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8話「外出――市の喧騒、蜂蜜と刃」
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午前のうちに空はよく晴れ、王都の空気は乾いた鈴の音みたいに澄んでいた。外出は短時間――医師とサナと、護衛を二名。リオンは最初から同行を告げ、黒衣の襟をきっちり立てた。扉のところで一瞬だけ目が合い、彼は短く言う。
「歩幅を合わせる。疲れたら言え」
「うん」
屋敷の門を出ると、石畳が陽を跳ね返し、通りの両側に開く露店から香りが押し寄せた。焼きパン、香草、革、絵具、布。人の声は重なり合い、犬が子どもの後をついて走り、吟遊詩人の弦の音が風に切り刻まれて飛ぶ。
市は、世界の鼓動だった。色と音と匂いが同時に押し寄せ、胸の内側が軽く浮く。怖い――でも、楽しい。そんな矛盾が一度にやって来る。リオンは半歩前、視線は流れて、手は空。右腰の剣は鞘にあるけれど、いつでも抜ける準備の角度を保っていた。医師は「二刻だけ」と指を二本立て、サナは「ご無理はなさらず」と優しい定型文に微笑みを添える。
露店の並びの角で、蜂蜜飴の屋台が陽を受けていた。透明な釜の中で黄金がとろりと回り、棒に絡められた飴玉が陽の粒を封じ込めてきらめく。熱で甘い香りが膨らみ、風の皿に湯気のように盛り上がる。
――そこで、記憶が弾けた。
『甘い方が、君には似合う』
僕の声。紅茶に蜂蜜を落とすスプーンの音と重なって、低く、やわらかく、喉の奥で笑う癖。飴の表面が陽光で一瞬白く曇り、すぐに透明へ戻る。その変化が、あの午後の窓辺と重なる。長い指、細い影、蜂蜜の糸。わたしは反射のように一歩、屋台へ近づいていた。
「――アイリス」
リオンの声が、遠くで、近くで、同時に落ちた。わたしは振り返る。大丈夫、と言おうとした舌が甘さで滑る。飴屋の老主人が笑い、匙を上げた。黄金が垂れ、陽が跳ねる。世界の端が、甘さで滲む。
その滲みの縁で、空気が変わった。
金属が小さく擦れる音。人波のざわめきに紛れる、ひとつだけ違う呼吸。背筋を針で押されたみたいに、皮膚が細く立つ。振り向く前に、視界の端で、仮面が光った。
薄い仮面。安っぽい祝祭の仮装ではない、表情のない白。口の部分だけが、わずかに黒く縁取られている。仮面の男が、群衆の影から半歩だけ浮き上がり、手を掲げた。掌の上に、青白い紋が開く。幾何学の円、絡む鎖、結び目。捕縛魔法――。
空気が締め付けられる音を聞いた。目に見えない縄が、わたしの左肩から胸へ回り込む。冷たい。冷たさは体温を踏み台にして、瞬時に熱へ変わる。心臓の外郭で、音が二度跳ねた。
「下がれ、アイリス!」
リオンの声は、今度は遠くなかった。剣の音が世界を割る。鞘鳴り、抜剣、靡く布。黒衣が視界を切り、彼の体がわたしの前に出る。刃は光を掴み、捕縛の紋へ斜めに落ちた。
ぎち、と空気が歪む。呪紋の輪が火花のような光を散らして割れ、鎖の線は逃げ道を失って宙でちかちかと明滅し――すぐに別の輪が上から重ねられる。仮面の男は退かない。低く呟き、指を二本、ねじる。捕縛は二重、三重。網が重なり、空気の層が薄い刃のようにわたしの喉を撫でた。
「下がれ!」
今度は命令の刃が強くなる。足が動かない。蜂蜜の香りが、足首に絡みついているみたいだ。飴屋の老主人が悲鳴を飲み込み、屋台の横板にしがみつく。人が割れ、叫びが跳ね、誰かが笑い、誰かが祈る。音は全部、同じ高さで頭の中を回る。
リオンの剣が、二つ目の輪を縦に裂いた。彼は踏み込む。一歩、二歩。靴底が石を噛み、肩の筋肉が布越しに膨らむ。剣先にまとわりつく術の糸を、手首の返しで払う。動きは吝嗇で、余計がない。彼の背に陽が走り、首筋の汗が一条、刃のように落ちた。
