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13話「黒鉄の誓い、地下聖堂への道」
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門の蝶番が低く鳴き、夜の外気が肺の奥を洗った。屋敷の庭は風に倒され、白い花はうつむいて震えている。嵐の前の匂い――湿った土、遠雷の金属の味。背後でサナが短く頷き、医師が地図の角を折る音がした。すべてが「行け」と言っている。
わたしたちは、出た。
石畳は夜露で薄く滑り、靴底は確かな音を返す。廊を一つ、角を二つ、門をくぐれば、王都の外れの小道へと世界は絞られた。風が帷子の裾を引く。リオンはわたしの半歩前を歩き、黒衣の影が舗道に落ちるたび、その影の上にわたしの影が重なった。重なるたび、胸が少しだけ落ち着く。
最初の影は、早すぎた。
細い路地に差し掛かったとき、空気がひきつる。気配が前と左右の壁からにじんだ。刃ではなく、手の形。薄い革靴の音が石を蹴り、鼻先にかすかな香油――セラの配合ではない。雇われた手だ。違うのは、目的だけが同じということ。
「下がれ」
リオンが言い終えるより早く、影が飛んだ。燕のように、ではなく、地面を這う蛇のように低く速く。刃が、夜の色を裂く。リオンの剣は、待っていたかのようにそこへ入り、細い金属音を一つだけ鳴らして、影の手首を断った。
血が、夜気に温度を撒く。甘くない鉄の匂い。二人目が背後から回る。気配は左。リオンの足は半歩、右。体が入る角度は既に決まっていて、剣は肩を掠め、喉を止める。悲鳴はない。倒れる音だけが、現実を刻印した。
三人目は術者だった。手袋の内側で指が組み、捕縛の紋が短く、汚く、しかし充分に強く光る。網ではなく縄。わたしの脚へ向かう。リオンは身を翻し、刃の腹で紋を叩き潰し、そのまま柄で術者の顎を打った。骨の鈍い手応えが空気に伝わり、男は崩れる。
「――行くぞ」
短い。そこに余裕はない。わたしは頷き、息を合わせる。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。心臓は速いのに、不思議と歩幅は乱れない。血飛沫が石畳に落ち、月明かりがそれを薄く銀に見せる。吐き気は来ない。恐怖は来る。恐怖と一緒に、愛しさも来る。高熱の双子みたいに、同じ熱で走ってくる。
角を曲がった先で、また影。五つ。今度は油断がない。真っ直ぐ来ない。半分は囮。半分は投げ刃。暗さに紛れる薄い音。喉の高さ、鳩尾の高さ、膝の高さ――。
「伏せろ」
リオンの声が一拍早く落ち、わたしは反射で身を沈める。次の瞬間、彼の外套がふわりと視界を覆い、その布の上を細い刃が三本、軽い音を立てて滑った。リオンは外套を払って投げ刃をまとめて地へ落とし、踏む。金属が石に泣く。同時に、一歩――いや、半歩。その半歩の角度が、影を三人まとめて無力化していく。剣先は非情だが、無駄に血を撒かない。喉を避けるのは、情報が欲しいからだ。けれど、今夜は急ぐ。彼は倒した影のうち二人の意識だけを刈り、残りを呻かせたまま縛らず、道を開けさせた。
血飛沫。頬に一滴。夜風で冷える前に、鉄の匂いが皮膚に刺さる。――怖い。怖いのに、彼の剣筋の一切の迷いのなさに、目が奪われる。音もなく決まる軌跡。刃の長さより短い言葉。彼の世界は、この数秒のために何年も磨かれてきたのだと、骨でわかる。
影が散り、息を継ぐ間もなく次の角。今度は屋根だ。瓦の上に影。月を背にシルエット。矢が一本、音を殺して飛ぶ。刺青のある腕。矢はわたしの肩へ一直線――。
ぴし、と空気が裂ける音。リオンは斜めに踏み込み、その身で矢を受ける軌道を変え、刃で矢尻を叩き折った。矢は石を滑って、草むらへ消える。屋根の影は素早く退き、別の角度へ回った。追うより先に、リオンはわたしを見た。
