4 / 20
4話「火の夢、剣の影」
しおりを挟む
――花びらが、燃えていた。
夢の中の披露宴は夜の色をしていた。高い天井には金の星が吊られ、壁は紅の布で覆われ、足もとには赤い花弁が絨毯のように敷き詰められている。歩くたび、花の汁が靴の底でやわらかく潰れ、甘い香りが立ちのぼる。楽士が弦を弾くけれど、その音はどこか遠く、耳の奥に届く前に花の香りに溶けてしまう。
人々が笑い、杯が触れ合い、金属の鈍い音が泡のように弾ける。金の杯。縁に小さな刻印。指先でなぞると、指がそこに記憶の温度を拾う。「おめでとう」「祝福を」「美しい花嫁だ」。言葉は次々に飛ぶが、わたしの耳はうわの空で、目はただ黒い袖口に引き寄せられていた。
袖。黒。漆黒。袖口の糸は、鎧の縁のように固く、そこから覗く手首は白い。指が伸び、わたしの髪に触れ――違う、指は空を切って、音もなく落ちる赤い花弁をひとひら掬い上げた。指の動きは知っている。けれど、誰の指かが分からない。分かりそうになるたび、会場の風がふっと吹き、燭台の火が一斉に揺れる。
壇上に、ふたりの影。ひとりは黒衣。もうひとりは、白。白はわたしで、黒は――。
音が消える。世界が、静止する。次の瞬間、剣が抜かれる音だけがやけに鮮やかに響いた。硬質な軌跡が空気を割り、燭火を縫い、剣身が赤い照明を受けて冷たく光る。黒衣の男――リオンが、一歩、前へ出た。顔は硬く、目は風のない夜の湖。剣を持つ手に迷いはないのに、その肩は、重さを知っている肩だった。
刃が、わたしへ向く。空気が細く尖る。頬の産毛が、刃先の冷気を先取りして逆立つ。恐怖は音より先にやって来て、膝の裏をやんわりと撫でる。逃げようとして足が床に吸い付く。赤い花弁の海が、わたしの足元で波立ち、踏めば踏むほど粘つく甘さを増していく。
リオンが、口を開いた。けれど声は出ない。出ないのではない。出た声が、赤い幕の裏で吸い込まれてこちらへ届かないのだ。剣先がわずかに下がり、次の呼吸でまた上がる。刃に映るわたしの顔が、少しだけ歪む。涙が、そこに滲んでいるのが見える。
そのとき、背中からふわりと甘い気配がした。蜂蜜を溶かした紅茶、熟した果実、夜咲く花の、柔らかく湿った匂い。わたしの名を知っている吐息が、耳の軟骨を優しくくすぐる。
「怖くないよ、僕がいるから、アイリス」
低い、やわらかな声。あたたかい息。肩甲骨のあいだを撫でる手。押しつけるでもなく、離すでもなく、ただ「ここにいる」と伝える掌。背骨が、その言葉に反応して伸びる。胸の奥に張り巡らされていた見えない糸が、その声に呼応して少しだけ緩む。
わたしは振り返ろうとする。けれど、振り返る前に、腕が回された。腰の上、肋骨の一番下のあたりをそっと囲む腕。抱きしめるのでも、所有を刻むのでもない。落ちないように支える抱き方。祭壇の上の花が風で揺れ、赤い幕が波打ち、楽士の弦がひゅ、と短く鳴る。
前で、リオンの剣先が止まった。止まったのに、止まったことが逆に恐ろしい。動けば理由がある。止まると、理由が見えない。彼の目の底に、刺のような光が一瞬だけ走った。刺はわたしに向いているのではない。わたしを通り抜けて、背後の腕の主を睨んでいるのだと、なぜか分かった。
「大丈夫だよ」
背中の声が、同じことを繰り返す。大丈夫――と、言われるほど、世界が危うくなる。安心の言葉が、薄い氷の上に置かれた足みたいに頼りない。わたしは自分の両手を見た。白い手袋。指先が少し震えていて、爪の下で血が柔らかく脈を打つ。剣先の反射に、背中の黒い袖口が薄く映る。やっと気づく。背後の男の袖は、黒ではない。濃紺。夜に溶ける青。袖口に刺繍。細い蔦が絡み、ところどころに小さな金糸の実。知っている。知らないはずなのに、指が刺繍の位置を思い出す。
「僕が、連れて行く。ね?」
耳元が、熱い。言葉は砂糖菓子。舌の上で溶け、喉へ落ちる前に甘さだけが神経を痺れさせる。祭壇の燭台が一気に明滅し、会場の風景が一瞬だけスロウになる。人々の笑いは形を失い、金の杯の中の酒が重たく揺れ、赤い花弁が宙で止まる。
リオンが、剣を握り直す。柄を握る指に、白い傷跡が走るのが見えた。彼は一歩、近づいた。刃は下がっている。攻撃の構えではない。何かを、断つ覚悟の形。目の底の刺は、より深く、より静かに光った。彼が何かを言う。今度は、音が届いた。
「――アイリス」
名を呼ばれるだけで、膝の力が抜ける。背後の腕が、支える力を少し強める。二人のあいだに、わたしは薄い紙のように挟まれ、どちらかの温度に染まる前に、夢の色がふいに変わった。
火が、上がる。花弁から、火が上がる。赤が、炎の色へと質を変え、空気が乾く。甘い香りは熱で薄れ、鉄の匂いが勝ってくる。どこかで旗が落ちる音。楽士の弦が切れ、音がはね、観客のざわめきが悲鳴へ移る。世界が、一斉に傾く。祭壇の布が燃え、天井の金の星が、溶けた涙のように落ちる。
「行こう」
背中の声。甘さは薄まり、代わりに焦りが混じる。腕が腰を引く。前で、リオンの足が床板を踏み、剣が横に振られて炎の舌を断ち切る。火はすぐにまた繋がる。わたしは両方の方向へ同時に引かれて、身体が二つに割れてしまいそうになる。どちらも、離せない。どちらも、怖い。
リオンが叫ぶ。今度ははっきり聞こえた。
「離れろ!」
命令ではない。嘆願でもない。かつて、数えきれないほどの仲間を守るために使ってきた短い言葉の強度。背中の腕が、一瞬だけ硬直し、すぐに力を増す。「いやだ」と、耳の奥で甘い声が言った。「彼女は、僕の花嫁だ」。その瞬間、剣が大きな弧を描き、赤い幕の一部が切れて床に落ち――夢の縁が破ける音がした。
世界は、落下した。
◇
目が覚めた。息が浅く、胸が痛い。瞼の裏にまだ炎の残像があり、喉に鉄の味が残っている。目を開けると、天蓋の布は灰色から薄い白へと戻り、部屋は朝の半歩手前の蒼に満ちていた。暖炉は小さな火を抱え、窓の外では鳥がまだためらいがちに鳴き始めたところ。
頬が濡れていた。涙は思ったより多く、枕の端まで小さな濡れ模様を作っている。指で拭うと、溜めていた塩気が舌に触れて、胸の奥の苦さと混ざった。呼吸を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く――が、うまくいかない。四つ目で喉が詰まり、胸の中央で何かが逆流する。
扉が、控えめに二度叩かれた。間を置かず、低い声。
「入っていいか」
返事をする前に、扉は半分だけ開いた。黒衣の影。リオンだ。彼の目は夜を引きずった色をしていて、けれど視線は明るいところへ向ける癖を忘れていない。わたしが身体を起こしきれずにいるのを見ると、躊躇いが一瞬だけ走り、それから彼はすばやく部屋に入り、床を軋ませない足取りでベッドの脇に来た。
「大丈夫か」
大丈夫ではない、の部類だ。けれど、言葉にするのは難しかった。喉の奥に夢の刺がまだ引っかかっていて、声を出すとそこに触れてしまう気がした。わたしは首を横に振る。視界が滲む。体温がどこにあるのか分からない。
「……泣いていい」
彼の言葉は短いのに、許しの形を持っていた。それでも我慢しようとした。我慢の形も、身体はつい覚えてしまう。わたしは唇を噛んだ。指がシーツの縁を掴み、関節が白くなる。
「大丈夫だ、俺がいる」
その一言が、きっかけになった。堰が切れ、涙がまた溢れる。わたしは自分でも驚く速さで身を乗り出し、彼の胸へ顔を埋めた。布の匂い。香木。鉄。微かな薬草。鼓動の音が近い。硬いはずの胸板が、思ったよりも柔らかい。柔らかいのではなく、温かい。温度が、喉の詰まりを押し下げてくれる。
「……夢、見た」
「ああ」
「怖かった。火の匂いと、剣の音。わたしに、剣が……」
「ここには、ない」
彼の手が、背中へ回る。背骨に沿って、手のひらがそっと滑る。撫でるというより、確認する動き。ここだ、という印をつけるみたいに。背中に置かれた手の重みは、抱きしめるのとは違う。逃げ道を塞がず、落ちないように縁を作る手。
「……俺がいる」
同じ言葉でも、さっきより低く、腹の方から出た声。その低さが、床の石の温度と混ざって、部屋全体に広がる。わたしの呼吸が、その声を抱き込むみたいに少し深くなる。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも、わたし……何も」
「何も、悪くない」
短い。確かな。彼の言葉は、壁の釘にかけたコートみたいに揺れずに留まる。わたしはまだ彼の胸に顔を埋めたまま、目を閉じた。瞼の裏の炎は薄くなり、赤い花弁はもう匂いだけを残している。背中に置かれた手は、重くも軽くもできる手で、今はちょうどよかった。
「……誰かが、囁いた」
言うべきか迷い、でも言った。言わないと、夜の甘さだけが体内に残ってしまいそうだった。
「“怖くないよ、僕がいるから、アイリス”って」
リオンの指が、ほんのわずかに固くなった。すぐ緩む。反応は、彼自身が誤魔化すのが上手い程度の微細さ。わたしは、嘘を嗅ぎ分けるほど器用ではない。でも、胸に触れているから、わずかな固さは伝わる。
「俺の声じゃないな」
「違う。……でも、優しかった」
「ああ」
ああ、の一音に、いくつもの意味が重なる。分かっている。分かりたくない。認める。許さない。どれでもない。彼の喉が小さく鳴る。胸の奥で、刺のような痛みが一瞬だけ主張し、それから見えない場所へ戻っていく気配。
「怖かった、のに、少しだけ、安心した」
「……そうか」
彼はそれを否定しない。否定する方が簡単なのに。彼は簡単さを選ばない。選ばないことの難しさが、掌の温度に出ていた。
「リオン」
「なんだ」
「今、ここに、いて」
「いる」
即答。言葉の速さは、約束のためにある。わたしは鼻をすする。涙はようやく落ち着き、呼吸のリズムが少しずつ整う。彼の服の胸元に、涙の跡が薄い斑点を作っているのが見え、申し訳なさが頬に上る。
「服、濡らして、ごめんなさい」
「構わん。乾く」
「……やさしい」
「俺は、不器用だ」
「知ってるみたいに言う」
「知ってる」
冗談みたいに短い往復。その短さに救われる。わたしはゆっくりと彼の胸から顔を離し、目を拭った。リオンは手を引かず、背に置いた掌だけはそのままにしている。離してしまったら、どこかへ落ちてしまうことを知っている触れ方。
窓の外の空は、淡い青に銀を混ぜたような早朝の色。鳥の声が増え、街の方からパンを焼く匂いが薄く流れてくる。世界は、何も知らない顔で今日を始めようとしている。
「医師は来るか」
「さっきサナが、朝の支度を……」