仮面の男が手を翻し、今度は掌をこちらへ向ける。捕縛から変化――拘束の矢。透明な歪みが三本、矢の形で飛ぶ。空気の色がわずかに暗く、矢羽根の先に小さな印。矢は音もなく、でも確かに存在して、胸、喉、腹へ正確に来る。
リオンの剣が、矢を弾く。火花は出ない。空気の矢は、金属を嫌って音もなく消える。一本だけ、彼の肩を掠めた。黒衣が裂け、皮膚が浅く開く。赤が――匂った。
血の匂い。温かい鉄。蜂蜜の甘さと混じって、冷たいのに熱い匂いが喉を焼く。わたしは喉を詰まらせ、咳が一つ、勝手に出た。視界が揺れる。世界が少し遅れてついてくる。
「医師、下げろ! サナ、背へ!」
リオンの短い指示。医師がわたしの肘を掴む。サナが背に回って体を支える。わたしは頷こうとして、首を固めるしかできない。目の前で、掠れた黒衣が風を切った。リオンは仮面の男と真正面に立ち、刃の向きを半歩ごとに変える。相手は後退せず、左右へ滑る。仮面の口の黒い縁が、わずかに笑っているように見えた。
群衆は割れ、露店のひとつが倒れた。瓶が割れ、甘いシロップが石畳に広がる。足裏が少し滑る音。太陽が一点だけ雲に隠れ、影が動いた。その瞬間――仮面の男の足元で、黒い印が開いた。見慣れない形。二重螺旋のような、蛇の舌のような。捕縛ではない。連れ去りの門。術者自身が跳ぶ型。
「逃がすか」
低く、リオンが呟く。呟きは刃だった。彼は踏み込む。仮面の男も同時に、印の中心へ体を傾ける――
周囲の空気が、突然、粘った。甘い。蜂蜜が熱で緩んだときの粘度。風が止まり、人の声が耳の手前で渦を巻く。わたしは匂いに引き戻される。飴の棒、陽の粒、僕の声。
『甘い方が、君には似合う』
同時に、仮面の男の口元が動いた。仮面の下で、肉体が笑ったのだと直感した。彼はわたしへ顔を向け、音を持たない唇の形で、はっきりと――“器”。
器。喉の奥で何かがひゅっと縮み、視界の端が暗くなる。足が石に沈む。サナの手が強くなり、医師の声が遠のく。リオンの剣が走り、仮面の男の側頭にかすった。仮面が割れて、白い破片が陽に飛ぶ。下から覗いた素顔――いや、目だけ。濁った灰色。人の温度がない目。
印が光り、男の体が半分、そこに飲まれる。リオンは追う。刃は届く距離だ。けれど、男は手をひと振り、掌から細い針のような光を散らした。防御ではない、拒絶の棘。刃の進路に鋲を打つように、瞬間の壁を立てる。
「――っ」
金属の鳴らない音がした。刃は止まらない。だが半拍、遅れた。その半拍で、男は消えた。印は閉じ、石畳が元の色に戻る。甘い匂いだけが濃く残り、陽が雲から出る。世界が、何もなかったみたいな顔をする。
わたしは、その「何もなかった」に殴られた気がした。膝の力が抜ける。医師が支え、サナが「座りましょう」と耳元で言う。露店の老主人が「すまねえ、すまねえ」と同じ言葉を繰り返し、割れた瓶の破片を震える手で拾う。
リオンは剣を返し、鞘に納めた。血の線が肩を走る。彼は痛みを確認する仕草すら省いて、まず群衆を見渡し、視線で危険の余韻を剥がし、最後にわたしを見る。目は深い。奥に刺のような痛みを抱き、その痛みを見せない角度を選ぶ目。
「……怪我は」
首を振る。喉の奥が乾いて、音が出ない。彼は一歩、距離を詰める。人差し指と中指で、わたしの顎の下をやさしく持ち上げ、目の色を確かめる。光の反射、焦点、呼吸の深さ。戦場で何度もやった確認。彼の指は冷たすぎず、熱すぎない。適温。現実の温度。
「俺の肩は、掠りだ。心配するな」
心配しているのは、わたしの方だ。言葉にならず、目が勝手に潤む。彼は眉をわずかに寄せ、視線のみで問いかける。大丈夫か。――大丈夫じゃない。でも、ここで泣くなら甘さのせいにしてしまいそうだ。
