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20話「白百合の誓い、永遠の終わりに」
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崩れかけた聖堂は、息をひそめる巨獣みたいに静かだった。折れた柱、砕けた天使の羽、粉塵にまみれた赤い花弁。さっきまで世界の終わりの音が鳴っていた場所に、いまは心臓の鼓動だけが遅れて帰ってくる。石床の冷たさが膝から昇り、指先に残った鎖の痕がじわりと疼いた。
リオンが、そこにいた。血と埃で黒衣は重く、頬には乾きかけた血潮が細い線を描いている。けれど、彼は立っていた。この夜を何度も貫かれ、それでも最後に立ち上がって、こっちを見たときの目の色で。
アイリスは、駆けた。脚が勝手に覚えている距離。胸が衝突する音と同時に、腕が彼の背に回る。固い、けれど確かな温度。鉄でできた壁が、ちゃんと呼吸している。
「生きてる……」
喉の奥で砂の粒が転がるみたいな声だった。泣き声と笑い声の中間、どちらにも行けずにひっかかる場所。
「ああ」
彼は短く答え、耳許で呼気が温度を置く。
「お前が、呼んだからだ」
指輪は、もう光らない。銀の輪はただ静かに、長い夜の体温を背負って指に沈んでいる。魔力の輝きは使い切り、内側の古文は眠り、詠唱は喉から去った。代わりに、二人の手は確かに温かかった。握れば返ってくる温度。冷えた石よりも、祈りよりも、具体的な現実。
聖堂の天井は半分なく、夜明け前の空が四角に覗いている。そこから差し込む風は、もう嵐の匂いを運んでこない。粉塵がゆっくり沈み、空気は人間の高さに戻ってくる。
「出よう」
リオンが言った。声は低く、けれど柔らかい。彼の腕の中から一度離れて、アイリスは頷く。ふたりで崩れた段を降り、曲がった鉄片と割れた石を踏まないように足場を選ぶ。誓約の剣は刀身の光を薄くして、彼の背に静かに負われた。もう戦いのためではなく、たぶん、これからの誓いのために。
外に出ると、世界は別の顔をしていた。嵐は止み、雲はちぎれて、東だけがゆっくり明るむ。夜明けの光が湖に落ち、波の皺を一本ずつ金に変えていく。しずかな風が起き、肌の汗と埃を撫でながら通り過ぎる。
湖面には白百合が浮かんでいた。夜の重さの残る水に、はりつめた白。あの日の香りだ。記憶の手に優しく掬い取られる香り。甘さではなく、透明な匂い。胸の中の鍵穴にぴたりと合う音階をしている。
リオンが、微笑む。うまく笑えない日々を通り越して、やっと思い出した笑い方。硬さの端が崩れて、目の奥に浅い凪が生まれる。
「今度こそ、俺は奪わない。――一緒に、生きる」
言葉は短いのに、やたらと長い時間を包んでいた。彼が選んだ「奪う」という手段と、その後悔と、守りたいという衝動全部を、別の形に編み変えた宣言。こめかみの内側がやわらかく痛む。涙が来る前に、笑いが先に来る。おかしな順番で、でもそれが今の自分だと分かる。
指輪を見つめる。光らない銀に、朝の色が薄く映る。魔力はもう戻らない。願望器は一度きりで、たぶん、もう二度と歌わない。けれど、そこに刻まれた古文は、私の血と名を一度だけ通り抜けて、願いの形を外に出した。もう充分だと思う。
「私の一度きりの願いは、あなたと“終わること”よ」
終わること。世界は「永遠」を選ばなかった二人に、終わるという約束を与える。終わりがあるから、朝が嬉しい。終わりがあるから、手を離したくない。終わりがあるから、「また」の約束が意味を持つ。
風が吹いて、どこかからアマランサスの花弁がひとひら、湖へ滑った。薄紅が水に溶け、輪を広げる。永遠を名乗った花が、ちゃんと終わり方を知っている。そこへ白百合の香りが重なり、塩の匂いがひと匙だけ混ざる。生きている匂いだ。
「リオン」
「なんだ」
「もしまた、記憶喪失になったらどうする?」
彼は一瞬だけ目を細めて、すぐに答えた。間を空けないのは、戦場で覚えた癖だ。迷わない言葉は、刃より強いと知っているから。
「何度でも思い出させてやる」
返事の形が、胸の内側にぴったり合った。たぶん、これから先、何度も思い出す。何度も忘れかけ、何度も思い出す。白百合の朝と、黒鉄の背と、指輪の冷たさと、塩の味と。彼の「呼べ」。わたしの「呼ぶ」。夜中でも。――夜中でも。
