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第10話:再会、彼は“更新されない顔”をしていた
しおりを挟む噂は、形になるときが一番残酷だ。
縁の書庫の中で聞いていたとき、噂はまだ“遠い音”だった。
誰かの口から誰かの口へ渡される、曖昧な塊。
でも王都の空気に出た瞬間、それは匂いになって、光になって、肌に貼りつく。
その日、セレスはあかりを裏口から連れ出した。
外套のフードを深く被せ、胸元の護符を指で確認するように押さえる。
「外に出るなと言ったのにな」
セレスが言う。
「連れて出してるの、誰」
「情報が必要だ。目で見たほうが早い」
「……危ないって言ったのに」
「危ないから、私がいる」
淡々とした声。
守ると言わないのに、守る配置。
それがセレスらしい。
ルゥはあかりの肩に乗っていた。
耳がずっと立っている。
猫のくせに、警戒のプロみたいな顔をしている。
「匂い、強い」
ルゥが低く言った。
「甘い匂い。人が集まってる」
角を曲がると、広場が見えた。
王都の中心にある石畳の広場。
噴水があり、彫像があり、屋台が並ぶ――はずの場所。
でも今日は、屋台も音楽もない。
代わりに、王宮の兵が列を作り、群衆を柵の外へ押し込めている。
群衆の匂いは、混ざっていた。
期待の甘さ。恐怖の苦さ。嫉妬の酸っぱさ。
そして一番強いのは――“見物”の匂い。
誰かの人生が揺れる瞬間を、遠くから眺めて安心したい匂い。
あかりの胃が冷えた。
冷えが背中へ昇って、肩が固まる。
「……これ、祭りみたい」
口にした瞬間、自分の言葉の薄さにゾッとした。
祭りじゃない。
儀式だ。政治だ。道具だ。
セレスがあかりの袖を引き、群衆の陰へ誘導した。
柵の内側が見える位置。
でも真正面じゃない。
視線が集まりにくい角度。
「ここで見る」
「……見たくない」
「見ないと、想像が暴れる」
セレスの言葉が、胸の中の散らかった本を整列させた。
想像は怖い。
現実より怖いときがある。
あかりは息を吸って、吐いた。
護符が熱を帯びる。
大丈夫。膜がある。見えにくい。匂いも薄い――はず。
広場の中央に、白い円が描かれていた。
石畳に刻まれた魔法陣。
周囲には金の支柱が立ち、薄い膜みたいな光が揺れている。
そこに立つのは、王宮の官吏と、僧衣のような服を着た儀式師。
彼らの周囲には、濃い青と金の光が漂い、権力の匂いが鼻を刺す。
「……あそこに?」
あかりが言うと、セレスが小さく頷きかけて止めた。
代わりに短く言う。
「あそこに、召喚された者が出る」
時間が少しだけ遅くなる。
群衆のざわめきが遠のく。
あかりの鼓動が、耳の奥で大きくなる。
儀式師が杖を掲げた。
金色の光が円の中に集まる。
空気が、甘い鉄の匂いを強くする。
その匂いはこの世界に来たときの目覚めと同じだ。
思い出して、背中が冷える。
光が弾けた。
次の瞬間、円の中に人影が現れた。
膝をついて、片手で地面を支え、息を荒くしている。
黒いスーツ。
ネクタイ。
現代の服装。
そこだけが、場違いに“地球”だった。
あかりの視界が狭くなる。
音が消える。
匂いが尖る。
心臓が一拍、遅れる。
「……うそ」
口から漏れた声は、ほとんど息だった。
男が顔を上げた。
その瞬間、あかりの胸の裂け目が護符の下でずきっと痛んだ。
熱が走る。
流入痕が、反応する。
相沢 恒一。
間違えようがない。
髪の流れ。眉の形。唇の癖。
現代で毎日見ていた顔。
未来を約束したはずの顔。
なのに――違った。
整っていた大人の顔が、どこか崩れている。
目の下に薄い影。疲れの影。
口元には笑顔の形が残っているのに、その笑顔だけが“昔のまま貼り付いている”みたいだった。
目が笑っていない。
目が、更新されていない。
時間が彼の中だけ止まっている。
そんな感じがした。
まるで写真の中の人が、無理に動かされているみたいな違和感。
あかりは息を呑んだ。
護符越しに、胸が痛い。
痛みの奥で、別の感覚が立ち上がる。
――欠けてる。
相沢の胸元。
誰にも見えないはずの場所に、薄い灰色の靄が漂っていた。
灰色は嘘の色ではない。
もっと鈍い、止まった灰色。
空気が凍ったみたいな、更新されない色。
「……あれ」
あかりが呟くと、セレスが小声で言った。
「縁の停止痕だ」
「停止……」
言葉が喉に引っかかる。
停止って、死?
終わり?