「帰る」
短い決定。医師が頷き、サナは「はい」と息を整える。護衛のひとりが先行し、人波を割る。飴屋の老主人が、帰り際に小さな包みを差し出した。紙に包まれた蜂蜜飴がひとつ。彼の手は震え、目はうるみ、口は何度も「すまねえ」と動く。
「……ありがとうございます」
わたしは受け取らず、サナに視線で合図した。サナは丁寧に受け取り、「また落ち着いたら伺います」と低く言った。老主人は首を縦に振ることしかできない。
馬車に乗るまでの短い距離、リオンは半歩前を歩き、時々、背を半分だけ振り向ける。視線は動き、風の層を読み、人の手と足の流れを読む。彼の世界の網は、わたしの世界の甘さとまったく別の仕組みで織られている。その網に、今は救われる。
馬車の扉が閉まり、内側の静けさが降りる。布張りの壁、クッションの沈み、窓に走る街の色。心臓が、ようやく自分の速度に戻る。戻った瞬間、指が震えた。膝の上で組んだ両手が、わずかに震える。蜂蜜の香りが、まだ鼻の奥にいる。
「……怖かった」
やっと出た声は、布に吸い込まれてすぐ小さくなる。リオンはすぐに答えない。答えの代わりに、馬車の座面が沈む。彼は向かいに座らず、隣に来た。距離が狭まる。彼は腕を回さない。ただ、肩と肩の間に、空気の柱のような支えを立てる。
「怖い、が正しい」
「“器”って言った」
自分の口から出る音が、ひどく冷えた。震えが止まらない。リオンの指が、ほんの少しだけわたしの手に触れ、すぐ離れた。許可を問う触れ方。わたしは小さく頷く。彼はもう一度触れ、今度は重ねてくれた。手のひらに、現実の重さが戻る。
「俺がいる」
「夜中でも?」
「夜中でも」
息が整い始める。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。車輪の振動がそのリズムに寄り添い、窓の外の景色は柔らかく流れる。甘さは、少しだけ薄まる。代わりに、鉄の匂いがわずかに濃くなる。彼の肩の傷だ。視線で問うと、彼は「掠りだ」とまた同じ言葉で返し、わずかに笑った。笑いの端は硬く、それでも笑いだった。
「……さっき、飴の香りで、全部が、ほどけたの。僕の声も、窓辺も、蜂蜜も。そこへ刃が来て、あの男が“器”って言って。甘さと刃が一緒に来ると、体が――止まる」
「止まるのは、逃げでも負けでもない。生きるための形だ」
「そう、なの」
「ああ。俺も、止まったことがある」
彼はそれ以上、語らない。語らないことの重さが、彼の肩の布越しに伝わる。彼の「止まった」は、砂塵と血と叫びの中だ。わたしの「止まった」は、蜂蜜の香りの中だ。違う世界が、今、同じ座面で少し重なる。
「“甘い方が、君には似合う”って、あの人は言った」
「言うだろうな、あいつは」
短い返し。苦い笑いがほんの少し混ざる。わたしは自分の声の裾を整え、彼の手に少し力を込める。手のひらが、返す。
「……わたし、甘い方が似合うと思う? リオン」
「お前に似合うのは、お前が選ぶものだ」
「逃げない答え」
「逃げない」
窓の外の音が少しずつ減り、屋敷の門の影が馬車の床に落ちる。停まる直前、リオンはぽつりと言った。
「蜂蜜は……傷に塗ると治りが早くなる」
「知ってるの?」
「戦場で、老人の薬師に叩き込まれた」
「じゃあ――」
「今は舐めるな。匂いが夢を呼ぶ」
「分かった」
馬車が止まり、扉が開く。屋敷の空気は静かで、今日の出来事がまだ入ってきていないみたいに澄んでいる。サナが目を湿らせ、しかし笑顔で迎え、「お帰りなさいませ。……ご無理はなさらず」と言った。医師は無言でリオンの肩に目をやり、すぐに別室へ促す。リオンは「後だ」と短く顎を振る。
「先に、お前だ」
「わたし、平気」
「先に、お前だ」
同じ言葉を繰り返すことが、約束の形に戻る。わたしは頷き、部屋へ向かう。廊下の燭台はまだ灯っていない。昼と夕のあいだ。影が柔らかい時間。扉の前で足が止まる。蜂蜜の香りがもうしない。代わりに、ジャスミンが静かに香る。
部屋に入ると、世界が少し狭くなり、安心が増える。窓を少し開け、風を吸い込む。甘さは遠のき、刃の記憶も薄まる。机の上の紙包み――サナが受け取った飴がひとつ、置かれていた。指先がわずかに震え、包みを見つめる。開けない。今は。
扉が二度、控えめに叩かれる。声は要らない合図。わたしは「どうぞ」と言い、リオンを入れる。彼は入って来て、何も言わずに部屋の中央で立ち止まり、「大丈夫か」とだけ言った。
「大丈夫、に、なる」
「なる」
彼はそれ以上、近づかない。代わりに、いつもの言葉を落とす。
「呼べ」
「呼ぶ」
「すぐ行く」
わたしは頷き、指輪の内側を親指で撫でる。文字はまだ読めない。けれど、今日のわたしには、読めなくていい。蜂蜜の甘さと血の匂いが混じった一日を、呼吸でゆっくり洗い流す。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。窓の外で風が白い花を撫で、どこか遠くで子どもが笑い、屋敷は静かに夕方へ傾く。
“甘い方が、君には似合う”。僕の声は、薄くなる。代わりに、「下がれ、アイリス!」の刃の音が、胸の奥に真っ直ぐ残る。どちらも、わたしの中にある。甘さは舌に、刃は骨に。今日、それを知らされた。
ベッドの端に座り、目を閉じる。怖かったと認める。止まったと認める。呼べると信じる。呼べば、彼は来る。「俺がいる」と短く言って、現実の温度で包む。甘さに溺れそうなら、塩で戻す。刃に怯えるなら、影で守る。そうやって――明日も、市へ出られる日が来るかもしれない。蜂蜜飴の包みは、今は開けない。いつか、自分で開ける日に。
窓から、最後の昼がこぼれた。指輪は静かに冷たく、胸はまだ少し速い。けれど、速さはもう、わたしのものだ。
「歩幅を合わせる。疲れたら言え」
「うん」
屋敷の門を出ると、石畳が陽を跳ね返し、通りの両側に開く露店から香りが押し寄せた。焼きパン、香草、革、絵具、布。人の声は重なり合い、犬が子どもの後をついて走り、吟遊詩人の弦の音が風に切り刻まれて飛ぶ。
市は、世界の鼓動だった。色と音と匂いが同時に押し寄せ、胸の内側が軽く浮く。怖い――でも、楽しい。そんな矛盾が一度にやって来る。リオンは半歩前、視線は流れて、手は空。右腰の剣は鞘にあるけれど、いつでも抜ける準備の角度を保っていた。医師は「二刻だけ」と指を二本立て、サナは「ご無理はなさらず」と優しい定型文に微笑みを添える。
露店の並びの角で、蜂蜜飴の屋台が陽を受けていた。透明な釜の中で黄金がとろりと回り、棒に絡められた飴玉が陽の粒を封じ込めてきらめく。熱で甘い香りが膨らみ、風の皿に湯気のように盛り上がる。
――そこで、記憶が弾けた。
『甘い方が、君には似合う』
僕の声。紅茶に蜂蜜を落とすスプーンの音と重なって、低く、やわらかく、喉の奥で笑う癖。飴の表面が陽光で一瞬白く曇り、すぐに透明へ戻る。その変化が、あの午後の窓辺と重なる。長い指、細い影、蜂蜜の糸。わたしは反射のように一歩、屋台へ近づいていた。
「――アイリス」
リオンの声が、遠くで、近くで、同時に落ちた。わたしは振り返る。大丈夫、と言おうとした舌が甘さで滑る。飴屋の老主人が笑い、匙を上げた。黄金が垂れ、陽が跳ねる。世界の端が、甘さで滲む。
その滲みの縁で、空気が変わった。
金属が小さく擦れる音。人波のざわめきに紛れる、ひとつだけ違う呼吸。背筋を針で押されたみたいに、皮膚が細く立つ。振り向く前に、視界の端で、仮面が光った。
