記憶を失った花嫁は夫だと言う男に溺愛されるが結婚契約書に書いてある名前は別の男でした

タマ マコト

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17話「キメラの冷笑、黒鉄の崩壊」

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 禁忌は、匂いから始まった。焼けた蜜のような、甘さに焦げの膜を張った匂い。次に音――骨が自分の位置を忘れて組み替わる、湿った拍動。最後に、光。血と花弁の粉末が、地下聖堂の空気に溶けて発光し、古いフレスコの天使たちの金箔をひっくり返す。

 セラの“キメラ変化”は、合図も祈りもいらなかった。肉体と魂の境目が、彼の中で音もなく剥離し、すぐさま融着する。神の羽音と、魔の呼気が同時に胸郭で鳴り、肩甲骨からは黄金と黒の羽がいびつに生え、肋骨の間を縫うように蔓が走る。花弁が皮膚から剥がれて宙を漂い、次の瞬間には鱗として戻ってくる。彼は人であることをやめて、なお人の笑い方をした。

 聖堂の壁が最初に音を上げたのは、彼の背の羽根が天井のドームを擦ったときだ。古い漆喰が粉を吐き、ひびが放射状に走る。十字架の影がゆらぎ、床の血文字が呼応して光り、封印の輪が低く唸る。柱の一本が「嫌だ」と言うみたいにきしみ、石の継ぎ目に長年の祈りが砂となってこぼれた。

 リオンは前へ出る。剣先は、最短距離だけを選ぶ直線。彼の足は石の目を読む――滑る目、踏める目、割れる目。最初の斬撃は、羽根の基部へ。刃が入ると同時に、鱗がそこへ生えた。第二撃は蔓の節へ。叩き切る前に蔓が自壊して、別の方向から再生した。第三撃、第四撃。斬ることの定義が、敵の体側で書き換えられていく。

 セラの肉体は、彼の欲望の速度で再生する。切断面が花弁の裏で絡みつき、断たれた蔓は床から吸った血で太くなり、折れた翼脈は黒と金の光で溶接される。切断の音が終わる前に、再生の音が始まる。リオンの刃は、追いつけないのではない。追いついても、結果が追い越していく。

 壁が二度目に悲鳴を上げる。キメラの尾――蔓と骨の複合体が柱の頭を薙ぎ、聖堂の北側アーチが半身で崩落する。石塊が床へ落ち、血文字の輪をかき乱し、赤い光を散らして跳ねる。埃が舞い、喉が焼ける。天蓋の縁に走った亀裂の一つが、そのまま闇へ開こうとする。

 リオンは崩落を背に受けず、風だけを味方にする。瓦礫の間合いを測り、下がらず、前へ。足首に蔓が絡む。刃の腹で叩き落とす。次の蔓は、叩いた反動で生まれた空隙から伸びる。甲を掠める。皮膚が裂け、血が靴へ落ちる。舌の奥に鉄の味が上がるが、彼は構わない。踏み込み、突き、払う。剣筋は相変わらず美しい。その美しさが、今は痛い。

「君は、本当に丁寧だね」

 セラの声は、羽根の根元から涼しく響く。「斬って、叩いて、壊して――でも、全部“人間”に通じる作法だ」

「お前は、人間の作法を裏切った」

「僕は、完成させた」

 翼が広がる。聖堂の空気が圧で押し出され、祭壇上の蝋燭が同時に消える。暗さではなく、密度が増す。リオンの肩に、見えない重みが乗る。床の血文字が、彼の体重を計るように鈍く光った。

 セラの前肢――形容に困るそれは、花弁と鱗に覆われた獣爪で、先端に白い骨の刃を持っている。刃が一閃。リオンは最短で躱し、腕で流し、同時に剣を返す。返した刃は、鱗ではなく“花弁”の部分へ。柔らかい。貫ける。だが、貫いた先から黒い蔓が咲き、刃を絡め取ろうとする。リオンは刀身を捻り、蔓の“草目”を読む。叩きつける。絡みが解ける。だが、時間は取られる。

 崩壊は、戦いのリズムに合って進む。壁が一枚剥がれ、床の端が沈んで、聖堂の西側の小礼拝室が天井ごと落ちる。音が遅れてやってきて、胸骨に響く。天井画の天使の羽が砕けて粉になり、彼らの持っていた金の輪が石の上で転がる。転がる輪が、血文字の鎖に触れて赤く染まる。私は息を詰める。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く――数は乱れ、数字が指の間からこぼれた。

 リオンは何度も立ち上がった。そのたびに、黒衣が埃と血で重くなる。額に汗は出ない。出る前に、血がまさって皮膚を冷やすから。背に回り込み、羽根の付け根を断ち、蔓の根を踏み潰し、鱗の継ぎ目を狙う。理は合っている。理が、勝敗の条件ではないと知るのに、十分すぎる時間が流れた。

