婚約者に捨てられた夜、異世界で猫と運命が再起動!猫がいるので全部うまくいきます

タマ マコト

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第7話:棄却の印の正体、縁の断線ではない

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 縁の書庫の夜は、静かすぎて逆に音がする。
 本棚の隙間を風が通る音。
 遠い階段を誰かが上り下りする靴音。
 紙が湿度を吸って鳴る、ほとんど耳鳴りみたいな音。
 それらが全部、心臓の鼓動に寄り添ってくる。

 あかりは小さな部屋に通されていた。
 客用の簡易寝台。机。椅子。
 窓は高くて、外の光が斜めに差し込む。
 壁には小さな棚があり、使い込まれたカップと、何冊かの薄い本。
 “仮の居場所”だと分かるのに、あかりの胸の奥は少しだけ安堵していた。

「ここで待て」

 セレスはそう言って部屋を出ていき、戻ってきたときには両手にいろいろ抱えていた。
 薄い布、銀の糸の入った紐、香草の小袋、細い針の束。
 そして、厚い本が二冊。
 その本からは、インクの匂いが立っている。古い、でも強い匂い。

「……検査?」

「調査だ。君の棄却の印は異常だから」

「異常、って言い切るの怖い」

「怖いなら、今のうちに怯えておけ。あとで忙しくなる」

 淡々と言うのに、なぜか煽ってくる。
 あかりは口の端を引きつらせた。

「ねえ、セレス。調査って、痛い?」

「痛くないようにする」

「痛くない、じゃなくて?」

「君が暴れなければ」

「最悪!」

 あかりが言い返した瞬間、胸元の護符がわずかに熱を増した。
 感情が揺れると護符も揺れる。
 さっきの言葉を思い出し、あかりは深呼吸した。

 ルゥは部屋の隅で丸くなっていたのに、セレスが道具を並べ始めると起き上がった。
 猫のくせに、会議に参加するみたいな顔をしている。

「きみ、怖い匂い出てる」

 ルゥがあかりに言う。

「出したくて出してないよ」

「出てる。鉄の甘さが濃い」

「それ、緊張?」

「たぶん。あと、嫌な予感」

 嫌な予感。
 その単語に、あかりの胸の裂け目がちくっと痛んだ。

 セレスは椅子を引き、机の上に白い布を敷いた。

「上着を脱げ。胸元が見えるように」

「……あのさ、私女性なんだけど、良からぬこと考えないよね?」

「何を言っている」

 セレスは真顔で返してくる。
 本気で意味が分からない顔。
 それが逆に恥ずかしい。

「……はい」

 あかりは外套を脱ぎ、胸元の布を少し緩めた。
 護符を外すのが怖い。
 でも外さないと調べられない。

「護符は外す。外すと匂いが出る。だから窓を閉める」

「匂いって、そんなに広がるの?」

「広がる。棄却の匂いは“嫌悪の呼び水”だ」

 嫌悪の呼び水。
 言い方がエグい。

 セレスは窓を閉め、扉の隙間に細い紐を張った。
 銀の糸。
 糸が張られた瞬間、空気が一段静かになる。
 部屋の外の音が薄まった。

「結界?」

「簡易の遮断。匂いと縁の波を外に漏らさない」

「……すごい」

「すごくない。書庫では基本」

 基本。
 この世界の基本、物騒すぎる。

 あかりは護符に指を当てた。
 熱い。
 外した瞬間に、またあの酸っぱい棄却の匂いが溢れるのだろうか。

「……外すね」

「外せ」

「命令形強い」

「揺れている暇はない」

 あかりは息を吸って、護符をゆっくり剥がした。

 空気が変わった。
 甘い鉄の匂いが、急に酸っぱくなる。
 冷たい。
 胸の裂け目が露出した感覚。
 皮膚が、世界の視線に晒されるみたいな寒気が走った。

 黒い裂け目の紋章。
 それはやっぱり、ただの模様じゃない。
 “捨てられた夜”の痛みが、そのまま刻まれている。

 ルゥが低く唸った。
 猫の毛が逆立つ。
 セレスの目が、すっと鋭くなる。

「……やはり、普通の棄却ではない」

「え、見ただけで分かるの?」

「匂いが二重だ」

「二重?」

 セレスは香草の小袋を開け、空気中に軽く振った。
 甘い草の匂いが広がり、酸っぱさが少しだけ薄まる。

「棄却の匂いは、本来“断線”だ。切れた縁の痛みと、冷えた空白」

「うん……今、冷たい」

「だが君の印は、冷えの奥に“熱”がある。流れ込んだものがある」

 あかりは息を呑んだ。
 流れ込んだ。
 捨てられたのに、何かが入ってきた?

