追放後に拾った猫が実は竜王で、溺愛プロポーズが止まらない

タマ マコト

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第1話「大聖女候補なのに、雑用係」

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 王都最大の神殿の朝は、やたらと静かだ。

 大理石の床は、裸足の裏から心臓の奥まで冷たさを伝えてくるし、白い柱の間を流れる香の匂いは、甘すぎて少しだけ頭が痛くなる。

(今日も……ちゃんと起きた。偉い、私)

 そんな自分への小さな労いを心の中でつぶやきながら、リラは木桶を両腕で抱えて廊下を歩いていた。
 制服の白いローブの裾は、朝からもう水滴でじっとり濡れている。洗濯場から水場までの往復は、彼女の担当だ。

「リラ、そこ終わったら礼拝堂の掃除もお願いねー」

 背後から、軽い調子の声が飛んできた。振り返れば、同じ大聖女候補の神官見習いが、手には書類を抱えたまま、いかにも「忙しそうです」という顔をしている。

「えっと、今日も私が?」

「だってリラ、治癒の予約ほとんど入ってないでしょ? 時間あるじゃない」

「……そう、だね」

 笑ってごまかすのは、もう癖みたいなものだ。

 大聖女候補、という肩書き。
 煌びやかな響きのわりに、リラの日常は、ほぼ雑用で埋まっている。
 床磨き、シーツ替え、備品の数の確認、書庫の整理、たまに軽い切り傷の治癒。

 彼女の出自は、神殿の前に捨てられていた孤児。
 拾ってもらえただけでありがたい、という言葉は、何度も何度も言い聞かされてきた。

(役に立つから置いてもらえてる。それでいい。……それで、いい)

 そう思い込まないと、胸の真ん中あたりがスカスカになりそうだった。

 礼拝堂に入ると、巨大な女神像が、朝日の差し込む中で静かにリラを見下ろしていた。
 光がステンドグラスを通って七色に散り、石の床の上に虹色の帯をつくる。

「おはようございます、女神様」

 リラは小さく会釈してから、モップを握る。
 大聖女候補なのにモップって、とたまに思うけれど、口には出さない。
 ここで暮らしていくには、「やります」と笑う方が楽だと知っているからだ。



 午前中の雑用がひと段落する頃、神殿の鐘が一つ鳴る。

「リラ、治癒室一番。軽い捻挫の人が来てるわよ」

 受付の神官に声をかけられ、リラは「はい」と返事をして走る。

 治癒室には、兵士服を着た青年が座っていた。足首を押さえて顔をしかめている。

「お待たせしました。足首、ですか?」

「あ、ああ……すまない。訓練でちょっと捻っただけなんだが」

「大丈夫ですよ。すぐ楽になります」

 自分の声が、どこか歌うように柔らかいのは、患者を安心させるための癖だ。
 リラは青年の足首にそっと手をかざし、深く息を吸う。

 胸の奥から、じんわりと温かいものが流れ出て、指先に集まっていく。
 光が、淡い緑色の揺らめきとなって青年の足首を包む。

「……あ、温かい」

「痛み、どうですか?」

「さっきより……ずいぶん楽だ。すごいな」

「よかったです」

 こういう瞬間だけは、本当に嬉しい。
 誰かの顔がほぐれていくのを見ると、「私、いてもいいのかな」とほんの少し思えるから。

 けれど、その施術が終わったあと。
 治癒室の隅で見ていた年配の神官が、ふう、とため息をついた。

「リラ、今のも悪くはないが、持続力が弱いな。大怪我にはまだ使えん」

「あ……すみません」

「すまんと思うのではなく、精進しなさい。お前は“候補”なんだ。候補のまま終わらないようにな」

「……はい」

 候補、候補。
 その言葉はいつも、ゴールではなく保留の意味で使われる。
 永遠にスタートライン手前で待たされているみたいな感覚。

(でも、治ったんだからいいじゃない。……だめなのかな)

 喉まで出かかった反論は、飲み込んでしまう。
 自分が間違っているかもしれない、と考える方が、楽だから。



 昼食の時間。
 神殿の食堂では、白いテーブルクロスの上に、温かいスープと硬めのパン、少しの野菜とチキンが並ぶ。

「ねえ聞いた? 今日、治癒測定の日なんだって」

「ああ、レイナ様がまた記録更新するんじゃない? さすが『光の聖女』」

 ざわざわと飛び交う声の中で、リラはトレーを持ったまま、そっと隅の席に座る。

 レイナ。
 この神殿の“大本命”の大聖女候補。
 蜂蜜色の長い髪、澄んだ青い瞳。笑えば周りがぱっと明るくなるような、絵に描いたような聖女。

「リラ」

 名前を呼ばれ、顔を上げると、そのレイナ本人が立っていた。
 今日も完璧な笑顔で、白いローブの裾をふわりと揺らしている。

「レイナ様?」

「一緒に座ってもいい?」

「い、いいんですか?」

「もちろん。ね? だって、同じ“大聖女候補”なんだから」

 レイナはそう言ってリラの向かいに腰を下ろす。
 周りの視線が、一斉にこちらに集まるのがわかる。
 少しだけ、胃がきゅっと縮む。

「今日の測定、緊張するよね」

「……私は、あんまり……」

「ふふ、リラはいつも落ち着いてるもんね。そういうところ、見習いたいな」

 言葉は優しいのに、その声色はほんの少しだけ低くなる。
 リラの耳には、その“半歩低い”変化が、妙に鮮明に届いた。

 でも、それを指摘するほど、リラは強くない。

「レイナ様こそ、いつも凄いって聞いてます。私なんて、比べものにならないから」

「そんなことないよ。リラの治癒、すごく優しいもん。患者さん、いつも安心した顔してる」

「……本当、ですか?」

「本当だよ。ね、だから自信持って」

 レイナの笑顔は、まぶしい。
 けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ何か黒いものが揺れた気がして、リラはスプーンを持つ指に力を入れた。

(私の気のせい。考えすぎ。レイナ様は優しい)

 そう決めつけないと、居場所がぐらりと傾いてしまいそうで、怖かった。



 午後。
 治癒測定の部屋は、神殿の中でも特に寒い。

 円形の部屋の真ん中に、魔力測定用の透明な柱がそびえ立っている。
 内部には淡い光の粒が漂い、触れた人の魔力に反応して色と輝きを変える仕組みだ。

「順番に並びなさい」

 高位神官の鋭い声に、候補たちが一列に並ぶ。
 リラは列の最後尾に立ちながら、ひそひそ話を耳にした。

「今回もレイナ様がトップでしょうね」

「だよなー。あの人、マジで桁違いだし」

「リラは……まあ、期待はしてないけど」

「でも雑用は助かるよな。ああいう子一人いると」

 最後の一言が、妙に生々しく胸に刺さる。

(そうだよね。期待されてないのは、知ってる)

 順番が進み、レイナの番になる。

「レイナ・エルフォード。準備はよろしい?」

「はい」

 レイナが透明な柱に手をかざした瞬間、部屋の空気が変わった。
 金色の光が柱の中で一気に膨れ上がり、粒子が弾けるように輝く。

「おお……」

「また上がってる……」

「さすがレイナ様」

 周囲から感嘆の声が漏れる。
 高位神官も満足げに頷き、「記録更新だ」と告げた。

「おめでとうございます、レイナ様」

「ありがとうございます。皆さんのおかげです」

 完璧な受け答え。
 レイナは一礼して列を離れ、今度はリラの方を見て微笑む。

「リラ、次、頑張って」

「……うん」

 リラの順番が、あっという間に巡ってくる。

「リラ・……姓は、なし、だったな」

 高位神官の何気ない確認に、胸の奥で何かがざらりと擦れる。
 生まれも家も持たない、ここでしか名乗る場所のない自分。

「リラ、早く」

「あ、はい」

 透明な柱の前に立つ。
 自分の手が少し震えているのがわかる。
 深呼吸を一度。心を落ち着かせる。

(大丈夫。できることをやるだけ)

 そっと、柱に手をかざす。
 胸の奥から、いつものように温かいものを引き出して、指先へと流す。

 ——だが。

 柱の中で光は、確かに生まれた。
 淡い、やさしい緑色の光がふわりと広がりかけて——そのまま、不自然に揺らいでしぼんでいく。

「あれ?」

 リラは思わず声を漏らした。
 自分の中の魔力は、ちゃんと流れている。
 なのに、柱は、まるでそれを拒むみたいに光を吸い込み、すぐに沈黙してしまう。

「……測定結果、『基準値以下』」

 高位神官の冷たい声が響く。

「前回よりも、数値が落ちているな。リラ、どういうつもりだ」

「い、いえ、その……」

「努力が足りないのではないか?」

 周りから、小さな失笑が漏れる。

「やっぱりね」

「まあ、あの子だし」

「雑用要員だもんな」

 耳が熱くなる。
 視界の端で、レイナが心配そうな顔をしているのが見える。

「先生、リラは頑張ってます。たまたま今日のコンディションが……」

「レイナ、君が庇う必要はない。
 ——測定器は正直だ。リラ、お前の魔力は大聖女候補としては“基準に満たない”。
 補欠として置いておいてやっていることを、忘れるな」

 補欠。置いておいてやっている。
 その言葉が、鋭い針になって胸に突き刺さる。

「……はい」

 かろうじてそれだけ絞り出して、リラは一礼する。
 足元の大理石の床が、さっきよりずっと冷たく感じた。



 測定が終わったあと、廊下でレイナに呼び止められる。

「リラ」

「……レイナ様」

「さっきの、気にしないで。測定器なんて、魔力の一部しか見てないんだから」

 レイナはそう言って、そっとリラの手を握る。
 その手は温かくて柔らかくて、たしかに優しい。

 だけど——どこかで、ひやりとした感覚も混ざっていた。

「私ね、本当はリラと一緒に選ばれたかったんだよ」

「え?」

「二人で“大聖女”になれたら、きっと楽しかった。……でも、現実は厳しいね」

 笑いながら言うその声は、やっぱり半歩だけ低い。

「ごめんね。私、もっと上手く立ち回ればよかったのかもしれない」

「レイナ様は悪くないです。全部……私の力が足りないから」

「……そうやって何でも自分のせいにするところ、優しいけど、ちょっと心配」

 レイナは最後にもう一度微笑んで、くるりと踵を返した。

 残されたリラは、その背中を見送りながら、どうしようもなく小さく息を吐く。

(私、ここにいていいのかな)

 問いは、どこにも届かないまま、白い天井に吸い込まれていった。



 その日の夜。

 自室に戻ったリラは、狭いベッドに腰を下ろして深く息をついた。
 部屋は質素で、机と小さな本棚、それから女神の簡素な像が置かれているだけだ。

 窓の外には、王都の灯りが遠くに瞬いている。
 ここから眺めると、あの街も、どこか別世界みたいだ。

「……はあ」

 こぼれたため息が、自分でも驚くくらい重かった。

 手を見つめる。
 今日、何度も誰かを癒やしたこの手。
 測定器には“基準以下”と切り捨てられた、この手。

「ねえ、私の魔法。ほんとに弱いの……?」

 誰もいない部屋で、ぽつりと問いかける。
 答えなんて返ってこないと知りながら。

 それでも、リラはゆっくりと右手を左の掌にかざした。
 いつもの治癒の詠唱を、声には出さず心の中でなぞる。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。
 指先から零れた光が、薄い緑色のベールになって自分の手を包み込む。

 その温度は、確かに優しくて。
 冷え切っていた心を、少しだけ解かしてくれる気がした。

「……ちゃんと、温かいじゃん」

 自分だけに聞こえるくらいの小さな声で呟く。

「誰がなんて言おうと、私の魔法は温かい。……そうだよね」

 こくりと小さく頷いて、ベッドに横になる。
 硬いマットレスが背中に当たる感触も、もう慣れてしまった。

 瞼を閉じる直前、リラは女神像の方へ顔を向けた。

「……いつか、ちゃんと必要としてもらえる日が来ますように」

 祈りというより、ほとんど願掛けみたいな一言。
 返事はもちろんこない。

 それでも、掌に残るぬくもりだけが、「大丈夫」と微かに囁いてくれているような気がした。

 リラはその小さなあたたかさにすがるようにして、静かに目を閉じる。

 ——この時の彼女はまだ知らない。

 自分の“温かさ”が、人間の物差しの外側にあるということも。
 あの白銀の猫と出会うことで、すべてがひっくり返るということも。

 この夜はただ、冷たい大理石の床と、甘すぎる香の匂いを思い出しながら、
 「大聖女候補なのに雑用係」という肩書きを、ぎゅっと抱きしめるしかないのだった。
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