記憶を失った花嫁は夫だと言う男に溺愛されるが結婚契約書に書いてある名前は別の男でした

タマ マコト

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3話「閉じた扉、開いた窓」

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 明け方の鐘が二度、薄く落ちて、屋敷の廊下に朝の匂いが流れ込んだ。眠りの底から浮かぶように目を開けると、天蓋の布は乳白色に透け、夜の名残りは枕の端にだけ薄く残っていた。夢は――覚えていない。覚えていないのに、額のあたりがひやりとして、そこに誰かの指先が触れた気配だけは、朝になっても消えなかった。

 身を起こすと、肩に落ちていた外套がするりと滑り、淡い影を床に描いた。昨夜、彼――リオンが掛けてくれたものだ。触れるとまだ彼の匂いが残っている。香木と鉄の、乾いた温度。胸の奥がわずかに整い、わたしは深く息を吸った。

 扉をノックする音が二度。メイドのサナが、湯と朝食のトレーを運んで来た。栗色の髪をきっちり結い上げた、目の澄んだ若い女だ。彼女は一礼し、いつもの言葉を落とす。

「本日も、どうぞご無理はなさらず」

 同じ言葉。耳が覚えた合図。でも、サナの声には昨夜よりほんの少しだけ柔らかさが増えていた。わたしが頷くと、彼女は支度を手早く整え、湯気の上がる洗面器をベッド脇に置いた。

「お加減は――」

「大丈夫。頭も軽いし、眠れました」

「それはよかったです。……何かございましたら、すぐに、鈴を」

 短い会話のあと、サナはすっと下がり、扉は静かに閉じられる。部屋に独りになると、わたしは白いカップの温度で指を温め、朝の光の加減をじっと眺めた。今日は歩けそうだ。歩いて、この屋敷の地図を、少しでも自分のものにしたい。

 着替えを済ませ、軽い靴を履いた。廊下に出る。昨夜は長く見えた廊下も、朝は少し短く感じる。壁のランプは息を潜め、窓から差し込む光だけが床の模様を動かしていた。絨毯の毛足が指先のように足裏を撫で、遠くの方で誰かが銀器を磨く微細な音がした。

 屋敷は広い。けれど、広さよりも気になるのは扉の数だ。一歩進むごとに、右手に一つ、左手に一つ。扉、扉、また扉。どれも重厚で、鉄の取っ手が冷たく光る。気づいてしまったのは、その半分以上に鍵がかかっていることだった。取っ手をひねると、カチ、と乾いた抵抗が返ってくる。扉の向こう側から、薄い拒絶が流れてくるみたいに。

 手前の寝室、客間、控えの小間――開く部屋もある。開いた部屋には、使われた痕跡が薄く、どこも整いすぎていた。埃はない。匂いも淡い。ここに人がいた時間の重さが、ほとんど残っていない。鍵のかかった部屋の前に立つたび、わたしは耳を澄ます。中から音がしないか。気配が滲まないか。けれど沈黙は水のように扉の隙間を満たし、わたしの好奇心を静かに押し返した。

 階段を降りる。踊り場の大きな窓から、庭が見えた。朝靄がまだ低く漂い、花壇の白と緑が柔らかくぼやけている。庭の真ん中には小さな池。表面は薄いガラスのように張りつめ、時折、水鳥が尾で波紋を描いた。水の音が呼ぶ。足が自然と庭へ向かう。

 外の空気は冷たかったが、太陽は優しくて、肩の緊張がほどけた。石畳の目地から小さな青い草が顔を出し、露を抱えた白い花が低く揺れている。白百合ではない。庭師のグレッグが遠くで剪定をしているのが見える。彼は気づくと帽子に手を当てて会釈し、やはり言った。

「お嬢様、どうぞご無理はなさらず」

 わたしは笑って頷く。池の縁に立つ。水は深くない。底の石が見える。覗き込むと、そこにわたしの顔が映った。朝の光に薄く透けた肌、知らない表情。目の形、唇の線――鏡で見たものと同じ。今度は水面がほんの少し揺れ、映ったわたしが微笑んだみたいに歪む。

 視線が、腕に吸い寄せられた。手首の少し上、肘に向かう途中――細い傷が一本、白く伸びているのに気づいた。浅くない。古くない。目を凝らすと、周りの皮膚がうっすらと新しい。指先で触れると、ちくりとした痛みが生きていて、体が本能的に引いた。思わず袖を戻す。心臓が一拍、早く打つ。

 いつ、どうやって。いくら考えても、そこだけ時間が欠けたように何も出てこない。鉄の匂いが、一瞬鼻の奥をくすぐった。昨日の夜、夢の中で嗅いだ冷たい鉄。その匂いに重なるように、額の皮膚がひやりとする。誰かの指。やさしい指。――額に触れる、あの触れ方。

「どうした」

 背後から、低い声。振り向くと、リオンが庭の小径に立っていた。黒い軍衣に朝の光。肩の影、眉間の薄い皺。彼が立つと、庭の景色が輪郭を持つ。わたしは少しほっとして、けれど傷の場所を咄嗟に隠したりはしなかった。隠すべき理由が分からない。

「水を見ていました。……それから、これ」

 袖をそっと上げる。傷が白く、朝の光に浮かぶ。リオンの目が、わずかに細くなった。彼はすぐに距離を詰めず、まず視線だけで傷の状態を確かめ、それから一歩、また一歩と近づいた。手を伸ばす。触れる直前で、一拍、ためらう。次の瞬間、指はやはりガラスに触れるみたいに軽く、傷の縁を撫でた。

「……転んだだけだ」

 言葉は用意されていたみたいにすぐ出た。けれど声が掠れていた。乾いた石に水を一滴落としたときの音。嘘の音ではない。けれど、すべての真実の音でもない。

「痛むか」

「触ると、少し。でも、大丈夫」

「薬をつけてある。痕は残らない」

 痕。残らないと言われても、残っているのは今の痛みの方だ。わたしは彼の顔を見上げる。彼は視線を傷からわたしの目に上げ、ほんの少しだけ喉を鳴らした。言いたいことがあるのに、口にしないときの癖。

「……気にするな」

「気に、します」

 自分で言って、驚く。思っていたより、わたしは食い下がる声を持っている。彼の目の端がわずかに柔らかくなった。

「転んだ。石段で。俺のせいだ」

「せい、って」

「支えそこねた」

 それ以上、彼は言わない。必要最小限の言葉だけが、朝の空気に落ちた。わたしの胸の中で、その言葉は別の意味をつくりはじめる。支えそこねた――ということは、支えようとしたのだ。彼の手が伸び、でも間に合わず、わたしは落ちた。石に腕を打った。鉄の匂いがした。額に触れた誰かの指――。

 額に触れたのは、彼ではない。触れ方の記憶が違う。リオンの手は、今こうして触れているように、割らないように、折らないように、壊さないように触れる。あの夜の指は、別の熱を持っていた。所有の熱。甘さの熱。思わず、額に手を当てる。皮膚が記憶を抱いている。

「寒いか」

「いいえ。ただ、少し」

 言葉の続きは、喉の奥でほどける。リオンはわたしの視線の揺れに気づいたようで、池の縁に視線を落とし、話題を少しだけずらした。

「この池は、浅い。子どもの頃、よく落ちた」

「……リオンが?」

「ああ。兄がいた。よく突き飛ばされて、よく笑われた」

 彼が自分の過去を口にするのは珍しいのだと、なぜかすぐに分かった。言葉は少し照れたように短く、記憶は切り取られた小さな絵のようだった。それを想像すると、池の水面が柔らかく見えた。彼にも、裸足で駆ける小さな頃があった。戦場の匂いを身につける前の、泥と太陽の匂い。

「兄さんは、今もここに?」

「……いない」

 それ以上、彼は言わなかった。わたしも問わなかった。問いは大抵、答えの準備ができてから口にする方が、双方に優しい。

 庭の奥から、グレッグが気を遣ったように別の小径へと消えていくのが見えた。二人きりの空気が戻る。池の水が小さく揺れ、白い光がリオンの顎の線を撫でた。彼は小さく息を吐く。

「屋敷の中を、見たいか」

「はい。歩きたい」

「なら、俺が――」

 言いかけて、彼は言葉を切った。代わりに、わたしの指先に視線を落とす。指輪が朝の光で薄く光る。

「……いや。今日は俺は仕事がある。サナに言って、案内させる」

「ひとりで大丈夫です」

「駄目だ」

 短い。はっきり。拒絶ではない。保留でもない。必要な線引きの音。

「分かりました」

 素直に頷くと、彼はわずかに息を緩める。わたしはふと池に目を戻し、映る自分に小さく笑いかけた。映ったわたしが、ほんの少し返す。同じ笑い方を、身体が練習している。

 屋敷に戻ると、サナがすぐに現れて、案内の準備を整えた。鍵束を持っている。数十本の鍵が金属の輪にまとめられ、歩くたびに小さく触れ合って鳴った。その音が妙に心地よい。世界に秘密があると教えてくれる音。

「まずは一階の客間と、図書室からでよろしいですか」

「お願いします」

 サナの歩幅は控えめで、わたしの歩みに合わせるのが上手かった。客間は整っていて、壁には花の刺繍のタペストリー。窓枠はきれいに磨かれ、カーテンの重さは季節に合わせられている。どの部屋も「正しい」。不足がなく、過剰がなく、丁寧だった。

 ときどき現れる鍵のかかった扉の前で、サナは立ち止まり、少し困った顔をする。

「こちらは……倉庫です」

「見ても?」

「失礼がなければ」

 鍵が回る。扉が少し渋い音で開く。中には布で覆われた家具、額縁、包まれた鏡。人の気配は薄い。埃は、驚くほど少ない。管理の手が入っている。サナはすぐにまた鍵をかけ、次の部屋へ進む。

「皆、よく働いていますね」

「はい。旦那様が、きれいなお屋敷を好まれますので」

 屋敷の空気は、主人の呼吸に似るのだろう。整っていて、寡黙で、でも冷たすぎない。

 図書室の扉の前で、サナの手が鍵束から離れた。ここには鍵はかかっていない。重たい扉は滑らかに開き、紙と革の匂いがふわりと流れる。棚が壁一面を覆い、背の高い梯子が二つ、細いレールに載っている。窓は高い位置にあり、光が本の背に薄く縞を作っていた。

「素敵」

 思わず漏れる。サナが嬉しそうに笑った。

「アイリス様は、図書室がお好きでした。午後にお茶をお運びすると、よくここにいらっしゃって」

「そう、だったんですね」

 わたしは一番手前の棚に手を伸ばし、背表紙の題字をなぞる。歴史、地理、魔術、詩。指が、ある背表紙で止まる。革の色が少し深く、手触りが違う。引き抜くと、薄い紙が一枚、ひらりと落ちた。拾い上げると、そこには見覚えのない筆跡で短い言葉。

 ――“忘れても、花は香る”

 裏は白紙だ。誰が書いたのか、いつのものか。胸の奥で、何かが軽く鳴った。サナに見せるか迷い、結局、頁の間に戻して本を棚に差し込む。今は、意味が追いつかない。

「他の部屋も、見て回っていい?」

「もちろんです。ただ……」

「ただ?」

「奥の廊は、鍵のお部屋が多くて。滅多に使いません」

 行ってみる。サナの言った通り、奥の廊は扉のほとんどが閉ざされ、鍵穴が黒く口を開けていた。金属の冷たい匂いが、かすかに漂う。一本だけ、扉に布が掛けられている部屋があった。布は白く、端に小さな刺繍が縫い込まれている。

「ここは」

「……昔の家族の肖像です。布は、埃よけで」

 布の向こうから、絵の存在が静かな圧のように伝わってきた。わたしはほんの少しだけ近づき、布越しに額縁の角を指でなぞる。角は丸く、触り心地は柔らかい。誰が描かれているのだろう。わたしは、その中に“今のわたし”の形があるかもしれない、と思う。

 サナは鍵の束を握り直し、視線を落とした。「こちらは、本日は……」

「うん。今日はいい」

 引き際は、大切だ。扉は、いつでもまた開けられる。今は、ここまで。

 午前の探索を終えて部屋に戻ると、窓から入る光はすでに少し白く、影は短くなっていた。昼の鐘が遠くで鳴り、屋敷の中に、昼食の準備の音が小さく走る。サナは「午後はお昼寝を」といつもの言葉に一つ笑みを足して、部屋を辞した。

 ベッドの端に腰を下ろし、袖をまくって傷をもう一度見る。朝よりも赤みは引いている。痛みは薄い。触れると、皮膚の下で脈が小さく動くのが分かる。人体は小さな機械みたいだ。部品が自動で動き、壊れたところを自分で直す。わたしはその機械の持ち主なのに、取扱説明書を一冊も持っていない。

 午後は短く眠り、夕刻の光に目を覚ました。部屋の隅に置いた白い花瓶が、薄金の光を飲んで柔らかく光る。頬に残った寝顔の熱がすぐに引き、代わりに窓の外から冷たい風が入ってきた。わたしは立ち上がって窓を開ける。空は青から群青に移る途中で、風が屋根の上の旗を少しだけ鳴らす。

 窓辺の風は、日中の心配事を軽く洗い流す。庭の池はもう影色で、白い花は輪郭だけが残っている。街道を行く車輪の音が遠くに流れ、鳥の声が少しだけ残る。音が一本ずつ退場していく時間帯。