湖畔の草に腰を下ろす。湿った土の匂いが、緊張で木化していた背骨をほぐす。リオンが隣に座り、距離を測らない距離を保つ。肩と肩の間に入り込む空気は、細い柱みたいで、それなのにとても頼りになる。彼は手袋を外して、掌を上にした。そこへ自分の手を重ねる。温度が重なる。鼓動が二拍分、ずれる。ずれはすぐに合い、合ったあとも、それぞれの速さを守る。
「なにを見てる」
「朝」
「朝は毎日、同じだ」
「同じ顔をしてくれるのが、好き」
静かな会話が、水面の光に軽く載っていく。聖堂でちぎれた言葉の断片が、ひかりの粒になって湖面に浮かんでいる気がした。拾わない。拾ったら夜が戻ってくる。朝は朝の粒で満たしたい。
「サナ、怒るかな」
「怒る。叱る。泣く。たぶん抱きつく」
「医師は?」
「説教。長い。だが最後は『ご無理はなさらず』で締める」
「また聞けるね、その定型句」
「ああ。――戻ろう。湖が目を覚ましたら」
「もう起きてる」
「じゃあ、俺たちも」
水鳥が遠くで鳴く。陽は柔らかく上がり、湖の縁の白百合が一本、光を受けてひらいた。指輪が微かに冷える。もう歌わない器に、朝だけが淡く映る。
「ねえ、リオン」
「なんだ」
「“足りる”って、どれくらいだと思う?」
「二人で食べ切れるだけ。二人で笑い切れるだけ。二人で泣き切れるだけ。――そういう、数えられるもの全部」
「数えられないものは?」
「数えようとしてる時間が、もう足りてる」
「ずるい」
「お前に教わった」
彼の言葉は、不器用なやさしさの形をしていた。不器用だから、端がきれいだ。触っても棘にならず、きちんと重さが体に残る。
立ち上がる。靴底に朝の草の水が移り、裾がうっすらと濡れる。聖堂の方を振り返らない。あそこに残してきたのは、終わり方を知らなかった愛と、夜の長すぎた夢と、やっと閉じた古い扉。きっと、いつかまた、夢に見る。でも、そのときは隣に声がある。
「呼べ」
「呼ぶ」
「すぐ行く」
儀式のように交わす。呪いの反対。朝のための習慣。二人だけの魔法。
湖面を渡る風が、白百合の香りを押してくる。アマランサスの花弁がまたひとひら、水の上で円を描いて沈んだ。永遠ではない。終わりが来る。だからこそ、愛は確かだ。終わらせないために抱きしめるのではなく、終わりまで一緒に歩くために、手を取る。
指を絡める。手をつなぐ二人の影が、朝日の中でゆっくり伸びて、重なって、ひとつに溶ける。影は水際でちぎれ、光に混ざり、名前のない色になる。
長い夜は、ここで終わる。
永遠の終わりに、白百合の誓いを。
――そして、はじまりに「おはよう」を。
「行こう、リオン」
「ああ、アイリス」
二人の声が、朝に溶けた。
リオンが、そこにいた。血と埃で黒衣は重く、頬には乾きかけた血潮が細い線を描いている。けれど、彼は立っていた。この夜を何度も貫かれ、それでも最後に立ち上がって、こっちを見たときの目の色で。
アイリスは、駆けた。脚が勝手に覚えている距離。胸が衝突する音と同時に、腕が彼の背に回る。固い、けれど確かな温度。鉄でできた壁が、ちゃんと呼吸している。
「生きてる……」
喉の奥で砂の粒が転がるみたいな声だった。泣き声と笑い声の中間、どちらにも行けずにひっかかる場所。
「ああ」
彼は短く答え、耳許で呼気が温度を置く。
「お前が、呼んだからだ」
指輪は、もう光らない。銀の輪はただ静かに、長い夜の体温を背負って指に沈んでいる。魔力の輝きは使い切り、内側の古文は眠り、詠唱は喉から去った。代わりに、二人の手は確かに温かかった。握れば返ってくる温度。冷えた石よりも、祈りよりも、具体的な現実。
聖堂の天井は半分なく、夜明け前の空が四角に覗いている。そこから差し込む風は、もう嵐の匂いを運んでこない。粉塵がゆっくり沈み、空気は人間の高さに戻ってくる。
「出よう」
リオンが言った。声は低く、けれど柔らかい。彼の腕の中から一度離れて、アイリスは頷く。ふたりで崩れた段を降り、曲がった鉄片と割れた石を踏まないように足場を選ぶ。誓約の剣は刀身の光を薄くして、彼の背に静かに負われた。もう戦いのためではなく、たぶん、これからの誓いのために。
外に出ると、世界は別の顔をしていた。嵐は止み、雲はちぎれて、東だけがゆっくり明るむ。夜明けの光が湖に落ち、波の皺を一本ずつ金に変えていく。しずかな風が起き、肌の汗と埃を撫でながら通り過ぎる。
湖面には白百合が浮かんでいた。夜の重さの残る水に、はりつめた白。あの日の香りだ。記憶の手に優しく掬い取られる香り。甘さではなく、透明な匂い。胸の中の鍵穴にぴたりと合う音階をしている。
リオンが、微笑む。うまく笑えない日々を通り越して、やっと思い出した笑い方。硬さの端が崩れて、目の奥に浅い凪が生まれる。
