記憶を失った花嫁は夫だと言う男に溺愛されるが結婚契約書に書いてある名前は別の男でした

タマ マコト

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8話「外出――市の喧騒、蜂蜜と刃」

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 午前のうちに空はよく晴れ、王都の空気は乾いた鈴の音みたいに澄んでいた。外出は短時間――医師とサナと、護衛を二名。リオンは最初から同行を告げ、黒衣の襟をきっちり立てた。扉のところで一瞬だけ目が合い、彼は短く言う。

「歩幅を合わせる。疲れたら言え」

「うん」

 屋敷の門を出ると、石畳が陽を跳ね返し、通りの両側に開く露店から香りが押し寄せた。焼きパン、香草、革、絵具、布。人の声は重なり合い、犬が子どもの後をついて走り、吟遊詩人の弦の音が風に切り刻まれて飛ぶ。

 市は、世界の鼓動だった。色と音と匂いが同時に押し寄せ、胸の内側が軽く浮く。怖い――でも、楽しい。そんな矛盾が一度にやって来る。リオンは半歩前、視線は流れて、手は空。右腰の剣は鞘にあるけれど、いつでも抜ける準備の角度を保っていた。医師は「二刻だけ」と指を二本立て、サナは「ご無理はなさらず」と優しい定型文に微笑みを添える。

 露店の並びの角で、蜂蜜飴の屋台が陽を受けていた。透明な釜の中で黄金がとろりと回り、棒に絡められた飴玉が陽の粒を封じ込めてきらめく。熱で甘い香りが膨らみ、風の皿に湯気のように盛り上がる。

 ――そこで、記憶が弾けた。

『甘い方が、君には似合う』

 僕の声。紅茶に蜂蜜を落とすスプーンの音と重なって、低く、やわらかく、喉の奥で笑う癖。飴の表面が陽光で一瞬白く曇り、すぐに透明へ戻る。その変化が、あの午後の窓辺と重なる。長い指、細い影、蜂蜜の糸。わたしは反射のように一歩、屋台へ近づいていた。

「――アイリス」

 リオンの声が、遠くで、近くで、同時に落ちた。わたしは振り返る。大丈夫、と言おうとした舌が甘さで滑る。飴屋の老主人が笑い、匙を上げた。黄金が垂れ、陽が跳ねる。世界の端が、甘さで滲む。

 その滲みの縁で、空気が変わった。

 金属が小さく擦れる音。人波のざわめきに紛れる、ひとつだけ違う呼吸。背筋を針で押されたみたいに、皮膚が細く立つ。振り向く前に、視界の端で、仮面が光った。

 薄い仮面。安っぽい祝祭の仮装ではない、表情のない白。口の部分だけが、わずかに黒く縁取られている。仮面の男が、群衆の影から半歩だけ浮き上がり、手を掲げた。掌の上に、青白い紋が開く。幾何学の円、絡む鎖、結び目。捕縛魔法――。

 空気が締め付けられる音を聞いた。目に見えない縄が、わたしの左肩から胸へ回り込む。冷たい。冷たさは体温を踏み台にして、瞬時に熱へ変わる。心臓の外郭で、音が二度跳ねた。

「下がれ、アイリス!」

 リオンの声は、今度は遠くなかった。剣の音が世界を割る。鞘鳴り、抜剣、靡く布。黒衣が視界を切り、彼の体がわたしの前に出る。刃は光を掴み、捕縛の紋へ斜めに落ちた。

 ぎち、と空気が歪む。呪紋の輪が火花のような光を散らして割れ、鎖の線は逃げ道を失って宙でちかちかと明滅し――すぐに別の輪が上から重ねられる。仮面の男は退かない。低く呟き、指を二本、ねじる。捕縛は二重、三重。網が重なり、空気の層が薄い刃のようにわたしの喉を撫でた。

「下がれ!」

 今度は命令の刃が強くなる。足が動かない。蜂蜜の香りが、足首に絡みついているみたいだ。飴屋の老主人が悲鳴を飲み込み、屋台の横板にしがみつく。人が割れ、叫びが跳ね、誰かが笑い、誰かが祈る。音は全部、同じ高さで頭の中を回る。

 リオンの剣が、二つ目の輪を縦に裂いた。彼は踏み込む。一歩、二歩。靴底が石を噛み、肩の筋肉が布越しに膨らむ。剣先にまとわりつく術の糸を、手首の返しで払う。動きは吝嗇で、余計がない。彼の背に陽が走り、首筋の汗が一条、刃のように落ちた。

 仮面の男が手を翻し、今度は掌をこちらへ向ける。捕縛から変化――拘束の矢。透明な歪みが三本、矢の形で飛ぶ。空気の色がわずかに暗く、矢羽根の先に小さな印。矢は音もなく、でも確かに存在して、胸、喉、腹へ正確に来る。

 リオンの剣が、矢を弾く。火花は出ない。空気の矢は、金属を嫌って音もなく消える。一本だけ、彼の肩を掠めた。黒衣が裂け、皮膚が浅く開く。赤が――匂った。

 血の匂い。温かい鉄。蜂蜜の甘さと混じって、冷たいのに熱い匂いが喉を焼く。わたしは喉を詰まらせ、咳が一つ、勝手に出た。視界が揺れる。世界が少し遅れてついてくる。

「医師、下げろ! サナ、背へ!」

 リオンの短い指示。医師がわたしの肘を掴む。サナが背に回って体を支える。わたしは頷こうとして、首を固めるしかできない。目の前で、掠れた黒衣が風を切った。リオンは仮面の男と真正面に立ち、刃の向きを半歩ごとに変える。相手は後退せず、左右へ滑る。仮面の口の黒い縁が、わずかに笑っているように見えた。

 群衆は割れ、露店のひとつが倒れた。瓶が割れ、甘いシロップが石畳に広がる。足裏が少し滑る音。太陽が一点だけ雲に隠れ、影が動いた。その瞬間――仮面の男の足元で、黒い印が開いた。見慣れない形。二重螺旋のような、蛇の舌のような。捕縛ではない。連れ去りの門。術者自身が跳ぶ型。

「逃がすか」

 低く、リオンが呟く。呟きは刃だった。彼は踏み込む。仮面の男も同時に、印の中心へ体を傾ける――

 周囲の空気が、突然、粘った。甘い。蜂蜜が熱で緩んだときの粘度。風が止まり、人の声が耳の手前で渦を巻く。わたしは匂いに引き戻される。飴の棒、陽の粒、僕の声。

『甘い方が、君には似合う』

 同時に、仮面の男の口元が動いた。仮面の下で、肉体が笑ったのだと直感した。彼はわたしへ顔を向け、音を持たない唇の形で、はっきりと――“器”。

 器。喉の奥で何かがひゅっと縮み、視界の端が暗くなる。足が石に沈む。サナの手が強くなり、医師の声が遠のく。リオンの剣が走り、仮面の男の側頭にかすった。仮面が割れて、白い破片が陽に飛ぶ。下から覗いた素顔――いや、目だけ。濁った灰色。人の温度がない目。

 印が光り、男の体が半分、そこに飲まれる。リオンは追う。刃は届く距離だ。けれど、男は手をひと振り、掌から細い針のような光を散らした。防御ではない、拒絶の棘。刃の進路に鋲を打つように、瞬間の壁を立てる。

「――っ」

 金属の鳴らない音がした。刃は止まらない。だが半拍、遅れた。その半拍で、男は消えた。印は閉じ、石畳が元の色に戻る。甘い匂いだけが濃く残り、陽が雲から出る。世界が、何もなかったみたいな顔をする。

 わたしは、その「何もなかった」に殴られた気がした。膝の力が抜ける。医師が支え、サナが「座りましょう」と耳元で言う。露店の老主人が「すまねえ、すまねえ」と同じ言葉を繰り返し、割れた瓶の破片を震える手で拾う。

 リオンは剣を返し、鞘に納めた。血の線が肩を走る。彼は痛みを確認する仕草すら省いて、まず群衆を見渡し、視線で危険の余韻を剥がし、最後にわたしを見る。目は深い。奥に刺のような痛みを抱き、その痛みを見せない角度を選ぶ目。

「……怪我は」

 首を振る。喉の奥が乾いて、音が出ない。彼は一歩、距離を詰める。人差し指と中指で、わたしの顎の下をやさしく持ち上げ、目の色を確かめる。光の反射、焦点、呼吸の深さ。戦場で何度もやった確認。彼の指は冷たすぎず、熱すぎない。適温。現実の温度。

「俺の肩は、掠りだ。心配するな」

 心配しているのは、わたしの方だ。言葉にならず、目が勝手に潤む。彼は眉をわずかに寄せ、視線のみで問いかける。大丈夫か。――大丈夫じゃない。でも、ここで泣くなら甘さのせいにしてしまいそうだ。

「帰る」

 短い決定。医師が頷き、サナは「はい」と息を整える。護衛のひとりが先行し、人波を割る。飴屋の老主人が、帰り際に小さな包みを差し出した。紙に包まれた蜂蜜飴がひとつ。彼の手は震え、目はうるみ、口は何度も「すまねえ」と動く。

「……ありがとうございます」

 わたしは受け取らず、サナに視線で合図した。サナは丁寧に受け取り、「また落ち着いたら伺います」と低く言った。老主人は首を縦に振ることしかできない。

 馬車に乗るまでの短い距離、リオンは半歩前を歩き、時々、背を半分だけ振り向ける。視線は動き、風の層を読み、人の手と足の流れを読む。彼の世界の網は、わたしの世界の甘さとまったく別の仕組みで織られている。その網に、今は救われる。

 馬車の扉が閉まり、内側の静けさが降りる。布張りの壁、クッションの沈み、窓に走る街の色。心臓が、ようやく自分の速度に戻る。戻った瞬間、指が震えた。膝の上で組んだ両手が、わずかに震える。蜂蜜の香りが、まだ鼻の奥にいる。

「……怖かった」

 やっと出た声は、布に吸い込まれてすぐ小さくなる。リオンはすぐに答えない。答えの代わりに、馬車の座面が沈む。彼は向かいに座らず、隣に来た。距離が狭まる。彼は腕を回さない。ただ、肩と肩の間に、空気の柱のような支えを立てる。

「怖い、が正しい」

「“器”って言った」

 自分の口から出る音が、ひどく冷えた。震えが止まらない。リオンの指が、ほんの少しだけわたしの手に触れ、すぐ離れた。許可を問う触れ方。わたしは小さく頷く。彼はもう一度触れ、今度は重ねてくれた。手のひらに、現実の重さが戻る。

「俺がいる」

「夜中でも?」

「夜中でも」

 息が整い始める。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。車輪の振動がそのリズムに寄り添い、窓の外の景色は柔らかく流れる。甘さは、少しだけ薄まる。代わりに、鉄の匂いがわずかに濃くなる。彼の肩の傷だ。視線で問うと、彼は「掠りだ」とまた同じ言葉で返し、わずかに笑った。笑いの端は硬く、それでも笑いだった。

「……さっき、飴の香りで、全部が、ほどけたの。僕の声も、窓辺も、蜂蜜も。そこへ刃が来て、あの男が“器”って言って。甘さと刃が一緒に来ると、体が――止まる」

「止まるのは、逃げでも負けでもない。生きるための形だ」

「そう、なの」

「ああ。俺も、止まったことがある」

 彼はそれ以上、語らない。語らないことの重さが、彼の肩の布越しに伝わる。彼の「止まった」は、砂塵と血と叫びの中だ。わたしの「止まった」は、蜂蜜の香りの中だ。違う世界が、今、同じ座面で少し重なる。

「“甘い方が、君には似合う”って、あの人は言った」

「言うだろうな、あいつは」

 短い返し。苦い笑いがほんの少し混ざる。わたしは自分の声の裾を整え、彼の手に少し力を込める。手のひらが、返す。

「……わたし、甘い方が似合うと思う? リオン」

「お前に似合うのは、お前が選ぶものだ」

「逃げない答え」

「逃げない」

 窓の外の音が少しずつ減り、屋敷の門の影が馬車の床に落ちる。停まる直前、リオンはぽつりと言った。

「蜂蜜は……傷に塗ると治りが早くなる」

「知ってるの?」

「戦場で、老人の薬師に叩き込まれた」

「じゃあ――」

「今は舐めるな。匂いが夢を呼ぶ」

「分かった」

 馬車が止まり、扉が開く。屋敷の空気は静かで、今日の出来事がまだ入ってきていないみたいに澄んでいる。サナが目を湿らせ、しかし笑顔で迎え、「お帰りなさいませ。……ご無理はなさらず」と言った。医師は無言でリオンの肩に目をやり、すぐに別室へ促す。リオンは「後だ」と短く顎を振る。

「先に、お前だ」

「わたし、平気」

「先に、お前だ」

 同じ言葉を繰り返すことが、約束の形に戻る。わたしは頷き、部屋へ向かう。廊下の燭台はまだ灯っていない。昼と夕のあいだ。影が柔らかい時間。扉の前で足が止まる。蜂蜜の香りがもうしない。代わりに、ジャスミンが静かに香る。

 部屋に入ると、世界が少し狭くなり、安心が増える。窓を少し開け、風を吸い込む。甘さは遠のき、刃の記憶も薄まる。机の上の紙包み――サナが受け取った飴がひとつ、置かれていた。指先がわずかに震え、包みを見つめる。開けない。今は。

 扉が二度、控えめに叩かれる。声は要らない合図。わたしは「どうぞ」と言い、リオンを入れる。彼は入って来て、何も言わずに部屋の中央で立ち止まり、「大丈夫か」とだけ言った。

「大丈夫、に、なる」

「なる」

 彼はそれ以上、近づかない。代わりに、いつもの言葉を落とす。

「呼べ」

「呼ぶ」

「すぐ行く」

 わたしは頷き、指輪の内側を親指で撫でる。文字はまだ読めない。けれど、今日のわたしには、読めなくていい。蜂蜜の甘さと血の匂いが混じった一日を、呼吸でゆっくり洗い流す。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。窓の外で風が白い花を撫で、どこか遠くで子どもが笑い、屋敷は静かに夕方へ傾く。

 “甘い方が、君には似合う”。僕の声は、薄くなる。代わりに、「下がれ、アイリス!」の刃の音が、胸の奥に真っ直ぐ残る。どちらも、わたしの中にある。甘さは舌に、刃は骨に。今日、それを知らされた。

 ベッドの端に座り、目を閉じる。怖かったと認める。止まったと認める。呼べると信じる。呼べば、彼は来る。「俺がいる」と短く言って、現実の温度で包む。甘さに溺れそうなら、塩で戻す。刃に怯えるなら、影で守る。そうやって――明日も、市へ出られる日が来るかもしれない。蜂蜜飴の包みは、今は開けない。いつか、自分で開ける日に。

 窓から、最後の昼がこぼれた。指輪は静かに冷たく、胸はまだ少し速い。けれど、速さはもう、わたしのものだ。
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