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第3話「真実と罠、偽りの聖女」
しおりを挟む追放が決まった翌朝、公爵家の屋敷は、いつもより静かだった。
豪奢なシャンデリアも、赤い絨毯も、磨き上げられた廊下も。
全部そのままなのに、どこか「自分の家じゃない」みたいな感覚がする。
(……ここから、私はいなくなるから?)
胸の奥が、すうっと冷える。
「お嬢様、こちらが……持ち出しを許可されたお荷物です」
淡々とした声と共に、若いメイドがトランクを一つ、リオネッタの足元に置いた。
見慣れた顔。けれど、目は合わない。合わないようにしている。
その後ろで、別の使用人たちが、視線をそらしながらひそひそと囁きあう。
「本当に追放なんだって……」
「聖女様に手を出したなら、仕方ないわよ」
「でも、公爵家の名前に泥を塗るなんて……最悪」
その言葉は、ナイフみたいに素通りしていく。
刺さりすぎて、逆に痛みを認識しきれない。
メイドが差し出したトランクは、小さかった。
ドレスが数着と、最低限の日用品。それだけ入る程度の大きさ。
(こんなものなのね。十七年分の「公爵令嬢としての私」は、全部置いていけってこと)
笑えてくる。笑えないけど。
「……承知しましたわ」
リオネッタは、できるだけ平坦な声で答える。
怒らない。泣かない。崩れない。
せめて最後くらい、「みっともない娘」にはなりたくなかった。
そのとき――。
「お嬢様」
聞き慣れた、少ししゃがれた声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、白髪の老メイド、ハンナだった。
リオネッタが物心つく前から、ずっと側にいてくれた人。
「ハンナ……」
名前を呼んだ瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
ハンナは、他の使用人たちと違って、まっすぐにリオネッタを見た。
目のふちが、赤い。けれど、涙はこぼさない。
「……お身体に、気をつけて。お嬢様」
「……ええ」
それだけで、何もかも理解してくれている気がした。
ハンナは、周りの視線を気にするように一瞬だけ周囲を見回し、
誰もこちらを見ていないことを確認してから、そっとリオネッタのトランクを開けた。
「すみませんね、少しだけ、規則を破りますよ」
小声で呟きながら、エプロンのポケットから、丁寧に折り畳まれた白いハンカチを取り出す。
それを、荷物の一番上――ドレスの隙間に、そっと忍ばせた。
「……ハンナ?」
「何かあったときに、涙を拭う布は必要でしょう。お嬢様は、人前では泣かないお方だから」
いつもの、穏やかな笑い皺が浮かぶ。
その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。
(泣いて、いいのかな。
泣いたら、もっとみっともないかな)
迷って、結局、涙は出てこない。
出ない代わりに、喉の奥に熱いものがたまって、苦しくなる。
「……ありがとう。大切に、しますわ」
「はい」
たったそれだけのやりとり。
でも、それがこの屋敷での「最後の優しさ」だった。
他の使用人たちは、誰も近づいてこない。
挨拶もない。視線を合わせもしない。
十七年間過ごした家は、もうリオネッタを「家族」でも「主」でもなく、
ただの「厄介者」に分類している。
(私はずっと、この家のために……)
そこまで考えて、リオネッタは自分で思考を切った。
今さら、何を言っても意味がない。
「お嬢様、お時間です」
執事の淡々とした声に、リオネッタは最後に一度だけ屋敷を振り返る。
大きすぎる玄関扉。見上げるほど高い窓。
小さい頃から慣れ親しんだその景色が、今は遠い舞台装置みたいに見えた。
(さようなら)
心の中だけで呟き、リオネッタは馬車へと向かった。
◇ ◇ ◇
馬車の揺れは、いつもより荒く感じた。
クッションもついていない簡素な座席。
いつもなら公爵家の紋章が刻まれた豪奢な馬車なのに、今日は、ただの「追放される人間を運ぶ箱」だ。
窓の外には、徐々に遠ざかっていく王都の景色。
高い塔、白い城壁、賑やかな広場の灯り――。
それらが少しずつ小さくなっていくのを、リオネッタはぼんやり眺めていた。
(私、そんなに、ひどいことをしたのかな)
問いが、頭の中で何度もループする。
聖女エミリアをいじめた。
祈りを邪魔した。
階段から突き落とした。
食事に薬を混ぜた。
全部、事実じゃない。
少なくとも、リオネッタの記憶の中には、一つもそんな場面はない。
(……でも)
広場でのエミリアの顔が、フラッシュみたいに蘇る。
震える唇、涙に濡れた瞳。怯えた声。
『こわかった、です』
(あれは……演技だったの? それとも、本当に怖かったの?)
