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9話「手紙の墨、囁きの影」
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朝いちばんの光は、屋敷の東側の廊をすべって、白い壁紙の蔓模様をやさしく起こす。台所からは温かな湯気とパンの香り、庭からは濡れた土の匂い。昨日の市で嗅いだ蜂蜜の甘さは、まだ喉の奥に薄く輪郭を残しているはずなのに、きょうは不思議と苦くない。目を開けた瞬間、あ、きょうは大丈夫だ、と分かった。
鈴を鳴らす前にサナが「おはようございます」と入ってきて、軽く寝具を整え、湯を置き、いつもの定型句に笑みを足す。
「本日も、ご無理はなさらず……ですが、お顔色は昨日より良いですね」
「ね。きょうは、歩ける気がする」
「では、朝の温室はいかがです?」
温室。屋敷の南端にある、ガラスと鉄の小さな森。わたしは頷き、身支度を手早く済ませる。鏡に映る自分は、まだ少しだけ他人だが、頬の赤みが戻って、目の下の影が薄い。指輪の冷たさは相変わらずだが、その冷たさに怯えない朝は、久しぶりだった。
温室には、朝の光がまだらに降っていた。吊り鉢の花、葉に溜まる雫、苗木の土の湿り。ガラス越しの空は薄い水色で、白い雲がほどけかけの綿みたいに浮いている。鉢に差す名札の筆跡は整っていて、ところどころ、サナの小さな絵がある。白い小鳥、揺れる花弁、月。
「好きなのを摘みましょう。きょうのテーブルに」
「切ってしまって、可哀想じゃない?」
「台所の水差しが、次の命の場所になります」
言い方が好きだ、と心で呟く。わたしたちは短く茎を切って、小さな花束をいくつか作った。白が多い。少しだけ黄色。指に土の匂いが移る。そこへ、温室の扉が軋んで、影が差した。
「転ぶな」
低い声。振り向くと、黒衣の裾と真面目な眉。リオンが入口に立っていた。いつもどおり視線は周囲を一度だけ掃き、危険のきざしを棚の上まで探してから、わたしの手元へ降りる。
「朝から働きすぎると、昼に眠くなる」
「眠るよ、昼寝は正義」
「……正義、か」
口許が、少しだけ緩む。彼の笑いは、いつも短く、真ん中からかすかに欠けている。それでも、見るたびこちらの体温が上がる種類の笑いだ。
「指先、土。見せろ」
言われるがままに片手を差し出すと、彼は布でそっと拭った。荒いはずの手のひらは、驚くほど丁寧に力を抜く術を知っている。指の腹が、人差し指の爪の縁を一度撫でて、止まる。
「痛むところは」
「ない。きょうは、ほんとに大丈夫」
「なら、よし」
「それより、あなたの肩。昨日の掠り」
「忘れた」
「嘘」
「……薄れた」
やや降参の声。サナが口を塞いで笑い、わたしたちは温室を出た。朝食は軽く、固焼きのパンと野菜のスープ、胡椒の香り。わたしはひと口ごとに味が分かることに驚き、嬉しくなり、子どもみたいに目で報告する。リオンは頷くだけなのに、頷きの角度で「よくやった」「偉い」「その調子」を全部言ってくる。言葉が少ないのは不便ではなく、むしろ、わたしたちの間の空気を軽くしてくれる。
「午後は?」
「図書室。詩をちょっと」
「甘い詩は、避けろ」
「じゃあ、塩辛い詩を」
「あるのか、そんなもの」
「たぶん、兵士の歌には塩が多い」
「……確かに」
会話は小舟みたいに、穏やかな波に乗って進む。揺れて、戻って、時々くるっと回って笑い合う。昨日が嘘みたいな、静かな日。午睡の前に庭を散歩して、ベンチに座って、白い花の輪を空へ持ち上げる。陽の熱が掌に溜まり、影が二つ並ぶ。
「このままずっと、こうしてても、いいのかな」
独り言のつもりで言ったのに、彼はきちんと拾った。
「いい」
「ずっと?」
「ああ」
即答。その一音の重さに、胸の真ん中が温かい水で満たされる。無理をしている返事ではない。彼の「いい」は簡単じゃない。彼は“続ける”のむずかしさを知っている顔だ。なのに、即答した。それで足りた。
午後の図書室では、塩辛い詩を探した。海の歌、雨の歌、渇きの歌――たしかに、甘さよりも塩を舌に残す言葉がある。声に出さずに読み、胸に小さな石を入れるように、静かに飲み込む。夕方になると光は金色に変わり、紙の端が薄く透けた。サナが静かに紅茶を置き、今夜は蜂蜜を抜いたまま、香りだけを楽しんだ。
夕餉では、リオンが珍しく昔話をした。子どもの頃の失敗、剣の師の怖さ、雨の匂いの話。彼の語尾はいつも短く、だが輪郭がくっきりしていて、言葉の形がそのまま胸に並ぶ。わたしは頷きながら、何度も「もっと」を言いそうになり、言わないでおいた。欲張らないで眠りたい夜だったから。
「眠れそうか」
「眠れると思う。きょうは、世界がやさしい」
「世界は気まぐれだ」
「じゃあ、やさしいうちに寝る」
彼は頷き、扉の前で短い合図。「呼べ」。わたしは「呼ぶ」と返す。くり返しは約束で、約束は儀式で、儀式は呪いの反対。眠りの守り。
◇
夜は、音を小さくして屋敷に降りた。天蓋は薄い影を落とし、ランプは心臓と同じ速度で震える。窓の向こうには、庭の黒い輪郭と、遠い塔の灯り。ジャスミンがやさしい呼吸で部屋を満たす。枕に頬を預けると、まぶたの裏にきょう一日の光が、金の粉みたいに積もっていく。
――ほんとうに、ずっと、こうしていたい。
思った瞬間、風が変わった。閉めかけた窓の隙間から、冷たい夜気が細い指になって忍び込み、カーテンの裾を摘む。布が一度、床を撫でて、ふわりと跳ねた。
白いものが、舞い込んだ。
手紙。封も紐もない、白い紙片。はらり、とはらり、二度の落下で、窓辺から机の上へ。音はない。紙が空気を切る気配だけが、まるで目に見えるようにくっきりしている。
体が先に動いていた。ベッドから降り、裸足のまま床を渡る。紙を手に取る。手触りは上等、薄いのに張りがあり、指の腹をすべるとわずかに鳴く。墨は新しい。乾ききった黒の艶。筆致は、知っている。
――“記憶は戻る。君の場所も”
文字は少なく、間は広い。その間に、わたしの呼吸が入り込む。行間へ落ちる音は、誰にも聞こえない。胸がひゅっと縮み、額の中心が冷える。次の瞬間、匂いが立った。
香油。柑橘に似た鋭さと、野の花の甘さと、遠い木蔭の湿り気。あの、午後の窓辺――蜂蜜の糸の上に薄くかかっていた香り。間違いない。僕の、匂い。
喉の奥で、何かが壊れない程度に軋む。紙から指を離そうとして、離せない。香りが皮膚に移って、皮膚から血へ流れて、血から心臓へ。心臓が一拍、遅れる。遅れたせいで、全身の「今」が半拍ずれる。
「アイリス」
扉の向こうから、低い声。いつ来たのか分からない。開けようとして開けない節度、しかし声だけは置く気配――彼のいつものやり方。言葉が喉で止まり、振り返れずにいると、扉が控えめに開いた。黒衣の影が床に伸び、彼は一歩も二歩も、いつもより遅い速度で入ってきた。
リオンの視線が、紙へ落ちる。落ちた瞬間、部屋の温度が一度下がったように思えた。彼は近づき、わたしの指から紙をそっと取る。その動きは乱暴ではない。むしろ、丁寧。丁寧すぎるほどに。紙を傷つけたくない、のとは違う。わたしの指から、紙を引き剥がすとき、わたしを傷つけないための丁寧さ。
彼の鼻先がわずかに動き、香りを掴む。目の奥で、光が一瞬、硬くなる。
「……俺に見せろ」
紙は、もう彼の手の中にある。だからこれは要求ではなく、宣言だ。彼は文字を読み、二行の間をもう一度読み、その上で指で紙の端を摘んで――ランプへ向かった。
「待って」
反射で言った。止めたい、のではなかった。止められると思っていない。ただ、言葉が先に零れた。リオンは振り返らない。彼の背は高く、肩は硬く、影は長い。ランプの炎が揺れ、紙の白が金に染まる。次の瞬間、火が紙の角を齧った。
燃える音は小さい。乾いた葉が秋に崩れるみたいな、微かなざわめき。黒が縁から走り、香油の匂いが熱でふくらむ。柑橘の鋭さが一度だけ強くなり、すぐ、焦げの匂いに負ける。わたしの喉が勝手に鳴る。リオンは火を見ている。目を、逸らさない。紙はあっという間に軽くなり、灰になり、ランプの皿に落ちた。
「――誰にも渡さない」
低い声。いつもより低い。床下まで染み込む低さ。言葉が終わったあとも、声の影が部屋に残った。誰にも、渡さない。誰にも、の“誰”には、世界が全部入るし、わたし自身も含まれる気がした。
彼の手が、かすかに震えていた。拳を握るでもなく、開いたまま、震える。指の背に薄い傷が浮かび、血は出ないのに、熱が見える。わたしは一歩、彼に近づいた。背から見える彼は、いつもより大きく、しかし形が崩れそうに見える。崩れそう――つまり、内側で何かを必死に支えている。
「……どうして燃やしたの」
「此処へは、もう、入れない」
「“此処”って、ここ? 屋敷? わたし?」
問いが連なって、最後の一つが自分でも怖かった。リオンは遅れて振り向く。目は深い。深いのに、底が見えそうで、見えない。彼は一歩で距離を詰めず、半歩だけ近寄った。
「お前を、誰にも渡さない」
「“誰にも”の中に、わたしは含まれる?」
「含めない」
短い答え。刃だったはずの言葉が、刃先をこちらに向けていない。自分に向けている。自分の胸板へ差し入れる角度で、静かに貫く刃。だから、低いのだ。だから、震えるのだ。
「……香り、分かったの?」
「ああ」
「“僕”の匂いだって、分かったの?」
「ああ」
返事は即答なのに、声の奥で砂が擦れる。そこに混ざるものを、わたしは名前で呼べなかった。嫉妬、という言葉は鋭すぎる。絶望、という言葉は冷たすぎる。どちらも、ある。けれど、それだけではない。そこには、守るために壊す覚悟の、苦い味があった。
「……これで、良かったの?」
「良くはない」
「じゃあ――」
「だが、必要だ」
彼は灰の残る皿を指で押しやり、ランプの火を静かに落とした。室内の光が一段階分、夜に沈む。窓際の星が、くっきりする。わたしは腕を自分で抱いて、体の輪郭を確認した。ここにいる。さっきまで紙を持っていた指が、まだ香りを覚えている。柑橘、花、遠い木蔭。わたしは指先を鼻先へ運び、すぐやめた。香りの向こうに、甘い声が立つ気がして。
『記憶は戻る。君の場所も』
墨の文字が、瞼の裏に再印刷される。わたしの場所。今、ここにある場所。ベッド、窓、ランプ、黒衣。わたしは震える息を整え、数を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。リオンの影が、少しだけ近づいた。
「怖かったら、呼べ」
「夜中でも?」
「夜中でも」
同じ往復。くり返しは、薄い夜を縫い留める糸だ。わたしは頷き、彼の胸の前で立ち止まる。抱きしめて、と自分が言うかもしれない瞬間、彼の手が先に動いて、わたしの髪にそっと触れた。撫でるのでも、掴むのでもない。そこにあることを、確かめる触れ方。
「……俺は、怒ってない」
「本当に?」
「怒りとは別のものだ」
「嫉妬?」
「それもある」
「絶望?」
「それも、少し」
「じゃあ、何」
「……名がない」
名のないもの。彼の胸の奥で、形だけあるもの。わたしは目を閉じて、その形に手を伸ばす。触れない。触れないけれど、冷たくも熱くもない温度を感じる。彼の声が、低く落ちた。
「お前がここにいる限り、俺は、立っていられる」
「じゃあ、わたしは、ここにいる」
「……ああ」
灰は冷え、香りは薄れ、夜は深まる。窓の外の星が、少し増えた。手紙は燃えた。けれど、文字は燃え残る。記憶は戻る。君の場所も。――戻る、のではなく、選ぶのだと、どこかで思う。選ぶには、呼吸がいる。眠りも、朝も、必要だ。
「眠る?」
「眠る」
「呼べ」
「呼ぶ」
「すぐ行く」
彼は扉の前まで行って、振り返らずに止まり、何も言わずにまた一歩、前へ出た。扉に手をかけ、今度こそ開けて、出ていく。残された部屋に、香りの影と、声の余韻が残る。わたしはベッドに戻り、布団の重さを胸に受け止め、指輪の冷たさで現実の輪郭をもう一度なぞる。
“記憶は戻る。君の場所も”
“誰にも渡さない”