そこまで言って、言葉が途切れる。額が、ひやりとした。風ではない。触れられた記憶が、また皮膚の底から浮かんで来た。夢の男の指。やさしい、けれど甘さの棘を隠した指。わたしは思わず額に手を当てる。
「どうした」
「……何でもない。夢の残りが、まだ」
リオンは頷き、わたしの手の上から、そっと額に触れた。指の腹で、熱を計るみたいに。彼の指は冷たすぎず、熱すぎず、適温だった。夢の指と違う。比較をしてしまう自分が嫌で、でも比較してしまうことを止められない。心は勝手に物差しを取り出し、線を引く。線はまだ、ぐにゃぐにゃだ。
「熱はない。……食えるか」
「少しなら」
「スープにしよう。今日は甘いものは控えろ」
「どうして」
「甘さは、夢を引き寄せる」
迷信のようで、真顔で言う。彼は戦場で覚えた現実と、古い言い伝えの境を、ちゃんと知っている。わたしは笑って頷いた。
「じゃあ、塩気で現実に戻る」
「そうしろ」
短く言って、彼は立ち上がる。離れた掌の跡が、背中に温度の影を残す。影は、消えない。彼は扉のところまで行き、振り返らずに言う。
「……俺がいる」
「うん」
返事は小さいけれど、確かだった。リオンが出て行くと、部屋の空気が少しだけ軽くなる。その軽さは心細さではなく、動ける余白。わたしは枕を整えて、窓の方に目を向ける。天蓋の布が朝の光に透け、指輪の銀が静かに光る。内側の古い文字は、今日も読めない。読めないけれど、いつか読める気がする。読むまでは、まだ夢を見て、現実で確かめて、手触りを集めるのだと思う。
蜂蜜の匂いは、もうしない。代わりに、香木と焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐる。甘さの記憶は遠のき、胸の奥に小さな刺だけが居心地の悪さを残した。刺は、痛みを忘れるための印だ。忘れてはいけないものを、忘れないようにするための、体の知恵。
スープの湯気がやがて部屋を満たし、朝の鐘が薄く落ちる。その前に、わたしはもう一度だけ、目を閉じて確かめる。夢の中で剣を振り下ろそうとした黒衣の男と、今、扉の向こうにいる男は、同じ名を持っている。彼の声は優しく、奥底に刺のような痛みが混じる。刺があるから、言葉が軽くならない。刺は、彼の罪かもしれないし、彼の誓いかもしれない。
わたしは、今日を始める。現実の塩気で舌を起こし、指輪の冷たさで指先を整え、呼吸を数えて心を揃える。夢は夜に来る。来たときは、叫ばず、比べず、見つめる。怖かったら――呼ぶ。彼は来る。「大丈夫だ、俺がいる」と、短く言う。その短さで、わたしはまた現実へ戻ってこれる。
赤い花弁は、今はもう床にない。けれど、胸のどこかでまだ、踏まれた甘さがぬるく残っている。それもいつか、薄まるだろう。薄まるまで、わたしは生きて、見て、触れて、選ぶ。火の夢の残り香が、朝の冷たい空気で洗われていく。剣の影はまだ消えない。けれど、影があるから光の方向が分かる。
わたしは指輪を握り、静かに息を吐いた。今日の最初の言葉は、誰にも聞こえない声で、自分に向けて。
「――大丈夫。わたしが、ここにいる」
夢の中の披露宴は夜の色をしていた。高い天井には金の星が吊られ、壁は紅の布で覆われ、足もとには赤い花弁が絨毯のように敷き詰められている。歩くたび、花の汁が靴の底でやわらかく潰れ、甘い香りが立ちのぼる。楽士が弦を弾くけれど、その音はどこか遠く、耳の奥に届く前に花の香りに溶けてしまう。
人々が笑い、杯が触れ合い、金属の鈍い音が泡のように弾ける。金の杯。縁に小さな刻印。指先でなぞると、指がそこに記憶の温度を拾う。「おめでとう」「祝福を」「美しい花嫁だ」。言葉は次々に飛ぶが、わたしの耳はうわの空で、目はただ黒い袖口に引き寄せられていた。
袖。黒。漆黒。袖口の糸は、鎧の縁のように固く、そこから覗く手首は白い。指が伸び、わたしの髪に触れ――違う、指は空を切って、音もなく落ちる赤い花弁をひとひら掬い上げた。指の動きは知っている。けれど、誰の指かが分からない。分かりそうになるたび、会場の風がふっと吹き、燭台の火が一斉に揺れる。
壇上に、ふたりの影。ひとりは黒衣。もうひとりは、白。白はわたしで、黒は――。
音が消える。世界が、静止する。次の瞬間、剣が抜かれる音だけがやけに鮮やかに響いた。硬質な軌跡が空気を割り、燭火を縫い、剣身が赤い照明を受けて冷たく光る。黒衣の男――リオンが、一歩、前へ出た。顔は硬く、目は風のない夜の湖。剣を持つ手に迷いはないのに、その肩は、重さを知っている肩だった。
刃が、わたしへ向く。空気が細く尖る。頬の産毛が、刃先の冷気を先取りして逆立つ。恐怖は音より先にやって来て、膝の裏をやんわりと撫でる。逃げようとして足が床に吸い付く。赤い花弁の海が、わたしの足元で波立ち、踏めば踏むほど粘つく甘さを増していく。
リオンが、口を開いた。けれど声は出ない。出ないのではない。出た声が、赤い幕の裏で吸い込まれてこちらへ届かないのだ。剣先がわずかに下がり、次の呼吸でまた上がる。刃に映るわたしの顔が、少しだけ歪む。涙が、そこに滲んでいるのが見える。
そのとき、背中からふわりと甘い気配がした。蜂蜜を溶かした紅茶、熟した果実、夜咲く花の、柔らかく湿った匂い。わたしの名を知っている吐息が、耳の軟骨を優しくくすぐる。
「怖くないよ、僕がいるから、アイリス」
低い、やわらかな声。あたたかい息。肩甲骨のあいだを撫でる手。押しつけるでもなく、離すでもなく、ただ「ここにいる」と伝える掌。背骨が、その言葉に反応して伸びる。胸の奥に張り巡らされていた見えない糸が、その声に呼応して少しだけ緩む。
わたしは振り返ろうとする。けれど、振り返る前に、腕が回された。腰の上、肋骨の一番下のあたりをそっと囲む腕。抱きしめるのでも、所有を刻むのでもない。落ちないように支える抱き方。祭壇の上の花が風で揺れ、赤い幕が波打ち、楽士の弦がひゅ、と短く鳴る。
前で、リオンの剣先が止まった。止まったのに、止まったことが逆に恐ろしい。動けば理由がある。止まると、理由が見えない。彼の目の底に、刺のような光が一瞬だけ走った。刺はわたしに向いているのではない。わたしを通り抜けて、背後の腕の主を睨んでいるのだと、なぜか分かった。
「大丈夫だよ」
背中の声が、同じことを繰り返す。大丈夫――と、言われるほど、世界が危うくなる。安心の言葉が、薄い氷の上に置かれた足みたいに頼りない。わたしは自分の両手を見た。白い手袋。指先が少し震えていて、爪の下で血が柔らかく脈を打つ。剣先の反射に、背中の黒い袖口が薄く映る。やっと気づく。背後の男の袖は、黒ではない。濃紺。夜に溶ける青。袖口に刺繍。細い蔦が絡み、ところどころに小さな金糸の実。知っている。知らないはずなのに、指が刺繍の位置を思い出す。
「僕が、連れて行く。ね?」
耳元が、熱い。言葉は砂糖菓子。舌の上で溶け、喉へ落ちる前に甘さだけが神経を痺れさせる。祭壇の燭台が一気に明滅し、会場の風景が一瞬だけスロウになる。人々の笑いは形を失い、金の杯の中の酒が重たく揺れ、赤い花弁が宙で止まる。