「今度こそ、俺は奪わない。――一緒に、生きる」
言葉は短いのに、やたらと長い時間を包んでいた。彼が選んだ「奪う」という手段と、その後悔と、守りたいという衝動全部を、別の形に編み変えた宣言。こめかみの内側がやわらかく痛む。涙が来る前に、笑いが先に来る。おかしな順番で、でもそれが今の自分だと分かる。
指輪を見つめる。光らない銀に、朝の色が薄く映る。魔力はもう戻らない。願望器は一度きりで、たぶん、もう二度と歌わない。けれど、そこに刻まれた古文は、私の血と名を一度だけ通り抜けて、願いの形を外に出した。もう充分だと思う。
「私の一度きりの願いは、あなたと“終わること”よ」
終わること。世界は「永遠」を選ばなかった二人に、終わるという約束を与える。終わりがあるから、朝が嬉しい。終わりがあるから、手を離したくない。終わりがあるから、「また」の約束が意味を持つ。
風が吹いて、どこかからアマランサスの花弁がひとひら、湖へ滑った。薄紅が水に溶け、輪を広げる。永遠を名乗った花が、ちゃんと終わり方を知っている。そこへ白百合の香りが重なり、塩の匂いがひと匙だけ混ざる。生きている匂いだ。
「リオン」
「なんだ」
「もしまた、記憶喪失になったらどうする?」
彼は一瞬だけ目を細めて、すぐに答えた。間を空けないのは、戦場で覚えた癖だ。迷わない言葉は、刃より強いと知っているから。
「何度でも思い出させてやる」
返事の形が、胸の内側にぴったり合った。たぶん、これから先、何度も思い出す。何度も忘れかけ、何度も思い出す。白百合の朝と、黒鉄の背と、指輪の冷たさと、塩の味と。彼の「呼べ」。わたしの「呼ぶ」。夜中でも。――夜中でも。
湖畔の草に腰を下ろす。湿った土の匂いが、緊張で木化していた背骨をほぐす。リオンが隣に座り、距離を測らない距離を保つ。肩と肩の間に入り込む空気は、細い柱みたいで、それなのにとても頼りになる。彼は手袋を外して、掌を上にした。そこへ自分の手を重ねる。温度が重なる。鼓動が二拍分、ずれる。ずれはすぐに合い、合ったあとも、それぞれの速さを守る。
「なにを見てる」
「朝」
「朝は毎日、同じだ」
「同じ顔をしてくれるのが、好き」
静かな会話が、水面の光に軽く載っていく。聖堂でちぎれた言葉の断片が、ひかりの粒になって湖面に浮かんでいる気がした。拾わない。拾ったら夜が戻ってくる。朝は朝の粒で満たしたい。
「サナ、怒るかな」
「怒る。叱る。泣く。たぶん抱きつく」
「医師は?」
「説教。長い。だが最後は『ご無理はなさらず』で締める」
「また聞けるね、その定型句」
「ああ。――戻ろう。湖が目を覚ましたら」
「もう起きてる」
「じゃあ、俺たちも」
水鳥が遠くで鳴く。陽は柔らかく上がり、湖の縁の白百合が一本、光を受けてひらいた。指輪が微かに冷える。もう歌わない器に、朝だけが淡く映る。
「ねえ、リオン」
「なんだ」
「“足りる”って、どれくらいだと思う?」
「二人で食べ切れるだけ。二人で笑い切れるだけ。二人で泣き切れるだけ。――そういう、数えられるもの全部」
「数えられないものは?」
「数えようとしてる時間が、もう足りてる」
「ずるい」
「お前に教わった」
彼の言葉は、不器用なやさしさの形をしていた。不器用だから、端がきれいだ。触っても棘にならず、きちんと重さが体に残る。
立ち上がる。靴底に朝の草の水が移り、裾がうっすらと濡れる。聖堂の方を振り返らない。あそこに残してきたのは、終わり方を知らなかった愛と、夜の長すぎた夢と、やっと閉じた古い扉。きっと、いつかまた、夢に見る。でも、そのときは隣に声がある。
「呼べ」
「呼ぶ」
「すぐ行く」
儀式のように交わす。呪いの反対。朝のための習慣。二人だけの魔法。
湖面を渡る風が、白百合の香りを押してくる。アマランサスの花弁がまたひとひら、水の上で円を描いて沈んだ。永遠ではない。終わりが来る。だからこそ、愛は確かだ。終わらせないために抱きしめるのではなく、終わりまで一緒に歩くために、手を取る。
指を絡める。手をつなぐ二人の影が、朝日の中でゆっくり伸びて、重なって、ひとつに溶ける。影は水際でちぎれ、光に混ざり、名前のない色になる。
長い夜は、ここで終わる。
永遠の終わりに、白百合の誓いを。
――そして、はじまりに「おはよう」を。
「行こう、リオン」
「ああ、アイリス」
二人の声が、朝に溶けた。
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