ふたつの文が、胸の中で向かい合って、しばらく無言で見つめ合う。やがて、どちらも少しだけ位置をずらし、重ならないまま、共存する余白を作った。わたしは目を閉じ、数を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。眠りは、少し遅れてくるだろう。遅れていい。扉の向こうに、彼はいる。燃えた文字の灰の上で、わたしは、きょうの幸福をそっと撫でて、手を離した。
鈴を鳴らす前にサナが「おはようございます」と入ってきて、軽く寝具を整え、湯を置き、いつもの定型句に笑みを足す。
「本日も、ご無理はなさらず……ですが、お顔色は昨日より良いですね」
「ね。きょうは、歩ける気がする」
「では、朝の温室はいかがです?」
温室。屋敷の南端にある、ガラスと鉄の小さな森。わたしは頷き、身支度を手早く済ませる。鏡に映る自分は、まだ少しだけ他人だが、頬の赤みが戻って、目の下の影が薄い。指輪の冷たさは相変わらずだが、その冷たさに怯えない朝は、久しぶりだった。
温室には、朝の光がまだらに降っていた。吊り鉢の花、葉に溜まる雫、苗木の土の湿り。ガラス越しの空は薄い水色で、白い雲がほどけかけの綿みたいに浮いている。鉢に差す名札の筆跡は整っていて、ところどころ、サナの小さな絵がある。白い小鳥、揺れる花弁、月。
「好きなのを摘みましょう。きょうのテーブルに」
「切ってしまって、可哀想じゃない?」
「台所の水差しが、次の命の場所になります」
言い方が好きだ、と心で呟く。わたしたちは短く茎を切って、小さな花束をいくつか作った。白が多い。少しだけ黄色。指に土の匂いが移る。そこへ、温室の扉が軋んで、影が差した。
「転ぶな」
低い声。振り向くと、黒衣の裾と真面目な眉。リオンが入口に立っていた。いつもどおり視線は周囲を一度だけ掃き、危険のきざしを棚の上まで探してから、わたしの手元へ降りる。
「朝から働きすぎると、昼に眠くなる」
「眠るよ、昼寝は正義」
「……正義、か」
口許が、少しだけ緩む。彼の笑いは、いつも短く、真ん中からかすかに欠けている。それでも、見るたびこちらの体温が上がる種類の笑いだ。
「指先、土。見せろ」
言われるがままに片手を差し出すと、彼は布でそっと拭った。荒いはずの手のひらは、驚くほど丁寧に力を抜く術を知っている。指の腹が、人差し指の爪の縁を一度撫でて、止まる。
「痛むところは」
「ない。きょうは、ほんとに大丈夫」
「なら、よし」
「それより、あなたの肩。昨日の掠り」
「忘れた」
「嘘」
「……薄れた」
やや降参の声。サナが口を塞いで笑い、わたしたちは温室を出た。朝食は軽く、固焼きのパンと野菜のスープ、胡椒の香り。わたしはひと口ごとに味が分かることに驚き、嬉しくなり、子どもみたいに目で報告する。リオンは頷くだけなのに、頷きの角度で「よくやった」「偉い」「その調子」を全部言ってくる。言葉が少ないのは不便ではなく、むしろ、わたしたちの間の空気を軽くしてくれる。
「午後は?」
「図書室。詩をちょっと」
「甘い詩は、避けろ」
「じゃあ、塩辛い詩を」
「あるのか、そんなもの」
「たぶん、兵士の歌には塩が多い」
「……確かに」
会話は小舟みたいに、穏やかな波に乗って進む。揺れて、戻って、時々くるっと回って笑い合う。昨日が嘘みたいな、静かな日。午睡の前に庭を散歩して、ベンチに座って、白い花の輪を空へ持ち上げる。陽の熱が掌に溜まり、影が二つ並ぶ。
「このままずっと、こうしてても、いいのかな」
独り言のつもりで言ったのに、彼はきちんと拾った。
「いい」
「ずっと?」
「ああ」
即答。その一音の重さに、胸の真ん中が温かい水で満たされる。無理をしている返事ではない。彼の「いい」は簡単じゃない。彼は“続ける”のむずかしさを知っている顔だ。なのに、即答した。それで足りた。
午後の図書室では、塩辛い詩を探した。海の歌、雨の歌、渇きの歌――たしかに、甘さよりも塩を舌に残す言葉がある。声に出さずに読み、胸に小さな石を入れるように、静かに飲み込む。夕方になると光は金色に変わり、紙の端が薄く透けた。サナが静かに紅茶を置き、今夜は蜂蜜を抜いたまま、香りだけを楽しんだ。
夕餉では、リオンが珍しく昔話をした。子どもの頃の失敗、剣の師の怖さ、雨の匂いの話。彼の語尾はいつも短く、だが輪郭がくっきりしていて、言葉の形がそのまま胸に並ぶ。わたしは頷きながら、何度も「もっと」を言いそうになり、言わないでおいた。欲張らないで眠りたい夜だったから。
「眠れそうか」
「眠れると思う。きょうは、世界がやさしい」
「世界は気まぐれだ」
「じゃあ、やさしいうちに寝る」
彼は頷き、扉の前で短い合図。「呼べ」。わたしは「呼ぶ」と返す。くり返しは約束で、約束は儀式で、儀式は呪いの反対。眠りの守り。
◇
夜は、音を小さくして屋敷に降りた。天蓋は薄い影を落とし、ランプは心臓と同じ速度で震える。窓の向こうには、庭の黒い輪郭と、遠い塔の灯り。ジャスミンがやさしい呼吸で部屋を満たす。枕に頬を預けると、まぶたの裏にきょう一日の光が、金の粉みたいに積もっていく。
――ほんとうに、ずっと、こうしていたい。
思った瞬間、風が変わった。閉めかけた窓の隙間から、冷たい夜気が細い指になって忍び込み、カーテンの裾を摘む。布が一度、床を撫でて、ふわりと跳ねた。
白いものが、舞い込んだ。
手紙。封も紐もない、白い紙片。はらり、とはらり、二度の落下で、窓辺から机の上へ。音はない。紙が空気を切る気配だけが、まるで目に見えるようにくっきりしている。
体が先に動いていた。ベッドから降り、裸足のまま床を渡る。紙を手に取る。手触りは上等、薄いのに張りがあり、指の腹をすべるとわずかに鳴く。墨は新しい。乾ききった黒の艶。筆致は、知っている。
――“記憶は戻る。君の場所も”
文字は少なく、間は広い。その間に、わたしの呼吸が入り込む。行間へ落ちる音は、誰にも聞こえない。胸がひゅっと縮み、額の中心が冷える。次の瞬間、匂いが立った。
香油。柑橘に似た鋭さと、野の花の甘さと、遠い木蔭の湿り気。あの、午後の窓辺――蜂蜜の糸の上に薄くかかっていた香り。間違いない。僕の、匂い。
喉の奥で、何かが壊れない程度に軋む。紙から指を離そうとして、離せない。香りが皮膚に移って、皮膚から血へ流れて、血から心臓へ。心臓が一拍、遅れる。遅れたせいで、全身の「今」が半拍ずれる。
「アイリス」
扉の向こうから、低い声。いつ来たのか分からない。開けようとして開けない節度、しかし声だけは置く気配――彼のいつものやり方。言葉が喉で止まり、振り返れずにいると、扉が控えめに開いた。黒衣の影が床に伸び、彼は一歩も二歩も、いつもより遅い速度で入ってきた。
リオンの視線が、紙へ落ちる。落ちた瞬間、部屋の温度が一度下がったように思えた。彼は近づき、わたしの指から紙をそっと取る。その動きは乱暴ではない。むしろ、丁寧。丁寧すぎるほどに。紙を傷つけたくない、のとは違う。わたしの指から、紙を引き剥がすとき、わたしを傷つけないための丁寧さ。
彼の鼻先がわずかに動き、香りを掴む。目の奥で、光が一瞬、硬くなる。
「……俺に見せろ」
紙は、もう彼の手の中にある。だからこれは要求ではなく、宣言だ。彼は文字を読み、二行の間をもう一度読み、その上で指で紙の端を摘んで――ランプへ向かった。
「待って」
反射で言った。止めたい、のではなかった。止められると思っていない。ただ、言葉が先に零れた。リオンは振り返らない。彼の背は高く、肩は硬く、影は長い。ランプの炎が揺れ、紙の白が金に染まる。次の瞬間、火が紙の角を齧った。
燃える音は小さい。乾いた葉が秋に崩れるみたいな、微かなざわめき。黒が縁から走り、香油の匂いが熱でふくらむ。柑橘の鋭さが一度だけ強くなり、すぐ、焦げの匂いに負ける。わたしの喉が勝手に鳴る。リオンは火を見ている。目を、逸らさない。紙はあっという間に軽くなり、灰になり、ランプの皿に落ちた。
「――誰にも渡さない」
低い声。いつもより低い。床下まで染み込む低さ。言葉が終わったあとも、声の影が部屋に残った。誰にも、渡さない。誰にも、の“誰”には、世界が全部入るし、わたし自身も含まれる気がした。
彼の手が、かすかに震えていた。拳を握るでもなく、開いたまま、震える。指の背に薄い傷が浮かび、血は出ないのに、熱が見える。わたしは一歩、彼に近づいた。背から見える彼は、いつもより大きく、しかし形が崩れそうに見える。崩れそう――つまり、内側で何かを必死に支えている。
「……どうして燃やしたの」
「此処へは、もう、入れない」
「“此処”って、ここ? 屋敷? わたし?」
問いが連なって、最後の一つが自分でも怖かった。リオンは遅れて振り向く。目は深い。深いのに、底が見えそうで、見えない。彼は一歩で距離を詰めず、半歩だけ近寄った。
「お前を、誰にも渡さない」
「“誰にも”の中に、わたしは含まれる?」
「含めない」
短い答え。刃だったはずの言葉が、刃先をこちらに向けていない。自分に向けている。自分の胸板へ差し入れる角度で、静かに貫く刃。だから、低いのだ。だから、震えるのだ。
「……香り、分かったの?」
「ああ」
「“僕”の匂いだって、分かったの?」
「ああ」
返事は即答なのに、声の奥で砂が擦れる。そこに混ざるものを、わたしは名前で呼べなかった。嫉妬、という言葉は鋭すぎる。絶望、という言葉は冷たすぎる。どちらも、ある。けれど、それだけではない。そこには、守るために壊す覚悟の、苦い味があった。
「……これで、良かったの?」
「良くはない」
「じゃあ――」
「だが、必要だ」
彼は灰の残る皿を指で押しやり、ランプの火を静かに落とした。室内の光が一段階分、夜に沈む。窓際の星が、くっきりする。わたしは腕を自分で抱いて、体の輪郭を確認した。ここにいる。さっきまで紙を持っていた指が、まだ香りを覚えている。柑橘、花、遠い木蔭。わたしは指先を鼻先へ運び、すぐやめた。香りの向こうに、甘い声が立つ気がして。
『記憶は戻る。君の場所も』
墨の文字が、瞼の裏に再印刷される。わたしの場所。今、ここにある場所。ベッド、窓、ランプ、黒衣。わたしは震える息を整え、数を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。リオンの影が、少しだけ近づいた。
「怖かったら、呼べ」
「夜中でも?」
「夜中でも」
同じ往復。くり返しは、薄い夜を縫い留める糸だ。わたしは頷き、彼の胸の前で立ち止まる。抱きしめて、と自分が言うかもしれない瞬間、彼の手が先に動いて、わたしの髪にそっと触れた。撫でるのでも、掴むのでもない。そこにあることを、確かめる触れ方。
「……俺は、怒ってない」
「本当に?」
「怒りとは別のものだ」
「嫉妬?」
「それもある」
「絶望?」
「それも、少し」
「じゃあ、何」
「……名がない」
名のないもの。彼の胸の奥で、形だけあるもの。わたしは目を閉じて、その形に手を伸ばす。触れない。触れないけれど、冷たくも熱くもない温度を感じる。彼の声が、低く落ちた。
「お前がここにいる限り、俺は、立っていられる」
「じゃあ、わたしは、ここにいる」
「……ああ」
灰は冷え、香りは薄れ、夜は深まる。窓の外の星が、少し増えた。手紙は燃えた。けれど、文字は燃え残る。記憶は戻る。君の場所も。――戻る、のではなく、選ぶのだと、どこかで思う。選ぶには、呼吸がいる。眠りも、朝も、必要だ。
「眠る?」
「眠る」
「呼べ」
「呼ぶ」
「すぐ行く」
彼は扉の前まで行って、振り返らずに止まり、何も言わずにまた一歩、前へ出た。扉に手をかけ、今度こそ開けて、出ていく。残された部屋に、香りの影と、声の余韻が残る。わたしはベッドに戻り、布団の重さを胸に受け止め、指輪の冷たさで現実の輪郭をもう一度なぞる。
“記憶は戻る。君の場所も”
“誰にも渡さない”
ふたつの文が、胸の中で向かい合って、しばらく無言で見つめ合う。やがて、どちらも少しだけ位置をずらし、重ならないまま、共存する余白を作った。わたしは目を閉じ、数を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。眠りは、少し遅れてくるだろう。遅れていい。扉の向こうに、彼はいる。燃えた文字の灰の上で、わたしは、きょうの幸福をそっと撫でて、手を離した。
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