リオンが、剣を握り直す。柄を握る指に、白い傷跡が走るのが見えた。彼は一歩、近づいた。刃は下がっている。攻撃の構えではない。何かを、断つ覚悟の形。目の底の刺は、より深く、より静かに光った。彼が何かを言う。今度は、音が届いた。
「――アイリス」
名を呼ばれるだけで、膝の力が抜ける。背後の腕が、支える力を少し強める。二人のあいだに、わたしは薄い紙のように挟まれ、どちらかの温度に染まる前に、夢の色がふいに変わった。
火が、上がる。花弁から、火が上がる。赤が、炎の色へと質を変え、空気が乾く。甘い香りは熱で薄れ、鉄の匂いが勝ってくる。どこかで旗が落ちる音。楽士の弦が切れ、音がはね、観客のざわめきが悲鳴へ移る。世界が、一斉に傾く。祭壇の布が燃え、天井の金の星が、溶けた涙のように落ちる。
「行こう」
背中の声。甘さは薄まり、代わりに焦りが混じる。腕が腰を引く。前で、リオンの足が床板を踏み、剣が横に振られて炎の舌を断ち切る。火はすぐにまた繋がる。わたしは両方の方向へ同時に引かれて、身体が二つに割れてしまいそうになる。どちらも、離せない。どちらも、怖い。
リオンが叫ぶ。今度ははっきり聞こえた。
「離れろ!」
命令ではない。嘆願でもない。かつて、数えきれないほどの仲間を守るために使ってきた短い言葉の強度。背中の腕が、一瞬だけ硬直し、すぐに力を増す。「いやだ」と、耳の奥で甘い声が言った。「彼女は、僕の花嫁だ」。その瞬間、剣が大きな弧を描き、赤い幕の一部が切れて床に落ち――夢の縁が破ける音がした。
世界は、落下した。
◇
目が覚めた。息が浅く、胸が痛い。瞼の裏にまだ炎の残像があり、喉に鉄の味が残っている。目を開けると、天蓋の布は灰色から薄い白へと戻り、部屋は朝の半歩手前の蒼に満ちていた。暖炉は小さな火を抱え、窓の外では鳥がまだためらいがちに鳴き始めたところ。
頬が濡れていた。涙は思ったより多く、枕の端まで小さな濡れ模様を作っている。指で拭うと、溜めていた塩気が舌に触れて、胸の奥の苦さと混ざった。呼吸を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く――が、うまくいかない。四つ目で喉が詰まり、胸の中央で何かが逆流する。
扉が、控えめに二度叩かれた。間を置かず、低い声。
「入っていいか」
返事をする前に、扉は半分だけ開いた。黒衣の影。リオンだ。彼の目は夜を引きずった色をしていて、けれど視線は明るいところへ向ける癖を忘れていない。わたしが身体を起こしきれずにいるのを見ると、躊躇いが一瞬だけ走り、それから彼はすばやく部屋に入り、床を軋ませない足取りでベッドの脇に来た。
「大丈夫か」
大丈夫ではない、の部類だ。けれど、言葉にするのは難しかった。喉の奥に夢の刺がまだ引っかかっていて、声を出すとそこに触れてしまう気がした。わたしは首を横に振る。視界が滲む。体温がどこにあるのか分からない。
「……泣いていい」
彼の言葉は短いのに、許しの形を持っていた。それでも我慢しようとした。我慢の形も、身体はつい覚えてしまう。わたしは唇を噛んだ。指がシーツの縁を掴み、関節が白くなる。
「大丈夫だ、俺がいる」
その一言が、きっかけになった。堰が切れ、涙がまた溢れる。わたしは自分でも驚く速さで身を乗り出し、彼の胸へ顔を埋めた。布の匂い。香木。鉄。微かな薬草。鼓動の音が近い。硬いはずの胸板が、思ったよりも柔らかい。柔らかいのではなく、温かい。温度が、喉の詰まりを押し下げてくれる。
「……夢、見た」
「ああ」
「怖かった。火の匂いと、剣の音。わたしに、剣が……」
「ここには、ない」
彼の手が、背中へ回る。背骨に沿って、手のひらがそっと滑る。撫でるというより、確認する動き。ここだ、という印をつけるみたいに。背中に置かれた手の重みは、抱きしめるのとは違う。逃げ道を塞がず、落ちないように縁を作る手。
「……俺がいる」
同じ言葉でも、さっきより低く、腹の方から出た声。その低さが、床の石の温度と混ざって、部屋全体に広がる。わたしの呼吸が、その声を抱き込むみたいに少し深くなる。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも、わたし……何も」
「何も、悪くない」
短い。確かな。彼の言葉は、壁の釘にかけたコートみたいに揺れずに留まる。わたしはまだ彼の胸に顔を埋めたまま、目を閉じた。瞼の裏の炎は薄くなり、赤い花弁はもう匂いだけを残している。背中に置かれた手は、重くも軽くもできる手で、今はちょうどよかった。
「……誰かが、囁いた」
言うべきか迷い、でも言った。言わないと、夜の甘さだけが体内に残ってしまいそうだった。
「“怖くないよ、僕がいるから、アイリス”って」
リオンの指が、ほんのわずかに固くなった。すぐ緩む。反応は、彼自身が誤魔化すのが上手い程度の微細さ。わたしは、嘘を嗅ぎ分けるほど器用ではない。でも、胸に触れているから、わずかな固さは伝わる。
「俺の声じゃないな」
「違う。……でも、優しかった」
「ああ」
ああ、の一音に、いくつもの意味が重なる。分かっている。分かりたくない。認める。許さない。どれでもない。彼の喉が小さく鳴る。胸の奥で、刺のような痛みが一瞬だけ主張し、それから見えない場所へ戻っていく気配。
「怖かった、のに、少しだけ、安心した」
「……そうか」
彼はそれを否定しない。否定する方が簡単なのに。彼は簡単さを選ばない。選ばないことの難しさが、掌の温度に出ていた。
「リオン」
「なんだ」
「今、ここに、いて」
「いる」
即答。言葉の速さは、約束のためにある。わたしは鼻をすする。涙はようやく落ち着き、呼吸のリズムが少しずつ整う。彼の服の胸元に、涙の跡が薄い斑点を作っているのが見え、申し訳なさが頬に上る。
「服、濡らして、ごめんなさい」
「構わん。乾く」
「……やさしい」
「俺は、不器用だ」
「知ってるみたいに言う」
「知ってる」
冗談みたいに短い往復。その短さに救われる。わたしはゆっくりと彼の胸から顔を離し、目を拭った。リオンは手を引かず、背に置いた掌だけはそのままにしている。離してしまったら、どこかへ落ちてしまうことを知っている触れ方。
窓の外の空は、淡い青に銀を混ぜたような早朝の色。鳥の声が増え、街の方からパンを焼く匂いが薄く流れてくる。世界は、何も知らない顔で今日を始めようとしている。
「医師は来るか」
「さっきサナが、朝の支度を……」
そこまで言って、言葉が途切れる。額が、ひやりとした。風ではない。触れられた記憶が、また皮膚の底から浮かんで来た。夢の男の指。やさしい、けれど甘さの棘を隠した指。わたしは思わず額に手を当てる。
「どうした」
「……何でもない。夢の残りが、まだ」
リオンは頷き、わたしの手の上から、そっと額に触れた。指の腹で、熱を計るみたいに。彼の指は冷たすぎず、熱すぎず、適温だった。夢の指と違う。比較をしてしまう自分が嫌で、でも比較してしまうことを止められない。心は勝手に物差しを取り出し、線を引く。線はまだ、ぐにゃぐにゃだ。
「熱はない。……食えるか」
「少しなら」
「スープにしよう。今日は甘いものは控えろ」
「どうして」
「甘さは、夢を引き寄せる」
迷信のようで、真顔で言う。彼は戦場で覚えた現実と、古い言い伝えの境を、ちゃんと知っている。わたしは笑って頷いた。
「じゃあ、塩気で現実に戻る」
「そうしろ」
短く言って、彼は立ち上がる。離れた掌の跡が、背中に温度の影を残す。影は、消えない。彼は扉のところまで行き、振り返らずに言う。
「……俺がいる」
「うん」
返事は小さいけれど、確かだった。リオンが出て行くと、部屋の空気が少しだけ軽くなる。その軽さは心細さではなく、動ける余白。わたしは枕を整えて、窓の方に目を向ける。天蓋の布が朝の光に透け、指輪の銀が静かに光る。内側の古い文字は、今日も読めない。読めないけれど、いつか読める気がする。読むまでは、まだ夢を見て、現実で確かめて、手触りを集めるのだと思う。
蜂蜜の匂いは、もうしない。代わりに、香木と焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐる。甘さの記憶は遠のき、胸の奥に小さな刺だけが居心地の悪さを残した。刺は、痛みを忘れるための印だ。忘れてはいけないものを、忘れないようにするための、体の知恵。
スープの湯気がやがて部屋を満たし、朝の鐘が薄く落ちる。その前に、わたしはもう一度だけ、目を閉じて確かめる。夢の中で剣を振り下ろそうとした黒衣の男と、今、扉の向こうにいる男は、同じ名を持っている。彼の声は優しく、奥底に刺のような痛みが混じる。刺があるから、言葉が軽くならない。刺は、彼の罪かもしれないし、彼の誓いかもしれない。
わたしは、今日を始める。現実の塩気で舌を起こし、指輪の冷たさで指先を整え、呼吸を数えて心を揃える。夢は夜に来る。来たときは、叫ばず、比べず、見つめる。怖かったら――呼ぶ。彼は来る。「大丈夫だ、俺がいる」と、短く言う。その短さで、わたしはまた現実へ戻ってこれる。
赤い花弁は、今はもう床にない。けれど、胸のどこかでまだ、踏まれた甘さがぬるく残っている。それもいつか、薄まるだろう。薄まるまで、わたしは生きて、見て、触れて、選ぶ。火の夢の残り香が、朝の冷たい空気で洗われていく。剣の影はまだ消えない。けれど、影があるから光の方向が分かる。
わたしは指輪を握り、静かに息を吐いた。今日の最初の言葉は、誰にも聞こえない声で、自分に向けて。
「――大丈夫。わたしが、ここにいる」
3
あなたにおすすめの小説
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
さようなら、私を「枯れた花」と呼んだ貴方。~辺境で英雄を救って聖女と呼ばれたので、没落した元婚約者の謝罪は受け付けません~
有賀冬馬
恋愛
「お前のような見栄えの悪い女は、俺の隣にふさわしくない」
婚約者アレクに捨てられ、辺境へ追いやられたセレナ。
けれど、彼女が森で拾ったのは、アレクなど足元にも及ばないほど強くて優しい、呪われた英雄ライアンだった。
セレナの薬草が奇跡を起こし、王都を救う特効薬となったとき、かつて自分を捨てた男との再会が訪れる。
「やり直そう」と縋り付くアレクに、セレナは最愛の人と寄り添いながら静かに微笑む。
――あなたが捨てたのは、ただの影ではなく、あなたの未来そのものだったのですよ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる