11 / 20
第11話:彼は縋り、彼女は震える
しおりを挟む夜の王都は、昼より匂いが正直だ。
人の言葉が少なくなるぶん、感情がむき出しになる。
灯りは温かいのに、影が濃い。
石畳は昼の熱をまだ握っていて、足裏からじんわりと過去みたいな温度が伝わってくる。
あかりは書庫の裏口から外へ出ていた。
ただ、セレスに護符の改良に使う香草を書庫へ運ぶ手伝いを頼まれて、断れなかった。
断れなかった、というより――断らない自分を選びたかった。
日常に触れて、日常の一部になることで、自分の輪郭を守れる気がしたから。
セレスに頼まれた木箱は想像より重くて、腕がぷるぷるする。
「持てる?」と言われて「持てる」と言ってしまったのは、ちょっとだけ見栄だ。
灰色が出ない程度の見栄。
でも今は、その見栄が自分を立たせていた。
「……重い……」
箱を抱え直すと、肩の上のルゥが欠伸をした。
「落としたら、縁が絡む」
「落としたら恥ずかしいだけでしょ」
「恥ずかしさも縁」
「めんどくさ……」
小声で言い返すと、ルゥが尻尾で頬をちょんと叩いてきた。
猫のくせに、妙に鼓舞してくる。
書庫の裏手の路地は細い。
灯りは少なく、壁は高い。
でも、書庫の石壁から漂う紙とインクの匂いが、暗闇の中でも道しるべみたいに続いている。
あかりはその匂いが好きになり始めていた。
心が整う匂い。
散らかった感情を、棚に戻す匂い。
角を曲がったところで、ふっと空気が冷えた。
鉄の甘い匂いじゃない。
紙とインクでもない。
生乾きのスーツ、室内の空調、コンビニのコーヒー。
“あっちの世界”の匂い。
あかりの足が止まった。
肺が一瞬で固まる。
息が入らない。
護符が熱を帯びる。
胸の裂け目が、内側から爪で引っ掻かれたみたいに痛む。
路地の向こうに、人影があった。
ふらふらと歩いて、壁に手をついている。
夜の灯りが横顔を照らし、目の下の影を強くした。
相沢 恒一。
あかりの頭が真っ白になる。
身体だけが先に反応する。
膝が抜けそうになる。
箱が重くなる。
指が冷たくなる。
怒りより先に、懐かしさが来た。
懐かしさより先に、怖さが来た。
怖さより先に――“昔の自分”が、勝手に立ち上がろうとする。
笑って誤魔化して、空気を整えて、相手の顔色を見て、
「大丈夫?」って言ってしまう自分。
あかりは、唇を噛んだ。
それをさせたくない。
でも身体が勝手に――
「……あかり?」
相沢が顔を上げた。
目が合った瞬間、あかりの胸がずきっと痛む。
流入痕が反応する。
視界の端に、灰色の穴がちらつく。
相沢の胸元に漂う“縁の停止痕”が、夜の闇に薄く浮かぶ。
止まった灰色。更新されない灰色。
「……あかり、だよな?」
相沢の声は、電話越しよりも擦れていた。
整った声のはずなのに、端っこが揺れている。
揺れは恐怖の匂いを連れてくる。
自分が今いる世界が、分からなくて怖い匂い。
そしてもう一つ、もっと嫌な匂い。
――縋り。
助けを求める匂い。
「なんで……ここに……」
相沢は一歩近づこうとして、ふらついた。
あかりの身体が反射的に動きそうになる。
支える?
手を伸ばす?
やめろ。
やめろ、昔の自分。
箱が腕の中で揺れた。
木がきしむ音が、やけに大きい。
「……っ」
声にならない声が喉から漏れる。
息が浅い。
護符が熱い。
胸の裂け目が痛い。
相沢は、あかりの顔をじっと見た。
昔みたいに、表情から答えを引き出そうとする視線。
いつもあかりが先に折れて、空気を整えてきた視線。
「……助けてくれ」
突然、相沢が言った。
その言葉が、石畳に落ちて、砕けた。
「俺、わけが分からなくて……王宮の人たち、俺の話を聞くふりして、全部勝手に決めて……」
言い訳が始まる。
自分の身の上話で、自分を正当化しようとする声。
でも、その声が妙に空回りしている。
言葉が、重力を失っている。
空気中に、鈍い灰色が漂った。
嘘の灰色。
でも、完全な嘘じゃない。
“自分に都合のいい言い方”の灰色。
本人も半分信じている灰色。
だから一番厄介な色。
相沢の言葉は、灰色を引きずって、途中で薄くなって、路地の闇に溶けていく。
まるで、世界が彼の言葉を受け取らないみたいに。
「……あかり、俺……」
相沢がまた一歩近づく。
あかりの足がすくむ。
動けない。
逃げたいのに。
声を出したいのに。
昔の自分が、喉の奥から覗いてくる。
その瞬間、肩の上のルゥが、すっと降りた。
猫の着地音は小さい。
でも、あかりにはそれが“境界線が引かれる音”に聞こえた。
ルゥは相沢の足元へ行き、真っ直ぐ見上げた。
金色の瞳が夜に光る。
毛は逆立っていない。
怖がってもいない。
ただ、冷たい。
「触るな」
ルゥが淡々と言った。
相沢は固まった。
喋る猫を見て驚く余裕すらない。
彼の顔は、更新されないまま、ただ歪む。
「……猫?」
「きみは捨てた」
ルゥの声は低く、容赦がない。
たった六文字が、釘みたいに刺さる。
捨てた。
その事実が、言葉の形で相沢の胸に打ち込まれる。
相沢の喉が鳴った。
息を吸う音が震える。
彼は初めて、自分が切ったものの重さを“ここ”で感じている顔をした。
「……捨てたって……俺は……」
言い訳が続く。
「捨てたつもりはなかった」
「お互いのために」
「あかりなら分かってくれると思って」
そんな定型文が、相沢の口から出かけて――
出ない。
言葉が空中で灰色に濁って、落ちて消える。
この世界は、曖昧な言い訳に厳しい。
縁が見える世界は、縁から逃げる言葉を嫌う。
相沢は困ったように笑おうとした。
貼り付けた笑顔。
でも頬が動かず、目だけが乾いている。
笑顔が、古い写真の上から無理に貼られたシールみたいだ。
「……あかり」
相沢が、あかりの名前を呼ぶ。
その呼び方に、妙に頼り切った匂いが混じる。
昔みたいに、あかりが正解を返してくれると思っている匂い。
あかりの身体が揺れた。
膝が折れそうになる。
でも、ルゥの言葉が背中に残っている。
――更新ボタンじゃない。
あかりは息を吸い直した。
胸の裂け目の痛みを、呼吸の奥へ押し込む。
護符の膜を意識する。
自分の輪郭を思い出す。
「……私は」
声が震える。
震えは恥じゃない。
震えは今の自分の真実。
「……私は、ここで生きてる。それだけ」
言い切った瞬間、空気が少し白くなった。
正直の匂い。
自分の言葉が、自分の足元を固める。
相沢の目が揺れた。
焦りの匂いが濃くなる。
縋りの匂いが甘くなる。
そして、恐怖が混じる。
――あかりが、もう自分のものじゃない恐怖。
「待って。俺、違うんだ。俺だって、辛かったんだよ」
相沢は早口になる。
言い訳が束になる。
でも束になっても、灰色は濃くなるだけだ。
言葉は重くならない。
空気に落ちて、石畳に吸われて消える。
「仕事が忙しくて、将来のこと考えたら不安で、君はいつも正しくて、俺は――」
「正しいって言葉、嫌い」
あかりの口から、勝手に出た。
自分でも驚いた。
でも止められなかった。
「え……」
「私、“正しく”してただけだよ。嫌われないために。捨てられないために」
言葉が続く。
止まらない。
怒りではなく、真実が溢れる。
「でも捨てられた。だからもう、正しさで生きない」
相沢の顔が、少しだけ崩れた。
貼り付いた笑顔の端が剥がれる。