「黒鉄の君」

 セラの瞳が、冷たい星のように光る。「もっと、壊れよう」

 キメラの尾が伸び、床から伸びた蔓が同時に逆巻く。二方向からの拘束。リオンは尾の軌道を半歩で外し、蔓の根を踏む。踏んだ足元の石が割れ、踏んだはずの根が別の場所で出芽する。その出芽が、彼のふくらはぎを打つ。膝が半歩落ちる。落ちる前に、彼は落下の方向を選んで、体を捻る。捻った先へ、セラの骨刃が降りる。剣で受ける。刃と骨が嚙み合う音――高い、乾いた、嫌な音。次の瞬間、骨刃の重みの中で、リオンの剣身が、低く歌った。

 ぴしり、と鳴って、細い亀裂が走る。殴られ続けた鐘がある日突然、音程を変える時の音だ。リオンは目を細め、刃を引く。引きながら、もう一度、突き。鱗の継ぎ目。通る。通った瞬間、セラの体内で何かが笑うような音が響き、傷口が花弁で覆われる。その花弁はただちに鱗へ戻り、爪がそこから伸びた。

「君は、綺麗だ」

 セラの声。彼の前肢が、今度は横合いから来る。リオンは受けずに沈み、逆手に持ち替えた刃を閃かせ――そして、止まった。止まったのは刃ではなく、刃の先に残っていたわずかな“人間のための間合い”。そこへ、キメラの身体が牙のように躍り、腹を狙う刺突が来る。彼は半歩で角度を削ぎ、致命から一段だけ外す。だが、避けきれないものもある。

 骨刃が黒衣を裂き、皮膚を裂き、筋を裂き、腹を穿つ。空気が、体から抜ける音がした。

 剣が、そこで折れた。骨刃と噛み合った継ぎ目から、金属が悲鳴して、刃の半分が床へ滑った。残った半身は柄と一緒に、リオンの手の中でまだ戦う意思を持っている。彼はそれを離さない。離さないけれど、血が離れていく。温度が、指から落ちる。

「君の“守る”は、美しいけど脆いね」

 セラの声は優しかった。優しい声で、彼はもう一度、同じ傷を浅くなぞる。痛みの線を、二重に描く。リオンは呻かない。息を、整えようとする。整わない。整える前に、血が呼吸のかわりに胸腔を満たそうとする。

 そして、彼はそれでも立ち上がった。床の血を踏み、壁の影に背をつけず、ただ前――祭壇の前、私とセラの間だけを見る。折れた刃を構え直し、呼吸に刃を合わせる。刃は短く、息は長い。長さが噛み合わないまま、彼は前へ。

 セラは、彼を殺さない。殺す技術があるのに、殺さない。骨刃は致命を避け、筋だけを切り、関節だけを打ち、痛みだけを重ねる。何度も。何度も。彼の足の軸を奪い、回復する前に別の場所から崩し、立ち上がる意思を測る。折らない。折れないと知っているから、折れないまま、砕こうとする。

 短い時間が、永遠に伸びた。

 私は叫んでいた。喉が裂けるほどではない。裂けないように、叫んでいた。

「やめて、お願い、もうやめて!」

 答えは、笑いだった。甘い。冷たい。昔、紅茶に落とした蜂蜜の糸が、今は鉛に変わっている音で。

「君は僕の“願望器”。今こそ“永遠”を叶えよう」

 鎖が、床から立ち上がった。血文字の輪から延びる赤い線が、空気の中で金属になり、私の足首へ、手首へ、腰へ巻きつく。温度は冷たく、匂いは鉄。けれど、その結び目に香油の薄い匂いが混ざっているせいで、体が一瞬、昔の窓辺を錯覚する。指輪が淡く脈打つ。内側の古い文字が、ひとつだけ浮かんだ気がして、消える。皮膚の下を熱が走り、血が指先へ集まり、爪の根元から溢れた。鎖は、血を飲む。

 リオンが倒れる。音は小さい。体は大きいのに、小さく倒れる。床の血が彼の黒衣を吸い上げ、色を変える。彼は手を伸ばす。伸ばした手は、私へ向かう。鎖の一枚が、彼の指先と私の指先の間に一本だけ降りて、空気を切る。

「……行くな……アイリス……」

 空気が、彼の声の重さに耐えかねて震えた。私は首を振る。鎖が首筋に食い込み、動きが数字になる。一、二。痛みが息を数える。涙が出ない。出る前に、熱が鎖の冷たさで硬くなる。

 セラの蔓が、私の踝を引いた。床を滑る。祭壇の階段に膝を打つ。痛みは小さい。小さいのに、指輪の脈が一度、大きく跳ねた。引きずられる。香油の匂いが近づく。彼の影が、十字架の影と重なって、ひとつの形になる。

 完全に崩れた天井から、風が落ちてきた。雲が割れ、月があった。月の光は、地下を知らない顔で降りてきて、聖堂の粉塵を銀にする。私とセラの上に真っ直ぐ落ち、リオンの頬の血を白く見せる。神が見下ろしているみたいであった。次の瞬間には、鎖が私の胸の前で結び目を作り、引き締まる。

 息が、止まった。
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