薄い仮面。安っぽい祝祭の仮装ではない、表情のない白。口の部分だけが、わずかに黒く縁取られている。仮面の男が、群衆の影から半歩だけ浮き上がり、手を掲げた。掌の上に、青白い紋が開く。幾何学の円、絡む鎖、結び目。捕縛魔法――。
空気が締め付けられる音を聞いた。目に見えない縄が、わたしの左肩から胸へ回り込む。冷たい。冷たさは体温を踏み台にして、瞬時に熱へ変わる。心臓の外郭で、音が二度跳ねた。
「下がれ、アイリス!」
リオンの声は、今度は遠くなかった。剣の音が世界を割る。鞘鳴り、抜剣、靡く布。黒衣が視界を切り、彼の体がわたしの前に出る。刃は光を掴み、捕縛の紋へ斜めに落ちた。
ぎち、と空気が歪む。呪紋の輪が火花のような光を散らして割れ、鎖の線は逃げ道を失って宙でちかちかと明滅し――すぐに別の輪が上から重ねられる。仮面の男は退かない。低く呟き、指を二本、ねじる。捕縛は二重、三重。網が重なり、空気の層が薄い刃のようにわたしの喉を撫でた。
「下がれ!」
今度は命令の刃が強くなる。足が動かない。蜂蜜の香りが、足首に絡みついているみたいだ。飴屋の老主人が悲鳴を飲み込み、屋台の横板にしがみつく。人が割れ、叫びが跳ね、誰かが笑い、誰かが祈る。音は全部、同じ高さで頭の中を回る。
リオンの剣が、二つ目の輪を縦に裂いた。彼は踏み込む。一歩、二歩。靴底が石を噛み、肩の筋肉が布越しに膨らむ。剣先にまとわりつく術の糸を、手首の返しで払う。動きは吝嗇で、余計がない。彼の背に陽が走り、首筋の汗が一条、刃のように落ちた。
仮面の男が手を翻し、今度は掌をこちらへ向ける。捕縛から変化――拘束の矢。透明な歪みが三本、矢の形で飛ぶ。空気の色がわずかに暗く、矢羽根の先に小さな印。矢は音もなく、でも確かに存在して、胸、喉、腹へ正確に来る。
リオンの剣が、矢を弾く。火花は出ない。空気の矢は、金属を嫌って音もなく消える。一本だけ、彼の肩を掠めた。黒衣が裂け、皮膚が浅く開く。赤が――匂った。
血の匂い。温かい鉄。蜂蜜の甘さと混じって、冷たいのに熱い匂いが喉を焼く。わたしは喉を詰まらせ、咳が一つ、勝手に出た。視界が揺れる。世界が少し遅れてついてくる。
「医師、下げろ! サナ、背へ!」
リオンの短い指示。医師がわたしの肘を掴む。サナが背に回って体を支える。わたしは頷こうとして、首を固めるしかできない。目の前で、掠れた黒衣が風を切った。リオンは仮面の男と真正面に立ち、刃の向きを半歩ごとに変える。相手は後退せず、左右へ滑る。仮面の口の黒い縁が、わずかに笑っているように見えた。
群衆は割れ、露店のひとつが倒れた。瓶が割れ、甘いシロップが石畳に広がる。足裏が少し滑る音。太陽が一点だけ雲に隠れ、影が動いた。その瞬間――仮面の男の足元で、黒い印が開いた。見慣れない形。二重螺旋のような、蛇の舌のような。捕縛ではない。連れ去りの門。術者自身が跳ぶ型。
「逃がすか」
低く、リオンが呟く。呟きは刃だった。彼は踏み込む。仮面の男も同時に、印の中心へ体を傾ける――
周囲の空気が、突然、粘った。甘い。蜂蜜が熱で緩んだときの粘度。風が止まり、人の声が耳の手前で渦を巻く。わたしは匂いに引き戻される。飴の棒、陽の粒、僕の声。
『甘い方が、君には似合う』
同時に、仮面の男の口元が動いた。仮面の下で、肉体が笑ったのだと直感した。彼はわたしへ顔を向け、音を持たない唇の形で、はっきりと――“器”。
器。喉の奥で何かがひゅっと縮み、視界の端が暗くなる。足が石に沈む。サナの手が強くなり、医師の声が遠のく。リオンの剣が走り、仮面の男の側頭にかすった。仮面が割れて、白い破片が陽に飛ぶ。下から覗いた素顔――いや、目だけ。濁った灰色。人の温度がない目。
