平凡メイドの私が追放された結果、女神の加護を独占して国が騒然

タマ マコト

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第6話「女神エリュシアとの邂逅」

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 ――水の音がする。

 ぽちゃん、ぽちゃん、と。
 静かな夜の中で、小さな音だけが規則正しく揺れている。

(……ここ、どこ……)

 重たかったまぶたを、ユナ・アークレットはゆっくり持ち上げた。

 最初に見えたのは、淡い光だった。
 ろうそくでもランプでもない。天井からではなく、どこか遠くの空から、ひたひたと降りてくるような光。

 体の下は、泥ではなかった。
 柔らかい草と、乾いた土。ひんやりしているのに、不思議と冷たくない。

 目が慣れてくると、自分のいる場所が分かってきた。

「……森?」

 周りには、背の高い木々が取り囲んでいる。
 葉の隙間から、夜空がちらちら覗いていた。

 さっきまでいたのは、たしか街道のはずれ。雨の降る泥だらけの道。
 そこから、いつの間に森の奥まで運ばれたのか――ユナには、まったく心当たりがなかった。

「夢……?」

 思わずこぼれた声が、夜の空気に溶けていく。

 その時。

 視界の端で、星が揺れた。

 ――と思ったら、それは星じゃなかった。

 月だ。
 木々の隙間から覗く月の光が、すぐ近くの水面に反射している。

 ユナは、ようやくそれに気づいた。

 自分が今いるのは、森の中の小さな泉のほとりだった。

 まるで地面にぽっかり穴が開いて、夜空を丸ごと落とし込んだみたいな泉。
 水は驚くほど透明で、底の小石まではっきり見えるのに、表面には月が一つ、くっきり浮かんでいる。

 ユナがぼんやりそれを見つめていると、その月の光がすっと陰った。

(……え?)

 誰かが、水面に影を落とした。

 ユナはゆっくり顔を上げる。

 そこに、「彼女」はいた。

 ――白銀の髪の女。

 腰まで届く長い髪が、風もないのにさらさら揺れている。
 まるで月の光そのものを糸にして編んだみたいな色。

 薄い布を幾重にもまとった衣は、水のように体の線をすべって流れ、泉に映る彼女の姿は、現実より少しだけ幻想的に見えた。

 でも、いちばん人間離れしていたのは、その目だった。

 淡い紫とも青ともつかない色の瞳。
 そこには、遥かな時間を越えた静けさと――人間みたいな情念が、同時に宿っていた。

 優しさも、哀しみも、怒りも、全部知っている目。
 高みにいるくせに、下界の感情にどっぷり浸かったことがある目。

 ユナは、息をするタイミングを忘れた。

 世界の音が、全部遠のいていく。
 泉の水音も、葉の擦れる音も、全部、彼女の輪郭の外側に押しやらたみたいだった。

「……ようやく、目を覚ましたわね」

 女はごく自然に、そう言った。

 耳に落ちてくる声は、風鈴みたいに涼しいのに、芯はやけにあたたかい。

「えっと……」

 ユナは、何から聞けばいいのか分からなかった。

 ここはどこですか?
 あなたは誰ですか?
 どうして私、濡れてないんですか?

 本当なら聞きたいことが、喉のところで全部団子みたいに詰まっている。

 代わりに、女の方が動いた。

 す、と。

 白い指が伸びてきて、ユナの頬に触れる。

「……あ」

 冷たいと思った。
 見た目があまりにも静かで、どこか水みたいだったから。

 でも、違った。

 その指先は、火にかける手前の湯みたいに、程よくあたたかかった。

「こんなに冷たくなって。あのまま雨の中に捨てられてたら、あと一時間も持たなかったでしょうね」

 女は、ほんの少しだけ眉を寄せる。

 怒っているような。
 哀しんでいるような。

「やっと見つけた。あなたを手放したあの屋敷、本当に見る目がないわ」

 さらっと言われたその台詞に、ユナの思考が一瞬止まる。

「……見つけた?」

「そう。見つけた。追いかけて、追いついて、やっと“触れられた”」

 女は、言葉を噛みしめるみたいにゆっくり喋る。

「あの重たい石の屋敷の中じゃ、どうしても近づけなかったのよ。妙な祈りと、形だけの信仰で壁を作られてたから」

 その言い方には、ほんの少し棘があった。

 オルフェリア侯爵家の、立派な祈祷室と女神の絵を思い出す。
 毎朝毎晩、決められた文章を唱えていた巫女たち。
 エレナの部屋にあった女神エリュシアの絵。

(“妙な祈り”って……)