 セレスは針の束を取り出し、一本だけ選んだ。
 銀色の細い針。
 見るだけで痛そう。

「それ、刺すの?」

「刺さない。触れるだけ」

「触れるだけでも怖いよ」

「怖いのは正常だ」

 セレスは針先を裂け目の端に近づけた。
 触れた瞬間、針の先が微かに光った。
 黒い裂け目が、じわ、と脈打つ。
 あかりの胸が、ずきっと痛む。

「……っ」

「声を抑えろ。波が乱れる」

「無理……!」

 あかりが声を漏らすと、空気中の光の粒がざわっと揺れた。
 匂いが濃くなる。
 酸っぱさが強くなる。

 ルゥが机の上に飛び乗り、あかりの手の甲に前足を乗せた。
 いつかと同じ。
 小さな肉球が、押さえつけるように温かい。

「息。吐いて」

 ルゥが言う。
 あかりは言われるまま、ゆっくり息を吐いた。
 吐くたびに、痛みが少しずつ形を変える。
 ただの痛みじゃない。
 そこに、言葉にならない何かが混ざっている。

 セレスは針を動かしながら、目を細めていく。

「……見えた」

「何が」

「“流入痕”だ」

 セレスが針を離す。
 裂け目の黒が、ほんの一瞬だけ紫に揺れた。
 あかりの視界がぐらっとする。

 頭の中に、知らない映像が差し込んだ。
 白い会議室。スーツ。ネクタイ。笑顔。
 ――相沢。

 でも、見たことのない相沢だった。
 笑っているのに、目が空っぽ。
 その背後に、灰色の穴みたいなものが浮かんでいる。
 未来の穴。
 欠けている部分。

「……っ、なに、今の……!」

 あかりは思わず胸を押さえた。
 裂け目が熱くなる。
 視界が明滅する。

 セレスは淡々と告げた。

「君の棄却の印は、ただの断線じゃない」

「……」

「縁を切られた瞬間に、相手の運命情報が一部、君に流れ込んだ痕だ」

 言葉の意味が、すぐに脳に届かない。
 運命情報。
 流れ込んだ。
 相手の。

「……相手って、相沢?」

「おそらく。君の縁を切った者だ」

 あかりの喉が鳴った。
 吐き気がするほど、心臓が重い。
 捨てられたのに、相手の“何か”が自分に残っている。
 それは、繋がりが残っているということ?
 まだ縁が切れてないってこと?

「じゃあ、私……まだあいつと繋がってるの?」

「違う」

 セレスの否定が速い。

「縁は切れている。だが、切れた瞬間に“片方の情報”が漏れた。君に刺さったままになっている」

「刺さった……」

 あかりは自分の胸の裂け目に触れた。
 痛い。
 熱い。
 そこに“誰かの未来”が刺さっている。

 セレスは机の上の本を開いた。
 古い文字が並び、図が描かれている。
 縁の糸が二本交差し、切れた瞬間に片方から矢印が流れ込む図。

「これは“縁の逆流”と呼ばれる現象だ」

「逆流……」

「通常、縁は双方に均等に流れる。だが切断の際に圧が偏ると、片方の情報が片方へ流入する」

「圧って……」

「切った側が、強く“押し付けた”場合だ」

 押し付けた。
 あかりの胸の奥が、どくん、と嫌な音を立てた。
 相沢が切ったとき、あかりの人生を無視した。
 沈黙で、切った。
 その圧。
 その身勝手さ。

「つまり、私は……」

 あかりは声が震えるのを自覚しながら言った。

「捨てられた代わりに、相手の未来の欠損を握ってる?」

 セレスが頷きかけて、止めた。
 頷くと縁が繋がる。
 それを知っているのに、うっかりしそうになるあたり、セレスも人間だ。

「概ね、そうだ」

 あかりの胃がひっくり返る。
 気持ち悪い。
 寒い。
 自分の中に、自分じゃない未来がある。
 それは復讐のカードみたいに聞こえるのに、全然嬉しくない。
 むしろ、気味が悪い。

「……やだ」

 あかりは小さく言った。
 泣き声じゃない。
 吐き出す声。

「私、そんなの持ちたくない」

 相沢の未来がどうなろうと、知ったことじゃない。
 そう言いたいのに、胸が熱い。
 裂け目が、その言葉を拒否するみたいに疼く。

 セレスが本を閉じ、淡々と続ける。

「君がそれを“使えば”、相手の運命に干渉できる可能性がある」

「……え」

「ただし、使うほど君の傷も深くなる」

「最悪じゃん……」

「最悪だ。だから、これは武器じゃない。呪いに近い」

 呪い。
 その言葉で、あかりは背中に冷たい汗が流れた。

「私、復讐なんてしたいわけじゃない。なのに……」

 言葉が詰まる。
 復讐したいわけじゃないのに、復讐の材料を持たされている。
 他人の人生の部品。
 未来の欠損。
 そんなものを胸に抱えたまま、生きていけるの?