印が光り、男の体が半分、そこに飲まれる。リオンは追う。刃は届く距離だ。けれど、男は手をひと振り、掌から細い針のような光を散らした。防御ではない、拒絶の棘。刃の進路に鋲を打つように、瞬間の壁を立てる。
「――っ」
金属の鳴らない音がした。刃は止まらない。だが半拍、遅れた。その半拍で、男は消えた。印は閉じ、石畳が元の色に戻る。甘い匂いだけが濃く残り、陽が雲から出る。世界が、何もなかったみたいな顔をする。
わたしは、その「何もなかった」に殴られた気がした。膝の力が抜ける。医師が支え、サナが「座りましょう」と耳元で言う。露店の老主人が「すまねえ、すまねえ」と同じ言葉を繰り返し、割れた瓶の破片を震える手で拾う。
リオンは剣を返し、鞘に納めた。血の線が肩を走る。彼は痛みを確認する仕草すら省いて、まず群衆を見渡し、視線で危険の余韻を剥がし、最後にわたしを見る。目は深い。奥に刺のような痛みを抱き、その痛みを見せない角度を選ぶ目。
「……怪我は」
首を振る。喉の奥が乾いて、音が出ない。彼は一歩、距離を詰める。人差し指と中指で、わたしの顎の下をやさしく持ち上げ、目の色を確かめる。光の反射、焦点、呼吸の深さ。戦場で何度もやった確認。彼の指は冷たすぎず、熱すぎない。適温。現実の温度。
「俺の肩は、掠りだ。心配するな」
心配しているのは、わたしの方だ。言葉にならず、目が勝手に潤む。彼は眉をわずかに寄せ、視線のみで問いかける。大丈夫か。――大丈夫じゃない。でも、ここで泣くなら甘さのせいにしてしまいそうだ。
「帰る」
短い決定。医師が頷き、サナは「はい」と息を整える。護衛のひとりが先行し、人波を割る。飴屋の老主人が、帰り際に小さな包みを差し出した。紙に包まれた蜂蜜飴がひとつ。彼の手は震え、目はうるみ、口は何度も「すまねえ」と動く。
「……ありがとうございます」
わたしは受け取らず、サナに視線で合図した。サナは丁寧に受け取り、「また落ち着いたら伺います」と低く言った。老主人は首を縦に振ることしかできない。
馬車に乗るまでの短い距離、リオンは半歩前を歩き、時々、背を半分だけ振り向ける。視線は動き、風の層を読み、人の手と足の流れを読む。彼の世界の網は、わたしの世界の甘さとまったく別の仕組みで織られている。その網に、今は救われる。
馬車の扉が閉まり、内側の静けさが降りる。布張りの壁、クッションの沈み、窓に走る街の色。心臓が、ようやく自分の速度に戻る。戻った瞬間、指が震えた。膝の上で組んだ両手が、わずかに震える。蜂蜜の香りが、まだ鼻の奥にいる。
「……怖かった」
やっと出た声は、布に吸い込まれてすぐ小さくなる。リオンはすぐに答えない。答えの代わりに、馬車の座面が沈む。彼は向かいに座らず、隣に来た。距離が狭まる。彼は腕を回さない。ただ、肩と肩の間に、空気の柱のような支えを立てる。
「怖い、が正しい」
「“器”って言った」
自分の口から出る音が、ひどく冷えた。震えが止まらない。リオンの指が、ほんの少しだけわたしの手に触れ、すぐ離れた。許可を問う触れ方。わたしは小さく頷く。彼はもう一度触れ、今度は重ねてくれた。手のひらに、現実の重さが戻る。
「俺がいる」
「夜中でも?」
「夜中でも」
息が整い始める。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。車輪の振動がそのリズムに寄り添い、窓の外の景色は柔らかく流れる。甘さは、少しだけ薄まる。代わりに、鉄の匂いがわずかに濃くなる。彼の肩の傷だ。視線で問うと、彼は「掠りだ」とまた同じ言葉で返し、わずかに笑った。笑いの端は硬く、それでも笑いだった。