セレスは視線を円から逸らさず、淡々と、でも低い声で続けた。
「君と縁を切った瞬間、彼の運命は欠けた」
欠けた。
セレスから聞いた言葉。
あかりが握っている未来の欠損。
それが、目の前で形になっている。
「ここの世界はそれを……容赦なく反映する」
容赦なく。
その言葉が、王都の光より冷たかった。
相沢は立ち上がろうとして、ふらついた。
官吏が素早く近づき、腕を取って支える。
支えられた相沢は、反射的に笑おうとする。
昔の会社用の笑顔。愛想の笑顔。
でも、頬が上がらない。
笑顔だけが貼り付いているから、顔の他の部分が追いつけない。
「ここは……どこですか」
相沢の声が広場に響いた。
あかりの耳が、勝手にその声を拾う。
喉の奥が苦くなる。
電話越しに聞いた、あの整った声。
でも今は少し擦れている。
不安が混じって、声の輪郭が崩れている。
官吏が朗々と答える。
「ここはリュミエル王国、王都。貴殿は異界より召喚された」
群衆がざわめく。
歓声。どよめき。祈りの声。
期待の甘さが一斉に広がり、あかりの胃がさらに冷える。
“使える道具が来た”匂いが、広場を満たしていく。
相沢が戸惑ったように周囲を見回す。
その視線が、柵の外の群衆へ滑る。
そして――あかりのいる方へ、近づく。
視線が、来る。
来ないで。
気づかないで。
あかりは息を止めた。
護符の膜が熱くなる。
棄却の匂いを押さえ込む。
でも、心臓の音は隠せない。
相沢の目が、群衆の端で止まった。
止まる。
その瞬間、あかりの胸がずきっと痛む。
流入痕が、針みたいに刺す。
視界の端に、あの灰色の穴がちらつく。
「……」
相沢が何か言いかけて、口を閉じた。
眉が少しだけ動く。
認識しかけた顔。
でも確信に届かない顔。
更新されない顔が、必死に検索している。
あかりは、身体が勝手に一歩前に出そうになるのを感じた。
呼ばれているわけじゃないのに。
縁が引っ張る。
切れたはずの糸が、まだ指に絡んでいるみたいに。
その瞬間、肩の上のルゥが、あかりの耳元で短く告げた。
「近づくな」
低い声。
命令じゃない。
警告。
でも、あかりを守るための刃の声。
「きみはもう、彼の更新ボタンじゃない」
更新ボタン。
その言葉が、胸の奥に落ちて、そこからじわっと広がった。
更新ボタン。
相沢が止まりそうになったとき、押してあげる役。
相沢が迷ったとき、整えてあげる役。
相沢の未来のために、笑って頷く役。
――違う。
もう違う。
あかりはその言葉に縋るように、足を引いた。
群衆の陰へ身を引く。
柵の柱の影に体を寄せる。
視線から逃げる。
逃げる。
でもこれは、弱い逃げじゃない。
自分を守る逃げだ。
守るための選択だ。
セレスがあかりの肩を軽く押して、さらに奥へ誘導した。
声は出さない。
目だけで「ここまで」と言う。
あかりは石の柱の裏に隠れながら、もう一度だけ広場を見る。
相沢は王宮の官吏に囲まれ、円の外へ導かれていく。
群衆は歓声を上げる。
拍手。祈り。期待。
彼の周囲の縁の粒が、金と青に染まっていく。
“道具としての縁”が絡みついていく。
相沢は笑おうとして、笑えないまま歩く。
彼の胸元には、停止痕の灰色が薄く漂っている。
誰にも見えないはずなのに、あかりには見える。
見えてしまう。
自分が握ってしまった未来の欠損が、目の前で呼吸している。
「……なんで」
声が震える。
怒りでも、同情でもない。
ただ、理解できない怖さ。
セレスが小声で言う。
「君が責任を感じる必要はない」
「……でも」
「彼が選んだ切断だ。君の人生を切って、自分の未来を押し付けた。その反動が出ただけだ」
反動。
結果。
世界が容赦なく反映するだけ。
あかりは唇を噛んだ。
会いたいわけじゃない。
言いたいことがあるわけでもない。
でも、胸の裂け目が疼く。
縁が呼ぶ。
切れたはずの糸が、まだ手首に絡む。
ルゥがあかりの頬に頭を擦りつけた。
猫の温度。
現実の温度。
「怖いのは、会うことじゃない」
ルゥが言う。
「また、価値のないものにされることが怖いんでしょ」
見透かされる。
その通りだ。
相沢に会うのが怖いんじゃない。
相沢の前でまた、何もない自分に戻るのが怖い。
“なかったことにできる存在”として扱われるのが怖い。
あかりは息を吸って、吐いた。
護符の膜が落ち着く。
匂いが少し白くなる。
正直の匂い。
「……うん」
短く言う。
頷かない。
でも言う。
広場の喧騒は続く。
噂が噂を呼び、期待が期待を増幅する。
相沢はその中心へ連れていかれる。
道具として磨かれ、縁として絡め取られていく。
あかりは柱の影で、爪を握りしめた。
怖い。
でも、足が動かないほどじゃない。
逃げるだけじゃない。
自分を守って、選んで、立っている。
ルゥの言葉が、背中に貼りつく。
――きみはもう、彼の更新ボタンじゃない。
あかりはその言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、群衆の陰に自分の輪郭を隠した。
今は、再会しない。
今は、物語の主導権を渡さない。
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