記憶を失った花嫁は夫だと言う男に溺愛されるが結婚契約書に書いてある名前は別の男でした

タマ マコト

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5話「封じられた書庫」

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 昼下がりの図書室は、紙と革と埃の匂いで満ちていた。高い窓から落ちる光が、棚の背表紙に細い縞をつくり、梯子の影が床に格子を描いている。午前に歩いた屋敷の地図の続きとして、わたしはここにいる。サナは「お茶をお持ちします」と言い、扉の外へ消えた。部屋には、静寂の粉が薄く舞っている。

 指先で背表紙を一冊一冊たどる。歴史、地誌、魔術理論、詩篇、書簡集。革の手触りにわずかな違いがあって、それだけで昔の季節の温度が指に移る。棚の中央、他よりも古く、色が深い部分に、目が止まった。そこだけ空気が、ほんの少し重い。言葉にするなら「密度が違う」。本の並びは乱れていないのに、整えられた表面の背後で、何かが静かに呼吸している。

 近づくと、棚の縁に指先がふいと吸い寄せられた。彫り込み。目立たない刻印が木目に紛れている。三つの細い線と、小さな輪。輪の中に古い文字。読みは分からない。ただ、胸の奥のどこかが「知っている」と答える。知らないのに、知っているふりをする臓器。指輪の内側の文字を見たときのざわめきに似ていた。

 刻印の下に、結界の名残。ごく弱い封印の気配。誰かが意図して閉ざした棚。鍵穴はない。鍵は、この印だ。どうすれば解けるのか、頭が考えるより先に体が動いた。右手の親指と薬指で輪をはさみ、左手の人差し指で三本線をなぞる。順番。上、下、真ん中。そこに、息。短く一度、吐く。古い癖のような仕草。どこで覚えたのか、自分に問いながら、わたしは迷いなく実行していた。

 空気がひとつ、くぐもった音を立てた。乾いた木が小さく伸びをするみたいに。刻印の輪が淡く光り、棚板の隙間が髪一本ぶん開く。指をかけ、押すと、背後に浅い空間が現れた。畳まれた布、細い箱、封蝋で閉じられた筒。箱の一つに、薄い金の筋が走っている。引き出す。蓋は軽いはずなのに、手の中でだけ重い。蓋を開けると、紙が一枚、丁寧に二つ折りにされて入っていた。

 紙は白ではなく、少しだけクリーム色。古いが、劣化していない。指先で端をつまみ、息を整え、折り目を解く。紙の表面に光が走り、インクが静かに目を起こす。まず、香りが立った。微かに残っていた香油が、部屋の温度でゆっくりほどける。蜂蜜。紅茶。午後の光に沈む甘さ。喉の奥にやわらかい膜が張るような匂い。

 文字が、目に触れる。

 ――アイリス・フィオレンティーナ ― セラ・アマランサス

 輪郭だけで心臓が跳ねた。二つの名のあいだを長いダッシュが結び、下に古語でびっしりと条文が連なる。婚約契約書。おそらく王都の式神官の監修。署名の脇に、印章が重なっている。読み方は今でも分かる。条文は法の言葉で、感情の居場所がない。けれど最初の二つの名だけで、わたしの体はもう反応していた。

 ――僕。

 蜂蜜と紅茶の匂いが濃くなり、耳の奥で、笑い声の残響がふっと立ち上がる。低くて、柔らかくて、のどの奥で笑う癖のある声。わたしの名前を呼ぶ時、語尾が一音だけ高くなる声。「君は僕の花だ、アイリス」。言葉が記憶の隙間から滲み出てくる。わたしの指は、無意識に紙面の「セラ」という名をなぞった。声にならない熱が、喉を上がってきて口の裏側に溜まる。

 「アイリス様?」

 扉の向こうで、サナの声。わたしは肩をびくりと揺らし、紙をもう一度、そっと折った。箱に戻し、蓋を閉じる。空気を整え、棚の内側の空間へ押し込む。封印はまだ返していない。扉が開き、サナがお盆を抱えて入ってきた。茶の香りが、蜂蜜の薄い残り香と混ざって、部屋は少し甘くなる。

「お茶を。……アイリス様、お顔の色が」

「平気。少し、埃っぽかっただけ」

 嘘は下手くそだった。サナの目が、一瞬だけ棚の側面へ滑る。鍵束は彼女の腰にあり、今は鳴っていない。彼女は何も聞かずにテーブルにカップを置き、小さな焼き菓子を添えた。

「ジャムは控えめにしておきました」

「ありがとう」

 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。カップを口に運ぶ。紅茶の温度。蜂蜜は――いらない。砂糖も。今は、現実の方へ舌を戻したい。唇を湿らせただけでカップを置く。胃のあたりに小さな渦ができ、そこに甘い香りが粘る。サナはその様子を一瞬だけ見て、視線を下に落とした。

「何か、見つかりましたか」

 穏やかな問い。返事に選べる言葉は多くない。わたしは、頬の熱を掌で静めながら、別の棚を見た。

「……昔の詩集。誰かの好きな詩」

「そうでしたか」

 サナはそれ以上、掘らない。使用人の距離感は、ガラス細工みたいに繊細にできている。彼女はハンカチでテーブルの端を拭き、部屋の空気の流れを確かめるように窓辺へ視線を投げ、それから会釈した。

「ご無理はなさらず。鈴を」

「うん。ありがとう」

 彼女が出て行くと、部屋は再び紙と革の匂いに支配された。封印を戻すべきか、目を閉じて考える。紙の手触りが指に残り、胸の奥では、セラという名がゆっくり沈んでいく。沈む時に、水音は立てない。水面は静かで、底だけが落ちる。呼吸が浅くなる。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く――やってみても、今は「止める」の四つ目で胸が詰まる。

 わたしは立ち上がり、棚の前に戻った。封印は、触れ直せばまた閉じる。そう思って、刻印を指でなぞる。が、指は輪に触れる前に止まった。やめた。紙はまだ、そこで呼吸している。わたしの呼吸と同じリズムで。閉じるのは、読んでからでもできる。読まずに閉じるのは、閉じ込めることになる。対象を。わたしを。

 箱を取り出し、蓋を開け、紙をもう一度、展げる。今度は最初の行だけではなく、条文も目で追う。持参金、同盟、式の形式、破棄条件、証人。そこに「リオン・ヴァーベナ」という名はない。証人欄の一つは空白。目がそこに引っかかる。空白に、見えない名前が書いてあるように錯覚する。ペンがためらって止まった痕跡。紙の繊維が、わずかに毛羽立っている。

 指の先が、紙面の端を撫でた。インクの乾いた黒に、なつかしさが混ざる。「セラ・アマランサス」。セラ。セラ。口の中で一度、そっと転がす。音が自分のものではない。誰かの舌で呼ばれた音が、記憶としてだけ存在している。頭のどこかが痺れ、額の中心が冷え、背骨が少しだけ喜ぶ。喜びは、危険だ。だから、わたしは紙を閉じた。

 箱を戻し、棚の内側に押し込む。封印を――今度は、返した。輪に指を挟み、三本線を逆順でなぞり、息を吸って、吐かない。押し、音。木がまた、わずかに伸び、刻印の光が消える。呼吸を吐いた瞬間、胸の中の甘さが細い針に変わり、内側から一度だけ刺した。

 椅子に戻って座る。膝の上で手を重ねる。指輪の冷たさが、じわりと皮膚に戻る。指輪の内側の古い文字は、今日も読めない。けれど、封印の刻印は読めた。読めてしまった。わたしは、どれだけを「忘れて」いるのだろう。忘れているのに、体は覚えている。呼吸の順番、印の順番、古い魔術の礼儀の角度。それは「誰かに教わった」ものだ。誰か。――僕。

 蜂蜜と紅茶の記憶が、図書室の空気に薄く積もる。蜜は空気に長居をするタイプの香りだ。消えない。薄まっていくだけで、消えはしない。笑い声の残響が、耳の奥で再生される。音は小さく、でも質がはっきりしている。「僕はね、アイリス、君の舌の奥の甘さが好きだ」。ふざけたようで、真剣な声。気づけば、唇の内側を小さく噛んでいた。そこに甘さはない。ただ、唾液の味と、少しの鉄の匂いの記憶。

「――ここにいたか」

 扉の方から、低い声。わたしは反射的に立ち上がる。リオンが、光の中に輪郭を切って立っていた。黒衣はきっちり整えられ、朝よりも鋭い空気をまとっている。仕事の顔。目は、昼の光でも深い色を保っていた。

「調子は」

「大丈夫。……少し、本を見ていた」

「そうか」

 視線が、棚へ。彼の目は棚の「密度」の違いを一目で拾う。訓練された獣のような目。けれど、彼は何も言わなかった。棚へ一歩も近づかず、距離を保ったまま、部屋の中央のテーブルを指で軽く叩く。

「お茶は飲めたか」

「香りだけ」

「甘いものは」

「控えた」

「偉い」

 褒められるようなことじゃないのに、褒められてしまうと、胸のどこかが少しだけ温かくなる。わたしは、視線を自分の手に落とし、指輪の触感で落ち着きを作る。リオンは空気の流れを確かめるみたいに窓へ歩き、小さく換気した。蜂蜜の香りが少しだけ薄まり、外の風の味が入る。

「……何か、思い出したか」

 背を向けたままの問い。後ろ姿で、彼は言いにくさを処理する。わたしは、答えの形を選ぶ時間をもらえたことに感謝しながら、言葉を探す。

「少しだけ。匂いとか、音とか。……笑い声」

「誰の」

 振り返る前に、問いが重なった。わたしは唇の内側をまた噛み、ほんのわずかに目を閉じた。

「……分からない。でも、優しかった」

「ああ」

 彼の返事は短く、低い。窓を閉める金具の音が、やけにはっきり響いた。リオンは振り返り、テーブルの向かいに座る。背筋は伸び、手は組まれず、指先は膝の上。準備の姿勢。問いは続くのか、と身構えたが、彼は違う言葉を選んだ。

「外に出るか。庭を」

「うん。……鍵が多いですね」

「多い」

「必要、なんですか」

「必要だ」

 会話の切っ先は短い。けれど尖っていない。彼は可能な限りの情報だけを渡し、余分を慎重に削る。その削り方は、刀ではなく鉋に近い。木目に逆らわず、滑らかに。

「図書室は、好き?」

「好き。……ここは、少し冷たいけど」

「冷たい?」

「良い意味で。頭が静かになる」

「それは、いい」

 彼は安堵したように目を細めた。図書室がわたしを落ち着かせること、それ自体が彼にとって救いなのだ。わたしがどこに居られるのか、彼はずっと探しているのだと分かる。居場所。扉が多い屋敷で、開いた窓が一つだけ見つかったような気持ち。

「……リオン」

「なんだ」

「もし、わたしが、『誰か』のことを思い出しても、怒らない?」

 自分でも、どうしてこんなことを聞いたのか分からない。口が先に動いた。空気が、薄く凍る。彼の目の奥で、刺のような光がほんの一瞬だけ顔を出し、すぐに引っ込んだ。

「怒らない」

 即答。声は掠れていない。いつもより、低いだけ。低さは、決意の重さだ。

「……ありがとう」

「怒るのは、俺の問題だ。お前の問題じゃない」

「リオンの問題?」

「俺の……欠陥」

 欠陥、という言い方に、わたしは眉を寄せる。彼は自分を不器用と言い、自分の問題を欠陥と言う。彼は、どれだけ自分を削ぎ落としてやっと、今の丁寧さに辿り着いているのだろう。胸が締めつけられる。わたしはテーブルの端を撫で、木目に指先を合わせる。

「わたしは、リオンに会ってからのことを、ちゃんと覚えたい」

「覚えろ」

 短く、肯定。許しではなく、命令に近い。命令の形の優しさは、確かに存在する。わたしはうなずき、息を吸う。

「――庭、行きましょう」

 図書室の扉を閉める前、ほんのわずかに振り返った。棚の一角が、昼の光を反射して、何もなかったみたいな顔をしている。封印は戻った。箱は閉じた。紙はそこで静かに呼吸を続ける。蜂蜜の香りは薄まり、紅茶の記憶は舌の裏に小さく残ったまま。

 扉の外へ出る。廊下の絨毯が足音を飲み、遠くで誰かが「ご無理はなさらず」と囁く。庭へ向かう途中、わたしは一瞬だけ振り返りたくなる衝動に襲われた。衝動は喉のあたりでせり上がり、目の後ろで花開き、額の皮膚をひやりと撫でる。額に触れる、指先の幻。――その手は、夢の男のものだった。笑い声の残響が、また耳の奥で揺れた。

 「僕は、忘れないよ」

 誰の声でもない、記憶の声。わたしは歩幅を変えない。隣を歩くリオンの足音は一定で、影はわたしの影と重なり、陽は少し傾き始める。庭の白い花が風に揺れ、池の水が午後の光を刻む。指輪は静かに光り、内側の文字は今日もまだ、読めなかった。

 ――封じられた書庫は、閉じたまま。けれど、わたしの内側の扉はひとつ、音を立てずに開いた気がした。甘さの奥に潜む棘の位置を、わたしはもう、指で示せる。笑い声の残響を、ただの残響として耳に置いておける。そう信じて、午後の光へ出る。白い花の匂いが、蜂蜜の膜を薄く洗い流していく。
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