婚約者に捨てられた夜、異世界で猫と運命が再起動!猫がいるので全部うまくいきます

タマ マコト

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第11話:彼は縋り、彼女は震える

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 夜の王都は、昼より匂いが正直だ。
 人の言葉が少なくなるぶん、感情がむき出しになる。
 灯りは温かいのに、影が濃い。
 石畳は昼の熱をまだ握っていて、足裏からじんわりと過去みたいな温度が伝わってくる。

 あかりは書庫の裏口から外へ出ていた。
 ただ、セレスに護符の改良に使う香草を書庫へ運ぶ手伝いを頼まれて、断れなかった。
 断れなかった、というより――断らない自分を選びたかった。
 日常に触れて、日常の一部になることで、自分の輪郭を守れる気がしたから。

 セレスに頼まれた木箱は想像より重くて、腕がぷるぷるする。
 「持てる?」と言われて「持てる」と言ってしまったのは、ちょっとだけ見栄だ。
 灰色が出ない程度の見栄。
 でも今は、その見栄が自分を立たせていた。

「……重い……」

 箱を抱え直すと、肩の上のルゥが欠伸をした。

「落としたら、縁が絡む」

「落としたら恥ずかしいだけでしょ」

「恥ずかしさも縁」

「めんどくさ……」

 小声で言い返すと、ルゥが尻尾で頬をちょんと叩いてきた。
 猫のくせに、妙に鼓舞してくる。

 書庫の裏手の路地は細い。
 灯りは少なく、壁は高い。
 でも、書庫の石壁から漂う紙とインクの匂いが、暗闇の中でも道しるべみたいに続いている。
 あかりはその匂いが好きになり始めていた。
 心が整う匂い。
 散らかった感情を、棚に戻す匂い。

 角を曲がったところで、ふっと空気が冷えた。

 鉄の甘い匂いじゃない。
 紙とインクでもない。
 生乾きのスーツ、室内の空調、コンビニのコーヒー。
 “あっちの世界”の匂い。

 あかりの足が止まった。
 肺が一瞬で固まる。
 息が入らない。
 護符が熱を帯びる。
 胸の裂け目が、内側から爪で引っ掻かれたみたいに痛む。

 路地の向こうに、人影があった。
 ふらふらと歩いて、壁に手をついている。
 夜の灯りが横顔を照らし、目の下の影を強くした。

 相沢 恒一。

 あかりの頭が真っ白になる。
 身体だけが先に反応する。
 膝が抜けそうになる。
 箱が重くなる。
 指が冷たくなる。

 怒りより先に、懐かしさが来た。
 懐かしさより先に、怖さが来た。
 怖さより先に――“昔の自分”が、勝手に立ち上がろうとする。

 笑って誤魔化して、空気を整えて、相手の顔色を見て、
 「大丈夫?」って言ってしまう自分。

 あかりは、唇を噛んだ。
 それをさせたくない。
 でも身体が勝手に――

「……あかり?」

 相沢が顔を上げた。
 目が合った瞬間、あかりの胸がずきっと痛む。
 流入痕が反応する。
 視界の端に、灰色の穴がちらつく。
 相沢の胸元に漂う“縁の停止痕”が、夜の闇に薄く浮かぶ。
 止まった灰色。更新されない灰色。

「……あかり、だよな?」

 相沢の声は、電話越しよりも擦れていた。
 整った声のはずなのに、端っこが揺れている。
 揺れは恐怖の匂いを連れてくる。
 自分が今いる世界が、分からなくて怖い匂い。
 そしてもう一つ、もっと嫌な匂い。
 ――縋り。
 助けを求める匂い。

