記憶を失った花嫁は夫だと言う男に溺愛されるが結婚契約書に書いてある名前は別の男でした

タマ マコト

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14話「禁忌の祭壇、真実の刃」

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 地下へ降りる階段は、数えるのを諦めるほど続いた。石は湿り、苔は古い傷口のように縁に張り付いている。灯りはリオンの手のランタンひとつ。揺れる炎が、壁の古い聖句を断片だけ浮かび上がらせ、残りを闇へ戻す。呼吸の音が天井に当たり、低く返ってくる。遠くで水が滴る――地下聖堂の心臓音みたいに、一定だ。

 やがて回廊は広がり、天井が突然、高く開けた。石のドーム。剥がれたフレスコ画。崩れた座席。中央に沈んだ円形の床は、古い儀式のための窪みで、そこに十字架の影が斜めに落ちている。風はないのに、冷気が肩に触れる。誰もいない。セラの香油の匂いはしない。蜂蜜の幻もない。ただ、石の匂いと古い祈りの残り滓。

 リオンは耳で空気を量り、剣を半ば抜いて、刃の腹で反射を確かめてから、鞘へ戻した。戦う準備ではなく、話す準備の手つきだった。彼は祭壇の縁に片手を置き、私を見た。目は深く、奥で刺のような光が静かに佇んでいる。

「……やつは、まだ来ない」

「呼び寄せるつもり?」

「来る。ここで。だから、その前に――全部、話す」

 全部。言い終えるのに必要な時間を、彼は一度、喉で測る。測り直さない。目を逸らさない。地下の冷たさが、言葉の熱で少しずつ薄まっていく気配。

「立ち向かうからには、逃げ場を作らない。お前が知らないまま刃を向けるのは、俺のやり方じゃない」

「うん」

「……お前の血族は、古来より指輪で魔法を扱う一族だ」

 最初の一文は、氷の上に釘を打つみたいに、くっきりと落ちた。指輪――私は無意識に左手を握る。銀は、ここでも冷たい。

「指輪は“器”だ。持つ者の血と名と誓いを受けて、魔を形にする。指輪の材、彫り、内側の古文、どれもが“路”だ。――そして、その“高貴さ”によって、扱える魔の強さが決まる。鉛ではなく銀、銀ではなく星鉄、刻まれるのが流行り言葉ではなく祖の名前。そういう積み重ねが、お前の一族の“王道”だった」

「……高貴さで、強さが決まる」

「そうだ」

 語尾は短い。断言は、言い訳を通さない。

「中でも、ひとつだけ別格の指輪がある」

 彼の視線が、私の左手へ降りる。指輪は、冷たく息を潜めている。

「一生に一度しか唱えられない――“結婚指輪”の詠唱だ」

 胸が、内側から少しだけ壊れた。あの夜、喉の壁に掘り始めた古い道が、ここでもぞりと動く。リオンの声は、その動きを真正面から押さえにくる。

「結婚指輪の詠唱は“願望器”になる。正しく刻まれ、正しく結ばれ、正しく交わされた誓いの上で、ただ一度だけ、あらゆる願いを叶える。病、国、血、時――どれも、例外じゃない。代償は大きい。だが、できる」

 あらゆる。言葉は軽いのに、意味は重い。床の石の下で水脈が身じろぎするのが聞こえる気がした。私は息を吸い、指輪に親指を当てる。内側の古い文字は、今日も読めない。でも、読める気がする。怖い。読むことそのものが、自分を扉にしてしまいそうで。

「だから、狙われた」

 リオンの声が、そこで低くなる。彼は祭壇から手を離し、距離を詰めないまま、言葉を近づけてくる。

「最初に、奴がお前と恋仲になって結婚すると聞いたとき、俺は祝福するつもりでいた」

 祝福。――そうだ。昔の自分の顔が、脳裏に浮かぶ。湖畔、窓辺、笑い声。私と彼のあいだに黒鉄の影があり、その影は“友”の形をしていた。友は祝福を口にして、少し離れた場所に立つ役目を心得ていた。

「だが、セラ・アマランサス。お前の婚約者は、最初から、結婚指輪の魔法で“不老不死”を手に入れるためにお前に近づいた」

 言葉は、刃だ。真ん中で体温を二度落とす。風がないのに、髪が微かに揺れたような錯覚。耳の奥で、僕の声が反射で囁こうとして、地下の冷気に喉を塞がれる。

「“永遠”は、美しい言葉だ。だが、やつの永遠は、お前の“唯一”を踏み台にして成り立つ。お前の一生に一度を、やつは飲み込む。やつは、自分の命を、他人の愛で養う算段を最初からしていた」

「――」

「俺はそれを知った。だから――奪った」

 奪った。二文字は短いのに、ここまで来るのに彼は何年もかけたのだと、言葉の重さが教える。リオンは目を逸らさない。唇は硬い。喉の筋が薄く張る。

「儀式の夜。俺は火の前に入り、お前を抱えて、連れ出した。誓いの言葉が始まる前に。……そして、“記憶喪失になる魔法”を、お前にかけさせた」

 かけ“た”のではなく、かけ“させた”。自分の手で私の記憶を奪っていない――それが免罪符になるわけじゃないことを、彼は知っている顔だった。

「お前の指輪は“器”だ。お前自身が、詠唱を、形にしなければならない。俺は道を示し、起点を置き、結び目を用意した。だが、最後に紐を引いたのは――お前だ」

 喉の奥が滑る。あの夜、夢で見た火と花弁。剣の影。甘い声。蜂蜜の膜。黒衣の影。私の舌が、知らない言葉を覚えていた理由。私の指が封印を解けた理由。体が古い仕草を知っていた理由。ぜんぶが一本に繋がる。繋がった途端、胸の真ん中が、危うい光で満ちた。

「忘れないようにするために、忘れた。――皮肉だ」

 リオンが、笑っていない口調で言う。あまりにもまっすぐ過ぎて、泣きたくなる。

「奪ったのね」

 気づいたら、口が先に言っていた。声は震えていなかった。震える余地が、ないほど、言葉が重かった。

「でも……生かしてくれたのも、あなた」

 その瞬間、リオンの喉が、目に見えるくらい詰まった。息が一拍、止まる。止まった息が再生するまでの時間が、地下聖堂の天井いっぱいに広がる。唇が震え、噛む。噛んだ跡が白く残り、すぐ赤へ戻る。

「俺は――」

 言い掛けて、彼は言葉を失う。喉の奥で、生の音だけがうろたえる。硬い男の声帯が、不器用に柔らかい音を探す様子を、私は見てしまう。彼の肩は、戦場の鉄を何度も受けた形をしている。今、そこへ降っているのは、刃じゃない。赦しの気配だ。赦しを受け止める筋肉は、剣の筋肉よりもずっと、つけにくい。

「俺は、お前を……」

 語尾が、続かない。彼は額をほんのわずか、指先で押さえ、乱暴でも慎重でもない方法で呼吸を整える。地下の空気が、彼の肺を満たし、少しだけ戻る。

「許されると思ってない」

「許してないとも言ってない」

 即答すると、彼は目を上げた。目は深い。深さの先に、割れた光が見える。割れ目から水が溢れないように、彼は唇で堰を作っている。

「……俺は、俺を許さない。だが、選んだ。お前の“一度”を殺すやつを許さないことを」

「だから、奪った」

「ああ」

「だから、忘れさせた」

「ああ」

「だから、ここにいる」

「ああ」

 短い往復の端に、救いがひとしずく落ちた。救いは、何かを元に戻す力じゃない。ただ、今いちど立って向きを決める勇気の伸び代だ。私は指輪に触れ、内側の古い文字の輪郭を指先で撫でる。詠唱は、喉の裏で小さく丸まり、動かない。リオンの言葉がそれを押さえている。彼が押さえるのは、壊すためじゃない。守るためだ。

「……セラは、“永遠”しか見ていない。時間の長さだけを信仰している。だが、俺は長さより“足りる”を選ぶ。だから、ここで終わらせる。お前の“一度”を、お前が選ぶ形に戻す」

「戻せる?」

「戻す。――戻せるように、刃を運んできた」

 運んできた、という言い方が好きだと思った。戦うのではなく、運ぶ。自分の重さを自分で受けて歩くことを、彼はいつも選ぶ。だから、重いのに軽やかだ。

「リオン」

「なんだ」

「怖い。でも、あなたの“全部話す”を、信じる」

 彼は一つ頷いた。頷きは短く、しかし深い。地下聖堂の空気が、少しだけ温度を持つ。彼は続けようとした。セラの本性を。私の血族の歴史を。指輪の禁忌を。結婚指輪の詠唱に仕込まれた“選択”の意味を。――そのときだった。

 祭壇の十字架の影が、わずかに揺れた。風はない。炎もない。なのに、影だけが、薄く、揺れた。揺れた場所から、香油の匂いがひとさじ分、しみ出す。柑橘と野の花。遠い木蔭。私の舌の奥で、蜂蜜の記憶が危うく光る。

 影がほどける。黒ではなく、白。十字架の背から、一歩、滑り出るように、彼は現れた。衣は夜を吸い込んだみたいな深い色。指は長い。目は笑っている。喉の奥で笑う癖。傍に居た時間の長さに比例する親しさで、すべての輪郭が私の内側に刻まれている。

「――戻ろう、アイリス。怖くないよ。君は僕の花嫁だ」

 たった一言で、地下の冷気が甘さへと化けた。願いと毒の境界が、また薄くなる。リオンの手が、剣の柄ではなく、私の手首へ向かって伸びた。私の指輪は冷たい。唇は乾く。喉の奥で、誓いの棘が鋭く疼き――夜の底が、次の鼓動を待った。
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