに薄い膜が胸に張る感覚。
棄却の裂け目の黒が、遠くなる。
「……できた?」
「見えにくくなった」
セレスがあかりの胸元を一瞥して言う。
あかりは自分の指先を見た。
いつも薄く漂っていた棄却の酸っぱい匂いが、少しだけ薄い。
完全じゃない。
でも、世界に向けて剥き出しだった傷が、布一枚分だけ守られた気がした。
「……ありがとう」
「礼は要らない。取引の範囲だ」
その言葉が、あかりの心を妙に軽くした。
優しさは借りると返さなきゃいけない。
でも取引なら、条件が明確だ。
借りたものは返せる。
返せるなら、受け取れる。
裏口の扉が、セレスの手で静かに開いた。
重い鉄が擦れる音。
その隙間から、空気が流れ出てくる。
紙とインクの香り。
乾いた木の匂い。
そして――人々の願いの残り香。
甘い、苦い、切ない、眩しい。
混ざり合っているのに、どれも強すぎない。
まるで、感情が整理されて棚に並んでいるみたいな匂いだった。
「……すごい」
あかりは思わず呟いた。
胸の奥が、じん、とする。
現代でも図書館に入ったとき、心が静かになる感覚があった。
その感覚が、もっと濃く、もっと深い。
縁の書庫。
巨大図書館。
外からはただの石の建物なのに、扉をくぐった瞬間、世界の音が変わる。
靴音が吸い込まれる。
声が自然に小さくなる。
呼吸が、ゆっくりになる。
天井は高い。
柱は白い石で、上の方に金色の装飾がある。
壁一面に本棚。本棚の上にも本棚。
梯子がいくつも掛けられていて、遥か上まで本が並ぶ。
本は紙だけじゃない。金属の板、木片、布、透明な石に文字が浮かぶもの。
この世界の記録が、形を変えて積み上がっている。
そして――光の粒が、空気中に漂っている。
外の光より柔らかい。
願いの粒。祈りの粒。
人がここで吐き出した言葉が、匂いと光になって残っている。
「……ここ、泣いても怒られなさそう」
あかりがぽつりと言うと、セレスが一瞬だけ目を細めた。
「泣くのは禁止じゃない」
「禁止とかあるんだ」
「ある。書庫は縁の集積。感情の爆発は危険だ」
「え、泣いたら爆発するの……?」
「泣き方による」
さらっと言うのが怖い。
でも、どこか笑える。
あかりは自分の頬が少しだけ緩むのを感じた。
奥から足音がした。
書庫の職員らしい人が通り過ぎる。
彼らの周囲には、静かな青が漂っている。集中の色。
あかりはその色に触れて、胸が落ち着いていく。
「ここでは、棄却の匂いも薄まる」
セレスが言う。
「え、そうなの?」
「書庫は“縁を整える場所”だからな。傷も、少しだけ落ち着く」
あかりは胸に手を当てた。
護符の膜と書庫の空気が重なって、棄却の裂け目の熱が静かになっていく。
心の中の散らかった感情が、誰かに勝手に片づけられるんじゃなく、自分の手で棚に並べ直せる気がした。
ルゥが、あかりの肩から降りた。
床に着地した瞬間、耳がぴんと立つ。
毛が逆立つ。
その反応は、今まで見たことがないほど鋭い。
「……ルゥ?」
猫は低く唸るような息を吐き、書庫の奥を睨んだ。
視線の先には、一般の閲覧室のさらに奥。
職員しか入れないような廊下。
その先に、古い扉が見えた。
扉は木でできているのに、金属みたいに鈍い光を放っている。
表面には、見たことのない紋様。
それが薄く脈打っている気がした。
ルゥが、怖いくらい真剣な声で言った。
「ここ、再起動の核がある」
あかりは背筋がぞくっとした。
再起動。
運命。
自分をここへ落としたクリック音。
その中心が、今、目の前にある?