もし、彼女が本当に怖がっていたとしたら。
リオネッタは知らないうちに、何か傷つけるような態度をとっていたのかもしれない。
完璧であろうとして、無表情で。
疑いを向けられたときも、必死さより先に「冷静であれ」と自分に言い聞かせてしまった。
(私、そんなに怖かった?
話しかけにくくて、何を考えているか分からなくて……)
ノートを貸したかった少年の、怯えた顔が浮かぶ。
いつも一歩引いた位置で、彼女を「観察」していたクラスメイトたちの視線も。
(私が、悪かったのかな)
自問の矛先が、少しずつ自分に向かっていく。
思考が、じわじわと侵食されるみたいに。
窓から入り込む冷たい風が、頬を撫でた。
その感触が、なぜか幼い頃の記憶を連れてくる。
◇ ◇ ◇
小さな頃のリオネッタは、ひどく病弱だった。
冬になるとすぐ熱を出し、春先には咳が止まらず、夏でも風邪をひいた。
屋敷の庭で遊ぶよりも、寝台で本を読む時間の方が多かった。
『リオネッタ、無理をしてはいけませんよ』
そう言って、いつも側に氷枕を取り替えに来てくれたのは、ハンナだった。
『……でも、私も、外で遊びたいですわ』
『遊ぶのはいつでもできます。お嬢様が元気になってから、いくらでも』
少し寂しそうに笑う老メイドの顔を、幼いリオネッタはよく見ていた。
父と母は忙しかった。
公爵として、貴族として、やるべきことが山ほどある。
『公爵家の娘であるお前には、期待している』
父はそう言って、いつも額にキスを落とした。
優しさと、重さが同時に乗ったキス。
『あなたはきっと、王太子殿下の良き妃となるわ。
だから、勉強なさい。恥をかかないように』
母は言葉は柔らかくても、内容はいつもシビアだった。
だからリオネッタは、本を読んだ。
歴史、魔導史、政治学、礼儀作法。
病床の上でも読み続けた。
立てるようになったら、ダンスの練習をした。
長く立っているだけでもふらつく体で、何度も転んでは立ち上がった。
(役に立つ令嬢になりたかった)
王子にふさわしくて、公爵家に恥をかかせない、完璧な令嬢。
誰かの邪魔になるどころか、「いてくれて助かる」と言われる存在。
(私はずっと、誰の邪魔もしたくなかったのに)
なのに、結果はこれだ。
王都から追放され、家からも縁を切られ、
「聖女いじめの悪役令嬢」として、名前を刻まれる。
馬車の揺れに合わせて、自己評価が音を立てて崩れていく。
(私が間違っていたの?
完璧であろうとしたことが、全部裏目に出て……
気づかないうちに、誰かを傷つけていたのかな)
考えれば考えるほど、出口のない迷路に迷い込む。
◇ ◇ ◇
――同じ頃。
王都の中心にそびえる、大聖堂の奥。
一般の信徒は足を踏み入れられない、聖域と呼ばれる一室で、エミリアは膝を抱えて座っていた。
「っ……」
両手で口を押さえないと、嗚咽が漏れそうだった。
さっきまで、広場で泣きそうな顔をしていたが、あれは半分は演技で、半分は本音だ。
演技なのに、本当に怖くなってしまった自分に、エミリアは混乱していた。
(私、なにしてるんだろ)
部屋の隅には、大きな鏡がある。
エミリアは、そこに映る自分を見た。
栗色の髪。大きな瞳。
普通の、どこにでもいそうな女の子の顔。
(そう、私はただの普通の子だった)
元の世界――エミリアがいた場所は、魔法もなにもない、ごく普通の世界だった。
学校に行って、家に帰って、コンビニでスイーツを買って、SNSを眺めて。
顔も、成績も、特別優れているわけじゃない。
目立たない、平凡な女子高生。
そんな自分が――ある日、光に包まれて、この世界に呼ばれた。
「あなたは、聖女として選ばれました」
そう言われたときの、あの衝撃と高揚は、今でも忘れない。
(やっと、“特別”になれたんだ)
そう思った。
でも、その夢みたいな言葉には、ちゃんと「裏」があった。
「聖属性の適性は……微妙だな」
神殿の地下。
召喚された直後、エミリアは魔力検査を受けた。
聖属性の水晶が、うっすらとしか光らない。
神官たちの顔に、困惑が浮かぶ。
「これでは、“本物の聖女”とは言い難いですな」
「しかし、召喚は成功している。王家には『聖女が来た』と伝えてしまった」
「今さら『やっぱり違いました』とは言えますまい」
エミリアはベッドの上で、シーツを握りしめていた。
自分が「期待はずれ」だったことを、聞いてしまったから。
そこへ、ふくよかな体つきの神官長がやってきた。
優しげな笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
「エミリア様」
「……っ、はい」
「あなたの聖属性は、確かに“本物の聖女”と呼ぶには弱い。
しかし、まったくの無能というわけでもない。……少し、工夫をすればよいのです」
工夫。
その言葉の意味は、すぐに理解できた。
神殿には、古くから伝わる“儀式用の魔道具”がある。
聖水を強化し、怪我や病を一時的に抑える、拡張用の装置。
本来は、大規模な災害時に使うためのものだ。
「これを、“あなたの奇跡”として見せるのです」
魔道具を、床下や祭壇の裏にこっそり組み込む。
タイミングを合わせて、聖水が光り、病人の症状が軽くなる、仕組まれた奇跡。
「……そんなの、嘘じゃないですか」
エミリアは、震える声で言った。
神官長は、穏やかな声で返す。
「すべてが嘘というわけではありません。
あなたには、確かに少しだけ聖属性があります。その力を、“増幅”するだけです」
「でも――」
「この国は、あなたを必要としているのです。
あなたが『私なんて』と言って、ここからいなくなってしまえば、
人々は誰を信じればいい?」
甘い毒のような言葉。
「あなたが“聖女”であり続ければ、皆救われる。
あなた自身も、暖かいベッドと、おいしい食事と、綺麗な服を得られる」
エミリアは、自分の指先を見つめた。
召喚される前は、コンビニでバイトしても、欲しい服は高すぎて手が届かなかった。
(ここなら、誰かに必要とされる)
そう思ってしまった自分を、今でも完全には責めきれない。
そして――あの日。
◇ ◇ ◇
リオネッタが、偶然、それを見てしまったのは、本当に偶然だった。
エミリアが神殿で儀式の練習をしていた日。
床下の魔道具の調整のために、裏の扉が半開きになっていた。
「……これは?」
高いヒールの足音。
扉の向こうから聞こえた落ち着いた声に、エミリアは凍り付いた。
扉の隙間から見えたのは、金髪の縦ロール。深紅の瞳。
公爵令嬢、リオネッタ・フェルディア。
彼女は、床下の魔道具に繋がる配線と、祭壇の仕掛けをじっと見ていた。
「聖水が光る仕組みは……こういう、古い魔道具によるもの、というわけですのね?」
淡々とした口調。
感情をあまり表に出さないその言い方が、余計に冷たく聞こえる。
エミリアは、とっさに隠れた。
そして、神官長が顔色を変えてリオネッタに近づく。
「フェルディア様、こちらは大変危険な装置でして――」
「危険かどうかは存じませんが」
リオネッタは、ちらりとエミリアのいる方を見た。
エミリアには気づいていない。
「これがなければ、“聖女の奇跡”は起きない、ということだけは分かりましたわ」
静かな声だった。
神官長の額に、汗が滲む。
「誤解でございます。これはあくまで、聖女様の力を――」
「増幅する道具。ええ、そう聞いておりますわ」
リオネッタはしばらく黙り込み、祭壇と魔道具を見比べる。
その横顔は、美しくて、恐ろしくて、
そしてどこか――哀しそうにも見えた。
「……私は、この国の聖女に、何かを求める立場ではありません。
王太子殿下が必要とされるのであれば、誰であっても受け入れるのが、公爵家としての役目ですもの」
そこで一度、目を閉じる。
長い睫毛が震えた。
「ただ――」
ゆっくりと目を開き、神官長をまっすぐ見つめる。
「偽りが過ぎれば、いつか、誰かが壊れますわ。
どうか、そのことだけは、お忘れなきよう」
それだけ言って、リオネッタはくるりと踵を返し、去っていった。
扉の影に隠れていたエミリアは、息を詰めてそのやりとりを聞いていた。
(気づかれた……)
血の気が引く。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
リオネッタは、誰にも言わないかもしれない。
でも、「誰にも言わない保証」は、どこにもない。
もし彼女が、このことをアレスや王に告げたら――?
(私、どうなるの?)
怖かった。
聖女の座を失って、ただの異世界人として放り出される未来が。
元の世界に帰れる保証もない。
この世界で身寄りもなく生きていく自信も、ない。
だから――。
「……エミリア様」
背後から、神官長の声が聞こえた。
「あなたも、分かっているでしょう。
“本物の聖女でない”と知られれば、あなたが一番困る」
「……はい」
絞り出すように答える。
神官長の隣には、リオネッタを快く思っていない一部の貴族たちがいた。
自分の娘を王太子妃にしたい者、フェルディア公爵家の影響力を嫌う者たち。
「フェルディア令嬢は、少々、鼻につきますのでね」
「ここらで一度、“躾”をして差し上げた方がよい」
「……どういう、意味ですか」
エミリアが恐る恐る問う。
彼らは、当たり前のような顔で答えた。
「彼女を、“悪役”にすればいいのです。
聖女をいじめる悪役令嬢。物語として、分かりやすいでしょう?」
胸の奥が、ぞわりと冷たくなる。
「もちろん、聖女様に実際に傷を負わせる必要はありません。
少し、芝居をしていただければよいのです」
祈りの時間、扉の前に立ってもらう。
階段のそばにいるときに、エミリアがわざと足を滑らせる。
食事の席で、リオネッタがスープに触れたように見せる。
「そのうえで、『こわかった』と言ってくださればいい」
「で、でも……フェルディア様は、本当に何もしていないのに」
「そうでしょうか?」
一人の貴族が、冷ややかに笑う。
「彼女は、あなたを“偽物かもしれない”と疑っている。
その時点で、彼女はもうあなたの敵です。……ええ、我々の敵でもある」
喉が、つかえる。
(敵。私にとっての、敵)
エミリアは、本当は分かっていた。
リオネッタが、彼女に直接ひどいことをしたことは一度もない。
目線は冷たいけれど、そこに侮蔑や悪意はなかった。
むしろ、何か言いたげで、言えずに飲み込んでいるような――そんな目。
あの日、魔道具を見つけたときのリオネッタの横顔だって、
心の底から蔑んでいるというより、「不安そう」だった。
(言わなきゃよかったのに。気づかなければ、よかったのに)
でも、気づいてしまった。
そして彼女は、口をつぐんでいるように見えて――実は、何かの拍子に爆発させてしまうかもしれない。
「エミリア様。あなたは、どうなさりたいのです?」
神官長の声が、耳元でささやく。
「聖女として、この国で“必要とされる人”でいたいのか。
それとも、“ただの女の子”として、どこにも居場所がないまま放り出されるのか」
選択肢は、酷いほど偏っていた。
(だって……だって、私は)
エミリアは、ぎゅっとスカートを握りしめた。
(もう、普通の女の子には戻れない)
聖女でいることを、一度味わってしまった。
誰かに感謝され、守られ、特別扱いされる感覚を知ってしまった。
それを、手放せるほど強くはない。
「……わたしは」
小さな声が、口からこぼれる。
「ここに、いたいです」
その言葉を聞いて、神官長は満足げに目を細めた。
「では、フェルディア令嬢には、“悪役”を演じていただきましょう」
エミリアの罪悪感は、その瞬間、胃の中でどろどろに溶けていった。
(ごめんなさい)
心の中で、何度も繰り返す。
(ごめんなさい、リオネッタ様。
でも、私が聖女じゃなくなったら、本当にどこにも行く場所がないの)
その自己弁護が、彼女の良心にギリギリの支えを与えていた。
◇ ◇ ◇
――そんな裏側があることを、リオネッタは何も知らない。
馬車は、王都を離れ、郊外の道を進んでいた。
空は、薄灰色。雲が重く垂れ込めている。
両側の窓から見える景色は、徐々に整った街並みから、荒れた畑や低い森へと変わっていく。
「……これが、国境の方角」
小さく呟く。
護衛の騎士が、馬車の外で馬を走らせている。
鎧のきしむ音と、馬蹄の音だけが、一定のリズムで響く。
誰も、話しかけてこない。
リオネッタの存在は、荷物と同じ扱いだ。
窓に額を寄せると、ガラス越しに冷たさが伝わってくる。
それが妙に心地よかった。
(私は、本当に、そんなに悪いことをしたのかな)
また、同じ問いに戻る。
聖女をいじめる動機も、理由も、彼女にはなかった。
むしろ、距離をとって関わらないようにしていた。
(関わらなかったこと自体が、悪かったのかな)
聖女が現れたとき、リオネッタは本当は――少し、安心したのだ。
(これで、みんなの希望は、あの子に向く。
私は、「公爵家の娘」としての役割だけを守ればいい)
そう思って、距離を置いた。
でも、周りから見れば、それは「冷たく聖女を無視する悪役令嬢」に映っていたのかもしれない。
自分の中の意図と、外からの見え方は、いつもずれている。
(私、そんなに、人を傷つけるのが上手かったっけ)
皮肉な考えが浮かび、すぐに自己嫌悪でかき消す。
馬車が、一段と大きく揺れた。
「……そろそろですな」
御者の声が聞こえる。
リオネッタは顔を上げた。
窓の外に、濃い緑の影が見える。
国境の森――エルメリア王国と、その外の世界を隔てる、巨大な森。
魔物が出ると言われている場所。
普通なら、騎士団の護衛なしでは近づくことすら許されない。
馬車が、森の手前で止まった。
「お嬢様。……ここまでです」
護衛の騎士が、馬車の扉を開けた。
兜の下から覗く目は、仕事としての冷静さだけを帯びている。
「ここから先は、王国の管理区域外となりますので。
我々が同行できるのは、ここまでという決まりです」
決まり。
たったそれだけの言葉で、人は平気で誰かを一人にする。
「……つまり」
リオネッタは、足を地面に降ろし、森の方を見た。
濃い木々。黒い影。
昼間のはずなのに、奥はもう薄暗い。
「ここから先は、私一人で、行けと?」
「はい」
あまりにも淡々とした返事に、笑い出したくなる。
護衛の騎士は、何かを感じたのか、少しだけ視線を逸らした。
「一応、食料と水は三日分ほど。
あとは……森を抜ければ、小さな村があると聞いております」
「聞いている、だけ、ですわよね」
「……はい」
なんて、雑な希望。
リオネッタは、足元の小さなトランクに視線を落とす。
その中には、ハンナのハンカチも入っている。
「分かりましたわ」
深呼吸をひとつ。
自分で自分の背中を押すしかない。
「お勤め、ご苦労さまでした。もう、戻ってもよくてよ」
騎士は一礼し、何も言わずに馬に乗った。
御者が合図をし、馬車はリオネッタを置いてきぼりにして走り去る。
砂埃だけが、彼女の足元に残った。
音が、消えた。
風の音、鳥の声、森のざわめき――自然の音だけが、世界を満たす。
リオネッタは、ぽつんと国境の森の入口に立っていた。
一歩踏み出せば、「王都の公爵令嬢」ではなくなる。
肩書きも、家も、守ってくれる名前も、何もないただの一人の少女になる。
(……もう、とっくになくなってるようなものだけど)
自嘲まじりに思う。
胸の奥が、重くて苦しい。
怖い。先がどうなるか分からない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかない。
ここにいたって、誰も迎えにきてくれないのだから。
「行きましょうか、リオネッタ・フェルディア」
自分の名前を、最後に一度だけ、ちゃんと呼ぶ。
その名前を、もう二度と名乗れないかもしれないから。
彼女は小さなトランクの取っ手を握り直し、
暗い森の中へと、一人で足を踏み入れた。
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(追記2018.07.24)
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私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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