 ユナが混乱している間に、女はくすっと笑った。

「自己紹介がまだだったわね」

 白銀の髪が、さらりと揺れる。

「私はエリュシア」

 その名前を聞いた瞬間、ユナの背筋に電流が走る。

「……え?」

「たぶん、あなたもどこかで聞いたことがあるはずよ。この国の人間なら誰でも」

 エリュシアは、肩をすくめてみせる。

「“慈しみと加護の女神エリュシア”。祈祷室で毎日呼ばれてた名前」

 あまりにも簡単に言われて、逆に現実味が追いついてこない。

「えっ……えっ……え?」

 ユナは、動転すると語彙力が急激に落ちるタイプだった。

「お、女神、さま……?」

「そう言われることが多いわね。一応、女神をやっているつもりだけど」

 “つもりだけど”って何、女神ってそんなノリなの? とツッコミかけて、ユナは慌てて口を閉じる。

 でも、目の前の存在は、たしかに“人間じゃない”。

 触れている指のあたたかさは、人間のそれに近いのに。
 その背後にある気配の深さが、人とはまるで違っていた。

「……夢、じゃないんですか?」

「あら。夢の中でここまで寒くなるのは、ちょっとホラーじゃない?」

「たしかに……」

 そんな会話をしている自分にもびっくりだ。

 女神。
 本当に目の前にいるのだとしたら、もっと膝を折ってひれ伏すとか、まともな祈りの言葉を口にするとか、やることがある気がする。

 でもユナの頭は、そこまで気が回らなかった。

 さっきまで、“不吉なメイド”として追い出された記憶でいっぱいだったから。

「……あの」

 ようやく言葉を選ぶ余裕が出てきて、ユナはゆっくり口を開いた。

「私なんて、ただのメイドなのに。女神さまが“見つけた”って言ってくれるような、そんな……」

 そんな価値ある人間じゃない。

 言い切る前に、エリュシアが小さく息を吐いた。

「そういうところよ」

「え」

「“私なんて”って前置き、何回した? 今までの人生で」

 ぐさっと刺さる質問だった。

「えっと……」

 思い返すまでもなく、心当たりしかない。

 孤児院で。
 メイドとして働き始めてから。

 ユナの口癖は、いつでも「私なんて」だった。

「私は“ただの”メイドで。
 私は“平凡な”子で。
 私は“特別じゃない”から、って」

 エリュシアは、ユナの額にそっと指を当てる。

「誰に教わったの? そんなふうに、自分を小さく小さく包んでしまう癖」

「え、いや、その……」

 ユナは言葉に詰まる。

(誰って言われても……)

 孤児院の先生?
 周りの子どもたち?
 オルフェリア侯爵家で、何度も自分の立場を教え込まれたせい?