「……核ってなに?」
「心臓みたいなもの」
「この書庫の?」
「この世界の」
ルゥの言葉が重い。
あかりの胸の棄却の印が、護符の下で微かに熱を持った。
まるで呼応するみたいに。
セレスがルゥの視線の先を見て、わずかに眉を寄せた。
「……その扉に反応するのか」
「する。嫌な感じ」
「君、猫のくせに嫌な感じとか言うんだ」
「言う。嫌なものは嫌」
ルゥが毛を逆立てたまま、あかりの足元に戻ってくる。
まるで守る位置取り。
その仕草だけで、あかりの心臓が少し早くなる。
「セレス、あの扉、何?」
あかりが聞くと、セレスは一瞬だけ迷った顔をした。
迷いの匂いが、薄い灰色ではなく、濃い青で漂う。
答えるべきかどうかの迷い。
「書庫の深層へ続く扉だ。古い記録と、危険な縁の保管庫がある」
「危険な縁って……なに」
「切れない契約。呪い。国同士の血の誓い。個人の執着。いろいろだ」
あかりは喉が鳴った。
人の執着が“危険物”として保管される場所。
それは、あかりが今まで抱えてきたものと似ている気がした。
相沢への気持ち。
捨てられた痛み。
自分を責める癖。
それらも、ここでは危険物になり得るのだろうか。
「君の棄却の印が熱いのは、その扉の影響かもしれない」
セレスが言う。
あかりは胸に触れる。
護符の膜の奥で、裂け目が小さく鼓動しているみたいに熱い。
「……私、関係あるのかな」
「ある可能性は高い」
あっさり言われて、あかりは笑ってしまった。
怖いのに、笑うしかない。
「私、ほんとに厄介だね」
「厄介だ。だから拾った」
「拾ったって言い方!」
「君を助けたと言うと、誤解が増える」
セレスは本当に淡々としている。
だけど、その淡々が、あかりにとっては救いだ。
“守られる”って、怖い。
守られると、相手の期待を背負う気がする。
でも、手段を渡されるのは違う。
手段は道具だ。
使うのは自分。
失敗しても、自分の責任として受け止められる。
それが、今のあかりには必要だった。
「……セレス」
「何だ」
「私、ここにいていいの?」
問いは自然に出た。
この場所があまりにも“整って”いて、自分の傷が場違いに思えたから。
セレスは少しだけ目を細めて、あかりの胸元の護符を見た。
「護符が効いている間は、問題ない。効き目が落ちたら、裏口から出す」
「……追い出すってこと?」
「守るためだ」
「誰を」
「君を。書庫を。どっちも」
優しい言葉じゃないのに、優しさがある。
あかりは胸の奥がじんとした。
こういう優しさなら、受け取れる。
条件のある優しさ。
境界のある優しさ。
ルゥがふん、と鼻を鳴らした。
「この人、やっぱ嘘少ない」
「猫の審査、厳しいな」
「当たり前。猫は世界の審判」
「初めて聞いた」
あかりはくすっと笑った。
笑う匂いが、書庫の匂いと混じって、柔らかくなる。
悲しみも怒りも、少しだけ棚に置ける。
セレスが歩き出す。
「案内する。まずは君の居場所を作る。次に、印の検査だ」
「居場所……」
あかりはその言葉を口の中で転がした。
居場所。
それを失った夜からまだ数日しか経っていないのに、遠い昔みたいだ。
書庫の通路を歩く。
本棚の間をすり抜けるたび、紙の匂いが深くなる。
人々の願いの残り香が、少しずつ肌を撫でて、心の角を丸めていく。
――整理される場所。
心が整理される場所。
あかりは胸の護符を指で押さえながら思った。
ここでなら、自分の痛みを“消す”んじゃなく、並べ替えられるかもしれない。
捨てられた夜の自分を、なかったことにしないで。
ちゃんと“自分の本棚”に置けるかもしれない。
そのとき、ふと背後から冷たい気配がした。
あかりが振り返ると、遠い奥の扉が、わずかに脈打つように光っていた。
ルゥがまた毛を逆立てる。
低い声で、噛みつくみたいに言う。
「……見てる」
「誰が?」
あかりの問いに、ルゥは答えない。
ただ金色の目を細めて、扉を睨み続けた。
あかりの胸の棄却の印が、護符の下で、静かに熱を増した。
まるで、そこから何かが呼んでいるみたいに。
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