「無事だ」
「うん」
声が、少しだけ震えた。彼はわずかに眉を寄せ、考えを一つ捨てる顔をした。敵を追わない選択。わたしたちは速度を落とさず、裏道へ入る。遠くの空が光り、雷の胎動が足裏に伝わる。嵐は近い。嵐より先に、彼らは来る。
路地の出口で、痩せた男が笑った。笑いは口の形だけで、目は冷たい。指先に光るのは、蜂蜜の色。香油の小瓶だ。鼻腔に甘い香りが一瞬だけ立つ。わたしの舌の奥の記憶が危い方角へ滑ろうとする――
リオンの影が先に動いた。刃は男の手首を狙わず、小瓶の底を打った。香油は弧を描いて空へ散り、夜風に薄まって消える。男が舌打ちし、術に切り替える。だが、その術の初動を、リオンの膝が奪った。短い、それでいて致命的ではない打撃。男は膝から崩れ、脳震盪の呼び笛を吹けずに沈む。
「俺は何度でも守る。お前が嫌でも」
血の匂いの中でも、彼は言った。低く、削れた声で。言葉は刃じゃない。盾だ。夜と敵と甘さの膜の間に、厚い板を立てるような声。
胸が痛い。怖くて痛い。その痛さごと、愛しいと、思ってしまった。愛は告白の形をまだ持たない代わりに、呼吸の形で体に住みついた。呼吸をひとつ落とし、わたしは正面から彼を見る。
「嫌じゃない。嫌じゃないよ。……でも、守られるだけで終わる私じゃない」
彼の目がわずかに細くなる。受け止める準備の目。わたしの言葉は続く。吹き曝しの夜で、震えないように、舌の裏で誓いの棘を撫でた。
「あなたを信じるから、あなたの隣で戦う。逃げる時は一緒。立つ時も一緒。――あなたがセラからわたしを離そうとするなら、わたしはあなたと彼のあいだに立つ。わたしの意志で」
「お前は……」
「わたしは、あなたの“足りる”になりたい。甘さに溺れないで済む“足りる”。あなたに抱かれるだけじゃない、あなたの刃の隣に立てる“足りる”。」
言い切ってから、風に肩を押された。雲が低い。リオンの喉が短く鳴る。反論は、来ない。代わりに、彼は一歩、寄った。近いのに、触れない距離。触れないことで、触れるよりも重い約束を置く距離。
「……俺は、お前に“選べ”と言ったな」
「うん」
「なら、俺も選ぶ。お前を隣に置く。守るために隠すことを、今だけ少し減らす」
「“今だけ”じゃなくて、これからも」
「交渉がうまい」
「あなたが不器用だから、わたしがやる」
彼の口元がほんの少しだけ緩み、次の瞬間にはまた硬く戻る。足音――。背後から四人。前に二人。路地が狭くなる。逃げ場を塞ぐ動き。今度は真正面から来る。迷いのない手配。セラの雇った追手たち。躊躇いはなく、命令の匂いだけがある。
「離れるな」
「離れない」
短い合図のあと、世界が細くなった。リオンの剣は音を奪う。斬るより先に、斬られる未来を断つ軌道。一歩で二人、返す手で一人、意識を落とす。わたしは壁の影へ入り、飛び道具の線を見切る。投げ刃が来る。肩を捻り、壁に当てて落とす。二人目が掴みに来る。腕を取り、重心を崩す。膝が石に落ち、男の息が抜ける。怖い。怖いのに、体は動いた。わたしの中に、誰かが置いていった訓練の断片がある。今は、使う。
背に冷たさ。息を戻す間もなく、リオンの声が落ちる。
「右、下」
反射。足を払うと同時に身を沈め、男の踵がわたしの肩の上を空振りする。リオンの刃がその足の出所を打ち、男は半歩遅れて崩れた。あと一人。前に構え、引かない目。術者。捕縛の術式を片手で組む。輪が開く。その輪はさっきよりも大きい。屋敷で感じた、大規模結界の骨組みの言語が、そこへ乗る。
「させない」
わたしの声と、リオンの足が同時に出た。輪の縁へ、刃と掌。刃は線を断ち、掌は印の結び目をほどく。印をほどく指は、体が覚えている。誰に教わったのか、今は考えない。輪は破れ、術者の目が一度だけ狼狽を晒す。そこへ、リオンの柄が入る。静かな音で、終わる。
