5 / 20
5話「封じられた書庫」
しおりを挟む
昼下がりの図書室は、紙と革と埃の匂いで満ちていた。高い窓から落ちる光が、棚の背表紙に細い縞をつくり、梯子の影が床に格子を描いている。午前に歩いた屋敷の地図の続きとして、わたしはここにいる。サナは「お茶をお持ちします」と言い、扉の外へ消えた。部屋には、静寂の粉が薄く舞っている。
指先で背表紙を一冊一冊たどる。歴史、地誌、魔術理論、詩篇、書簡集。革の手触りにわずかな違いがあって、それだけで昔の季節の温度が指に移る。棚の中央、他よりも古く、色が深い部分に、目が止まった。そこだけ空気が、ほんの少し重い。言葉にするなら「密度が違う」。本の並びは乱れていないのに、整えられた表面の背後で、何かが静かに呼吸している。
近づくと、棚の縁に指先がふいと吸い寄せられた。彫り込み。目立たない刻印が木目に紛れている。三つの細い線と、小さな輪。輪の中に古い文字。読みは分からない。ただ、胸の奥のどこかが「知っている」と答える。知らないのに、知っているふりをする臓器。指輪の内側の文字を見たときのざわめきに似ていた。
刻印の下に、結界の名残。ごく弱い封印の気配。誰かが意図して閉ざした棚。鍵穴はない。鍵は、この印だ。どうすれば解けるのか、頭が考えるより先に体が動いた。右手の親指と薬指で輪をはさみ、左手の人差し指で三本線をなぞる。順番。上、下、真ん中。そこに、息。短く一度、吐く。古い癖のような仕草。どこで覚えたのか、自分に問いながら、わたしは迷いなく実行していた。
空気がひとつ、くぐもった音を立てた。乾いた木が小さく伸びをするみたいに。刻印の輪が淡く光り、棚板の隙間が髪一本ぶん開く。指をかけ、押すと、背後に浅い空間が現れた。畳まれた布、細い箱、封蝋で閉じられた筒。箱の一つに、薄い金の筋が走っている。引き出す。蓋は軽いはずなのに、手の中でだけ重い。蓋を開けると、紙が一枚、丁寧に二つ折りにされて入っていた。
紙は白ではなく、少しだけクリーム色。古いが、劣化していない。指先で端をつまみ、息を整え、折り目を解く。紙の表面に光が走り、インクが静かに目を起こす。まず、香りが立った。微かに残っていた香油が、部屋の温度でゆっくりほどける。蜂蜜。紅茶。午後の光に沈む甘さ。喉の奥にやわらかい膜が張るような匂い。
文字が、目に触れる。
――アイリス・フィオレンティーナ ― セラ・アマランサス
輪郭だけで心臓が跳ねた。二つの名のあいだを長いダッシュが結び、下に古語でびっしりと条文が連なる。婚約契約書。おそらく王都の式神官の監修。署名の脇に、印章が重なっている。読み方は今でも分かる。条文は法の言葉で、感情の居場所がない。けれど最初の二つの名だけで、わたしの体はもう反応していた。
――僕。
蜂蜜と紅茶の匂いが濃くなり、耳の奥で、笑い声の残響がふっと立ち上がる。低くて、柔らかくて、のどの奥で笑う癖のある声。わたしの名前を呼ぶ時、語尾が一音だけ高くなる声。「君は僕の花だ、アイリス」。言葉が記憶の隙間から滲み出てくる。わたしの指は、無意識に紙面の「セラ」という名をなぞった。声にならない熱が、喉を上がってきて口の裏側に溜まる。
「アイリス様?」
扉の向こうで、サナの声。わたしは肩をびくりと揺らし、紙をもう一度、そっと折った。箱に戻し、蓋を閉じる。空気を整え、棚の内側の空間へ押し込む。封印はまだ返していない。扉が開き、サナがお盆を抱えて入ってきた。茶の香りが、蜂蜜の薄い残り香と混ざって、部屋は少し甘くなる。
「お茶を。……アイリス様、お顔の色が」
「平気。少し、埃っぽかっただけ」
嘘は下手くそだった。サナの目が、一瞬だけ棚の側面へ滑る。鍵束は彼女の腰にあり、今は鳴っていない。彼女は何も聞かずにテーブルにカップを置き、小さな焼き菓子を添えた。
「ジャムは控えめにしておきました」
