記憶を失った花嫁は夫だと言う男に溺愛されるが結婚契約書に書いてある名前は別の男でした

タマ マコト

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18話「指輪の詠唱、願いの胎動」

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 瓦礫が花嫁衣装に見える角度が、たしかにある。粉塵が白いベールのように降り、崩れた柱の断面が花綴りのアーチに化ける。セラは掌をひと振り、血の赤と花弁の紅を媒介に、石を“整えた”。禁忌の光が石灰に沁み、ひしゃげた長椅子は真っ直ぐに、ひび割れたステンドは金と黒の羽で埋められる。地下聖堂は、歪んだ祝祭へと改装されていく。

「さあ、やり直そう。奪われた“誓い”を」

 セラは丁寧だった。手順をひとつ、ひとつ、口に出して確認する。指先が動くたび、瓦礫は礼装の所作を覚える。

「第一に――参列者。沈黙と影を、招待する。彼らは騒がず、邪魔をしない。完璧な聴衆だ」

 崩れた柱の陰で、黒い影が人の形に並んだ。顔も指もない影たちが、同時に席へ腰かける。空洞が拍手の擬音を持ち、静謐が祝福の気配を真似る。

「第二に――祭壇。神を模した高さを用意する。僕の“永遠”が、上から差すように」

 祭壇の段がひとつ増え、十字架の影がそこに溶接される。光は歪んで、月の筋が花嫁のための道に敷き直された。

「第三に――花。アマランサス。永遠を意味する薄紅。君の名を染め直す」

 床から蔓が伸び、散った花弁が再配置される。赤は濃く、息を吸うたび喉をくすぐる。指輪が指の内側で微かに脈を打つ。鎖はまだ体を縛り、手首に冷たい跡を刻む。

「第四に――仲人。誓いの言葉に権威を与える“証人”。ああ、ふさわしい人がいるね」

 セラの蔓が地を這い、黒衣の男を引き上げた。リオンだ。血の匂いがつよく、黒衣は赤と埃で重い。蔓が脇の下と肩を縛り、立たせる。まるで人形のように――いや、違う。足は、自分の意思で踏ん張ろうとしていた。崩れそうな意識の端で、彼はまだ前を見ている。

「第五に――指輪。君の一族の“願望器”。詠唱を宿す器を、ここに」

 セラの視線が私の左手を撫でる。私は本能で手を握り込む。冷たい銀。内側に沈んだ古文。読めないのに、舌は覚えている。忘れるために、覚えている。

「第六に――誓いの言葉。順番どおりに。間違えずに。甘く」

 セラは私の前に立ち、顔の高さを合わせる。瞳は笑っている。笑っているのに、底がない。香油が薄く香り、蜂蜜の記憶が舌の奥で危うく光る。私は呼吸を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。数える間にも、蔓が腰を固定し、足の位置を整える。逃げるための筋肉に、祝祭の形が嵌められていく。

「第七に――誓いの接吻。ここから先は、君の“祈り”の出番だ」

 セラが近づく。キメラの半身――鱗と花弁と羽の影が私の頬に映える。指先は温かい。温かさは言葉より早い。逃げ場のない温度。リオンが、蔦の縛りの中で身を捩る。膝が崩れかけ、それでも戻る。顔が上がる。目が私を捉える。血と痛みの底から、静かな光が浮く。

 “願いは、お前が選ぶ形で叶えろ”

 喉の奥で、誰かが明かりを灯した。小さな灯り。でも、確かな灯り。私は涙の中で、指輪に触れた。冷たい銀に、体温が移る。指腹に鉛のような刻み。古い結び目が、触れた指ごと脈を打つ。

「さあ、僕と永遠になろう」

 セラのキメラの手が伸びる。鱗の上を花弁が滑り、爪先に光が滲む。接吻の距離。香油の甘さ。鎖の冷たさ。祭壇の高さ。影の参列。私の名を呼ぶ声。
――封印――
すべてが、私に“選ばせない”ように組み上げられている。

