捨てられた平民メイド、実は伝説の魔女でしたって今さら気づくな!

タマ マコト

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第6話 覚醒の手触りは熱砂と冷雨のあいだ

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 目が先に起きて、体が遅れてついてきた。
 天井は割れ、梁は骨の肋のように空を挟んでいる。雨はもう上がっていたが、雲の底がまだ低く、廃教会の屋根抜けから濁った光が落ちてくる。鼻の奥に残るのは、湿った石と古い蝋の匂い。床に敷かれた破れた布の感触が背中に刺さって、私はようやく自分が横たわっていると理解した。

「……ここ、どこ」

「森の端。誰も使わない教会。雨を避けるには十分」

 低い声。すぐ近く。
 首を少し傾けると、ノアがいた。片膝をついて、裂いたコートの別の破片で私の背中を拭っている。手付きは雑に見えて、力は驚くほど繊細だ。掌にある熱の配分を知っている手。血を流すとき、止めるとき、体が欲しがる圧と温度。

「助け……たの?」

「お前が、俺たちを助けた」

「言い方ずるい」

「事実だ」

 事実、か。
 胸の奥で、星が泣いている。昨夜、割れて、広がって、今は静かにすすり泣き。痛みは引き、代わりに濡れた余韻が残っている。封印紋が砕けた場所に、冷たい光の湖ができて、その周りに熱砂がぐるりと取り巻いている感じ。触れれば焼け、飛び込めば凍える。——覚醒の手触りは、熱砂と冷雨のあいだ。

「気分は」

「最悪。喉が砂漠、体は水たまり」

「詩人だな」

「皮肉やめて。水、ある?」

 ノアはひびの入った陶器の瓶を差し出す。水は少し鉄の味がして、喉の砂を丸めて流してくれる。飲むたびに胸の湖が波立ち、光の表面が細かく震える。視界の端で、白い髪が肩に触れて冷たい。自分の髪なのに他人のものみたい。指先でつまむと、月の糸を撫でているみたいに滑る。

「髪、白いまま?」

「ああ」

「今日の私、どれくらい怪物度が上がってる?」

「昨日より、少し。だが、目は人間だ」

「へえ。目で判断するタイプ」

「鼻でも判断する。生きてる匂いが濃い」

「それ、昨日からずっと言ってる」

「事実だ」

 ノアの口元がうっすら動いた。笑いの予告。けれど笑わない。笑う余力を戦いのために取っておくのだろう。彼は布を捨て、包帯をきゅっと結ぶ。背中の傷が抗議して、私は「痛い」と小さく言う。言ってみて、少し楽になる。

「立てるか」

「立つ努力はできる」

 肩に腕を回され、上体を起こす。視界が少し白む。教会の床の石は冷たく、埃が湿って、靴底が吸い付く。祭壇だったはずの場所は崩れて、苔と蔦に覆われ、瓦礫の隙間から小さな草が顔を出している。薄い緑。生意気な緑。私はその草に手を伸ばした。確かめたかった。私が今、どっち側にいるのか。

 指先が葉に触れた瞬間、霜が走った。
 葉脈が白い閃光に縁取られ、露が瞬時に凍る。息を吸うより早く、凍りはとけて、小さな蕾が膨らみ、ぱ、という小さな拍で花が咲く。淡い黄色。あまりに呆気なく、私は笑ってしまう。

「……便利だな」

「笑い事じゃない」

「お前が言った」

 ノアが苦笑する。ほんの少しだけ。
 私は咲いた花に眉を寄せて、指の腹でそっとなぞる。冷たさと温かさが重なって、皮膚の上で混ざりきらない。私の中の湖と砂漠が、ここでも喧嘩している。制御? わからない。けれど、願いは届く。触れたものは、生きる方へ少しだけ傾く。

「暴発は?」

「ある。気を抜くと、勝手にほどける」

「ほどきすぎるな」

「わかってる」

 ——わかってる。
 ノアの忠告は、昨夜から私の内側に杭みたいに打たれている。あの星の割れる音の快感と恐怖。声が世界の文脈に触れ、結び目をほどくときの多幸感。中毒性。やばい。私は私を見張らなきゃいけない。

 教会の外で、枝が揺れた。
 風ではない。重みのある揺れ。
 ノアの目がわずかに細くなる。銀の瞳に、木立の陰が段になって映る。彼は立ち上がり、肩を回し、指を鳴らして、石畳を試すように踏む。石が小さく悲鳴を上げる。彼の脚は地面の事情に詳しい。

「来る。二十、三十……いや、もっと」

「何が」

「“影鹿(かげじか)”。霧が形を与えたやつ。角はあるが、肉がない。突進と跳躍。音は軽いが、体重がない分、軌道が読めない」

「弱点は」

「『重さ』。それから、『目』。目はないが、目の意味がある」

「意味って何」

「後で話す」

「今じゃないのね」

「今じゃない」

 教会の扉は、蝶番が錆びて斜めにぶら下がり、外の光をうねらせている。扉の割れ目から、黒いものが滑り込む。鹿の形をしているのに、獣の匂いがしない。影が立体のまま動いている。角は枝のように分かれ、耳は空気を切る飾り。蹄は床を打たない。床の上を“解釈して”走ってくる。嫌な笑い方をする無音。

 ノアが一歩。
 石畳がひび割れる。
 彼の脚が地面を叩く瞬間、空気が押し出され、影鹿の群れの先頭がふっと浮く。重さを与えられた影は、驚いたように僅かに遅れる。そこを、ノアの膝が叩き落とす。バチ、と乾いた火花。影鹿は地に触れたところから輪郭を失い、床に溶けていく。

「一匹」

「二匹、三匹……十は私に」

「強がるな」

「強がりじゃない。——“下がれ”」

 声は、足元から落ちていった。
 重力は、私の機嫌を伺う。
 「下がれ」の命令は、影鹿の蹄の下にもう一層の地面をつくり、その地面を一気に沈める。影たちは戸惑い、脚が絡まり、跳躍のリズムを失う。私は両手を前に出し、次の糸を掴む。

「——『ほどけ』は、まだ使うな」

 ノアの声が、背中の筋肉に届く。
 私は頷く。使わない。あれは線の形を変える。今は重さで十分。
 影鹿が壁を走る。影のくせに壁を使う。体を傾け、角の影でこちらの視界を切り裂く。私は短く息を吸った。

「低く」

 命令は短いほど強い。
 低く、と言っただけで、教会の中の空気全体が床に向かって“寄る”。石畳がぎしりと鳴り、影鹿の脚が重くなる。狙いを失い、角の影が床に突き、しなって折れる。折れた影は、しばし影のまま床で痙攣し、その後で煙の糸になって消える。
 ノアが駆ける。壁に片足をかけ、斜めに飛び、天井の梁を蹴って回転し、群れの背中に両足で落ちる。床が直接殴られたみたいに音がして、影が十、二十と波紋のように潰れる。

「呼吸、合わせろ」

「了解」

「吸って三つ、吐いて五つ」

「いつも通り」

 呼吸が合うと、音が揃う。
 足音、心音、空気の軋み。
 私の「低く」に、ノアの「叩く」が重なると、影の足場は沼になる。動けば沈む。沈めば、重さを与えられ、重さを持つものは彼の拳と膝を正面から食らう。
 影鹿は賢い。次の瞬間、低さを捨てて、上を選ぶ。梁から梁へ、天井の隙間へ。光の切れ端を使って跳び石のように移動し、角の影を雨のように降らせる。私は姿勢を落とし、腹の底から声を押し上げた。

「——軽く」

 空気が一瞬、浮く。
 影鹿の降りる速度が狂う。斜めに落ち、足がもつれる。ノアの脚がその“狂い”を逃さず、床に導いていく。導く、という表現が正確だ。無理に叩き落とすのではない。相手の重さと角度を見て、地面との会話を手伝う。落ちるべきところへ落とす。落ちた瞬間、火花。
 彼は戦いのなかで、言葉をほとんど使わない。息と筋肉の動きが語彙だ。私はその語彙に自分の言葉を載せる。
 低く。
 軽く。
 止まれ、はまだ使わない。
 ——ほどけ、は封印。今は、重さと速度だけ。

「右」

 ノアの声が短く、鋭い。
 視界の右端で、影鹿の群れに“太い影”が混ざる。親玉。角が二回り太く、角度に意思がある。これはぶつけてくる。私は右足を半歩引き、床を踏む。石の目地が爪のように私の靴裏にかみつき、位置を教える。体を斜めにして、言う。

「——重く」

 空気が沈み、親玉の角の影が床に吸い込まれる。勢いの方向が狂い、進行が半歩遅れ、そこにノアの膝が落ちる。膝。肘。拳。三つの打点が立て続けに入って、親玉の輪郭が波打つ。私は追う。

「軽く」

 影が跳ぶ。だが、跳びすぎる。梁を越え、壁に頭を突っ込み、輪郭がほどけかける。私は息を止め、次の命令を飲み込む。ほどきたい衝動。喉元まで上がる「ほどけ」。言えば勝てる。言えば楽だ。けれど、楽は中毒だ。ノアの言葉が杭になる。「ほどきすぎるな」。

 親玉が最後の悪あがきに角を振る。
 ノアは一歩、踏み込み、骨盤から拳を出す。地面が鳴り、影鹿は裂け、床に広がり、薄まって、消える。教会に残るのは、雨の滴る音と、私たちの呼吸。

「……終わり?」

「終わり。今は」

「今は、が多い世界」

「今は、を積み重ねる世界」

「嫌いじゃない」

 膝から力が抜ける。私は祭壇の残骸に腰を下ろし、肩で息をする。背中の傷が脈打ち、白い髪が首筋に貼りつく。手の平は冷たく、指先は熱い。光の湖は静かだが、底で魚が走る。私は両手を膝に置き、手の甲から空を見上げる。屋根の穴から、雲が早足で流れていく。雲の合間に、昼のくせに星が一つ、うっすら見えた気がする。

「さっきの、『目の意味』って何」

「影鹿には目がない。だが、視線がある。狙う方向の“決まり”だ。そこを裏切れば、遅れる」

「裏切り、か。得意かも」

「だろうな」

 ノアが水をもう一口くれる。私は飲み、喉が長い廊下になって水が歩いていく感覚を見送る。胃に着いた瞬間、少し眠くなる。体が「休め」と言っている。けど、休み方が下手だ。動き続けてやっと眠りが来るタイプ。

「練習、しよ」

「何を」

「制御。重く、軽く、低く、……高く、はまだ怖い。『止まれ』は切り札。『ほどけ』は禁じ札」

「いい線だ」

「ノア、受けて」

「俺を重くするな」

「しない。……たぶん」

「たぶんは怖い」

「怖がってて」

 私は息を整え、教会の中央に残った石畳の円を見つめる。崩れた床の中央、偶然に残った“舞台”。そこで、言葉の重さの調整を試す。
 軽く。石がわずかに浮く。
 戻れ。石が元の場所に座る。
 低く。埃が床に貼りつき、空気が重くなる。
 戻れ。埃がふわりと離れ、光の粒が舞う。
 ノアはその縁で腕を組み、私の呼吸のタイミングを目で数える。銀いろの瞳は、揺れる埃に光を渡して、飽きずに私を見ている。見張りじゃない。見届け。

「よし。——次、俺」

「え」

「俺の動きに合わせろ。指示は出さない。お前の感覚で」

「難易度高すぎ」

「お前ならできる」

「適当言わないで」

「事実だ」

 ノアは一歩、とても静かな一歩を踏み出した。
 床の石が彼の足の下で鳴らず、空気だけがわずかにうねる。その“うねり”で、私は理解する。あ、今、軽くしたい、と。声は出さない。胸骨の裏側で音を作る。
 軽く。
 彼の次の一歩は、羽のように進む。壁に掌をつき、反転、着地。私は低く、と心で言う。床が受け止め、衝撃が石に吸われる。彼はさらに速度を上げる。私は遅れまいと、内側で重さのダイヤルを回す。
 ——楽しい。
 汗が背中を流れ、傷が痛み、呼吸が荒いのに、楽しい。
 世界の重さの調律。合奏。
 ノアの体は楽器で、私は指揮者で、同時に観客。
 失敗すれば彼が転ぶ。だから、失敗しない。
 転びかけた瞬間、私は「戻れ」を落とし、重さの誤差を無かったことにする。彼は文句を言わず、次に行く。

「——終わり」

 ノアがふっと動きを切る。
 私は遅れて一つ息を吐き、座り込む。視界がじわじわ明るくなって、耳鳴りが小さくなる。床に落ちた埃が、光の柱の中で踊っている。

「上出来」

「褒められた」

「調子に乗るな」

「乗るよ」

「乗るな」

「あなたが褒めるから」

「事実だ」

 ノアの「事実だ」は、癖になりそうだ。
 肩で笑い、胸の奥の湖に指を浸ける。冷たい。だけど、さっきよりずっと浅い。底が見える。底には泥があって、泥の中には何かの種が眠っている。私はそこを起こさないように、表面だけを撫でる。

 教会の扉の外で、鳥が一声鳴いた。
 空の雲が薄くなり、光が少し温かい色に変わる。昼の端。私たちの戦いは、たぶんまだ始まったばかり。封印は寝返りをやめ、伸びを始めている。黒霧は色々な形でこちらを試してくる。王都は遠くでざわめき、私の名前はまだ誰の口にも自由には乗らない。

「出よう」

 ノアが立ち上がり、私に手を差し出す。
 私はその手に自分の手を重ねる。硬い掌。昨日と同じ温度。昨日より少し、迷いが少ない。立ち上がる瞬間、背中の傷がまた主張する。私は顔をしかめ、笑う。

「次、パン。約束」

「ああ。甘いのを探す」

「砂糖は貴重でしょ」

「お前は貴重だ」

「急にそういうこと言うの、ルール違反」

「事実だ」

「うるさい」

 教会の外に出ると、森の匂いが一気に濃くなる。土、葉、樹皮、古い雨。風が通り、白い髪が頬に触れて、ひんやり滑る。歩き出した足取りはまだおぼつかないが、地面の重さが味方だ。
 私は一度だけ振り返って、廃教会の割れた天井を見上げる。そこに切り取られた空は、私の内側の湖の色に少し似ていた。冷たい。けれど、光が差す。
 重く。軽く。低く。戻れ。
 喉の奥で、言葉の舌触りを確かめる。
 切り札は、まだ喉の奥に置いたまま。
 禁じ札には手を触れない。
 私たちは森へ入る。影鹿の粉が土に還り、足跡が湿って消える。
 最初の共闘はぎこちなかった。けれど、勝った。
 それで十分だと、今は思える。
 星は、胸の中で静かに泣き止み、湖の表面に小さな風紋を作った。
 次の風が来る前に、息を整える。
 次の風が来たとき、ちゃんと立てるように。
 覚醒の手触りを、私は自分のものにしていく。
 熱砂と冷雨のあいだ、足場を選ぶみたいに。
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