「なんで……ここに……」

 相沢は一歩近づこうとして、ふらついた。
 あかりの身体が反射的に動きそうになる。
 支える?
 手を伸ばす?
 やめろ。
 やめろ、昔の自分。

 箱が腕の中で揺れた。
 木がきしむ音が、やけに大きい。

「……っ」

 声にならない声が喉から漏れる。
 息が浅い。
 護符が熱い。
 胸の裂け目が痛い。

 相沢は、あかりの顔をじっと見た。
 昔みたいに、表情から答えを引き出そうとする視線。
 いつもあかりが先に折れて、空気を整えてきた視線。

「……助けてくれ」

 突然、相沢が言った。
 その言葉が、石畳に落ちて、砕けた。

「俺、わけが分からなくて……王宮の人たち、俺の話を聞くふりして、全部勝手に決めて……」

 言い訳が始まる。
 自分の身の上話で、自分を正当化しようとする声。
 でも、その声が妙に空回りしている。
 言葉が、重力を失っている。

 空気中に、鈍い灰色が漂った。

 嘘の灰色。
 でも、完全な嘘じゃない。
 “自分に都合のいい言い方”の灰色。
 本人も半分信じている灰色。
 だから一番厄介な色。

 相沢の言葉は、灰色を引きずって、途中で薄くなって、路地の闇に溶けていく。
 まるで、世界が彼の言葉を受け取らないみたいに。

「……あかり、俺……」

 相沢がまた一歩近づく。
 あかりの足がすくむ。
 動けない。
 逃げたいのに。
 声を出したいのに。
 昔の自分が、喉の奥から覗いてくる。

 その瞬間、肩の上のルゥが、すっと降りた。

 猫の着地音は小さい。
 でも、あかりにはそれが“境界線が引かれる音”に聞こえた。

 ルゥは相沢の足元へ行き、真っ直ぐ見上げた。
 金色の瞳が夜に光る。
 毛は逆立っていない。
 怖がってもいない。
 ただ、冷たい。

「触るな」

 ルゥが淡々と言った。

 相沢は固まった。
 喋る猫を見て驚く余裕すらない。
 彼の顔は、更新されないまま、ただ歪む。

「……猫?」

「きみは捨てた」

 ルゥの声は低く、容赦がない。
 たった六文字が、釘みたいに刺さる。
 捨てた。
 その事実が、言葉の形で相沢の胸に打ち込まれる。

 相沢の喉が鳴った。
 息を吸う音が震える。
 彼は初めて、自分が切ったものの重さを“ここ”で感じている顔をした。

「……捨てたって……俺は……」

 言い訳が続く。
「捨てたつもりはなかった」
「お互いのために」
「あかりなら分かってくれると思って」
 そんな定型文が、相沢の口から出かけて――

 出ない。

 言葉が空中で灰色に濁って、落ちて消える。
 この世界は、曖昧な言い訳に厳しい。
 縁が見える世界は、縁から逃げる言葉を嫌う。

 相沢は困ったように笑おうとした。
 貼り付けた笑顔。
 でも頬が動かず、目だけが乾いている。
 笑顔が、古い写真の上から無理に貼られたシールみたいだ。

「……あかり」

 相沢が、あかりの名前を呼ぶ。
 その呼び方に、妙に頼り切った匂いが混じる。
 昔みたいに、あかりが正解を返してくれると思っている匂い。

 あかりの身体が揺れた。
 膝が折れそうになる。
 でも、ルゥの言葉が背中に残っている。

 ――更新ボタンじゃない。

 あかりは息を吸い直した。
 胸の裂け目の痛みを、呼吸の奥へ押し込む。
 護符の膜を意識する。
 自分の輪郭を思い出す。

「……私は」

 声が震える。
 震えは恥じゃない。
 震えは今の自分の真実。

「……私は、ここで生きてる。それだけ」

 言い切った瞬間、空気が少し白くなった。
 正直の匂い。
 自分の言葉が、自分の足元を固める。

 相沢の目が揺れた。
 焦りの匂いが濃くなる。
 縋りの匂いが甘くなる。
 そして、恐怖が混じる。
 ――あかりが、もう自分のものじゃない恐怖。

「待って。俺、違うんだ。俺だって、辛かったんだよ」

 相沢は早口になる。
 言い訳が束になる。
 でも束になっても、灰色は濃くなるだけだ。
 言葉は重くならない。
 空気に落ちて、石畳に吸われて消える。

「仕事が忙しくて、将来のこと考えたら不安で、君はいつも正しくて、俺は――」

「正しいって言葉、嫌い」

 あかりの口から、勝手に出た。
 自分でも驚いた。
 でも止められなかった。

「え……」

「私、“正しく”してただけだよ。嫌われないために。捨てられないために」

 言葉が続く。
 止まらない。
 怒りではなく、真実が溢れる。

「でも捨てられた。だからもう、正しさで生きない」

 相沢の顔が、少しだけ崩れた。
 貼り付いた笑顔の端が剥がれる。
 その下に、子どもみたいな困惑が見えた。

「……俺は、そんなつもりじゃ」

 相沢が言う。
 灰色が絡む。
 空気に落ちる。
 消える。

 あかりは、その消え方を見て、初めて理解した。
 この世界は、言い訳を“実体のないもの”として扱う。
 だから相沢の言葉は、重みを持たない。
 重みを持つのは、選んだ行為だけ。
 縁を切った事実だけ。

 沈黙が落ちる。
 夜風が、書庫の紙とインクの匂いを運んでくる。
 その匂いが、あかりの肺を落ち着かせる。

 相沢は、最後の手段みたいに言った。

「……あかり、お願いだ。俺を、助けて」

 その瞬間、あかりの中の“昔の自分”が、最後の悪あがきをした。
 助けなきゃ。
 放っておけない。
 私が悪者になる。

 でも、その声の正体が分かる。
 それは優しさじゃない。
 自己罰だ。
 「見捨てたら私は悪い」という呪い。

 ルゥが相沢を見上げて、淡々と告げる。

「助ける相手、選べ」

 相沢の唇が震えた。
 あかりの喉も震えた。
 でも、あかりはその震えを抱えたまま、言った。

「……私は、あなたを助ける義務はない」

 言葉が石みたいに落ちる。
 重い。
 でも、それは相沢を殴る石じゃない。
 自分の足元に置く石だ。
 自分の境界線を作る石。

 相沢の目が潤む。
 泣きそうな顔。
 縋りの匂いが甘く、濃くなる。
 でも、その匂いにあかりはもう吸い込まない。
 吸い込みそうになっても、ルゥの温度を思い出せる。

 あかりは木箱を抱え直した。
 腕が痛い。
 でも、その痛みが現実だ。
 今の自分の生活の痛み。
 相沢の人生を支える痛みじゃない。

「……ごめん」

 相沢が絞り出すように言った。
 謝罪の形。
 でも、謝罪の匂いは薄い。
 罪悪感より“失いたくない”が強い匂い。
 自分のための謝罪。

 あかりはその匂いを吸って、静かに思った。
 私はもう、あなたの更新ボタンじゃない。

「……さよなら」

 言ってしまえば簡単なのに、言えなかった。
 まだ喉が痛い。
 まだ胸が熱い。
 切れたはずの縁が、痕になって残っている。

 だから、あかりは言葉を減らした。

「……行くね」

 それだけ言って、あかりはセレスのいる方向へ歩き出した。
 セレスは路地の入口に立っていた。
 最初から見守っていたのだろう。
 入ってこない距離。
 助けるふりをしない距離。
 でも逃げ道だけは塞がない距離。

「戻るぞ」

 セレスが短く言う。
 あかりは頷きそうになって止めて、代わりに「うん」と言った。

 背後で、相沢が何か叫びそうになる気配がした。
 でも、言葉にならない。
 灰色が散る。
 彼の声は、夜に溶けて消えた。

 ルゥが一度だけ振り返り、相沢を見た。
 金色の目が冷たい。

「次は、もっとちゃんと痛め」

 小さく呟いて、ルゥはあかりの肩へ戻った。
 あかりはその言葉に少しだけ震え、でも同時に、息ができた。

 書庫の石壁が近づく。
 紙とインクの匂いが濃くなる。
 心が整理される匂い。
 境界線を保てる匂い。

 あかりは歩きながら、自分の指先を見た。
 灰色は絡んでいない。
 嘘をつかなかった。
 自分に嘘をつかなかった。

 震えていた。
 足はすくんだ。
 でも、昔の自分に戻らなかった。

 それだけで、今夜は十分だった。
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