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第5話「『不吉な存在』の烙印」
しおりを挟む重たい扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
オルフェリア侯爵家の応接室。
高い天井には大きなシャンデリア。壁には祖先たちの肖像画。重厚なソファと磨かれたテーブル。
ふだん使用人が呼ばれることなんて滅多にない場所に、今日はメイドも従僕もずらりと並ばされていた。
(……何だろう)
ユナ・アークレットは、列のいちばん端でそっと息を飲む。
喉が乾いて、唾を飲み込む音さえ響きそうだった。
部屋の中央。
ソファに座っているのは、オルフェリア侯爵とその夫人。
淡いグレーの髪をきっちり撫でつけた侯爵は、いつも通り「面倒事は勘弁してくれ」と言いたげな冷えた表情をしている。
夫人は扇を手に、何かを観察するようにゆっくりと周囲を見回していた。
その横に立つのは――エレナ・オルフェリア。
今夜のドレスは深い紺色。
いつもの柔らかな微笑みはそのままだったが、唇の端に、ごく薄い緊張の線が入っている。
「……では、エレナ。お前が話したいことというのは?」
侯爵が重々しく口を開く。
視線が娘に向けられ、その場の空気がさらに固くなった。
「はい、お父様」
エレナはそっと一歩前へ出た。
両の手を胸の前で組み、今にも震え出しそうなほど、か細い声を作る。
「最近、この屋敷で……妙な不運が続いているの、お気づきでしょうか」
ざわ、と使用人たちが互いに視線を交わす。
ユナも、無意識に背筋を伸ばした。
(不運……)
割れた花瓶。落ちた食器。
風もないのに揺れたシャンデリア。
急に熱を出した下働きの少年。
ここ最近の、嫌な出来事が頭の中でくっついていく。
「花瓶が、何度も割れました。廊下の花が、気づくと床に散らばっていることが何度も。
ついこの前も、シャンデリアの鎖が外れかけて――もう少しで、お母様や私の頭上に落ちていたかもしれません」
エレナの声が、少し震える。
それは計算された震えだったが、知らない人が見れば、心底怯えているように見えるだろう。
「まあ……」
侯爵夫人が扇の陰で小さく息を呑む。
「最初は偶然だと思いました。でも……あまりに続きすぎて。
そして私は、あることに気づいたのです」
エレナの視線が、すっと動く。
まるで、ゆっくりと矢を番えるみたいに。
「それらの“妙なこと”が起きたとき、いつも近くにいた人がいる……と」
(……嫌な予感)
ユナは、胸がひゅっと縮むのを感じた。
「誰のことだ?」
侯爵の声が落ちる。
エレナは、一瞬だけ目を伏せ――そして顔を上げる。
「……ユナ・アークレットです」
空気が凍った。
誰かが小さく息を飲む音。
誰かが「やっぱり」と呟きかけて、慌てて口を押さえる気配。
全ての視線が、一斉にユナに突き刺さった。
「わ、私……?」
自分の名前が出たことに、ユナは本気で驚いていた。
声が裏返るくらい。
「エレナ。根拠は?」
侯爵の声が低く鋭くなる。
エレナは、すぐに答えを返せるよう準備していたように、淀みなく言葉を紡いだ。
「はい。例えば――最初に花瓶が倒れた日。あのとき花を替えていたのはユナでした」
ユナの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
(たしかに、私が水を替えた。でも、戻したはず……)
「二度目に花瓶が割れた日は、廊下の掃除をしていたのも、ユナです。
三度目も、その近くには必ずユナがいました。
シャンデリアの鎖がゆるんでいた日も、ユナはすぐ下のテーブルクロスを替えていたそうです」
次々と示される“事実”。
ひとつひとつを切り離せばただの偶然でも、こうして繋がると、妙な説得力を持ってしまう。
「それから――最近、急に熱を出した使用人たち。皆、少し前にユナと話していた、と言っていました」
そこまで言われて、ユナは思わず一歩前に出ていた。