「……さっき、飴の香りで、全部が、ほどけたの。僕の声も、窓辺も、蜂蜜も。そこへ刃が来て、あの男が“器”って言って。甘さと刃が一緒に来ると、体が――止まる」
「止まるのは、逃げでも負けでもない。生きるための形だ」
「そう、なの」
「ああ。俺も、止まったことがある」
彼はそれ以上、語らない。語らないことの重さが、彼の肩の布越しに伝わる。彼の「止まった」は、砂塵と血と叫びの中だ。わたしの「止まった」は、蜂蜜の香りの中だ。違う世界が、今、同じ座面で少し重なる。
「“甘い方が、君には似合う”って、あの人は言った」
「言うだろうな、あいつは」
短い返し。苦い笑いがほんの少し混ざる。わたしは自分の声の裾を整え、彼の手に少し力を込める。手のひらが、返す。
「……わたし、甘い方が似合うと思う? リオン」
「お前に似合うのは、お前が選ぶものだ」
「逃げない答え」
「逃げない」
窓の外の音が少しずつ減り、屋敷の門の影が馬車の床に落ちる。停まる直前、リオンはぽつりと言った。
「蜂蜜は……傷に塗ると治りが早くなる」
「知ってるの?」
「戦場で、老人の薬師に叩き込まれた」
「じゃあ――」
「今は舐めるな。匂いが夢を呼ぶ」
「分かった」
馬車が止まり、扉が開く。屋敷の空気は静かで、今日の出来事がまだ入ってきていないみたいに澄んでいる。サナが目を湿らせ、しかし笑顔で迎え、「お帰りなさいませ。……ご無理はなさらず」と言った。医師は無言でリオンの肩に目をやり、すぐに別室へ促す。リオンは「後だ」と短く顎を振る。
「先に、お前だ」
「わたし、平気」
「先に、お前だ」
同じ言葉を繰り返すことが、約束の形に戻る。わたしは頷き、部屋へ向かう。廊下の燭台はまだ灯っていない。昼と夕のあいだ。影が柔らかい時間。扉の前で足が止まる。蜂蜜の香りがもうしない。代わりに、ジャスミンが静かに香る。
部屋に入ると、世界が少し狭くなり、安心が増える。窓を少し開け、風を吸い込む。甘さは遠のき、刃の記憶も薄まる。机の上の紙包み――サナが受け取った飴がひとつ、置かれていた。指先がわずかに震え、包みを見つめる。開けない。今は。
扉が二度、控えめに叩かれる。声は要らない合図。わたしは「どうぞ」と言い、リオンを入れる。彼は入って来て、何も言わずに部屋の中央で立ち止まり、「大丈夫か」とだけ言った。
「大丈夫、に、なる」
「なる」
彼はそれ以上、近づかない。代わりに、いつもの言葉を落とす。
「呼べ」
「呼ぶ」
「すぐ行く」
わたしは頷き、指輪の内側を親指で撫でる。文字はまだ読めない。けれど、今日のわたしには、読めなくていい。蜂蜜の甘さと血の匂いが混じった一日を、呼吸でゆっくり洗い流す。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。窓の外で風が白い花を撫で、どこか遠くで子どもが笑い、屋敷は静かに夕方へ傾く。
“甘い方が、君には似合う”。僕の声は、薄くなる。代わりに、「下がれ、アイリス!」の刃の音が、胸の奥に真っ直ぐ残る。どちらも、わたしの中にある。甘さは舌に、刃は骨に。今日、それを知らされた。
ベッドの端に座り、目を閉じる。怖かったと認める。止まったと認める。呼べると信じる。呼べば、彼は来る。「俺がいる」と短く言って、現実の温度で包む。甘さに溺れそうなら、塩で戻す。刃に怯えるなら、影で守る。そうやって――明日も、市へ出られる日が来るかもしれない。蜂蜜飴の包みは、今は開けない。いつか、自分で開ける日に。
窓から、最後の昼がこぼれた。指輪は静かに冷たく、胸はまだ少し速い。けれど、速さはもう、わたしのものだ。
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