風が、強くなった。遠い稲光が、雲の腹を白くする。追手は、しばらく来ない。来ない間に、決めるべきことがある。リオンは剣を布で一度だけ拭き、鞘に納め、息を整えた。息の合間に、わたしを見た。目は深い。深さの手前に、決意が乗っている。
「――セラは、地下聖堂にいる可能性が高い」
唐突なようで、ずっと考えていたことをやっと発した声だった。彼は続ける。
「儀式の条件が揃う場所が限られる。大規模結界の骨組みは街全体に散っているが、中心は“空洞”じゃないと保たない。王都の地下にある古い聖堂群――そのうち、北側の廃区画が今、一番条件に合う。水脈が近く、祭壇跡が四つ、碑文の欠け方が術式の配列と一致する。昼に医師と地図を合わせた。……やつの手紙が窓から入った風の向きも、そこからだ」
「どうして今、そこ」
「嵐が来る。嵐は魔術の裾を持ち上げる。風と水圧が、儀式の“音”を隠す。やつは“今夜”を選ぶ」
言葉は刃より鋭い。現実を切って、道を作る。わたしは頷き、喉に溜まった甘さの残りを飲み下す。地下聖堂――湿った石、冷たい香、古い讃歌の抜け殻。夢で何度も行ったことがあるような、現実で一度も立ったことのない場所。
「行こう」
即答した自分に驚きはなかった。身体が先に決めていたのだ。リオンの目がわずかに柔らぎ、すぐに鋼の色を取り戻す。
「危険だ」
「知ってる」
「お前を狙っている」
「いい。――わたしは、あなたを信じる」
わたしが言うと、彼は目を細め、ほんの一拍、息を止めた。止めた息を、低く吐く。雷の音が遠くで丸く鳴る。
「……俺も、信じる」
「何を」
「お前の“嫌じゃない”を」
言葉が胸に入って、内側から灯りを点ける。嫌じゃない。守られるのも、隣に立つのも、選ぶのも。嫌じゃない。それどころか、望む。嵐が来る夜に、二人で行く。甘さと刃のどちらにも溺れないために。
小道を抜ける手前、最後の影が手を伸ばした。掴む手ではない。差し出す手。掌には、小さな紙片。風に揺れる。香油はない。墨だけだ。リオンは紙片を斜めに払って落とし、踏んだ。文字を見る必要はない。言葉には起きる力がある。今は、起こさないほうがいい。
「……リオン」
「なんだ」
「怖い。でも、わたし、行くよ」
「俺がいる」
「夜中でも?」
「夜中でも」
くり返しは、合図。合図は、儀式。儀式は、呪いの反対。わたしたちは走り出す。嵐の前の風が背中を押し、街の灯りが背後でほどけ、王都の地下へ降りる入口へ、道が細く集まっていく。
地下への扉は、昔の教会の廃礼拝堂に隠れている。石碑の陰、苔の匂い、鉄の味。鍵は、三つ。物理が一つ、言葉が一つ、血が一つ。物理は、リオンが開ける。言葉は、わたしが開ける。血は、どちらかが責任を持つ。嵐の始まりの風が、扉の隙間から冷たく息を吐く。
「行こう」
「行く」
扉が、沈んだ音を立てた。世界は上と下に分かれ、甘さは風に散り、刃は鞘の中で冷たく息を潜める。わたしたちは、降りる。セラのいるはずの場所へ。わたしの記憶が奪われ、彼の誓いが歪められ、甘さが毒に練られた場所へ。
怖い。――でも、隣にいるこの男の強さを、今、愛しいと思う。血飛沫の中で迷いなく刃を振るう強さを、愛しいと思ってしまった。愛は、言葉にする前に、足音の形で響き合う。地下の階段は深い。階段を降りるたび、わたしの中の甘さが剥がれ落ち、塩の味が舌の奥に戻ってくる。
「俺は何度でも守る。お前が嫌でも」
さっきの言葉が、胸の奥で反芻される。嫌じゃない、と返した自分の声も一緒に流れ、二つの声は重ならず、しかし並んで進む。嵐は近い。地下聖堂は、もっと近い。扉の先で待つものに、わたしたちは二人で向かう。わたしは指輪を握り、誓いの棘の痛みを確かめ、前を見た。
――行く。
わたしたちは、出た。
石畳は夜露で薄く滑り、靴底は確かな音を返す。廊を一つ、角を二つ、門をくぐれば、王都の外れの小道へと世界は絞られた。風が帷子の裾を引く。リオンはわたしの半歩前を歩き、黒衣の影が舗道に落ちるたび、その影の上にわたしの影が重なった。重なるたび、胸が少しだけ落ち着く。
最初の影は、早すぎた。
細い路地に差し掛かったとき、空気がひきつる。気配が前と左右の壁からにじんだ。刃ではなく、手の形。薄い革靴の音が石を蹴り、鼻先にかすかな香油――セラの配合ではない。雇われた手だ。違うのは、目的だけが同じということ。
「下がれ」
リオンが言い終えるより早く、影が飛んだ。燕のように、ではなく、地面を這う蛇のように低く速く。刃が、夜の色を裂く。リオンの剣は、待っていたかのようにそこへ入り、細い金属音を一つだけ鳴らして、影の手首を断った。
血が、夜気に温度を撒く。甘くない鉄の匂い。二人目が背後から回る。気配は左。リオンの足は半歩、右。体が入る角度は既に決まっていて、剣は肩を掠め、喉を止める。悲鳴はない。倒れる音だけが、現実を刻印した。
三人目は術者だった。手袋の内側で指が組み、捕縛の紋が短く、汚く、しかし充分に強く光る。網ではなく縄。わたしの脚へ向かう。リオンは身を翻し、刃の腹で紋を叩き潰し、そのまま柄で術者の顎を打った。骨の鈍い手応えが空気に伝わり、男は崩れる。
「――行くぞ」
短い。そこに余裕はない。わたしは頷き、息を合わせる。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。心臓は速いのに、不思議と歩幅は乱れない。血飛沫が石畳に落ち、月明かりがそれを薄く銀に見せる。吐き気は来ない。恐怖は来る。恐怖と一緒に、愛しさも来る。高熱の双子みたいに、同じ熱で走ってくる。
角を曲がった先で、また影。五つ。今度は油断がない。真っ直ぐ来ない。半分は囮。半分は投げ刃。暗さに紛れる薄い音。喉の高さ、鳩尾の高さ、膝の高さ――。
「伏せろ」
リオンの声が一拍早く落ち、わたしは反射で身を沈める。次の瞬間、彼の外套がふわりと視界を覆い、その布の上を細い刃が三本、軽い音を立てて滑った。リオンは外套を払って投げ刃をまとめて地へ落とし、踏む。金属が石に泣く。同時に、一歩――いや、半歩。その半歩の角度が、影を三人まとめて無力化していく。剣先は非情だが、無駄に血を撒かない。喉を避けるのは、情報が欲しいからだ。けれど、今夜は急ぐ。彼は倒した影のうち二人の意識だけを刈り、残りを呻かせたまま縛らず、道を開けさせた。
血飛沫。頬に一滴。夜風で冷える前に、鉄の匂いが皮膚に刺さる。――怖い。怖いのに、彼の剣筋の一切の迷いのなさに、目が奪われる。音もなく決まる軌跡。刃の長さより短い言葉。彼の世界は、この数秒のために何年も磨かれてきたのだと、骨でわかる。
影が散り、息を継ぐ間もなく次の角。今度は屋根だ。瓦の上に影。月を背にシルエット。矢が一本、音を殺して飛ぶ。刺青のある腕。矢はわたしの肩へ一直線――。
ぴし、と空気が裂ける音。リオンは斜めに踏み込み、その身で矢を受ける軌道を変え、刃で矢尻を叩き折った。矢は石を滑って、草むらへ消える。屋根の影は素早く退き、別の角度へ回った。追うより先に、リオンはわたしを見た。
「無事だ」
「うん」
声が、少しだけ震えた。彼はわずかに眉を寄せ、考えを一つ捨てる顔をした。敵を追わない選択。わたしたちは速度を落とさず、裏道へ入る。遠くの空が光り、雷の胎動が足裏に伝わる。嵐は近い。嵐より先に、彼らは来る。
路地の出口で、痩せた男が笑った。笑いは口の形だけで、目は冷たい。指先に光るのは、蜂蜜の色。香油の小瓶だ。鼻腔に甘い香りが一瞬だけ立つ。わたしの舌の奥の記憶が危い方角へ滑ろうとする――
リオンの影が先に動いた。刃は男の手首を狙わず、小瓶の底を打った。香油は弧を描いて空へ散り、夜風に薄まって消える。男が舌打ちし、術に切り替える。だが、その術の初動を、リオンの膝が奪った。短い、それでいて致命的ではない打撃。男は膝から崩れ、脳震盪の呼び笛を吹けずに沈む。
「俺は何度でも守る。お前が嫌でも」
血の匂いの中でも、彼は言った。低く、削れた声で。言葉は刃じゃない。盾だ。夜と敵と甘さの膜の間に、厚い板を立てるような声。
胸が痛い。怖くて痛い。その痛さごと、愛しいと、思ってしまった。愛は告白の形をまだ持たない代わりに、呼吸の形で体に住みついた。呼吸をひとつ落とし、わたしは正面から彼を見る。
「嫌じゃない。嫌じゃないよ。……でも、守られるだけで終わる私じゃない」
彼の目がわずかに細くなる。受け止める準備の目。わたしの言葉は続く。吹き曝しの夜で、震えないように、舌の裏で誓いの棘を撫でた。
「あなたを信じるから、あなたの隣で戦う。逃げる時は一緒。立つ時も一緒。――あなたがセラからわたしを離そうとするなら、わたしはあなたと彼のあいだに立つ。わたしの意志で」
「お前は……」
「わたしは、あなたの“足りる”になりたい。甘さに溺れないで済む“足りる”。あなたに抱かれるだけじゃない、あなたの刃の隣に立てる“足りる”。」
言い切ってから、風に肩を押された。雲が低い。リオンの喉が短く鳴る。反論は、来ない。代わりに、彼は一歩、寄った。近いのに、触れない距離。触れないことで、触れるよりも重い約束を置く距離。
「……俺は、お前に“選べ”と言ったな」
「うん」
「なら、俺も選ぶ。お前を隣に置く。守るために隠すことを、今だけ少し減らす」
「“今だけ”じゃなくて、これからも」
「交渉がうまい」
「あなたが不器用だから、わたしがやる」
彼の口元がほんの少しだけ緩み、次の瞬間にはまた硬く戻る。足音――。背後から四人。前に二人。路地が狭くなる。逃げ場を塞ぐ動き。今度は真正面から来る。迷いのない手配。セラの雇った追手たち。躊躇いはなく、命令の匂いだけがある。
「離れるな」
「離れない」
短い合図のあと、世界が細くなった。リオンの剣は音を奪う。斬るより先に、斬られる未来を断つ軌道。一歩で二人、返す手で一人、意識を落とす。わたしは壁の影へ入り、飛び道具の線を見切る。投げ刃が来る。肩を捻り、壁に当てて落とす。二人目が掴みに来る。腕を取り、重心を崩す。膝が石に落ち、男の息が抜ける。怖い。怖いのに、体は動いた。わたしの中に、誰かが置いていった訓練の断片がある。今は、使う。
背に冷たさ。息を戻す間もなく、リオンの声が落ちる。
「右、下」
反射。足を払うと同時に身を沈め、男の踵がわたしの肩の上を空振りする。リオンの刃がその足の出所を打ち、男は半歩遅れて崩れた。あと一人。前に構え、引かない目。術者。捕縛の術式を片手で組む。輪が開く。その輪はさっきよりも大きい。屋敷で感じた、大規模結界の骨組みの言語が、そこへ乗る。
「させない」
わたしの声と、リオンの足が同時に出た。輪の縁へ、刃と掌。刃は線を断ち、掌は印の結び目をほどく。印をほどく指は、体が覚えている。誰に教わったのか、今は考えない。輪は破れ、術者の目が一度だけ狼狽を晒す。そこへ、リオンの柄が入る。静かな音で、終わる。
風が、強くなった。遠い稲光が、雲の腹を白くする。追手は、しばらく来ない。来ない間に、決めるべきことがある。リオンは剣を布で一度だけ拭き、鞘に納め、息を整えた。息の合間に、わたしを見た。目は深い。深さの手前に、決意が乗っている。
「――セラは、地下聖堂にいる可能性が高い」
唐突なようで、ずっと考えていたことをやっと発した声だった。彼は続ける。
「儀式の条件が揃う場所が限られる。大規模結界の骨組みは街全体に散っているが、中心は“空洞”じゃないと保たない。王都の地下にある古い聖堂群――そのうち、北側の廃区画が今、一番条件に合う。水脈が近く、祭壇跡が四つ、碑文の欠け方が術式の配列と一致する。昼に医師と地図を合わせた。……やつの手紙が窓から入った風の向きも、そこからだ」
「どうして今、そこ」
「嵐が来る。嵐は魔術の裾を持ち上げる。風と水圧が、儀式の“音”を隠す。やつは“今夜”を選ぶ」
言葉は刃より鋭い。現実を切って、道を作る。わたしは頷き、喉に溜まった甘さの残りを飲み下す。地下聖堂――湿った石、冷たい香、古い讃歌の抜け殻。夢で何度も行ったことがあるような、現実で一度も立ったことのない場所。
「行こう」
即答した自分に驚きはなかった。身体が先に決めていたのだ。リオンの目がわずかに柔らぎ、すぐに鋼の色を取り戻す。
「危険だ」
「知ってる」
「お前を狙っている」
「いい。――わたしは、あなたを信じる」
わたしが言うと、彼は目を細め、ほんの一拍、息を止めた。止めた息を、低く吐く。雷の音が遠くで丸く鳴る。
「……俺も、信じる」
「何を」
「お前の“嫌じゃない”を」
言葉が胸に入って、内側から灯りを点ける。嫌じゃない。守られるのも、隣に立つのも、選ぶのも。嫌じゃない。それどころか、望む。嵐が来る夜に、二人で行く。甘さと刃のどちらにも溺れないために。
小道を抜ける手前、最後の影が手を伸ばした。掴む手ではない。差し出す手。掌には、小さな紙片。風に揺れる。香油はない。墨だけだ。リオンは紙片を斜めに払って落とし、踏んだ。文字を見る必要はない。言葉には起きる力がある。今は、起こさないほうがいい。
「……リオン」
「なんだ」
「怖い。でも、わたし、行くよ」
「俺がいる」
「夜中でも?」
「夜中でも」
くり返しは、合図。合図は、儀式。儀式は、呪いの反対。わたしたちは走り出す。嵐の前の風が背中を押し、街の灯りが背後でほどけ、王都の地下へ降りる入口へ、道が細く集まっていく。
地下への扉は、昔の教会の廃礼拝堂に隠れている。石碑の陰、苔の匂い、鉄の味。鍵は、三つ。物理が一つ、言葉が一つ、血が一つ。物理は、リオンが開ける。言葉は、わたしが開ける。血は、どちらかが責任を持つ。嵐の始まりの風が、扉の隙間から冷たく息を吐く。
「行こう」
「行く」
扉が、沈んだ音を立てた。世界は上と下に分かれ、甘さは風に散り、刃は鞘の中で冷たく息を潜める。わたしたちは、降りる。セラのいるはずの場所へ。わたしの記憶が奪われ、彼の誓いが歪められ、甘さが毒に練られた場所へ。
怖い。――でも、隣にいるこの男の強さを、今、愛しいと思う。血飛沫の中で迷いなく刃を振るう強さを、愛しいと思ってしまった。愛は、言葉にする前に、足音の形で響き合う。地下の階段は深い。階段を降りるたび、わたしの中の甘さが剥がれ落ち、塩の味が舌の奥に戻ってくる。
「俺は何度でも守る。お前が嫌でも」
さっきの言葉が、胸の奥で反芻される。嫌じゃない、と返した自分の声も一緒に流れ、二つの声は重ならず、しかし並んで進む。嵐は近い。地下聖堂は、もっと近い。扉の先で待つものに、わたしたちは二人で向かう。わたしは指輪を握り、誓いの棘の痛みを確かめ、前を見た。
――行く。
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放置された結果、彼は初めて自分の判断と向き合うことになる。
そして――
一度崩れかけた侯爵家は、「選び直す力」を手に入れた。
無理な拡張はしない。
甘い条件には飛びつかない。
不利な契約は、きっぱり拒絶する。
やがてその姿勢は王宮にも波及し、
高利契約に歪められた制度そのものを立て直すことに――。
ざまあは派手ではない。
けれど確実。
焦らせた者も、慢心した者も、
気づけば“選ばれない側”になっている。
これは、干渉しない約束から始まる静かな逆転劇。
そして、白い結婚を終え、信頼で立つ家へと変わっていく物語。
隣に立つという選択こそが、最大のざまあでした。
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