「あ、あの、それは……っ」
否定しなきゃ。
言葉にしなきゃ。
「私、そんなつもりは――」
でも、“つもりは”という前置きが口から滑り出た瞬間、自分で自分の足を引っ張っているように感じた。
(“つもり”ってことは、結果的にはそうなってるかもしれないって、言ってるみたい)
喉がきゅうっと締め付けられる。
(私のせいじゃないって言い切るの、こわい)
ユナが言葉を失っている間に、エレナはさらに話を畳みかけた。
「もちろん、私だって最初は偶然だと思いました。
でも、あまりにも回数が多い。……怖くなってしまったのです。
同じメイドたちも、そう感じているみたいで」
「ええ、そうでございますわ、お嬢様」
すかさず出てきたのは、侍女頭ミレイユの声だった。
ミレイユは一歩前に出て、扇の代わりに両手を前で組む。
「旦那様、奥様。私も、最近不思議に感じておりました。
妙な事故や体調不良が起こる時、ユナの姿を見かけることが多い、と」
(ミレイユさんまで……)
ユナは目を見開く。
昨日まで優しく声をかけてくれていた人の口から、「不吉」という空気を助長する言葉が出てくる。
「それに……あの子、妙に男の方にだけ懐かれますし」
別のメイドが後ろからぼそっと言った。
「騎士団長様にも、厨房の男性にも可愛がられて。……あれだけ構われていたら、嫉妬する人が出てもおかしくないですよね」
「嫉妬?」
侯爵夫人が眉をひそめる。
「いえ、その……。あの子自身は悪気がないのかもしれませんが、男の方に懐いて、妙なトラブルを呼び込むような子が屋敷にいるのは、あまり……」
言葉を濁したまま、それでも“印象”だけが尾を引く。
「確かに、あの子の側にいると妙なことが多い、とは感じます」
「よく言えば“気にかけたくなる”、悪く言えば“油断を誘う”ようなところが……」
ぽつ、ぽつと、証言が増えていく。
誰も、「ユナが何かをした瞬間」を見たわけじゃない。
ただ――
「近くにいた」
「そのあとで、何か起こった」
それだけが、糸のように繋げられて、“ユナ=不吉”という形に編み上げられていく。
(私が……)
胸の中で、何かが崩れていく。
(私が近くにいたから、みんな体調悪くなったの?
花瓶が割れたのも、シャンデリアが落ちかけたのも……)
違う、と叫びたい。
私だって怖かった、と言いたい。
でも。
(でももし、本当にそうだったら?)
自分でも気づかないうちに、誰かに迷惑をかけていたとしたら。
自分がいるだけで、誰かが傷ついてしまうのだとしたら――
「ユナ。何か言うことは?」
侯爵の冷たい声が、頭上から落ちてくる。
ユナは顔を上げた。
たくさんの視線が、重石みたいに肩にのしかかる。
「わ、私は……」
震える声。
「そんなつもりは、なかったんです。ただ、一生懸命お仕事して……。
でも、たしかに、私が近くにいたときに、花瓶が……。あの、窓のところも、私が水を替えて……」
(違う、そうじゃない)
言っていて、自分でもおかしいと分かる。
今の言葉は、「やっていない」のではなく「やってしまったかもしれない」と認める方向へ転がっていく。
「じゃあ、認めるのね?」
エレナの静かな声。
「あなたの周りで、妙なことが続いているって」
「それは……っ」
ユナは口を開き、閉じた。
頭では、「違います」と言うべきだと分かっている。
でも、喉の奥で言葉が固まって、出てこない。
(みんながそう言うなら、本当に私のせいなのかもしれない)
その考えが、最後の一歩を踏み出す足を縛りつける。
「旦那様」
誰かが声を上げかけて――飲み込んだ。
クラリスだった。
彼女は一瞬、ユナの方を見た。
助けたい。でも、今この場で主の娘に逆らうことの重さも分かっている。
「……ユナ」
侯爵夫人が、少しだけ気の毒そうな顔をした。
「あなたは真面目に働いていたわ。私は、それはちゃんと見ていたつもりよ」
「奥様……」
ほんの一言で、涙が滲みそうになる。
けれど、その次に続いた言葉は――冷たかった。
「でもね、屋敷に“不吉な噂”が立つのは困るの。貴族って、そういうものに敏感でしょう?」