 額に、ふい、と風よりもあたたかい気配が触れた。驚いて手をやる。皮膚は冷たく、何の痕もない。それでも確かに、触れられた感覚だけが、肌の奥に残っている。指が額の中心に降り、そっと撫でる触れ方。祈るみたいな、約束するみたいな。

 ――その手は、夢の男のものだった気がした。

 昨夜の夢の底から、甘い声が浮かぶ。蜂蜜を混ぜた紅茶の香りをまとった声。

「必ず迎えに行く、僕の花嫁」

 声は低くて、やわらかく、背骨を撫でる。わたしの体が、声に反応して呼吸を浅くする。胸の内側に、何かが流れ込む。その何かは、甘くて、舌に乗せたらすぐ溶ける砂糖の粒のようで、同時に、喉の奥で棘になる。

 窓から見える西の空に、一番星が灯った。星は遠く、屋根の上を吹く風は近い。わたしは窓枠に手を置き、冷たい木の感触に自分の輪郭を確かめる。指輪が薄く光を返し、内側の古い文字が一瞬だけ形を結ぶ――が、すぐにまたほどけて、読めなくなる。読めないことに、苛立ちと安堵が同時に湧いた。今、読み解いてしまったら、何かが決定されてしまう気がした。

 背後で、扉が軽くノックされた。リオンの足音は、すぐに分かる。重くはないのに、地面と体の関係がきちんと繋がっている音。彼は部屋に入ってこず、扉の向こうから声だけを落とした。

「調子は」

「いい。今日は、たくさん歩きました」

「そうか。……鍵の件で、不快にさせたなら、悪い」

「不快じゃない。ただ、気になるだけ」

 扉の向こうで、わずかな沈黙。やがて、低い吐息。

「必要なものと、不要なものがある。お前にとって今、不要なものも」

「誰が決めるの?」

「……俺だ」

 正直だった。短く、真っ直ぐ。扉越しの言葉は、部屋の空気を少しだけ振動させ、わたしの皮膚に薄く触れる。

「分かった。今は、任せる」

「助かる」

 そこで、彼はふと話題を変えた。

「傷は」

「平気。……転んだだけ、なんでしょう?」

 少しだけ皮肉が混ざった。自分でも驚く。扉の向こうで、彼はほんの短く息を止めた。それから、掠れた声で言う。

「俺の、落ち度だ」

 それ以上、彼は言わない。謝罪の形は色々ある。言葉にしないものも含めて。わたしは窓辺の風に額を当て、仕舞いきれない言葉を吹き流す。

「……夜、眠れなかったら、呼んでいい?」

「いい。すぐ行く」

「夜中でも?」

「夜中でも」

 それは、昨夜と同じやり取り。くり返しは、約束になる。わたしは小さく笑い、彼も扉の向こうでわずかに笑った気がした。

「夕食は軽めにする。……無理すんな」

「うん」

 足音が遠ざかる。扉のこちら側に残るのは、誰もいない空気と、窓から流れ込む夜の匂い。ジャスミンの花が微かに香り、暖炉はまだ火を入れるには早いと判断して沈黙している。

 窓を少しだけ閉め、椅子を引いて腰かける。額に残る幻の温度に、ゆっくり指を置く。触れて、離す。触れて、離す。皮膚は何も言わない。けれど体は、どちらの手がどちらの温度で触れたかを、たぶん知っている。

 “僕の花嫁”。“俺はここにいる”。

 ふたつの声が、胸の真ん中で遠く響き合う。甘さと鋼。蜜と鉄。どちらも、わたしを抱きとめるための温度を持っている。けれど、抱き方は違う。額に触れた指の幻と、袖を掴んだときに返ってきた布の確かさ。夢の手と現実の袖。そのあいだに、わたしは立っている。

 白い花びらが、窓の外でひとひら舞った。庭の池は夜の色を濃くし、星の数が増えていく。扉の多すぎる屋敷は、夜になるとさらに静かになり、鍵穴は小さな沈黙の口を閉ざす。開かない扉の向こうに何があるのか――それを知るのは、たぶん今ではない。今は、開いた窓から入る風だけで十分だ。

 わたしは深く息を吸い、四つ数えて止め、四つ数えて吐いた。呼吸がまとまるたび、体の輪郭がはっきりする。額の幻は薄れ、指輪の冷たさが少しだけ温もりに変わる。夜はまだ浅い。今日の地図は、ここまで。明日もまた、扉の前に立つ。鍵の音を聞く。池に映る自分を見る。額に触れた指の記憶を、風の中に置いてみる。

 そうやって、空白の縁を、少しずつ、少しずつ、丸くしていく。
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