「ありがとう」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。カップを口に運ぶ。紅茶の温度。蜂蜜は――いらない。砂糖も。今は、現実の方へ舌を戻したい。唇を湿らせただけでカップを置く。胃のあたりに小さな渦ができ、そこに甘い香りが粘る。サナはその様子を一瞬だけ見て、視線を下に落とした。
「何か、見つかりましたか」
穏やかな問い。返事に選べる言葉は多くない。わたしは、頬の熱を掌で静めながら、別の棚を見た。
「……昔の詩集。誰かの好きな詩」
「そうでしたか」
サナはそれ以上、掘らない。使用人の距離感は、ガラス細工みたいに繊細にできている。彼女はハンカチでテーブルの端を拭き、部屋の空気の流れを確かめるように窓辺へ視線を投げ、それから会釈した。
「ご無理はなさらず。鈴を」
「うん。ありがとう」
彼女が出て行くと、部屋は再び紙と革の匂いに支配された。封印を戻すべきか、目を閉じて考える。紙の手触りが指に残り、胸の奥では、セラという名がゆっくり沈んでいく。沈む時に、水音は立てない。水面は静かで、底だけが落ちる。呼吸が浅くなる。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く――やってみても、今は「止める」の四つ目で胸が詰まる。
わたしは立ち上がり、棚の前に戻った。封印は、触れ直せばまた閉じる。そう思って、刻印を指でなぞる。が、指は輪に触れる前に止まった。やめた。紙はまだ、そこで呼吸している。わたしの呼吸と同じリズムで。閉じるのは、読んでからでもできる。読まずに閉じるのは、閉じ込めることになる。対象を。わたしを。
箱を取り出し、蓋を開け、紙をもう一度、展げる。今度は最初の行だけではなく、条文も目で追う。持参金、同盟、式の形式、破棄条件、証人。そこに「リオン・ヴァーベナ」という名はない。証人欄の一つは空白。目がそこに引っかかる。空白に、見えない名前が書いてあるように錯覚する。ペンがためらって止まった痕跡。紙の繊維が、わずかに毛羽立っている。
指の先が、紙面の端を撫でた。インクの乾いた黒に、なつかしさが混ざる。「セラ・アマランサス」。セラ。セラ。口の中で一度、そっと転がす。音が自分のものではない。誰かの舌で呼ばれた音が、記憶としてだけ存在している。頭のどこかが痺れ、額の中心が冷え、背骨が少しだけ喜ぶ。喜びは、危険だ。だから、わたしは紙を閉じた。
箱を戻し、棚の内側に押し込む。封印を――今度は、返した。輪に指を挟み、三本線を逆順でなぞり、息を吸って、吐かない。押し、音。木がまた、わずかに伸び、刻印の光が消える。呼吸を吐いた瞬間、胸の中の甘さが細い針に変わり、内側から一度だけ刺した。
椅子に戻って座る。膝の上で手を重ねる。指輪の冷たさが、じわりと皮膚に戻る。指輪の内側の古い文字は、今日も読めない。けれど、封印の刻印は読めた。読めてしまった。わたしは、どれだけを「忘れて」いるのだろう。忘れているのに、体は覚えている。呼吸の順番、印の順番、古い魔術の礼儀の角度。それは「誰かに教わった」ものだ。誰か。――僕。
蜂蜜と紅茶の記憶が、図書室の空気に薄く積もる。蜜は空気に長居をするタイプの香りだ。消えない。薄まっていくだけで、消えはしない。笑い声の残響が、耳の奥で再生される。音は小さく、でも質がはっきりしている。「僕はね、アイリス、君の舌の奥の甘さが好きだ」。ふざけたようで、真剣な声。気づけば、唇の内側を小さく噛んでいた。そこに甘さはない。ただ、唾液の味と、少しの鉄の匂いの記憶。
「――ここにいたか」
扉の方から、低い声。わたしは反射的に立ち上がる。リオンが、光の中に輪郭を切って立っていた。黒衣はきっちり整えられ、朝よりも鋭い空気をまとっている。仕事の顔。目は、昼の光でも深い色を保っていた。
「調子は」
「大丈夫。……少し、本を見ていた」
「そうか」
視線が、棚へ。彼の目は棚の「密度」の違いを一目で拾う。訓練された獣のような目。けれど、彼は何も言わなかった。棚へ一歩も近づかず、距離を保ったまま、部屋の中央のテーブルを指で軽く叩く。
「お茶は飲めたか」
「香りだけ」
「甘いものは」
「控えた」
「偉い」
褒められるようなことじゃないのに、褒められてしまうと、胸のどこかが少しだけ温かくなる。わたしは、視線を自分の手に落とし、指輪の触感で落ち着きを作る。リオンは空気の流れを確かめるみたいに窓へ歩き、小さく換気した。蜂蜜の香りが少しだけ薄まり、外の風の味が入る。
「……何か、思い出したか」
背を向けたままの問い。後ろ姿で、彼は言いにくさを処理する。わたしは、答えの形を選ぶ時間をもらえたことに感謝しながら、言葉を探す。
「少しだけ。匂いとか、音とか。……笑い声」
「誰の」
振り返る前に、問いが重なった。わたしは唇の内側をまた噛み、ほんのわずかに目を閉じた。
「……分からない。でも、優しかった」
「ああ」
彼の返事は短く、低い。窓を閉める金具の音が、やけにはっきり響いた。リオンは振り返り、テーブルの向かいに座る。背筋は伸び、手は組まれず、指先は膝の上。準備の姿勢。問いは続くのか、と身構えたが、彼は違う言葉を選んだ。
「外に出るか。庭を」
「うん。……鍵が多いですね」
「多い」
「必要、なんですか」
「必要だ」
会話の切っ先は短い。けれど尖っていない。彼は可能な限りの情報だけを渡し、余分を慎重に削る。その削り方は、刀ではなく鉋に近い。木目に逆らわず、滑らかに。
「図書室は、好き?」
「好き。……ここは、少し冷たいけど」
「冷たい?」
「良い意味で。頭が静かになる」
「それは、いい」
彼は安堵したように目を細めた。図書室がわたしを落ち着かせること、それ自体が彼にとって救いなのだ。わたしがどこに居られるのか、彼はずっと探しているのだと分かる。居場所。扉が多い屋敷で、開いた窓が一つだけ見つかったような気持ち。
「……リオン」
「なんだ」
「もし、わたしが、『誰か』のことを思い出しても、怒らない?」
自分でも、どうしてこんなことを聞いたのか分からない。口が先に動いた。空気が、薄く凍る。彼の目の奥で、刺のような光がほんの一瞬だけ顔を出し、すぐに引っ込んだ。
「怒らない」
即答。声は掠れていない。いつもより、低いだけ。低さは、決意の重さだ。
「……ありがとう」
「怒るのは、俺の問題だ。お前の問題じゃない」
「リオンの問題?」
「俺の……欠陥」
欠陥、という言い方に、わたしは眉を寄せる。彼は自分を不器用と言い、自分の問題を欠陥と言う。彼は、どれだけ自分を削ぎ落としてやっと、今の丁寧さに辿り着いているのだろう。胸が締めつけられる。わたしはテーブルの端を撫で、木目に指先を合わせる。
「わたしは、リオンに会ってからのことを、ちゃんと覚えたい」
「覚えろ」
短く、肯定。許しではなく、命令に近い。命令の形の優しさは、確かに存在する。わたしはうなずき、息を吸う。
「――庭、行きましょう」
図書室の扉を閉める前、ほんのわずかに振り返った。棚の一角が、昼の光を反射して、何もなかったみたいな顔をしている。封印は戻った。箱は閉じた。紙はそこで静かに呼吸を続ける。蜂蜜の香りは薄まり、紅茶の記憶は舌の裏に小さく残ったまま。
扉の外へ出る。廊下の絨毯が足音を飲み、遠くで誰かが「ご無理はなさらず」と囁く。庭へ向かう途中、わたしは一瞬だけ振り返りたくなる衝動に襲われた。衝動は喉のあたりでせり上がり、目の後ろで花開き、額の皮膚をひやりと撫でる。額に触れる、指先の幻。――その手は、夢の男のものだった。笑い声の残響が、また耳の奥で揺れた。
「僕は、忘れないよ」
誰の声でもない、記憶の声。わたしは歩幅を変えない。隣を歩くリオンの足音は一定で、影はわたしの影と重なり、陽は少し傾き始める。庭の白い花が風に揺れ、池の水が午後の光を刻む。指輪は静かに光り、内側の文字は今日もまだ、読めなかった。
――封じられた書庫は、閉じたまま。けれど、わたしの内側の扉はひとつ、音を立てずに開いた気がした。甘さの奥に潜む棘の位置を、わたしはもう、指で示せる。笑い声の残響を、ただの残響として耳に置いておける。そう信じて、午後の光へ出る。白い花の匂いが、蜂蜜の膜を薄く洗い流していく。
指先で背表紙を一冊一冊たどる。歴史、地誌、魔術理論、詩篇、書簡集。革の手触りにわずかな違いがあって、それだけで昔の季節の温度が指に移る。棚の中央、他よりも古く、色が深い部分に、目が止まった。そこだけ空気が、ほんの少し重い。言葉にするなら「密度が違う」。本の並びは乱れていないのに、整えられた表面の背後で、何かが静かに呼吸している。
近づくと、棚の縁に指先がふいと吸い寄せられた。彫り込み。目立たない刻印が木目に紛れている。三つの細い線と、小さな輪。輪の中に古い文字。読みは分からない。ただ、胸の奥のどこかが「知っている」と答える。知らないのに、知っているふりをする臓器。指輪の内側の文字を見たときのざわめきに似ていた。
刻印の下に、結界の名残。ごく弱い封印の気配。誰かが意図して閉ざした棚。鍵穴はない。鍵は、この印だ。どうすれば解けるのか、頭が考えるより先に体が動いた。右手の親指と薬指で輪をはさみ、左手の人差し指で三本線をなぞる。順番。上、下、真ん中。そこに、息。短く一度、吐く。古い癖のような仕草。どこで覚えたのか、自分に問いながら、わたしは迷いなく実行していた。
空気がひとつ、くぐもった音を立てた。乾いた木が小さく伸びをするみたいに。刻印の輪が淡く光り、棚板の隙間が髪一本ぶん開く。指をかけ、押すと、背後に浅い空間が現れた。畳まれた布、細い箱、封蝋で閉じられた筒。箱の一つに、薄い金の筋が走っている。引き出す。蓋は軽いはずなのに、手の中でだけ重い。蓋を開けると、紙が一枚、丁寧に二つ折りにされて入っていた。
紙は白ではなく、少しだけクリーム色。古いが、劣化していない。指先で端をつまみ、息を整え、折り目を解く。紙の表面に光が走り、インクが静かに目を起こす。まず、香りが立った。微かに残っていた香油が、部屋の温度でゆっくりほどける。蜂蜜。紅茶。午後の光に沈む甘さ。喉の奥にやわらかい膜が張るような匂い。
文字が、目に触れる。
――アイリス・フィオレンティーナ ― セラ・アマランサス
輪郭だけで心臓が跳ねた。二つの名のあいだを長いダッシュが結び、下に古語でびっしりと条文が連なる。婚約契約書。おそらく王都の式神官の監修。署名の脇に、印章が重なっている。読み方は今でも分かる。条文は法の言葉で、感情の居場所がない。けれど最初の二つの名だけで、わたしの体はもう反応していた。
――僕。
蜂蜜と紅茶の匂いが濃くなり、耳の奥で、笑い声の残響がふっと立ち上がる。低くて、柔らかくて、のどの奥で笑う癖のある声。わたしの名前を呼ぶ時、語尾が一音だけ高くなる声。「君は僕の花だ、アイリス」。言葉が記憶の隙間から滲み出てくる。わたしの指は、無意識に紙面の「セラ」という名をなぞった。声にならない熱が、喉を上がってきて口の裏側に溜まる。
「アイリス様?」
扉の向こうで、サナの声。わたしは肩をびくりと揺らし、紙をもう一度、そっと折った。箱に戻し、蓋を閉じる。空気を整え、棚の内側の空間へ押し込む。封印はまだ返していない。扉が開き、サナがお盆を抱えて入ってきた。茶の香りが、蜂蜜の薄い残り香と混ざって、部屋は少し甘くなる。
「お茶を。……アイリス様、お顔の色が」
「平気。少し、埃っぽかっただけ」
嘘は下手くそだった。サナの目が、一瞬だけ棚の側面へ滑る。鍵束は彼女の腰にあり、今は鳴っていない。彼女は何も聞かずにテーブルにカップを置き、小さな焼き菓子を添えた。
「ジャムは控えめにしておきました」
「ありがとう」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。カップを口に運ぶ。紅茶の温度。蜂蜜は――いらない。砂糖も。今は、現実の方へ舌を戻したい。唇を湿らせただけでカップを置く。胃のあたりに小さな渦ができ、そこに甘い香りが粘る。サナはその様子を一瞬だけ見て、視線を下に落とした。
「何か、見つかりましたか」
穏やかな問い。返事に選べる言葉は多くない。わたしは、頬の熱を掌で静めながら、別の棚を見た。
「……昔の詩集。誰かの好きな詩」
「そうでしたか」
サナはそれ以上、掘らない。使用人の距離感は、ガラス細工みたいに繊細にできている。彼女はハンカチでテーブルの端を拭き、部屋の空気の流れを確かめるように窓辺へ視線を投げ、それから会釈した。
「ご無理はなさらず。鈴を」
「うん。ありがとう」
彼女が出て行くと、部屋は再び紙と革の匂いに支配された。封印を戻すべきか、目を閉じて考える。紙の手触りが指に残り、胸の奥では、セラという名がゆっくり沈んでいく。沈む時に、水音は立てない。水面は静かで、底だけが落ちる。呼吸が浅くなる。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く――やってみても、今は「止める」の四つ目で胸が詰まる。
わたしは立ち上がり、棚の前に戻った。封印は、触れ直せばまた閉じる。そう思って、刻印を指でなぞる。が、指は輪に触れる前に止まった。やめた。紙はまだ、そこで呼吸している。わたしの呼吸と同じリズムで。閉じるのは、読んでからでもできる。読まずに閉じるのは、閉じ込めることになる。対象を。わたしを。
箱を取り出し、蓋を開け、紙をもう一度、展げる。今度は最初の行だけではなく、条文も目で追う。持参金、同盟、式の形式、破棄条件、証人。そこに「リオン・ヴァーベナ」という名はない。証人欄の一つは空白。目がそこに引っかかる。空白に、見えない名前が書いてあるように錯覚する。ペンがためらって止まった痕跡。紙の繊維が、わずかに毛羽立っている。
指の先が、紙面の端を撫でた。インクの乾いた黒に、なつかしさが混ざる。「セラ・アマランサス」。セラ。セラ。口の中で一度、そっと転がす。音が自分のものではない。誰かの舌で呼ばれた音が、記憶としてだけ存在している。頭のどこかが痺れ、額の中心が冷え、背骨が少しだけ喜ぶ。喜びは、危険だ。だから、わたしは紙を閉じた。
箱を戻し、棚の内側に押し込む。封印を――今度は、返した。輪に指を挟み、三本線を逆順でなぞり、息を吸って、吐かない。押し、音。木がまた、わずかに伸び、刻印の光が消える。呼吸を吐いた瞬間、胸の中の甘さが細い針に変わり、内側から一度だけ刺した。
椅子に戻って座る。膝の上で手を重ねる。指輪の冷たさが、じわりと皮膚に戻る。指輪の内側の古い文字は、今日も読めない。けれど、封印の刻印は読めた。読めてしまった。わたしは、どれだけを「忘れて」いるのだろう。忘れているのに、体は覚えている。呼吸の順番、印の順番、古い魔術の礼儀の角度。それは「誰かに教わった」ものだ。誰か。――僕。
蜂蜜と紅茶の記憶が、図書室の空気に薄く積もる。蜜は空気に長居をするタイプの香りだ。消えない。薄まっていくだけで、消えはしない。笑い声の残響が、耳の奥で再生される。音は小さく、でも質がはっきりしている。「僕はね、アイリス、君の舌の奥の甘さが好きだ」。ふざけたようで、真剣な声。気づけば、唇の内側を小さく噛んでいた。そこに甘さはない。ただ、唾液の味と、少しの鉄の匂いの記憶。
「――ここにいたか」
扉の方から、低い声。わたしは反射的に立ち上がる。リオンが、光の中に輪郭を切って立っていた。黒衣はきっちり整えられ、朝よりも鋭い空気をまとっている。仕事の顔。目は、昼の光でも深い色を保っていた。
「調子は」
「大丈夫。……少し、本を見ていた」
「そうか」
視線が、棚へ。彼の目は棚の「密度」の違いを一目で拾う。訓練された獣のような目。けれど、彼は何も言わなかった。棚へ一歩も近づかず、距離を保ったまま、部屋の中央のテーブルを指で軽く叩く。
「お茶は飲めたか」
「香りだけ」
「甘いものは」
「控えた」
「偉い」
褒められるようなことじゃないのに、褒められてしまうと、胸のどこかが少しだけ温かくなる。わたしは、視線を自分の手に落とし、指輪の触感で落ち着きを作る。リオンは空気の流れを確かめるみたいに窓へ歩き、小さく換気した。蜂蜜の香りが少しだけ薄まり、外の風の味が入る。
「……何か、思い出したか」
背を向けたままの問い。後ろ姿で、彼は言いにくさを処理する。わたしは、答えの形を選ぶ時間をもらえたことに感謝しながら、言葉を探す。
「少しだけ。匂いとか、音とか。……笑い声」
「誰の」
振り返る前に、問いが重なった。わたしは唇の内側をまた噛み、ほんのわずかに目を閉じた。
「……分からない。でも、優しかった」
「ああ」
彼の返事は短く、低い。窓を閉める金具の音が、やけにはっきり響いた。リオンは振り返り、テーブルの向かいに座る。背筋は伸び、手は組まれず、指先は膝の上。準備の姿勢。問いは続くのか、と身構えたが、彼は違う言葉を選んだ。
「外に出るか。庭を」
「うん。……鍵が多いですね」
「多い」
「必要、なんですか」
「必要だ」
会話の切っ先は短い。けれど尖っていない。彼は可能な限りの情報だけを渡し、余分を慎重に削る。その削り方は、刀ではなく鉋に近い。木目に逆らわず、滑らかに。
「図書室は、好き?」
「好き。……ここは、少し冷たいけど」
「冷たい?」
「良い意味で。頭が静かになる」
「それは、いい」
彼は安堵したように目を細めた。図書室がわたしを落ち着かせること、それ自体が彼にとって救いなのだ。わたしがどこに居られるのか、彼はずっと探しているのだと分かる。居場所。扉が多い屋敷で、開いた窓が一つだけ見つかったような気持ち。
「……リオン」
「なんだ」
「もし、わたしが、『誰か』のことを思い出しても、怒らない?」
自分でも、どうしてこんなことを聞いたのか分からない。口が先に動いた。空気が、薄く凍る。彼の目の奥で、刺のような光がほんの一瞬だけ顔を出し、すぐに引っ込んだ。
「怒らない」
即答。声は掠れていない。いつもより、低いだけ。低さは、決意の重さだ。
「……ありがとう」
「怒るのは、俺の問題だ。お前の問題じゃない」
「リオンの問題?」
「俺の……欠陥」
欠陥、という言い方に、わたしは眉を寄せる。彼は自分を不器用と言い、自分の問題を欠陥と言う。彼は、どれだけ自分を削ぎ落としてやっと、今の丁寧さに辿り着いているのだろう。胸が締めつけられる。わたしはテーブルの端を撫で、木目に指先を合わせる。
「わたしは、リオンに会ってからのことを、ちゃんと覚えたい」
「覚えろ」
短く、肯定。許しではなく、命令に近い。命令の形の優しさは、確かに存在する。わたしはうなずき、息を吸う。
「――庭、行きましょう」
図書室の扉を閉める前、ほんのわずかに振り返った。棚の一角が、昼の光を反射して、何もなかったみたいな顔をしている。封印は戻った。箱は閉じた。紙はそこで静かに呼吸を続ける。蜂蜜の香りは薄まり、紅茶の記憶は舌の裏に小さく残ったまま。
扉の外へ出る。廊下の絨毯が足音を飲み、遠くで誰かが「ご無理はなさらず」と囁く。庭へ向かう途中、わたしは一瞬だけ振り返りたくなる衝動に襲われた。衝動は喉のあたりでせり上がり、目の後ろで花開き、額の皮膚をひやりと撫でる。額に触れる、指先の幻。――その手は、夢の男のものだった。笑い声の残響が、また耳の奥で揺れた。
「僕は、忘れないよ」
誰の声でもない、記憶の声。わたしは歩幅を変えない。隣を歩くリオンの足音は一定で、影はわたしの影と重なり、陽は少し傾き始める。庭の白い花が風に揺れ、池の水が午後の光を刻む。指輪は静かに光り、内側の文字は今日もまだ、読めなかった。
――封じられた書庫は、閉じたまま。けれど、わたしの内側の扉はひとつ、音を立てずに開いた気がした。甘さの奥に潜む棘の位置を、わたしはもう、指で示せる。笑い声の残響を、ただの残響として耳に置いておける。そう信じて、午後の光へ出る。白い花の匂いが、蜂蜜の膜を薄く洗い流していく。
3
あなたにおすすめの小説
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
さようなら、私を「枯れた花」と呼んだ貴方。~辺境で英雄を救って聖女と呼ばれたので、没落した元婚約者の謝罪は受け付けません~
有賀冬馬
恋愛
「お前のような見栄えの悪い女は、俺の隣にふさわしくない」
婚約者アレクに捨てられ、辺境へ追いやられたセレナ。
けれど、彼女が森で拾ったのは、アレクなど足元にも及ばないほど強くて優しい、呪われた英雄ライアンだった。
セレナの薬草が奇跡を起こし、王都を救う特効薬となったとき、かつて自分を捨てた男との再会が訪れる。
「やり直そう」と縋り付くアレクに、セレナは最愛の人と寄り添いながら静かに微笑む。
――あなたが捨てたのは、ただの影ではなく、あなたの未来そのものだったのですよ。
王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする
葉山あおい
恋愛
王宮で働く勤続八年のメイド、エレナ・フォスター。仕事は完璧だが愛想がない彼女は、いつしか「鉄の女」と呼ばれ恐れられていた。
そんな彼女に下された辞令は、王宮の敷地内にありながら「魔窟」と呼ばれる『北の塔』の専属メイドになること。そこの主である宮廷魔術師団長・シルヴィス・クローデルは、稀代の天才ながら極度の人嫌い&生活能力ゼロの偏屈男だった!
ゴミ屋敷と化した塔をピカピカに掃除し、栄養失調寸前の彼に絶品の手料理を振る舞うエレナ。黄金色のオムレツ、とろける煮込みハンバーグ、特製カツサンド……。美味しいご飯で餌付けされた魔術師様は、次第にエレナへの独占欲を露わにし始めて――?
意地悪な聖女や侯爵夫人のいびりも、完璧なスキルで華麗に返り討ち。平民出身のメイドが、身分差を乗り越えて幸せな花嫁になるまでの、美味しくて甘いシンデレラストーリー。
白い結婚は終わりました。――崩れない家を築くまで
しおしお
恋愛
「干渉しないでくださいませ。その代わり、私も干渉いたしません」
崩れかけた侯爵家に嫁いだ私は、夫と“白い結婚”を結んだ。
助けない。口を出さない。責任は当主が負う――それが条件。
焦りと慢心から無謀な契約を重ね、家を傾かせていく夫。
私は隣に立ちながら、ただ見ているだけ。
放置された結果、彼は初めて自分の判断と向き合うことになる。
そして――
一度崩れかけた侯爵家は、「選び直す力」を手に入れた。
無理な拡張はしない。
甘い条件には飛びつかない。
不利な契約は、きっぱり拒絶する。
やがてその姿勢は王宮にも波及し、
高利契約に歪められた制度そのものを立て直すことに――。
ざまあは派手ではない。
けれど確実。
焦らせた者も、慢心した者も、
気づけば“選ばれない側”になっている。
これは、干渉しない約束から始まる静かな逆転劇。
そして、白い結婚を終え、信頼で立つ家へと変わっていく物語。
隣に立つという選択こそが、最大のざまあでした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる