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第15話 世界が怯え、狙い、そして名を与える
しおりを挟むネメシス・コアに触れた瞬間に走った“揺れ”は、地下空洞だけで済むような静かなもんじゃなかった。
目に見えない波が、城の基礎石を伝って、結界を揺らし、王都の上空にまでじわりと広がっていく。
魔力感知網は、それを見逃さない。
王城の天蓋に埋め込まれた水晶柱が、一斉に軋むような光を放った。
塔の上に設置された感知陣が、まるで悲鳴を上げるみたいに、淡い光から激しい点滅へと変わる。
「魔力感知陣、異常反応! 地下、第三層より下――」
「波長解析不能! 既存の古代兵器どころじゃない……これは……」
「総合値、過去最大級……!」
数値を読み上げる声は、途中から“数値”で追うのを諦めた。
計測器の針は、上限を振り切ってなお震え続けている。
◇
その波は、王都の外にまで漏れた。
城の結界をすり抜け、国境の監視塔へ。
そこからさらに、他国の感知網へと伝播していく。
まるで、静かな湖に落ちた一滴が、遠くの岸辺まで波紋を運んでいくみたいに。
◇
ガルディアス軍事国家。
国境近くの山中に設けられた臨時拠点で、ひとつの感知装置が甲高い警告音を上げた。
「な、なんだ……この値……!? 観測史上最大級の古代波長反応です!」
前線用の簡易コンソールの前で、若い兵が目を見開く。
画面には、周辺国の魔力反応が地図上に点として表示されている。
その中で、ひときわ異様な光点が、王都の位置に瞬いていた。
まるで、夜空の星が一つだけ落ちてきたみたいな光。
「……来たか」
図の前に立つ男――シグル・ハーヴェイは、それを見て微かに口角を上げた。
金灰色の瞳が、薄暗い室内で鋭く光る。
「記録と照合。波長パターンは?」
「……過去の戦時記録、古代遺跡での観測データと照らし合わせ――」
分析官の指が慌ただしく動く。
やがて、画面にひとつの文字列が浮かび上がった。
『禁断兵装核――【ネメシス・コア】と類似パターン』
室内の空気が、一瞬だけ止まる。
全員が息を呑み、次の瞬間、低いざわめきが広がった。
「ネメシス・コア……」
「まさか、本当に存在していたのか」
「あれは伝説上の兵器だと思っていたが……」
シグルは、静かに笑った。
笑っているのに、目だけがまったく笑っていない。
「“文明を滅ぼした兵器の核”が、目を覚ました。 よりによって、あの国の首都の真下で、だ」
指先で、王都の位置を軽く叩く。
「それと同時に、“鍵”の波長も変質している」
「鍵……?」
「ゴミ山の掃除婦だよ」
シグルの口調は、あくまで淡々としていた。
「リーナ・フィオレ。古代波長と異常な親和性を持つ存在。 彼女の波長とネメシス・コアの反応が、同時に変化したということは――」
目が細くなる。
「――“繋がった”ということだ」
室内の空気が、さらに重くなる。
彼女が、文明を滅ぼした兵器核と接触した。
その結果、双方の波長が変化した。
それが意味するのは――
「作戦を、前倒しに変更する」
シグルは、ためらいひとつ見せずに言った。
「すでに城内の警備は我々の予想を上回るレベルで強化されている。 だが、“今”を逃せば、王家と軍、工房があの少女を完全に囲い込む」
そっと、手元の紙束を開く。
そこには、王都城内の裏ルート。
使用人通路。
廃棄物搬出口。
そして――ゴミ集積所の位置。
「まだ、“掃除婦”である今なら、隙はある」
金灰色の瞳が、細く笑う。
「文明を滅ぼした核と繋がった“鍵”。 あとは、その鍵をこちらの扉に差し込むだけだ」
彼の言葉に、誰も異を唱えられない。
怖れはある。
不安もある。
でも、ガルディアスという国は、“兵器を支配する者が世界を支配する”という信念の上に立っている。
ネメシス・コアを制御できる可能性のある存在を、見逃すという選択肢は最初からない。
「リーナ・フィオレの拉致計画を、即時実行フェーズへ移行する」
静かな宣言が、室内の空気を統率する。
世界のどこかで震えている一人の掃除婦の運命が、この場で冷然と書き換えられていくのを、リーナ本人だけが知らない。
◇
一方、その王都では。
王城の会議室が、これまでにないほどの熱を帯びていた。
重厚な木の扉の向こうから、怒号にも似た声が漏れ聞こえてくる。
「ネメシス・コアとの接触を、なぜ事前に報告しなかった!」
「報告する暇などあるか! あの状況で、まずすべきは彼女の生命維持と――」
「生命維持? 君は分かっているのかね、ヴァルト・クロイツ」
低く冷たい声が、それを遮る。
「彼女が“文明を滅ぼした兵器”の核と繋がったということは、彼女がその“トリガー”になる可能性があるということだ。 もはや一介の掃除婦どころか、“国家規模の危険因子”だぞ」
「グラツィオ、言葉を選べ」
「選んでいるさ。可能な限り柔らかくな」
工房長代理グラツィオ・ベックは、いつものように白衣の襟を整えながら、王家・軍の重鎮たちを見渡した。
「事実を確認しよう。 リーナ・フィオレは、古代兵器の起動キーであり、今回、ネメシス・コアとも直接接触し、意識を通じた」
「……そうだ」
ヴァルトは、歯切れ悪く認めざるを得なかった。
リーナがコアにしがみついて涙を流していた光景が、まだ網膜に焼き付いている。
「その結果、彼女の魔力波長は、従来のものからさらに変質した。 軍部の感知器でも工房の計測器でも“完全な解析不能”になった。 ――つまり、“未知のもの”になった」
「未知のもの=危険因子、という図式は乱暴すぎる」
ヴァルトが低く言い返す。
「危険である可能性は認める。 だが、それを理由に“兵器として扱う”ことは、絶対に――」
「反対かね?」
グラツィオの目が、冷たく笑う。
「君は戦場を知っているはずだ。 “危険な可能性”を放置した結果、どれだけの国が滅びた?」
ヴァルトの喉が、ぎり、と鳴る。
言い返したいことは山ほどある。
だが、この場には王家の重臣たちもいる。
感情だけで怒鳴るわけにはいかなかった。
「それに、これは我々だけの問題ではない」
グラツィオは、卓上の感知記録を指差した。
「周辺諸国の感知網にも、このネメシス・コアの“目覚め”は伝わっている。 ガルディアスを始めとした軍事国家が、これを見逃すはずがないだろう」
「……」
「“世界が怯えている”のだ。 文明を焼き尽くした兵器が再起動したことに。 その核と繋がった少女が、この国の城の中にいることに」
その言葉は、王家の側にも突き刺さる。
重々しい衣を纏った老臣たちが、一斉に顔を見合わせた。
「陛下」
視線が、玉座の主へと向く。
レオナルド三世は、長椅子に腰掛けていた。
いつものように柔らかそうな表情。
だが、その瞳は、会議室の空気の重さに抗うように冷静さを保っている。
老臣の一人が、慎重に切り出した。
「リーナ・フィオレを、どう取り扱うべきか――陛下のご意見を賜りたく存じます」
「“取り扱う”とは、便利な言葉だな」
レオナルドは、ゆっくりと目を伏せた。
「まるで物品か兵器を棚に並べるかのようだ」
「陛下。 彼女は今や、“文明を滅ぼした兵器のキー”です。 その存在を、ただの掃除婦として扱い続けることは――」
「無責任だと言うのだろう?」
レオナルドは、疲れたように笑った。
「確かに、無責任かもしれん。 だからと言って、彼女を完全に軍の管理下に置き、“兵器として登録”するのが有責任な判断だと、本当に言えるか?」
重臣たちが口を噤む。
レオナルドの目が、ヴァルトとグラツィオの間をゆっくりと移動した。
「余が見た彼女は……“兵器そのもの”には見えなかった」
静かな声だった。
「地下から上がってきたときの彼女は、泣いていた。 恐怖だけで泣いていたのではない」
レオナルドは、目を細める。
リーナが、泥と涙まみれの顔で、何かを必死に抱きしめていた姿。
それを、遠くから見ていた。
「兵器を、哀れんでいるように見えた」
会議室の空気が、一瞬だけ揺れた。
「……哀れむ?」
グラツィオが、眉をひそめる。
「兵器は道具だ。哀れむような対象ではない」
「工房の人間としては、そうだろう」
レオナルドは、否定はしなかった。
「だが、彼女は違う。 アークレールにしても、フロウリアにしても――彼女は“兵器としての価値”よりも、“その兵器が見てきたもの”を気にしている」
「だからどうだと言うのです」
別の老臣が口を挟む。
「哀れみは、判断を曇らせます。 兵器を兵器として見られない者に、ネメシス・コアのような存在を任せるのは――」
「曇らせるからこそ、必要かもしれん」
レオナルドは、静かに言葉を重ねた。
「この世界は、“兵器をただの兵器と見られる者たち”の手で、何度も滅びかけてきた。 それを知っているからこそ、古代文明は“守るための兵器”を作り、結果として滅びたのだろう?」
グラツィオは、口を結ぶ。
論理としては、理解できる。
でも、受け入れがたい。
「……しかし、陛下」
ヴァルトが、慎重に言葉を選んだ。
「世界は、そんな理屈を待ってはくれません。 現に、周辺諸国は既に動き始めている。 ガルディアスも黙ってはいないでしょう」
「分かっている」
レオナルドは、短く頷いた。
「だからこそ――言葉が必要になる」
その瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。
王の表情に、政治家としての顔が浮かび上がる。
「名前を、与えねばならん」
「名前……?」
「世界は、“何だか分からないもの”に最も怯える。 得体の知れないものを、最も恐れる」
レオナルドは、卓上に置かれた簡易報告書を指で叩いた。
「ネメシス・コアと繋がった少女という存在を、何と呼ぶか。 “兵器のキー”か、“災厄の巫女”か、“管理対象A”か」
どれも、ろくでもない。
「そのどれでもない名前を、こちらから提示する必要がある。 世界に対して、“こういう位置の存在だ”と、物語を先に作ってしまわねばならん」
沈黙が落ちる。
しばしの間を置いて、レオナルドは低く告げた。
「――文明継承者」
その五文字が、会議室の空気を震わせた。
「ぶんめい……けいしょうしゃ……?」
「Legacy Bearer、と訳すこともできるだろう」
王は、自嘲気味に笑った。
「古代文明の遺物――兵器も記憶も、その全部を継承し、次の時代へ引き渡す者。 “世界を滅ぼすかどうかを決める者”ではなく、“滅びの先に何を残すかを選ぶ者”として、彼女を位置づける」
半ば恐怖。
半ば尊称。
どちらの色も混じった、危うい呼び名だ。
「……それで、世界が納得すると?」
グラツィオが苦々しく問う。
「納得しないだろうな」
レオナルドは、あっさり言った。
「だが、“名前が空白の存在”よりは、ずっとマシだ。 少なくとも、“文明継承者をどう扱うべきか”という議論に、方向性を与えることはできる」
王としての判断。
それは、決してリーナ個人の幸福だけを考えたものではない。
世界情勢。
国内の均衡。
軍と工房の思惑。
それら全部を天秤にかけた上での、“最もマシな妥協点”。
「……陛下」
ヴァルトが、低く呼びかける。
「彼女の意思は、どこまで反映されるのでしょう」
「――残念ながら、ほとんど反映されんだろう」
レオナルドの答えは、残酷なほど誠実だった。
「今の世界は、それほど余裕がない。 だが、だからこそ」
目が細くなる。
「彼女の隣に、“哀れみを忘れない者”が必要になる」
視線が、はっきりとヴァルトを射抜いた。
「お前だ」
ヴァルトは、一瞬だけ瞼を伏せた。
そして、静かに頷いた。
「謹んで拝命致します」
その瞬間から、リーナ・フィオレは“文明継承者(レガシー・ベアラー)”として、王城の記録に刻まれた。
その名は、驚くほど早く城内を駆け抜け、王都の街路へと溢れ出し、やがて他国にも伝わっていく。
恐怖と尊敬が半々に混ざった、奇妙な響きとして。
◇
「……レガシー・ベアラー、だってさ」
ゴミ置き場の片隅。
マルタが持ってきた昼食のパンを手にしながら、使用人たちの噂話を要約してみせた。
リーナは、くしゃっと顔を歪める。
「かっこつけた名前つけないでほしい……」
「かっこいいかい?」
「むしろ胃が痛くなるタイプのやつですよ、これ……」
パンをちぎる手が、微妙に震えている。
城のあちこちから、ひそひそ声が聞こえてくる。
「文明継承者がゴミ山にいるんだって」
「あの子、前は工房の見習いだったんでしょう?」
「触ったら呪われるとか聞いた」
「いやいや、守られるって噂もある」
どれも、リーナの願いとは関係なく、勝手に膨らんでいく物語だ。
『……名を与えるとは、こういうことだ』
アークレールが、少し呆れたように言う。
『名前は、意味だけでなく“期待”も“恐怖”も一緒に縛る』
(本当にね)
心の中でため息を吐く。
「私、そんな大層なもん、継承したくてしてるわけじゃないのに」
ぽつりと漏らした一言に、マルタが目を細めた。
「望んだわけでも、誇りたいわけでもない――って顔だね」
「……そりゃそうですよ」
リーナは、勢いよくパンの端っこをかじった。
乾いたパンの粉が喉にひっかかる。
「文明継承者、ですよ? なんか、“次に文明を救うか滅ぼすかを決める存在”みたいな言い方されてるんですよ?」
『実際、そう見なされるだろうな』
「だからあなたもそこに乗っからないで!」
アークレールの言葉に、思わずツッコミを入れる。
「私、そんなつもりでネメシス・コアと繋がったわけじゃないのに……」
ただ、あの核が一人で抱え込んでいた後悔と寂しさを、少しでも軽くしたかっただけだ。
ゴミ山で拾った兵器たちの延長線上で、ただ“話を聞いて”“一緒に守ろう”って言っただけだ。
それが、どうして“文明を救うか滅ぼすかを決める存在”なんて話になるのか。
「世界が、勝手に物語つけるんだろうねぇ」
マルタが、パンのかけらを口に放り込みながら、肩をすくめる。
「“掃除婦が文明継承者になった”なんて話、酒場で何回語り草になるか分かったもんじゃないよ」
「笑い話にしてほしいなら、せめて平和な世界でお願いします……」
手の中のパンが、やけに重く感じる。
それでも、噛まないと喉が閉じそうで、無理やり飲み込む。
「……マルタさん」
気づけば、声が震えていた。
「私、どうしたらいいのか、分からない」
胸の奥に溜まっていたものが、堰を切ったみたいに言葉になって流れ出す。
「怖い。 ネメシス・コアと繋がっちゃったことも。 世界から“あんたが決めるんだよ”って見られてることも。 ガルディアスとか他の国とか、絶対私のこと狙ってくるだろうなって思うのも」
想像するだけで、膝が震える。
自分が何かを決めるたびに、それが“文明の未来を決めた選択”みたいに言われるんじゃないかというプレッシャー。
「でも、ここで目をそらしたら――」
唇の裏側を噛んだ。
「きっとまた、同じ滅びを繰り返す」
古代文明。
守るために兵器を作って、結果として滅びた人たち。
あの記憶を見てしまった以上、知らないふりはできない。
「工房が、“計れないものは存在しない”って目をそらして、結局あんな事故になったときみたいに。 “怖いから見ない”って選択したら、また誰かを失う気がして」
ゴミ山に捨てられた兵器たちも。
地下に眠っていたネメシス・コアも。
みんな、“誰かが目をそらした結果”ここにいる。
その延長線上に、自分も立っているような気がしてならない。
「だから、見たい。 怖いけど、見ていたい」
それが、リーナの正直な本音だった。
「でも、じゃあ具体的に何すればいいの?って聞かれたら……」
視線がぐるぐると宙を彷徨う。
王の会議。
軍と工房のせめぎ合い。
他国の思惑。
その全部を把握して動くなんて、自分にはできない。
ネメシス・コアの後悔も。
兵器たちの記憶も。
全部を背負って前を見ろと言われても、足がすくむ。
「分かんないんです。 本当に、何も分かんない」
最後の言葉は、子どもの泣き言みたいに頼りなかった。
マルタは、すぐには何も言わなかった。
黙って、リーナの髪に手を伸ばす。
汚れた髪。
汗と埃と涙でぐちゃぐちゃになった前髪。
その上を、皺だらけの指が、そっと撫でた。
くしゃくしゃ。
ぐりぐり。
雑なのに、妙に優しい力加減。
「……あんたさ」
マルタが、低く笑う。
「“怖がってる奴に世界は任せられない”なんて、誰が決めたんだい?」
リーナは、きょとんと顔を上げた。
「え……?」
「世の中の偉いさんたちは、みーんな強がるのが上手いからね」
マルタは、空を見上げる。
ゴミ山の上、遠くの王城の塔がちょっとだけ覗いている。
「平気な顔して、“任せろ”“私が決める”“恐れるに足りん”って言うのが、仕事みたいなもんさ」
肩をすくめる。
「でもさ。 あたしは、そういう奴より、“怖がりながら、それでも前に進む奴”の方が、よっぽど信用できるよ」
「……なんで?」
「怖いってことは、ちゃんと“失いたくないもの”を分かってるってことだから」
マルタの声は、笑っているのに、芯に熱があった。
「戦場でね、本当に怖がってる奴ほど、仲間をよく見てた。 自分の怖さも、相手の怖さも分かってた。 “こんな状況で笑ってられるか”って顔しながら、それでも一歩前に出てくれたよ」
遠い記憶を見ている目。
「逆に、“俺は怖くない”“怖れを知らない”“正しいのは俺だ”って言い張る奴ほど、平気で人を捨ててった」
その言葉は、リーナの胸にいやなほどすっと入ってきた。
工房の会議室で、自信満々に「異常なし」と言い張っていた人たちの顔が浮かぶ。
「あんたは、怖いって言える」
マルタは、もう一度リーナの髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「それだけで、あたしは安心するよ。 “文明継承者様”が、“怖い”“分かんない”ってちゃんと口にしてるなら、まだこの国は終わらないなって思える」
「……慰めが雑です」
「褒めてんだよ」
言いながら、マルタは少しだけ真面目な顔になった。
「いいかい、新入り」
「はい」
「世界がどう呼ぼうと、王様がどんな名前つけようと、ガルディアスがどんだけ狙ってこようと――」
マルタは、リーナの胸を指で軽く突いた。
「ここで何するか決めるのは、あんた自身だよ」
胸の奥で、何かがじんと震える。
「“文明を救うか滅ぼすか”なんて大げさなこと、いきなり決めなくていい。 今日何を拾って、何を直して、誰の涙を見て、誰の声を聞くか。 その積み重ねでしか、あんたは動けないさ」
それは、リーナの“掃除婦としての仕事”と、まったく同じやり方だった。
目の前の汚れを拭く。
足元のゴミを拾う。
手の届く範囲だけでも、綺麗にする。
それが巡り巡って、ゴミ山全体の空気を変えていく。
「ネメシス・コアと繋がったことだってさ」
マルタは、不意に少しだけ優しい笑顔を見せた。
「“文明継承者”なんて格好つけた名前より、あたしには“底のゴミまで見てきた掃除婦”って肩書の方がしっくりくるけどね」
「……ひどいんだか、褒めてるんだか分かんないですよ、その言い方」
「両方さ」
マルタは、立ち上がった。
「怖がっていい。 分かんないって泣いていい。 その上で、明日もモップ握ってゴミ拾いしてるあんたなら……まぁ、世界に任せるくらいはしてやってもいいかな、ってね」
その言葉は、世界の誰の評価よりも、リーナの胸に響いた。
怖い。
分からない。
震えている。
それでも、ここが帰る場所だと言ってくれる人がいる。
ネメシス・コアと繋がってしまった自分を、“文明継承者”なんて大仰な名前じゃなく、“ゴミ山の掃除婦”として見てくれる人がいる。
(……まだ、大丈夫かもしれない)
震えは消えない。
未来への不安も、そのまま。
でも、膝が完全に折れる前に、誰かがそっと支えてくれる。
『リーナ』
胸の奥で、ネメシス・コアの低い声が囁いた。
『恐怖を、感知した』
(黙っててよ)
思わず心の中で突っ込む。
『しかし、その恐怖は“逃避”ではない。 “責任からの逃走”ではない』
(分析しないで)
『記録する』
(しなくていい!)
そうやって心の中で騒ぎながら、リーナは、ふっと笑った。
文明継承者。
レガシー・ベアラー。
世界が勝手につけたその名前の裏側に、自分だけのささやかな肩書きをそっと重ねる。
――ゴミ山の主。
――捨てられたものの聞き手。
――そして、“怖がりながらも前に進む掃除婦”。
その足はまだ震えている。
けれど、今日もモップを握る手に、少しだけ力が戻っていた。
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