その下に、子どもみたいな困惑が見えた。
「……俺は、そんなつもりじゃ」
相沢が言う。
灰色が絡む。
空気に落ちる。
消える。
あかりは、その消え方を見て、初めて理解した。
この世界は、言い訳を“実体のないもの”として扱う。
だから相沢の言葉は、重みを持たない。
重みを持つのは、選んだ行為だけ。
縁を切った事実だけ。
沈黙が落ちる。
夜風が、書庫の紙とインクの匂いを運んでくる。
その匂いが、あかりの肺を落ち着かせる。
相沢は、最後の手段みたいに言った。
「……あかり、お願いだ。俺を、助けて」
その瞬間、あかりの中の“昔の自分”が、最後の悪あがきをした。
助けなきゃ。
放っておけない。
私が悪者になる。
でも、その声の正体が分かる。
それは優しさじゃない。
自己罰だ。
「見捨てたら私は悪い」という呪い。
ルゥが相沢を見上げて、淡々と告げる。
「助ける相手、選べ」
相沢の唇が震えた。
あかりの喉も震えた。
でも、あかりはその震えを抱えたまま、言った。
「……私は、あなたを助ける義務はない」
言葉が石みたいに落ちる。
重い。
でも、それは相沢を殴る石じゃない。
自分の足元に置く石だ。
自分の境界線を作る石。
相沢の目が潤む。
泣きそうな顔。
縋りの匂いが甘く、濃くなる。
でも、その匂いにあかりはもう吸い込まない。
吸い込みそうになっても、ルゥの温度を思い出せる。
あかりは木箱を抱え直した。
腕が痛い。
でも、その痛みが現実だ。
今の自分の生活の痛み。
相沢の人生を支える痛みじゃない。
「……ごめん」
相沢が絞り出すように言った。
謝罪の形。
でも、謝罪の匂いは薄い。
罪悪感より“失いたくない”が強い匂い。
自分のための謝罪。
あかりはその匂いを吸って、静かに思った。
私はもう、あなたの更新ボタンじゃない。
「……さよなら」
言ってしまえば簡単なのに、言えなかった。
まだ喉が痛い。
まだ胸が熱い。
切れたはずの縁が、痕になって残っている。
だから、あかりは言葉を減らした。
「……行くね」
それだけ言って、あかりはセレスのいる方向へ歩き出した。
セレスは路地の入口に立っていた。
最初から見守っていたのだろう。
入ってこない距離。
助けるふりをしない距離。
でも逃げ道だけは塞がない距離。
「戻るぞ」
セレスが短く言う。
あかりは頷きそうになって止めて、代わりに「うん」と言った。
背後で、相沢が何か叫びそうになる気配がした。
でも、言葉にならない。
灰色が散る。
彼の声は、夜に溶けて消えた。
ルゥが一度だけ振り返り、相沢を見た。
金色の目が冷たい。
「次は、もっとちゃんと痛め」
小さく呟いて、ルゥはあかりの肩へ戻った。
あかりはその言葉に少しだけ震え、でも同時に、息ができた。
書庫の石壁が近づく。
紙とインクの匂いが濃くなる。
心が整理される匂い。
境界線を保てる匂い。
あかりは歩きながら、自分の指先を見た。
灰色は絡んでいない。
嘘をつかなかった。
自分に嘘をつかなかった。
震えていた。
足はすくんだ。
でも、昔の自分に戻らなかった。
それだけで、今夜は十分だった。
0
あなたにおすすめの小説
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない
しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。
異世界転生ファミリー
くろねこ教授
ファンタジー
辺境のとある家族。その一家には秘密があった?!
辺境の村に住む何の変哲もないマーティン一家。
アリス・マーティンは美人で料理が旨い主婦。
アーサーは元腕利きの冒険者、村の自警団のリーダー格で頼れる男。
長男のナイトはクールで賢い美少年。
ソフィアは産まれて一年の赤ん坊。
何の不思議もない家族と思われたが……
彼等には実は他人に知られる訳にはいかない秘密があったのだ。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜
Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる