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第9話:元婚約者、召喚の噂が広がる
しおりを挟む噂は、匂いから来る。
縁の書庫の朝はいつも静かで、音より先に匂いが動く。
本棚の隙間を抜けて、誰かの焦りが漂ってくる。
誰かの期待が甘く立ち上がって、誰かの恐怖が苦く沈む。
紙とインクの匂いの奥に、いつもと違う“ざわめき”が混じるとき、何かが起きている。
あかりはその日、廊下を歩きながらそれを感じていた。
昨日までの書庫は、感情の粒が整然としていた。
棚に並べられた本みたいに、落ち着いた色。
なのに今日は、粒が踊っている。
踊り方が、落ち着かない。
「……なんか、空気が変」
呟くと、足元のルゥが鼻を鳴らした。
「うん。甘い匂いが多い。期待の匂い」
「期待って、良いことじゃないの?」
「良い期待と、危ない期待がある」
「危ない期待って何……」
「“誰かを使って勝ちたい”匂い」
嫌な言い方をする。
でも、ルゥの嫌な言い方は当たる確率が高い。
当たるから嫌。
そのまま食堂へ向かうと、いつもより人が多かった。
司書見習いたちが立ち話をしている。
普段は声を潜めているのに、今日は小声が弾んで、あちこちでさざ波みたいに重なっている。
「聞いた? 異界召喚って」
「王宮が動いたって」
「男らしいよ」
“男”。
その単語が、あかりの胃をきゅっと縮めた。
視界が一瞬だけ暗くなる。
ミラが鍋の前で腕を組み、いつもより目を輝かせていた。
興奮の匂いは甘い。
でもその甘さの端に、いつもの“捨てられる恐怖”がちらっと覗く。
嬉しい話題でも、彼女は不安を手放せない。
「あかり! おはよ! 聞いた!? 聞いた!?」
「……おはよ。なにを」
「異界召喚! 王都で! 男が! 落ちてきたって!」
ミラの声が大きい。
あかりは思わず周りを見た。
護符があるとはいえ、棄却の匂いはゼロじゃない。
目立ちたくない。
でも、ミラの興奮は止まらない。
「落ちてきたって……なに、隕石みたいに?」
「知らんけど! とにかく“異界の男”って噂! 王宮の儀式で成功したとか、逆に事故で勝手に来たとか、もう情報がぐちゃぐちゃ!」
ぐちゃぐちゃ。
噂らしい。
あかりの喉が乾いた。
異界。召喚。男。
その単語が組み合わさった瞬間、脳内で一人の顔が浮かぶ。
相沢 恒一。
電話越しの整った声。
「なかったことにしてくれないかな」
その言葉の温度のなさ。
あかりはスープの匂いが突然遠くなった気がした。
胃が冷える。
冷えた胃が、さらに胃を締め付ける。
「……あかり?」
ミラが首を傾げる。
明るい声が、心配の色に変わる。
ミラの視線の端の恐怖が、今度はあかりに刺さった。
「大丈夫?」
あかりは反射的に「大丈夫」と言いそうになって、止めた。
灰色が出る。
そして何より、自分に嘘をつきたくなかった。
「……大丈夫じゃない」
言った瞬間、空気中の粒が少しだけ白くなる。
正直の匂い。
ミラの目が見開かれて、それから、声を落とした。
「え……なに、もしかして、あかりも異界人だったとか?」
言い方が雑だけど、核心を突いている。
あかりは思わず笑いそうになって、笑えない。
喉が詰まったまま、小さく頷きそうになって、止める。
「……そう、かもしれない」
言い方をぼかす。
縁を軽く繋がないためのズル。
でもミラはそれでも察したらしい。
彼女は唇を噛み、鍋の蓋を閉めた。
音がやけに大きく響いた。
「じゃあ……その召喚された男って、あかりの知り合い?」
あかりは答えられなかった。
答えたら、現実になる。
現実にしたくない。
怖い。
ミラが慌てて手を振る。
「ごめん! 踏み込んだ! いや、踏み込んでないつもりだったけど、踏み込んだ! ごめん!」
「……いい」
あかりはスープの椅子に座って、手を見た。
指先が冷たい。
胸の裂け目が、護符の下で微かに熱を持つ。
嫌な熱。
“来る”熱。
そのタイミングで、セレスが食堂に入ってきた。
いつも通り無表情。
でも今日は、周囲のざわめきを無視しているようで、ちゃんと拾っている目をしていた。
「セレス」
あかりが呼ぶ。
セレスは軽く手を上げて、あかりの方へまっすぐ歩いてきた。
あかりの前に立つと、短く言う。
「噂を聞いたな」
「……うん」
セレスは椅子を引いて座り、周囲に聞こえない声量に落とす。
「王都に“異界の男が召喚された”という噂が流れている」
確認。
現実の固定。
あかりの胃がさらに冷えた。
「それ、ほんとなの?」
聞く声が震える。
震えの匂いが、苦い。
ルゥが足元で低く唸った。
「噂の核は本当だ。王宮が儀式を行った形跡がある」
「形跡……」
「完全な情報はまだない」
セレスは淡々と言った。
淡々としているから、余計に怖い。
感情がない声は、現実を硬くする。
ミラが不安そうにあかりを見る。
彼女は空気が読めるのに、同時に怖がりだ。
捨てられる恐怖が、視線の端で揺れる。
あかりはミラに微笑もうとして、やめた。
無理に笑うと灰色が出る。
「……異界召喚って、そんなに大事?」
あかりが聞くと、セレスは少しだけ眉を寄せた。
説明する顔。
授業の顔。
「異界召喚は政治の道具だ」
その言葉が、あかりの背中を冷やした。
「道具……」
「異界人は、この世界の縁のルールに完全には縛られないことがある。だから、強い。予測できない。王宮はそれを利用する」
「利用って……戦争とか?」
「戦争もある。外交もある。派閥争いもある」
セレスの声が淡々としているほど、内容が怖い。
あかりは息を吸って、吐いた。
呼吸を整えないと、匂いが濃くなる。
「君の世界の人間なら、真っ先に利用される」
セレスが断言した。
あかりの中で、嫌な想像が走る。
相沢が召喚されたら。
あの人は“整っている”から、利用されやすい。
正しい言葉を選べる。
角の立たない返事ができる。
政治の場で求められる“便利さ”を持っている。
そして、その便利さの代償はいつも――誰かの犠牲だ。
あかりは手のひらを握りしめた。
爪が食い込む。
痛い。
その痛みで、現実に繋ぎ止める。
「……私、関係ある?」
声が小さくなる。
自分でも情けないくらい。
セレスは答える前に、あかりの胸元――護符の位置――を一瞥した。
「ある可能性は高い」
「……やっぱり」
「君の棄却の印は“逆流痕”だ。相手の運命欠損を握っている。相手がこの世界にいるなら、縁の残滓は引き寄せ合う」
引き寄せ合う。
切れたはずの縁が。
あかりの胃が、さらに冷える。
ルゥが低く唸り、机の下から顔を出した。
金色の目が鋭く、いつもの軽さがない。
「追いついてくるよ」
ルゥが言った。
「きみの“切れたはずの縁”が」
その言葉が、あかりの背骨に冷たい指を這わせた。
会いたいわけじゃない。
声も聞きたくない。
顔も見たくない。
でも、“追いついてくる”という響きは、逃げ道を塞ぐ。
「……やだ」
あかりは思わず口にした。
吐き出すみたいな声。
「会いたくない」
言った瞬間、匂いが濃くなる。恐怖の匂い。
酸っぱさも混じる。棄却の匂いが少しだけ浮く。
護符が微かに熱を持つ。
押さえ込まれていた裂け目が、外に出たがっている。
ミラが口を開く。
言うべきか迷う匂いが、揺れる。
「……でもさ」
「ミラ、無理に言わなくていい」
あかりが先に言うと、ミラは一瞬だけ救われた顔をして、でも言った。
「会いたくない理由って、“怖いから”?」
あかりは頷きそうになって、止めた。
視線を落として、言葉で答える。
「怖い」
短い。
でも本音だ。
「怒ってるとか、復讐したいとかじゃないの?」
「……違う」
違う。
あかりが怖いのは、彼が嫌いだからじゃない。
嫌いにもなりきれない自分が怖い。
そしてもっと怖いのは――
「また、価値のないもの扱いされるのが怖い」
言った瞬間、胸の裂け目がずきっと痛んだ。
あの夜の電話が蘇る。
「なかったことにして」
その言葉が、あかりを値札に変えた。
価値なし。返品。処分。
ミラの匂いが苦くなる。
彼女の捨てられる恐怖が、あかりの恐怖に共鳴する。
「……わかる」
ミラが小さく言った。
「捨てられるのって、怖いよね。捨てられるってさ、死ぬより怖いときある」
あかりは黙ってスープを握った。
湯気が頬を撫でるのに、胃の冷たさが消えない。
セレスが淡々と指示を出す。
「噂が広がる前に対策をする。君はしばらく書庫の外に出るな」
「……閉じ込め?」
「保護だ。だが君の受け取り方は自由」
自由。
その言葉が救いなのに、自由は責任も連れてくる。
「私はどうすればいい?」
あかりが聞くと、セレスは視線を落とし、机の上に指で小さな円を描いた。
「まず情報を集める。召喚の“男”が誰か、どの派閥が握っているか」
「もし……私の知ってる人だったら?」
あかりの声が震える。
セレスは即答しなかった。
それが逆に現実的だった。
「そのとき考える」
冷たく聞こえる。
でも、きっとそれが正しい。
未来の恐怖を今抱えすぎると、護符が揺れる。裂け目が暴れる。
自分の心がフリーズする。
ルゥが机の上に飛び乗って、あかりの腕に頭を擦りつけた。
いつもより強く。
慰めじゃない。
“ここにいる”の確認。
「猫、いる」
ルゥが言う。
「追いつかれても、きみは選べる」
選べる。
この世界で言われた言葉。
選ぶ番。
でも、選ぶって怖い。
選んだ結果が失敗なら、今度は誰のせいにもできない。
あかりは息を吸う。
紙とインクの匂いが肺に入る。
この匂いは落ち着く。
心を棚に戻す匂い。
「……私、逃げてもいい?」
思わず聞いてしまった。
セレスは淡々と答える。
「逃げるのも選択だ。だが逃げるなら、逃げる準備が必要だ」
「準備……」
「匂いを隠す、護符を強化する、行き先を決める。何も考えずに逃げるのは、また奪われる」
“また奪われる”。
その言葉が、あかりの胸に刺さる。
奪われた食べ物。
奪われた通る権利。
鉄格子。
あかりは同じことを繰り返したくない。
ミラが小さく拳を握った。
彼女の明るい鎧が、一瞬だけ剥がれる。
「……ねえ、あかり」
「なに」
「もしその男が、あかりを捨てたやつだったら、あかりはどうしたい?」
あかりは言葉を探した。
復讐したいわけじゃない。
謝ってほしいわけでもない。
ただ――
「……私の人生を、もう勝手に決めないでって言いたい」
言った瞬間、胸の裂け目の痛みが少しだけ変わった。
痛みが、怒りの形になる。
燃料になる。
自分を守る火になる。
セレスが静かに言う。
「それが言えるなら、君はもう価値のないものじゃない」
あかりは目を瞬いた。
価値。
値札。
貼られてきた言葉。
ルゥが低く鳴く。
「価値は、貼られるものじゃない。決めるもの」
その言葉が、あかりの胃の冷たさを少しだけ溶かした。
怖い。
でも、怖いだけじゃない。
胸の奥に、小さな熱が残る。
噂は書庫の外でも膨らんでいく。
王都の風が、紙とインクの匂いの隙間をすり抜け、甘い期待の匂いを運んでくる。
異界の男。
召喚。
政治の道具。
そして、追いついてくる切れたはずの縁。
あかりはスープのスプーンを握りしめ、ゆっくり息を吐いた。
今はまだ会わない。
今はまだ、棚に並べる。
でも心のどこかで、あかりはもう知っていた。
この噂は、ただの噂で終わらない。
終わらせてくれない。
追いついてくる。
だからこそ――選ぶ番が、また来る。
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