侯爵夫人が夫の方を見る。
「そうだな」
侯爵は、面倒そうに額を押さえた。
「正直なところ、真偽なんてどうでもいい。
“不吉なメイドがいる”なんて噂が外に漏れれば、それだけで面倒だ」
その言い方が、ユナの胸を深く抉った。
(真偽なんて、どうでもいい……)
自分がどう思われるかよりも、屋敷の評判。
ユナがどれだけ必死に働いてきたかなんて、この人にとっては取るに足らないことだったのだと、今さら思い知る。
「エレナ」
「はい、お父様」
「お前が不安に思うなら、それも問題だ。……この屋敷の跡取りが、落ち着いて暮らせないのは論外だからな」
侯爵は、飽きたようにため息をついた。
「結論を出そう。――ユナ・アークレット」
名前を呼ばれ、ユナはびくっと肩を揺らした。
「はい……」
「お前には、この屋敷から出て行ってもらう」
時間が、一瞬止まったように感じた。
心臓の鼓動だけが、やけにくっきり聞こえる。
(……追い出される)
それが意味していることは、すぐに理解できた。
住む場所を失うこと。
仕事を失うこと。
この先の保証が、何一つなくなること。
でも――
「……はい」
ユナの口から出たのは、それだけだった。
喉の奥から、他の言葉を引っ張り出せなかった。
(だって、もし私のせいなら。ここにいたら、もっとみんなに迷惑をかけるかもしれない)
それだけは、嫌だった。
「決まりだな」
侯爵はもう、興味を失ったように視線を逸らす。
「給金は……そうだな。今月分の半分だけ渡しておけ。ここまでの分は払っているだろう」
(半分……)
それでどれだけもつのだろう。
計算しようとして、頭が真っ白になってやめた。
「荷物をまとめなさい。……今夜のうちに出て行ってもらう。屋敷の平穏のためだ」
“屋敷の平穏”。
その言葉の中に、ユナの居場所は含まれていなかった。
◆
部屋に戻ると、昨日とほとんど変わらない空間がそこにあった。
違うのは、今日でここを“自分の部屋”と呼べなくなる、ということだけ。
「……もう、出ていくんだ」
呟いてみても、実感は薄かった。
夢の中で誰かが勝手に喋っているみたいだ。
荷物といっても、大したものはない。
支給された制服。替えのエプロン。
小さな布袋に入れた針と糸。
クラリスにもらったお守りの布。
棚の引き出しを開けても、ほとんど空っぽだ。
あの日、“不要なもの”はもう処分されてしまっていたから。
それが、今は逆に良かった。
持っていけるものが少ない分、迷わなくていい。
最後に、ポケットの中に指を入れる。
指先に触れたのは、くしゃくしゃの感触。
「……いた」
小さな青いリボン。
ミレイユに片付けられそうになったとき、咄嗟にポケットへ突っ込んでおいたもの。
それだけは、守りたかった。
ユナはそれをそっと布袋の中にしまい、きゅっと口を結んだ。
「お世話になりました」
誰もいない部屋に向かって頭を下げる。
床も壁も天井も、返事なんてくれない。
でも、ここで過ごした時間はたしかにあった。
泣きそうな夜も、笑った朝も、全部この狭い空間の中に。
それに、背中を向ける。
◆
屋敷の門を出たとき、空はすでに暗くなりかけていた。
重い雲が垂れ込めている。
風は湿っていて、今にも泣き出しそうな空気を運んでくる。
「……降りそう」
ユナが小さく呟いた瞬間。
ぽつ。
頬に、冷たいものが落ちた。
もう一粒。
もう一粒。
あっという間に、細かな雨が、世界を灰色に塗り替えていく。
門番が一瞬同情するような目を向けたが、何も言わなかった。
それも当然だ。
“追い出されたメイド”に、下手に優しくするわけにはいかない。
「ありがとうございました」
一応、頭を下げてから、ユナは屋敷に背を向けた。
石畳の道を、一歩ずつ歩き出す。
足元はぬかるみ始めていて、靴の中までじわじわ冷たさが染み込んできた。
(これから、どうしよう)
孤児院に戻るか?
でも、もう大人だ。自分で稼げるはずなのに、「また置いてください」と言うのは、なんだか情けない。
他の屋敷でメイドとして働く?
でも、前の屋敷を追い出された理由を聞かれたら、なんと答えればいいのだろう。
(……“不吉だから追い出されました”なんて言ったら、絶対雇ってもらえない)
笑い話みたいな理由。
でも、笑えない。
雨はどんどん強くなっていく。
髪は肌に貼りつき、制服もじわじわと重くなる。
街灯はぽつぽつと灯り始めていたが、その光も雨のカーテンに霞んで見えた。
「ごめんなさい……」
誰に向けてでもなく、言葉が零れる。
侯爵夫妻に。
エレナに。
ミレイユや他のメイドに。
クラリスや、厨房のみんなに。
(私、そんなにいけなかったのかな)
何度も自分に問いかける。
返事は、当然返ってこない。
代わりに返ってくるのは、雨粒が頬を叩く冷たさだけ。
足はもう、だいぶ重かった。
朝から働き通しで、ろくに食事も喉を通らなかったせいで、体力が底をつきかけている。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
(どこか……雨風をしのげる場所)
門を離れ、街の端を抜け、やがて石畳は土の道に変わる。
街灯の数も減り、周囲はだんだん暗くなっていった。
遠くに、黒く伸びる影。
森だ。
王都の外れにある小さな森。
子どもの頃、孤児院の友達と「絶対近づいちゃダメだよ」と言われていた場所。
でも今は――
(屋根があるだけで、ありがたい)
木々の枝が、雨を少しは遮ってくれるかもしれない。
そう思って、足を向けかけて――
膝が、がくんと折れた。
「っ……」
地面に手をつく。
泥が手のひらにぬるりと張りつく。
もう立ち上がれそうにない。
呼吸が苦しい。
胸は痛い。
喉は焼けるみたいに乾いているのに、口には雨水しか入らない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
なぜか、その言葉しか出てこなかった。
「そんなに……いけなかったかな。私……」
かすれた声が、雨に紛れて消えていく。
誰もいない夜道。
聞いている人なんていないはずなのに、懺悔みたいに言葉が溢れる。
「怒られないようにって……頑張ったつもりだったのに。
迷惑かけないようにって、気をつけてたつもりだったのに。
でも、全部間違ってたのかな。全部……全部、私のせいだったのかな――」
視界がぼやける。
雨のせいか、涙のせいか、もう分からない。
そのときだった。
ごろ、と遠くで低い音がした。
雷かと思った。
でも違う。
次の瞬間――
頭上の雲が、ぱきん、と割れた。
暗い雲の隙間から、ありえないほど柔らかい光がすうっと降りてくる。
月の光とも、街灯とも違う。
冷たくない。
眩しいのに、目が痛くない。
それは、ユナの体を包むように降り注いだ。
「……あったかい」
さっきまで凍えていた指先が、じんわりと熱を取り戻していく。
濡れた服の重ささえ、少しだけ軽くなった気がした。
ユナは、泥だらけの地面に両手をついたまま、ゆっくりと顔を上げる。
そこに――
光の中に、輪郭があった。
人の形をしている。
けれど、人ではありえない。
腰まで届く長い髪が、月光を溶かしたみたいにさらさらと揺れている。
衣の裾は風もないのにふわりと広がり、その姿だけで周囲の闇を押し返していた。
そして、その影は。
泥に膝をついたユナの前に――そっと、同じように膝をついた。
目線を合わせるみたいに。
“上から見下ろす”でも、“哀れむ”でもなく。
「ようやく……」
風鈴の音みたいな、柔らかい声が降る。
「ようやく、あなたに追いつけたわ」
細い指が、ユナの頬に触れた。
雨で冷たくなった肌が、一瞬で温められていく。
ユナは、ぼうっとその顔を見つめた。
美しい、という言葉では足りない。
でも、怖くはなかった。
胸の奥のどこかが、懐かしさで震えた。
「あなたがそんな顔をするのを見るのは、もうたくさん」
光の中の女性――女神エリュシアは、静かに微笑む。
「ユナ・アークレット。
そんなふうに謝らなくていいのよ」
その声が、雨音よりもはっきりと、ユナの心に届いた。
それが女神の声だと気づくのは、もう少し先のこと。
今はただ――
世界のどこにも居場所がないと思い込んでいた少女の前に、
そっと膝をついてくれる“誰か”が現れた、という事実だけが。
あまりにも優しくて。
あまりにも救いで。
ユナの視界は、その光の中で静かに揺れていた。
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