 どれでもあるし、どれでもない。

「“ただのメイド”が、雨の中で気絶するまで歩き続ける?」

 エリュシアの声が、少しだけ低くなる。

「“平凡な子”が、くたくたに疲れてても、誰かの皿を支えて、自分のことは後回しにする?」

 胸の奥を、そっと撫でられた気がした。

「ねえ、ユナ。あなた、本当に自覚ないのね」

「……なにが、ですか」

「自分が、どれだけ“特別扱い”されてきたか」

「特別扱い……?」

 それだけは、本気で意味が分からなかった。

 どちらかというと、逆だ。
 ずっと「分相応でいろ」と言われてきた。
 線を引かれ、枠を決められ、その内側に押し込められてきた。

 そんな自分が、“特別”なんて――

「あなた、覚えてない?」

 エリュシアは、泉の方に視線を向ける。

 水面が、ふわりと揺れた。

 波紋の中に、景色が浮かぶ。

 ――小さな木造の建物。

 雨漏りする屋根。きしむ床。
 だけど、どこかあたたかい、懐かしい光景。

「これ、孤児院……」

 ユナが息を呑む。

 波紋の中で、小さな女の子が走り回っていた。
 ぼさぼさの髪に、ほつれた服。
 でも、目だけはきらきらしている。

 ――幼い頃の自分だ、とすぐに分かった。

「このとき、あなた、熱出して倒れたわよね」

 エリュシアが淡々と言う。

「布団も足りなくて、薬も手に入らなくて。先生たちは、夜通し冷やした布を取り替え続けてた」

「……はい」

 覚えている。
 あのとき、本当に苦しかった。

 うわごとの中で、“ごめんなさい”と“ありがとう”を何度も繰り返した気がする。

「あのとき、あなた、一度心臓が止まってるのよ」

「え」

「本当なら、あそこで命の糸はぷつんって切れてた」

 ユナは目を見開く。

「でも、戻ってきた。
 自分で、こっち側に戻ってきた」

「自分で、ってそんな……」

「あの先生が、涙でぐしゃぐしゃになりながら“ユナを連れて行かないでください”って祈ってたの、ちゃんと聞いてたわよ」

 エリュシアが、少しだけ寂しそうに笑った。

「“連れて行かないで”って。
 私、まだ何もしてないのに」

 その言い方に、ユナは気づく。

「その……ときから、見てたんですか」

「もっと前から」

 あまりにも自然に返された。

「あなたが生まれたときから。
 いや、生まれる前からかしらね」

 冗談みたいなことを、まっすぐな目で言われると、笑えない。

「孤児院の裏庭で、小さい子に押されて階段から落ちかけたこと、あったでしょう」

「……あります」

 あのときは、たまたま段の途中で転んで済んだ。
 頭を打たずに済んだのは、運が良かったと思っていた。

「運じゃないわよ」

 エリュシアが、さらっと否定する。

「あなたを押した子は、何度も謝ってたわね。あなたは“大丈夫だよ、痛くないよ”って泣きそうなのに笑ってた」

 波紋はまた景色を変える。

 膝をすりむいて、涙目で笑う小さな自分。
 後ろで泣きじゃくる子。その頭をぽんぽん叩く先生。

「“ごめんね”って泣いてる子を慰める方を優先するから、あなた、いつも自分の傷は後回し」

 エリュシアは、まるで自分自身のことみたいに言う。

「転んでも。
 熱出しても。
 お腹が空いても。
 あなた、自分の痛みはいつも“自分でがまんできる”って思ってたでしょう」

「……だって、みんなも、痛いし、苦しいし」

 ユナは、視線を落とした。

「誰かが泣いてるの見る方が、苦しくて。
 私より、その子の方が辛いって思っちゃって」

「そういうの、普通は一回か二回で折れるのよ」

 エリュシアはあきれたように言う。

「なのにあなた、何回死にかけても、何回心折られそうになっても、同じこと繰り返した」

 言われてみれば、たしかにそうだ。

 孤児院でも。
 メイドとして働き始めてからも。

 ユナは、何度も何度も、他人の方を先に見てきた。

「だから言ったの。“特別扱い”されてたって」

 エリュシアの瞳が、少しだけ柔らかくなる。

「あなたの体は、何度も壊れる寸前までいったけど、そのたびに踏みとどまった。
 偶然なんかじゃない。

 ……私が、しがみついてたのよ」

「え……」

「“まだ連れて行かない。まだこの世界に置いておく。
 だって、まだ見ていたいから”って」

 その言葉は、情けないくらい正直で。
 ユナは、息を呑んだ。

 女神の声の奥に、妙に人間くさいわがままが混ざっている。

「あなたが、泣きそうになりながらも誰かの手を握るたびに。
 自分のことなんて後回しにして、“大丈夫だよ”って笑うたびに。

 私は、“ああ、この子、まだ壊しちゃダメだ”って思ってた」

 エリュシアは、指先でユナの涙の跡をなぞる。

 ここに来るまで自分が泣いていたことに、ユナはその時ようやく気づいた。

(ずっと、誰にも言えなかったことを……)

 雨の中、ひとりでこぼした本音。
 「ごめんなさい」と「そんなにいけなかったかな」の間に挟まっていた、言葉にならない感情。

 それを、全部見られていたのだとしたら。

「孤児院でだって、あなた、いつも“しんどい子の隣”にいたでしょう」

 エリュシアが続ける。

「熱が出た子。家族の夢を見て泣き出した子。怪我して不安でいっぱいな子。
 その子たちの隣に座って、一緒に泣いて、一緒に笑って、“大丈夫だよ”って肩をさすってた」

 その光景は、ユナの中でも宝物だった。

 しんどいはずなのに、「ありがとう」と言ってくれた子たちの顔。
 先生に「助かったわ」と言われたときの、胸の奥のあたたかさ。

「それ、全部――」

 エリュシアは、泉の水面に視線を落とす。

 水面には、ユナの背中と、彼女の周りに座る子どもたちの姿。
 それが、淡い光をまとって見えていた。

「私の加護の、片鱗よ」

「…………」

 ユナは、言葉を失った。

 加護。

 そう聞くと、もっと分かりやすい奇跡を想像していた。
 火の玉を飛ばすとか、空を飛ぶとか。

 でも、エリュシアの言う「加護」は、もっとささやかなものだ。

 しんどい子の心を、ほんの少し軽くする。
 重たい空気を、ほんの少しだけ柔らかくする。

 そういう、“目に見えないけれど、たしかにあるもの”。

「じゃあ……私が誰かの隣にいると、ちょっと楽になるって言われてたのって」

「全部、私のせい」

 エリュシアは少し得意げに胸を張る。

「あなたが“誰かの隣にいたい”って願うから、その願いに私が合わせてあげてたの」

「せい、って……悪いことみたいに言わないでください」

 ユナが思わず突っ込むと、エリュシアは目を細めて笑った。

「ふふ。そうね。悪いことじゃないわ」

 笑みの奥に、ほんの少しだけ毒が混ざる。

「悪いのは――あなたを見ようともしなかった連中の方」

 声の温度が、一瞬で変わった。

 オルフェリア侯爵家。
 エレナ。
 ミレイユ。

 さっきまで頭の中に渦巻いていた顔が、ぱっと浮かぶ。

 エリュシアの瞳に、はっきりとした怒りの色が乗った。

「自分たちの都合で、“不吉”だって決めつけて。
 “屋敷の平穏のため”なんて綺麗な言葉で包装して。

 自分たちが選べなかった光を、平気で捨てた」

 吐き出す言葉は鋭いのに、その奥には、悔しさみたいな感情が見え隠れしていた。

「あなたを見ようとしなかった彼らなんて、どうでもいい」

「……どうでも」

「ええ。どうでもいい」

 エリュシアは、迷いなく言い切る。

「私から見れば、あの屋敷は“あなたの価値を理解できなかった人間たちの集まり”に過ぎないもの。
 あなたと私の間に、壁を作っただけの存在」

 ざっくりと切り捨てるその言い方に、ユナは戸惑う。

「そんな、言い過ぎですよ……。皆さんだって、忙しくて、余裕がなくて……」

「まだ庇うの?」

 エリュシアは、呆れたように目を細めた。

「追い出されたのよ? 雨の中に捨てられたのよ? “不吉”の烙印押されて。

 ねえ、ユナ」

 声のトーンが、少し静かになる。

「それでもあなたは、あの屋敷を恨まないの?」

 真正面から刺すような問い。

 ユナは、息を止めた。

 喉の奥に、何かがひっかかる。

 あのとき。
 応接室で。
 皆の視線が自分に突き刺さったときの感覚。

 “真偽なんてどうでもいい”と言った侯爵の声。
 半分の給金。
 「屋敷の平穏のため」と言い切られたあの瞬間。

 思い出すだけで胸が痛い。

 悔しくないわけがない。
 悲しくないわけがない。

 でも――

「……恨む、って」

 言葉を転がしながら、ユナはうつむいた。

「恨んだら、私、もっと苦しくなりそうで」

「苦しくなるのが嫌だから、恨まないの?」

「違います」

 ユナは首を振る。

 ゆっくりと顔を上げると、エリュシアと視線がぶつかった。

 女神の瞳は、じっとこちらを探るような光を宿している。

「たしかに、あのときは……すごく、辛かったです。
 “どうして私ばっかり”って、思いました」

 認めると、胸の奥がじくじくした。

「何回も、“いけなかったのかな”って、自分に聞きました。
 謝らないといけない人、いっぱいいる気がして」

「そうね」

 エリュシアは否定しない。

 それでも、ユナは続けた。

「でも、さっき……ここに来る前、女神さまが見せてくれた孤児院の景色、見て思ったんです」

 声が、少しだけ震えながらも前に進む。

「先生たちや、子どもたち――私に“助かったよ”“ありがとう”って言ってくれた人たちがいて。
 オルフェリア侯爵家でも、クラリスさんとか、厨房のみんなとか、優しくしてくれた人もいて。

 それに……」

 ふっと、胸の奥が温かくなる感覚があった。

 雨の中で「ごめんなさい」と繰り返したとき。
 最後の最後にこぼれそうになった本音。

「誰かの役に立てた瞬間のことを思い出すと、まだ――私、ここにいてもいいのかな、って思えるんです」

 自分で言って、少し照れくさい。

「だから、その……」

 ユナは、握った拳をぎゅっと膝の上で丸めた。

「あの屋敷を恨んで、そこばっかり見て生きるよりは。

 恨むより……誰かの役に立てる場所が、欲しいです」

 言いながら、目の端に涙が溜まる。

「私が“いらない”って言われた場所のこと、ずっと抱えて生きていくより。
 “いてくれて良かった”って言ってもらえる場所を、もう一回探したいです」

 ぽたり、と雫が落ちる。

 泉じゃない。
 地面でもない。

 ユナの頬からこぼれた涙が、手の甲に落ちて、じんわりと広がった。

「うまく言えないですけど……」

 声がかすれていく。

「恨んだままだと、きっと、笑えなくなるから。
 笑えなくなったら、誰かの隣に座っても、安心させてあげられなくなるから。

 それが、いちばん嫌なんです」

 言い終えた瞬間。

 森の空気が、すっと変わった。

 風が、柔らかく葉を揺らす。
 泉の水面に、小さな波紋がいくつも広がる。

 エリュシアは、しばらく何も言わなかった。

 月の光を背負ったまま、じっとユナを見つめている。
 その瞳の奥で、何かが大きく揺れているのが分かった。

「……ほんと、ずるいわね、あなた」

 ようやく口を開いた女神の声は、かすかに掠れていた。

「え?」

「恨んでくれた方が、楽なのに」

 エリュシアは、ため息まじりに笑う。

「“あの屋敷なんて滅びればいいのに”って言ってくれたら、私は喜んで落雷の一つや二つ落としたのに」

「それは、それで大惨事なのでやめてください」

 思わず突っ込むと、エリュシアの表情がふわっと緩んだ。

「人間は、傷つけられたら傷つけ返すものだと思ってた。
 恨みを数えて、生きる理由にして、世界を呪うって」

 その言い方は、どこか他人事じゃない。

 もしかしたら、この女神も昔、そういう生き方をしたことがあるのかもしれない――と、ユナはぼんやり思う。

「なのにあなたは、そこから目を逸らして、“誰かの役に立てる場所が欲しい”なんて言う」

 エリュシアは、ゆっくりと手を伸ばした。

 今度は、頬じゃなくて、胸のあたり。

 ユナの心臓の上に、そっと掌を重ねる。

「そんなの……放っておけるわけ、ないじゃない」

 その一言には、女神としてじゃなく、ひとりの“女”としての感情が詰まっていた。

「あなたのそういうところが、私は大嫌いで――大好きなのよ」

「感情が忙しいですね、女神さま」

「うるさいわね」

 言いながらも、エリュシアは微笑んでいる。

 その笑みは、さっきよりずっと近くて、少しだけ切なかった。

「決めた」

 ぽつりと、エリュシアが言う。

「ユナ・アークレット。

 あなたに、正式に“私の加護”を授ける」

「授ける……?」

「今までは、ただの“片鱗”だった。
 あなたが自分で選んで、自分で傷ついて、自分で誰かを守ろうとしていたから、私は遠くから“ちょっとだけ手伝う”ことしかできなかった」

 視線が絡む。

「でももう、遠くから眺めてるだけなんて、我慢できそうにないから」

 エリュシアは、ユナの胸の上に置いた掌に、少しだけ力を込めた。

 その瞬間。

 ユナの体の奥で、何かがふっと灯った。

 冷たい雨で固まっていた心が、じわじわ溶け始めるような感覚。

「ここから先は――」

 女神の声が、静かに沈んだ。

「あなたが“女神の娘”として生きるか、“ただのメイド”として記憶を捨てて眠り続けるか。
 どちらかを、ちゃんと選んでもらうわ」

 突きつけられた選択。

 でも、その答えは。

 ユナ自身の中で、もうとっくに決まり始めていた。

 泉に映る月が、ふたりの影をゆらゆらと揺らしながら、静かに見守っていた。
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