 だから、選ぶ。

 唇が震えた。怖さで、ではない。言葉で。古代の語が喉の壁を撫で、舌の付け根を押し、息の形に求婚する。かつて私が封じた“結婚指輪の詠唱”。願望器のための一度きりの歌。空気が逆流し、胸の前に光の輪が編まれる。

「――〈エル・イア・スィル〉」

 最初の音節で、封印が軋む。血の鎖が熱を持ち、私の皮膚が拒む。拒むのに、歌の方が強い。第二の音節で、光が広がる。輪は二重になり、私の体を中心に回転する。第三の音節で、空気が甘くなる。蜂蜜の記憶が呼び出される。呼び出されて、塩を振られて、形を失う。甘さは、今夜だけ、詠唱の燃料になる。

 セラの眉がわずかに寄る。「やめて。君は僕の――」

「この願いは、愛の名で」

 封印が解け、声が、震えずに出た。震えは涙に押し付ける。涙は塩。塩は甘さをほどく。

「一度きりの命を、共に歩む者へ――」

 願うのは、長さではない。隣を歩く時間。肩と肩の間に立つ空気の柱。夜中でも、と言えば返ってくる声。扉一枚向こうに立ち続ける影。黒鉄の背。私は目を逸らさず、前を見る。

「――リオンと、歩む日々を」

 光が、弾けた。輪がほころび、糸になり、糸が川になって、リオンへ流れ込む。黒衣の破れ目から、血が逆に戻っていく。切り裂かれた筋が細い光で縫われ、骨が音を立てて嵌まり直る。折れた刃の欠片が静かに震え、柄がひとつ息を吐く。床の血だまりが、彼の体へ帰る道を覚え、彼の名を呼びながら逆流する。

 彼の胸が、持ち上がった。長い間、沈んでいたものがゆっくり浮くみたいに。閉じていた瞼が震え、睫毛が粉塵を払い、目が――開く。

 セラが距離を詰めようとした。だが、詠唱の輪が彼の足元に“境界”を生む。神聖でも、禁忌でもない。誓いの線。越えることはできる。けれど、越えた瞬間に、“誓いを蹴る者”として刻まれる。セラは躊躇い、笑って、羽根で線を撫でた。甘さと毒の間で、彼にも臆病がある。

 リオンは、静かに立ち上がる。蔓の縛りは、彼の体温でほどけ、祭壇の石が彼の重みで安定を思い出す。黒衣が風を孕み、破れ目が影を引く。彼の手が、折れた刃を握り直した――瞬間、刃が光を吸う。白ではない。銀でもない。誓いの光。古文の輪郭が刀身に浮かび、折れていたはずの線がつながる。名が宿る。

 “誓約の剣(リヴァレンス)”。

 指輪の魔法が、刃に“言葉”を与えた。斬るための言葉ではない。約束のための言葉。刃は、嘘を嫌う。嘘に触れれば、熱を持つ。誓いに触れれば、静まる。

 セラの顔がわずかに歪む。「……それは、反則だよ」

「反則は、お前の専門だろ」

 リオンの声は低く、研ぎ澄まされていた。息は深い。歩幅は迷わない。彼は一歩だけ進み、私とセラの間に、はっきりと立った。私の鎖は、詠唱の余韻で弛む。体が軽くなり、息が胸を満たす。私は喉を押さえ、涙の塩を舌で確かめる。

「君は僕の花嫁だ」セラが囁く。「君は僕の――」

「違う」私が遮る。「私は、私の選んだ人の花嫁よ」

 セラの笑みが薄くなる。リオンは剣を半ばだけ上げ、刃の平に光を走らせた。刀身に刻まれた古文が、一瞬だけ読めそうで、すぐに消える。彼は視線を落としもしない。セラを見据えたまま、言う。

「お前の永遠は、誰かの“犠牲”の上に立ってる。それを愛とは呼ばない」
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