 ルゥが、あかりの手を前足でぎゅっと押さえた。
 肉球の圧が、妙に現実的で、あかりを地面に繋ぎ止める。

「きみは奪ったんじゃない」

 ルゥの声は静かだった。
 静かだから、余計に刺さる。

「……」

「押し付けられたんだよ」

 押し付けられた。
 その言葉で、あかりの胸の奥がほどけた。
 涙が出そうになる。
 でも、それは悲しみだけじゃない。
 怒りとも違う。
 やっと“名前”が付いた感情。

 ――被害。
 ――被害者。

 あかりは、自分が被害者だと思うことを避けてきた。
 被害者って言うと弱い気がした。
 被害者って言うと、誰かに守られなきゃいけない気がした。
 でも今、ルゥの言葉は違う。
 被害者だからって、終わりじゃない。
 被害者だからって、恥じゃない。

「……私、悪くなかった?」

 声が震える。
 自分に聞いてるみたいな質問。

 セレスが淡々と答える。

「君が悪いわけではない。少なくとも、この現象の責任は切った側にある」

「……」

「君は巻き込まれた。押し付けられた」

 あかりの目の奥が熱くなった。
 涙が滲む。
 でも、その涙は“自分を責める涙”じゃない。
 やっと、自分を許す涙だ。

「……私、頑張ったのに、足りなかったんじゃなくて」

 言葉が途切れる。
 喉が詰まる。
 息が震える。

「……ただ、押し付けられただけ?」

 ルゥが小さく「うん」と鳴く。
 鳴き声なのに、肯定に聞こえる。

 あかりは息を吐いた。
 胸の裂け目の熱が、少しだけ落ち着く。
 まるで「それでいい」と言われたみたいに。

 セレスは道具を片づけ始めた。
 淡々としているけれど、その手つきが慎重だ。
 あかりの傷を“異常”として扱いながらも、乱暴にしない。
 それが救いだった。

「……これ、どうすればいいの」

 あかりは訊いた。
 未来の欠損を抱えたまま、どう生きればいいのか。

 セレスは一度だけ、あかりを見た。
 淡い灰色の目。
 冷たいのに、逃げない目。

「まずは安定させる。君の印が暴れないように」

「安定……」

「護符を改良する。君の感情で逆流が起きないようにする」

「私の感情で?」

「怒りや恐怖が強いと、流入した情報が浮上する。さっきの幻視がそれだ」

 あかりは思い出して、身震いした。
 会議室の相沢。
 灰色の穴。
 あれが未来の欠損。

「……見たくない」

「見なくていいようにする。それが取引の一部だ」

 取引。
 その言葉が、あかりを支える。
 優しさじゃない。契約。
 だから、頼れる。

 ルゥが机から降りて、床に着地した。
 そして、あかりの足首に体を擦りつける。

「ね。押し付けられたものは、返せる」

「返せるの?」

「返す方法はある。たぶん」

「たぶん多いなあ……」

「運命って曖昧だって言ったでしょ」

 あかりは、泣きそうな顔のまま笑った。
 涙と笑いが混ざると、匂いが白くなる。
 書庫の空気の中で、その白い匂いがふわっと広がり、すぐに棚の奥へ吸い込まれていく。

 胸の裂け目はまだ黒い。
 でも、その黒は“自分の罪”じゃない。
 押し付けられた痕だ。
 その理解が、あかりの背骨を一本、まっすぐにした。

「……私、被害者でいいんだ」

 小さく呟くと、ルゥが当たり前みたいに言った。

「うん。被害者は、次に選ぶ人になれる」

 セレスが護符を手に取りながら、淡々と付け足す。

「そして選ぶには、まず自分の足場を固めろ。ここは書庫だ。整えるには向いている」

 縁の書庫。
 心が整理される場所。
 あかりは胸の裂け目にそっと指を当て、最後に小さく息を吐いた。

 ――奪ったんじゃない。押し付けられた。
 その言葉が、あかりの中で静かに響き続けていた。
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